地上最強のブログ

しばいてくぞ

お前はハナシがわかっているのか

Das Vollkommene soll nicht geworden sein. — Wir sind gewöhnt, bei allem Vollkommenen die Frage nach dem Werden zu unterlassen: sondern uns des Gegenwärtigen zu freuen, wie als ob es auf einen Zauberschlag aus dem Boden aufgestiegen sei. Wahrscheinlich stehen wir hier noch unter der Nachwirkung einer uralten mythologischen Empfindung. Es ist uns beinahe noch so zu Muthe (zum Beispiel in einem griechischen Tempel wie der von Pästum), als ob eines Morgens ein Gott spielend aus solchen ungeheuren Lasten sein Wohnhaus gebaut habe: anderemale als ob eine Seele urplötzlich in einen Stein hineingezaubert sei und nun durch ihn reden wolle. Der Künstler weiss, dass sein Werk nur voll wirkt, wenn es den Glauben an eine Improvisation, an eine wundergleiche Plötzlichkeit der Entstehung erregt; und so hilft er wohl dieser Illusion nach und führt jene Elemente der begeisterten Unruhe, der blind greifenden Unordnung, des aufhorchenden Träumens beim Beginn der Schöpfung in die Kunst ein, als Trugmittel, um die Seele des Schauers oder Hörers so zu stimmen, dass sie an das plötzliche Hervorspringen des Vollkommenen glaubt. — Die Wissenschaft der Kunst hat dieser Illusion, wie es sich von selbst versteht, auf das bestimmteste zu widersprechen und die Fehlschlüsse und Verwöhnungen des Intellects aufzuzeigen, vermöge welcher er dem Künstler in das Netz läuft.

(Nietzsche, Menschliches, Allzumenschliches I, IV/145)

 

(そのスンゴイものは、既製品ではないからな。スゴい人・すごいパフォーマンス・凄い力・すげえプレイ等々を目の当たりにすると、それもそうできるようになるまでの間は別にそうではなかった、あくまで時間をかけてそうなったんだ、ということを意地でも考えなくなる。一夜にして突如誕生したんだと思い込みたがる。魔法や神通力を信じていた古代人と変わりがない。古代のどこぞでは、神がちょちょいのちょい(←死語)で神殿を発生させたと信じていた。古代のエジプトでは、エン・サバ・ヌールがサイコキネシスでピラミッドを組み立てていた。また古代には人間が突如石コロに化けてその石ころがチョメチョメ(←死語)ということになっていた。サノスはインフィニティ・ストーンを集めている。こういうワケであるから、パフォーマンスが凄く見える秘訣が、準備期間や裏の苦労を極力想わせないようにするというものであってしまう。スーパーマンが魔法で出現したと感じさせるのである。見るアホたちが騙されてくれたらしめたものだが、まあ観る者というのは見たいコーフンで疑似酩酊のべろんべろん状態、判断力なんか低下しまくっているものだ。お前はもう、ダマされている。言うまでもなく、こういうのは、科学的態度と180000度正反対である。言わせんな。いかなるスンゴイものがあっても、そこにはそこに至るまでのプロセスがあり修業があり1万日間の法則があり背景があり歴史があるということを認識できるのが、アタマのまともな人間、科学的態度の人間だ。だまされてんちゃうぞコラ

ニーチェ

 

本記事は、この記事の中盤の記述への補足であり、またこの記事で仄めかしだけはした問題を取り上げたものである。よってこれらのリンク先から先に読んでもらわんと、本記事だけを読まれてもこまる。

 

スポーツなり格闘技なり力仕事なり白兵戦なり狩猟なり農耕なり何でもいいがほぼありとあらゆる人体筋力必要場面に於いて、出力というのは、可能な限り数のの協調によって発揮するものである。これが、本来の自然な筋出力であり、この際、可能な限りヨリ多数の筋群を可能な限りヨリ小さい時間量で動員できればできるほど、ヨリ「チカラ」が「強い」ということになる。

一方、無酸素ウエイト(マシン)ワークアウトによるボディメイクのほうは、こんなんとは反対のことをする。筋群が協働することこそ出来ないように出力部位を不自然に限局し固定してしまって、その上、レップスやセットという不自然な労働条件を設定する。しかも、そこでピックアップした対象筋に、現代の日常生活ではまったく体験しない不自然な強度の収縮をさせる。かくして、人工的・不自然に筋繊維発達を誘発する。そういうものである。

さて、こんなことをやって、「力」「の発揮」の練習になると思うか?なるわけがない。

そう、何であれ、「強く」なりたいのなら、当該パフォーマンス自体にもっぱら励んでいれば、よいのである。「強く」なりたい「うまく」なりたいというどこの誰も、ジムには用がないし来なくていい。(そして問題はもっと幼稚かも知れない。つまり、例えばパンチ力は背筋力ではない。2つの「力」の具体的内容が、まるで違う。おそらく、チカラを云々するほとんどの言説発言会話で、チカラという語の文法を間違っている。「強さ」の文法などもっと酷く間違っている。この記事参照。)

という理解から、武道家とトレーニーの力の差(があんのか知らんが、あんだろ)だとか、体が細いのに大した力の人々だとか、その他その他のこんな話あんな不思議、或いは「見せかけ()」がどうのこうのといったアホ談義、これらの中身がぜんぶ理解できる。「筋肉」がなんぼ太かろうが細かろうが太かろうが、出力の多少を決定するものが可能最多数筋群の一斉同時動員の技能なのだから、それに熟達している格闘者とそれに熟達していないウエイト器具挙上者に差異があったり、お前の知るそのショボいかフツーの体格の人がその謎のスンゴい力を出せるのも、当たり前なのである。太さデカさがどうもチカラと直結しなという不思議は、不思議でも何でもない。この技能が高いか低いかの問題だ。

 

ヒールの高さ

ヒールの高さ

  • 欅坂46
  • 発売日: 2019/02/27
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もっかい言う、力の強い弱いというのは、全身骨格筋のうちのどれだけ多数をどれだけ短いコンマ秒でどれだけ当該目的行為合致的に協働収縮させることができるかどうかのその技術・技能である。個々では小さい筋肉も一斉に働けば大きな出力。お前、足し算できるよな?「力」の「強さ」に関してアホブログ・アホ袋・その他アホページが「神経」の話をしてるのに騙されるな。また、ヨリ「太い」筋肉にヨリ「力」があるのは当たり前であるが、他筋肉との協同動員をしていなければ、その分だけは当該目的行為上での出力総量が当然《小さく》はなる。お前、引き算できないのか?1本の筋肉がどれほどデカくても、他筋肉との協同動員によるほどには劇的なチカラ発揮は示しがたいのである。逆に、もちろんのことだが、使用筋群が限定されている状況下・体位下・ポジション下であればあるほど、1本あたりの単純な太さが今度はモノを言う。デカい体が脅威なのはこんな限られた状況下でだ。

以上のような達成のためにはウエイト(マシン)トレーニングが資することは一切ない。ウエイト(マシン)を使ったワークアウトという行為は、パワーやKO勝ちを導くために存在するのではないし、それらと一切何の関係も無い。

このように各筋の協働動員こそが=だけが即ち「力」であるということ、こんなことは、誰もがさんざん目にしてきている漫画やテレビや解説本に描かれて書かれて流されてあること、それらからテメエのおつむで考えてったらいずれは判ることである。ところが、ウェブ上では、力と筋肉の関係の話をしている場面は、阿呆船に乗った池沼と池沼のハナモゲラ語会話である。なぜ、こうなるのか?モノを見れないから、見てるモノから何も取ってくることが出来ないからだ。コンパウンド種目とアイソレート種目で扱ってる重量のその目方の数字すら読めないからだ。アホとは、想像を絶してアホなのである。

再三何度も言ってやるが、強さとかパワーとか攻撃力とか破壊力とかいうものの達成(度合)の観点からすれば、四肢の個々の筋肉がどんなデっけーかスンゲーか、そいつがどんなジャンボな巨体か貧相なモヤシかどうかは、そこまで大きな意味を成さないのである。ましてや、最終的結果に対してそういったチカラが一要素を成すにすぎないところの人体同士の決闘場面といった複雑極まりない現象に於いては、外見上のカラダのスゴさスゴくなさなど、ほぼ何も語らないに等しい。(それが大いに語るようになるようにまで状況・条件を人工的作為的に設定し尽くしているのがリング上の世界であり、ここは実は極めて非現実的で抽象的な世界なのである。ってかそれがスポーツにおけるフェアというものの前提だ。現にその世界から一歩はずれて例えば禁じ手通用の舞台にでもなれば話が一変し体重がイコール戦力なのではないくなる。)

理解したいことは、部分は部分にすぎないということである。結果は全体に宿る。全体というものを見よ。事象という複雑なものをその複雑さのままに直視しろ。それをサボって分かりやすい1部分だけを見るという抽象的で不毛な思考停止をやめろ。

ところで、戦闘というものの成否優劣勝敗が単純安直に理解または曲解されている現象であることと並んで、さらに、戦争というものの実態がいかに誤解されているかというのもあって、例えば

などを読めば、近現代日本で何万何億回と語られ(思い)描かれ信じられてきた戦争風景のイメージが崩れ落ちるとともに、ゲームなどのサブカルチャーで描かれてきた戦闘・バトル・征伐・冒険のカッコいい剣劇と肉弾のイメージも人類の実際の戦争とかけ離れた空虚な架空であることが痛感される。

このような、本当は常に複数の諸部分またはそれら全体という関数があってこそ出力されているところのパフォーマンスを一部のものに限局して見てしまうという誤理解だが、こいつは広くあまねく様々な言説もといハナモゲラ語会話に於いて見られる。例えば、この記事でも言及したが、アホはすぐ「脳」に走る。脳と「知能」(てそもそも何だ?言ってみろ)的な出力とが相関していると知ると、脳が考えるのだろう脳がすごいことを考えるのだろうという錯誤・錯覚・誤解・カン違いをすぐ犯す。「脳」さえわかりゃええんだろうと極端に走り、アインシュタイン「の脳」があれだけの業績を成し遂げたのだろうと思いこみ、何なら頭蓋骨に偉人の素を求める。

しかるに、物理学でも画業でもプログラミングでも盤上競技でも演奏でも制作でも記録挑戦でも著述でも何でもいいが、「天才」とは、脳という1臓器が作るものではない。結論から言うとそれは現象の名前に過ぎない。「才」とは、存在はしない。関数として現象するだけ。

まず、いくら自分で自分のなかで「天才」なんだとふんばっても誰にもそれは見えないのだから「天才」とはもちろんまずそういう出力でありパフォーマンスであり表現であり表に現れたものである。表に現れてない「天才」、文章になって出版されていない「天才」は無であり、いかなる内面のスゴさも、表現していないなら無である。ということはだ。表現に用いたモノすべてがそのスゴさの因子でありそのスゴさである、と言わざるをえない。量子力学の理論を文章にした腕と手と指とペンと紙も、現象(=結果)「天才」の変数なのである。脳も、脳梁も皮質も視床も間脳も脊髄も末梢神経も目も耳も口も食道もび骶骨もちんこも座布団もぜんぶが結果「天才」への変数であり、手も足もペンも紙も椅子もOfficeソフトも胃腸の具合も睡眠時間も交際関係も時代背景も全部、環境もひっくるめて全部のぜんぶが、偉人や偉業や、充実した人生や不満足な人生や、器用さや不器用さや、勝利や挫折や、革命や発明や、などの出力を成立させている。天才「の脳」はそれが収まってる身体・その身体が収まってる時代と地域に放りこんだって初めて然るべく機能するのであって、アインシュタインの脳を安土桃山に放りこんでも、モーツァルトの手指を春秋三国に置いても、室伏の腕がテノチティトランにあっても、ボルトの脚を白亜紀に送っても、現今の歴史上機能してたようにはこれらは機能しない。

と書くとバカみたいだが、お前らは、そのバカを普段から犯してるだろ。特定の個人という単なる1個体1生体が世界と人々のすべてから孤立自律してあたかも真空中で「天才」や「最強」だったりするかのように、ありありとイメージしてるだろ。してきただろ。していてツユもおかしいと思ってないだろ。平気で、或る偉人の「腕」ガー名手の「指」ガーあいつの「足」ガーその人の「頭」「脳」ガー … と口にしてるだろ。お前らは自分の部分偏向病をちっとも自覚してないだろ。これを読んでるそこのお前は常にいつだって立派な部分病患者だろ。いかなる偉業《強さ》「才能」「一流」うんたらも、社会組織宇宙組織全体の中での文字通り1ファンクションとして機能し作用し結果しているものだという唯一の正しいイメージが、ぜんぜん全くできていないだろう。できていなかっただろう。そういうものはすべて、取り巻く歴史と社会集団と諸事情と諸思惑と諸人体と人体と諸細胞と諸生理と諸プロセス………といった途轍もなく複雑な諸系全体の中でのその都度その都度その都度その都度のファンクションだということが、このブログを読むまで、分かってたか?

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

  • 作者: 増田俊也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/09/30

 今後ノンフィクションの古典となる金字塔

ということから当然、「中心」人物的なものの非存在無意味も判るし、世間が繰り返し吹聴喧伝してきた特定の「偉人」に無我夢中全身全霊で注目しこれに必死でかかずらうことのアホさ愚かしさが判る。その偉人はそこに居て人脈と環境と状況に助けられ導かれたからその偉業を成したのである。誰もが知るあの発見者もこの探検家もその革命家もどの救世主も、隣国に生まれてたらホームレスに終わってただろう。あくまで、その「人」が傑出するのではない。脳(や心臓あたり)が「中枢」なのではないように、その人物が「中枢」なのではないし、「中枢」「中心」「主役」たる人や器官や国や事柄など存在しない。そう見えるだけだ。もっと悪くは、お前がそう見たがるだけだ。

かくして、「脳」には、意味がない。そんなんにこだわってもしゃーない。お前の脳はお前の体とお前の生きた人生の全複雑系の中でのみ、お前の知るその出力をするのでありしてきたのである。もちろん脳に限らずパフォーマンスとは一事が万事このようである。クソくだらん話だがあくまで低レベルに付き合った話題に限定して言うと、握力と「背筋」どころか「腰」から足先まですべての運動出力を合算したものがパンチ「力」につながるのであり、なのだから当然地面の硬度もそれに関与しているのであり、履いている靴も、着ている衣服も、いやそのパンチが世界に現象するに至ったまでのすべての諸関係・諸環境・諸文脈・諸やりとり・諸事情・諸感情がそれにつながるのであり、むしろそれ自体なのである。一生懸命握力鍛えても何も得られない。アホにはこれが分からない。

以上の、一切まったく何の興味も無いクソ話から離れてごっつ興味ある話に移ると、「上腕〇〇cm」等々のアホ談義がどれだけアホなのかも、いまやたやすく理解できる。その周囲cmのその腕がスゴいのかスゴくないのかどうかは、皮下脂肪量によるし、それよりももっと前に、身長(という名の骨長)による。他の部位との対照による。肌の色(の濃度)による。ステージ上の照明による。Tシャツかタンクトップかによる。お前が歩いてるのが地元の商店街かいけいけのビーチか火星かペコポンかによる。さらに、鑑賞側の知識と価値観による。時代と地域による。全部合わせて考えたか?そう、お前らのアホ談義には、いつも変数が足りてない。同一(ではないのだが)の顔貌が美人にも非美人にも映り撮影できるのは不思議か?いや、変数が足りてなくて平気でいられるお前のオツムが不思議だよ。どう見えるかには、膨大無数のファクター=変数が関わっている。そうだぞ、《いい人》も《悪い人》も存在しないぞ。そう見える都度都度の現象が存在するのみだ。その現象には数え切れないファクターが絡んでいる。忘れんな。忘れていいのは、現代の量産三文小説の「作家」だけだ。こいつらが描く人間は2ケタばかりの変数だけで出来ている。 

不器用太陽

不器用太陽

  • SKE48
  • 発売日: 2014/07/30
  • メディア: MP3 ダウンロード

そのぐらい区別しろ

 

喫煙人問題の最終的解決まであと何百年かかるのか知れたもんでないが、それはともかく、タバコの問題は健康の問題ではない。分かりやすい言い方から先にしとくと、健康に害があるからだからダメという路線で行ってると、健康に悪くないならじゃあいいのかという陥穽が待ってるのみ。

(もちろん定言命令(法)的な話を念頭に置いてる。つまり、【~ナラ(バ)...シヨウ】を廃した行為論。(法律とか規定とかで)悪いとされているのでなければ何をしてもいいのか、「可愛」想でなければ、身内でなければ、「哺乳類」 (←きっしょい名称

女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?

女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?

  • 作者: ロンダ・シービンガー,小川眞里子,財部香枝
  • 出版社/メーカー: 工作舎
  • 発売日: 1996/10/20

でなければ、助けるに価しなければ、助けなくていいのか(道徳論・同情論・共同体構造・種差別)。それにこれら「されている」「価」するをどうやって決定判定できるのか、決めてその内容の絶対当否を神以外がどうやって判断できるのか。… ここで延々決着つかないから(あっち風に言うと《理性には行為の是非をアプリオリには判断できないから》)、行為が、「定言」的に=カテゴリー的に=何ヲシタライイノカの形が1個1個決まったものとして(理性から)「命令」されるしかない。これが「実践理性」の肝。これの問題は、発想がピュアだという事ではない。問題は、ドウスベキカが個人範囲を出にくいということである。だからこれと対立的な(と見られるのだろうが厳格施行方針という点では非対立的・親和的な)行為論が我こそ実践的・実用的・現実的なりと言えてしまうし、社会レベルでは実際にそうである。

実践の倫理

実践の倫理

ちなみに善悪行為に理由を付けるとバカみたいになるが、行為に理由を付けている奴がバカそのものであること、日常見る通り。

  • 《怒られるから》―怒られんかったらするんか。
  • 《朝っぱらか》―朝じゃなかったらいいんか!
  • 《虫の居所が悪かったから》―居所が良かってたら注意してんかったんか!!
  • 《その日は自分もいあわせていて》―いあわせてない時から動き出してろバカ。
  • 《もう我慢できなくて》―我慢できてる限りは悪を甘受するんだな。その閾はお前のサジ加減てわけだ。フザけんな。
  • 《親の悪口だけは》―じゃあ親以外への悪口はぜんぶ黙って聞けよ。
  • 《夜中だったし》―次は「朝だったし」、その次は「日曜だったし」か。
  • 《おめでたい日なんだから》―その日が何の日かは行為とはカンケーない。
  • 《気分が悪くなる》―それはお前の問題。お前の気分の良し悪しで世界の中の行為の当否を決めるな。大事な人が死んで《キツかった》のはお前の内面。死んだ当人はつらくも悲しくもないおい葬式文化!!!葬礼の一切合財が、お前ら生きてる人間の慰みのためにやっとることだ!!死者「のため」だとか二枚舌使うなボケ!!悲しいのはおまえだ!!!死人は悲しまんぞ!!!
  • 《今日で最後なんだし》―最後ではないならさせてもらえないワケだ。
  • 《人としてどうかと》―何としてとかは道徳にはカンケーない。ヒトでなかったら非道が可になるとお前は言いたいのか。ホミニンは?よし、サイボーグなろうぜ!
  • 《見て見ぬふりはできず》―ふりができることならお前はその悪を看過するんだな。報道されないなら他国での数十万人ジェノサイドなんかおまえには見えず聞こえず言わザルだもんな。嗚呼20世紀。
  • 《そこまでにしとけよ》―どこまでとはカンケーない。良い悪いに設定限度など無い(しかもその設定を決めるのがお前ときたもんだ)。
  • 《いたたまれなくなって》―お前は、お前の感情に触れないならいかなる悪も許容されると述べているのである。

といった具合。人類とはアホなんですか?)

たばこが健康に害なしと証明されたとしても、喫煙がこの世から消えなければならないことに一点の揺るぎもない。煙自体が汚いから。… でもない。だからそう考えるな。そうするとたちまち「じゃあ煙が汚くなければ」になるだろ。違う。喫煙は、そもそも煙を出すからしてならないのである。なぜか。煙が、物に付着するものだから、である。… 仮にそれが無毒無害で・万人が認めるいい香りで・滋養効果たっぷりで・かく醒剤よりもパーなれて・戦争がなくなって・すべての苦しみが無くなって・7500億人が浄土と楽園に入ってニルヴァーナな乱交と一体化の神秘に … なものであったとしても、あかん。物や体に付着すること自体が、そして付着物のなかでは大変広範囲に・速やかに・効率的に・あっちゃこっちゃ誰彼なし無差別に付着していきよるから、だから、ダメ。よって、分煙というのは何の解決でもない本当は喫煙する奴は頭全体にビニール袋をかぶって吸うぐらいなことをして初めて許されるのだが、いや、たとえこうしたとしても、ぜんぜん許されない。タバコの煙が付着汚染した物品が存在するということ自体が、喫煙者がけむりを吐くということ自体が、あってはならない事なのである。「喫」煙ではなくて「排」煙が問題。タバコの煙に《何》が含まれるどうこうという問題ではない。たばこに《何》が伴うのであろうと伴わないのであろうとカンケーない。喫煙行為が喫煙行為であることによって、喫煙人が喫煙人であることによって、これらは、議論の余地なく、害悪であり汚辱であり汚物であり汚染なのである。定言的に。そう、《喫煙=悪》とはKategorieなのである。(したがって、排煙以外のあらゆる種類の煙草に文句ない。もともと煙に文句つけてる訳ではないのだから。しかし喫以外のタバコだと今度は唾吐きよるがな。そうすると、吸い・嗅ぎ・噛み問わず、結局、たばことは、低級人種の嗜好であるようだ。)

さて、このように言うと、「しかしケムリなんて言うなら地球上のいたるところで煙が立っているではないですか」とホザいて来るであろう。… あのな、お前らのはな、出さんで済むケムリだろうが!!!!!!!! ... そう、別に出さなくても誰も困らない煙を、他のけむり類と違って身近・密着・日常の生活環境のあらゆる物品にナスり付けてるから、そうであるからがゆえに、喫煙は、喫煙のみは、存在しなくていいしてはならない撒煙行為なのである。つまり喫煙者のやっていることは、〇んこを体や壁や服にナスり付けるオゾマシイ行為と同じ行為、いやそれよりももっと世界一大規模な、そして世界一必要でない、しかも世界一生活空間に密着してやっている所の、弄便なのである。喫煙者は糞便を吸って糞便をそこらじゅうに塗りたくっているのである。ここで更に、物に付着するというのが何故いかんのか(それが仮にほぼ無味無臭なら ←それは「煙」ではない)とホザく手合いが湧くだろうが、回答するまでもない自明事ながら回答しよう。これは騒音と似た問題で、物や人に付着するということが広義の干渉であり侵害であるから、だから、いかんのである。わかったか!!!! ということで、煙テロの時点で、喫煙は、アウト。終わり。Quod Erat Dedicendum!!!! … 本当はここから進んではならない。この時点で、喫煙が消滅しなければならない理由として完璧である。ただ、次に、この煙が、特に付着なんてしてくさると、それはそれは汚くて・茶色くて・きたなくて・黒くて・キタナくて・臭くて・刺激臭で・臭くて・不快臭で・臭くて・汚くて・不衛生で・汚いとしよう。つまりタバコの煙がヤニ等から出来ているとしよう。すると、根拠の力が増す。そんなけむりウンコをまきちらして塗りたくっているなんて、それが喫煙者なのか、何という汚染源だ、許し難し!ということ。しかし、しかししかしながら、悪魔で第1段階根拠が有ってまずそうであって而してその根拠の「力が増す」というのがこの第2段階である。ここは真の根拠段階ではない。で、次の段階で、たばこが健康に云々談に進んでもいいだろう。ところで、いかなる明証性・いかなる実証データを持ってきても、タバコ吸っても肺ガンならんし健康利益があると妄信したい+確言させてもらいたい喫煙者の脳に届く言葉は、無い。人は 自分のやっていることをイイように言う自分の確信を弁護するためにしか物事を知覚・認識することができない(できない奴には)。それでも将来いつの日にかこの第3段階でこちらに理があると実証論証確証されたとしたならば、さらに廃絶論拠の「力が増す」ことになる。しかし、あくまで、ただそれだけのこと。ここは、こだわるポイントではない。(なお、茶化して書いているが、現在この第3段階が立証され尽くしているから、実際は、喫煙=害悪=即刻なくせ論が圧倒的優位である。しかしこれは所詮「論」であって、喫煙人がこの世から無くなりはしないであろう。理由:①企業利益+税収、

健康帝国ナチス (草思社文庫)

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  • 作者: ロバート・N.プロクター,Robert N. Proctor,宮崎尊
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2015/08/04
ナチスの発明

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  • 作者: 武田知弘
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そもそもポリティクスの事柄だから。②喫煙が消えてもすぐさま別の害毒付き嗜好行為が発生する、それが人類。喫煙ファシズムには後継次世代代替がいくらでもおる。)

しかもだ!!!! このポイントしか見えてない奴、それも嫌煙人口の99%だが、最悪の間違いを犯している。喫煙者のほうを、こいつらの側の利害を云々するという間違いだ。いいか、タバコの害とは、もっぱら周囲への害である。一方喫煙人本人は、自分からすすんで毒煙吸入を選択したのだから、主体性をもって自発的に被汚染を選んでいるのだから、その身に何が起ころうが、関知しようがない。喫煙人側の健康など、問題に成りようがないし、なってはいけないのである。そんな論でいくと、健康害してもええよという答えしか返ってこず、そうしてこいつらは相も変わらず平気の平然で害煙を吐き撒き散らし続けるんだろ。あのな、標的をまちがえるなよ。喫煙人に対して本来ありうべき唯一の言い分は、「お前は自分で選んでいるのだから好きなだけ各種病気・内臓口内ヤニ黒になればいいから、とにかく煙を吐くなよ」といったようなもの以外ではありえないのである。こいつらの利害じゃなくてこっちの利害!!!そう、問題は「喫」煙ではなくて「排」煙。《煙を吐く》《煙が出る》という構造仕組みをしているから、タバコはいかんのである。喫煙人自身の体なぞは、どうでもいい。喫糞人が「排」煙人であることが、害悪の根拠なのである。かりに喫便人がタバコをむしゃむしゃ食べるだけで火も付けないのなら、全くokである。食え食え!!好きなんだろ!!!... (そうなってきたら、例えば、「たばこ」というあの細筒を手指に挟んでそれを口に持っていく所作やポーズやこれにまつわる絵ヅラが、すべて何もかも、ダサくてアホ丸出しで、醜悪で醜くて、世にもキモすぎるという問題も、まあいいかということになってくる。お前がケムリを吐きさえしないなら、あとはどうでもいい。食っとけ。)

と考えてくれば、第4段階いや第10段階と言えるぐらい末梢的であるような、煙草の火が危ない云々の話は、喫煙撲滅が目的なら、してはいけない話ですらある。上述のように(不)健康云々の論でも陥穽のすぐ隣なのであって、火ガ危ナイ云々という撲滅論拠など、すでに陥穽上ですらある:「じゃあ仮に火が付かなかったとしたらそれでいいのか。いま仮に体温程度の「火」しか付かないタバコが有ったとして、しかし呼出煙副流煙量が数倍でその発ガン率が数十倍だったとしたら、お前は許すというのか」。ということになるだろ。分かったら二度とタバコの火の危ない云々話をするな。少なくとも、その話をするのは、諸々の撲滅根拠を挙げた上での最後の段階でだ。一番後回しだ。とはいえ覚えとけ:本来論拠と言えるものは原理主義しかないのである。(なお今の話は、《すぐ極端例を出してくるバカ》という問題とつながる。こういったバカは、ギャー!! 700~1500度の炎だ!火傷!アブナイ!という話にすぐ持ってく。アホは極端に走る。そうではない。こんな極端な話をしてても意味がない。悪いものというのは、極端に悪いから悪いのではないし、極端に悪い所がクローズアップされると他の悪いところが見えなくされるし、その極端な悪が無かったならじゃあいいのかということになってしまう。よって、一酸化炭素が危険という話も、してはいけない話である。一酸化炭素出さんかったらいいんか!従って、はつ癌性だから危険、でもない。それも未だ争っとるだろ。統計ではーガー発ガン性はーガーガーと喫煙人が必死になっとるだろ。なるほど、では、煙草が汚いものだからいかんのか。そうかも知れない。ヤニとタールが、服と髪と顔の肌と鼻と耳とモニターと新聞とペンケースと下着とタオルと車とティッシュと靴とスリッパと土産とコピー用紙と食事と皿とコップとハンカチと茶碗とヘッドホンと天井とポットと障子とタイルと換気扇と原稿用紙と敷居と指と手と口腔内と歯の裏と表と歯ぐきと口蓋と口蓋垂とベルトと鴨居とコートと上着とジャケットと壁と神輿と子供と照明と机とズボンと窓とキーボードと柱とシートと欄間と弁当と財布と布団と枕とリモコンと喪服と飼い犬と飼い猫とガラス窓と飼い爬虫類とインコと畳とスマホと食器とビルと看板とシーツと歩道橋とPCと銃身と壁紙とマウスと床とハンドルと肺胞……に付いて汚いから、かも知れない。のだろうか。いや、ちがう。こう言ったとしても、「汚くなかったらいいんか」、と、奴らは、喫エイリアンたちは、言ってくるだろう。そうではなくて、これらにただ煙が付くからだから呼出煙副流煙排出が悪いのである。本来論拠と言えるものは原理主義しかないのである。そしていいだろうか、程度の高い害が注目されていると、程度の低い害が看過免除されてしまうこうして世の中の無数の苦痛被害・迷惑行為が許されてしまい、我慢させられてしまう(しまっている)。重度の障害を起こさない限りのあらゆる騒音が許されてしまう(しまっている)。金銭被害なら、常に、万単位の話をしなければならないことになる。症状なら、のたうち回る程度のものでないと、話しては・報告しては・スレ立てしてはならないことになる。大洪水を起こす雨以外の悪天候以外には怒ってはいけないことになる。訴訟や捜査に至らないのならどんな誹謗・中傷・予告・邪推も書きこみしたい放題。嘔吐するほどでないなら何もマズくはない。法律にさえ触れないのならどんな醜物を晒してもいいしどんな迷惑行為をしてもいい。そうして、あくびしている人面という醜い阿呆ヅラをいくらでもさらしていいことになり、摂食音・イヤホン音漏れ等々の汚濁音をどれだけ垂れ流してもいいことになる。基準値に達しないなら何をしてもいい。行政を動かさないならどんな自然現象も災害ではない。深刻な鬱症なり神経症なりを起こさないなら、どんな失望・失敗・失業・失態・喪失・失言・失意・損失も、相手にされない。

失いたくないから

失いたくないから

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2014/04/07
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派遣会社の落ち度を語り合うのに、犯罪まがいの奴隷搾取体験談をしだすバカが湧く。飼い犬のやんちゃを語り合うには、狂犬病レベルの話しかしてはいけないことになる。静電気が困ったという語り合いでは、感電死しかけた話しかしてはいけないことになる。商法詐欺なら、全財産失った話しかしてはいけないことになり、停電なら、人生台無しになったケースしか話してはいけないことになる。こんな1億人に1人の少数ケースを聞かされてこっちとしてはクソの役にも立たん。それどころか、このようにして、真実本当に人生を蝕んで喰い殺してくる所の日常的で・軽微で・微弱で・低度で・軽度で・緩慢で・慢性的で・非緊急で・非致命的で・閾値下にとどまる被害と迷惑と苦痛のすべて全部を、許容させられ甘受させられることになる。極端な話をするバカがはびこる限りは、こうである。バカはすぐ極端な話をする。そうして情報の場が極端な事例症例だけで溢れかえる。本当は最低~中程度の苦痛が最大の苦痛なのに。) 

世にある喫煙嫌煙の話のすべて何もかも全部100%において、以上の観点が欠落している。まず問題となるのは「」煙ではなくて「」煙である。よく見ろ、あれは「煙者」なんていう生やさしいものではない。「喫」だとか、たしなんでるだとかいうモノではない。あれは「煙者」という明白な加害者にして汚染源なのである。灰皿があったら吸ってもいいのでは、まったくない。屋外ならいいのではない。こいつらの「屋外」は煙テロの意味しかない。よって、分煙などという姑息策では1ミリも解決しない。そうだ、毎年ン億円の医療費がかからなかったらいいのですらない。たばこ税収など、我々被害者からしたら知ったこっちゃない。時には、自分の部屋の中だけで吸ってるからいいだろうと思っている阿呆もあるが、こいつは、賃貸の部屋の壁から柱から天井から浴室から何からすみっずみまでヤニまみれにして、他の入居者に巨大な迷惑を加害する。ヤニまみれの商品を出品してくさる。借りてきた公共の本をヤニまみれにする。どんだけ隠れて吸おうとお前は物を汚しとるんだ!!お前らの喫煙による快なぞ知らん。快のために煙が認められるのなら快楽殺人だって認められる。...... というような本記事の論点からすると、例えば、何かの大発明で呼出煙副流煙を0.1ナノグラムも出さないタバコが作られたとしたら、そしたら、いくらでも吸いなさい!!! ということになる。その発明品の主流煙に発癌率8万倍+その他諸々の病因をオプションで附けてあげるよ。

 

という風にして、1つの話題に於いて様々な区別・レベル分け・階層化ができるしなければならないということを示した。これらは、言われてみたらそうだなと誰にでも分かるようなことだっただろう。しかながらところがだ!!以上のようなことすら、この程度の乳幼児レベル微生物レベルの話すら、したことない・できてなかった・考えたことなかったというのが、有象無象いくらでもいる。この程度の話の区別もできないのがいくらでもいる。これは、喫煙廃絶論の話ではない。それをサンプルにした、話の区別の話である。しかし話の区別が出来ない人には、このことも、理解できないかも知れない。今はそこを問題にしている。(区別しろという話だが、この記事中で体や脳に即してその話をしているのも参照。)

ということで、次のサンプル。ここに書いたことの続きだが、何らかのパフォーマンス・何らかの作品・実演・成果・テキスト・テxト・文章・歌唱・曲芸・舞台・競技・ステージ・上演・演奏・建築絵画彫刻・取引・弁論 …… 何でもナニでもいいから、例は別にどうでも何でもいいから、とにかく一般に《表現》というものがあって、そいで、この表現の出所がどうでもいいという話。歌ってる人の私事・作った人の事情・競ってる人のメンタル・制作した社の予算・書いた人の実際・撮った人の真意等々々々々は、その表現物と全く無関係ない、純粋クソにすぎない。その表現を享受・鑑賞・受容・消費・考察する上で、その表現ブツ・表現者の環境や私生活や「性格」や...といった総じて《裏》であるものは、考えてはならないし入ってきてはならないし口にしてはならないし、何なら存在してはならないのである(この程度のことぐらい分かってメディアに接しているのが人類の0.001%もいるかどうか怪しいものである)。

だから、例えば作者と作品が切り離せますか^q^云々といった池沼議論があるが、議論にすらならない自明事すら判っていないのである。当たり前すぎる。表現されているモノには、表現している「誰」は含まれていない!!!だから、表現ブツが人間であり表現する者本人であったとした場合にも、その舞台上ステージ上映像上のその表現物-者の《裏》である所の「対応」も学歴も好みも思想も「やらかした」も仲不仲も「最近」も何もかもすべて一切合財、その表現者-物とまったく何の関係も無いクソ情報未満のクソなのである。分かったら二度とこのテのバカ話をするな。

で、いまもう区別の話に入っている。表現の出所なり裏側なりがその表現に含まれるのなら、それは意味が有る(当たり前すぎてアホらしくなってきた)。いいだろうか。表現者の《顔》が作品に含まれるのなら、うp者の「年収」がコンテンツなのなら、作者の私事体験をモロに作中描いているのなら、選手の体格データや食事内容が競技に関係してきているのなら、作曲家の民族思想が曲に織り込まれてあるなら、スタッフとキャストの関係がクランクを主に左右していたなら、そうであるのなのなら、不要クソ情報であったはずのどの情報も、意味を持つ。表現内容にかかわっている限りでは。それがパフォーマンスに含まているのなら、意味を持つ。クソ未満の夾雑物であったもの、それも併せて《表現》である。ただ、しかし、それはすでに表現の内容であって表現物の内幕ではもうなくなっている。わかるか?

ということで、2つの区別が有る。まず、表現されている物、すなわち、受容側が受容する所の、世界に表(現)われているモノ、と、これの発信者、を、切り離せ、という区別が有る。(特にメディア受容・サブカルチャー領域では受容側が幼稚だからこの区別が出来ていず表現者を殺して表現物を殺していること、日夜世界中にして日常茶飯である。表現者が殺されるのは、区別行為ができない受容者のせいであって、〇〇砲・書きこみ・SNS、一言でジャーナリスティック行為、これが悪いのではない。生産者ではなくて購入する喫煙人が100%悪い如く、提供する側でなく選択する・受容する消費者側(現代思想の気持ち悪い糞うんこ言葉を使うと、消費者の「欲望」)が、100%悪いのである。)次に、作者ト作品切リ離セマスカ?!バカに応対して言っておくが、もちろん、表現内容に含まれるのならば、作者「その人」はおろか、そいつその周辺人物どもにまつわるあれこれの舞台裏、私事や過去や出身校や家系や前職や前科や等々といった本来うんこである要素も、無関係ではないくなる。それは当たり前だ。《表現》といってその範囲がどのぐらいか、何から何までが「表現」か、というのは、伸縮自在に決まってる。それをどうやって決めるのか(どっからどこまでがカフカか)という問題は措く。ただしかしだ。この含まれている本来クソ要素は、表現の一部であってしまったならば、もう裏側内幕ブツではない。表現の発信(がらみのもの)ではない。それはもう、「作者」ではない。つまり、顔があって日常があって「睡眠時間」があって下心があって生活があって「マネージャー」があって「年収」があって「スタッフ」があってする所の、具体日常的しがらみ的何らかのモノでは、ない。この世界のどこかの具体的「都合」「予算」「関係」「苦労」「ベッド」「軌跡」といった表現夾雑物の仲間では、もうない。区別しろ。

マドンナの選択

マドンナの選択

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ということで、次のサンプル(というか例は自分で思いつけ。でないと意味がない。本記事のサンプル列挙は補助にすぎない)。よくある頭ガイイ・頭ガ悪イの話も、相当に頭が悪い。区別が無さすぎる。話の内容が未分化すぎる。ところが。誰でも知っている気付いている、ペーパー上の筆記試験を主とする得点獲得の成果と、実際実生活上の人間としての賢さがなんか全然ちがうか少なくともたいがい違うらしいことに(大方はそれも知覚してないんだろうな......)。そらそうだ。知能など、最少限に区別しても、世間というものがどのようになっているかの知(いわゆる常識)、頭ガイイように聞こえるためのどのような言語運用・言語行為をしているか(いわゆる能力)、頭ガイイように見えるためのどのような風貌をしてどのような立ち振る舞いを習得・維持できているか(生き方)、特定学習内容の記憶保持量測定のための「試験」で配分「点数」の何割を採点者に配分させるか(いわゆる「テストの点」・検定・入試・IQ()等)、他人の行動をどの程度(周囲と自分に)都合よく解釈できるか(人間知)、特定社会集団の今後の動向をどれぐらい読めるか(賢明さ)、自己所属社会集団の中でのどのような振る舞いが求められているかの察知(空気読む)、異質な観念をどの程度結合させられるか(発明・作曲・創作・創像・想造・「天才」・構-想像(Einbildung))、自分の知っていない・知れなさそうなことをどのぐらい認識し且つ枚挙できるか(叡知・人生)、(特に)人間が何をどの程度知れないかを画定できる(哲学)、何に関する知識をどのぐらいの定量記銘しているか(博物学・オタク)、人間がどれだけバカバカしいかをどれだけ精密に説明できるか(ストア)、世界がどれだけバカバカしいかをどれだけ巧みなメタファーで描述できるか(宗教)、世界がどれだけ分からないものであるかを記述するための記号を使用体系整合的に用いる(科学)、希少性がヨリ高い(=量産性がヨリ低い)物品を制作できる、と言うよりそういった制作に関する人的関係内で適切にふるまえる(芸術)、人間の本来の「知能」であるもの(技術・技能)、などに分類できる(し、こんな分類でも全然足りていない)。で、区別できないバカは、「賢い^q^」「アタマいい^p^」以外の・以上のことを何1つ言えず、認識できない。こうして、例えば、〇〇〇が狭量で頑迷で視野が狭くて話が通じなくて確信に凝り固まってて愚鈍そう(borniert・verstockt・verbohrt)等と言いたいところで、こう言わなければならない所で、何と、学力や学歴や偏差値がイイかワルイかの話を持ち出すのである!学校的「成績」と(非)賢明を混同できるのである!!

それではモーロス、バカをうまく分類したり、説明したりすることができないのもまた1つのバカだと言えるのではないだろうか。その通りですモーロス、それもまた、1つのバカだと言えるでしょう。それならば、モーロス、さらに私がこう言ったとしたら、どうだろうか。或る幾人かの賢い人があった場合に、それらすべての人をひとしく賢いと十把一絡げに呼ぶかわりに、それぞれの賢さを、例えば1匹1匹の蜂をそれぞれにふさわしい巣穴に戻すように、それぞれの在るべき所にうまく収めることができるかも知れないと。確かにモーロス、できることだと言わなければなりません。もし私がその作業をやりおおせることが出来たとしたら、君はなんと言うだろうかソクラテス

むしろ脚だけでいい

Wie fremd und überlegen thun wir hinsichtlich des Todten, des Anorganischen, und inzwischen sind wir zu drei Viertel eine Wassersäule, und haben anorganische Salze in uns, die über unser Wohl und Wehe vielleicht mehr vermögen als die ganze lebendige Gesellschaft!

(Nietzsche, 1881,11[207])

 

(自分は生き物なのだから死物や無生物とは別物だと思っているだろうが、そんなおまえの体はゆうたら水袋みたいなもんなんだぞ。お前の中の無機物や物質こそがお前の幸不幸を決定するのであって、「人」とか「人生」とかつながりとかが決定するんじゃないからな。

ニーチェ

 

スクワットから逃げて今日もベンチに明け暮れるバカの1つ覚えたちのここベンチ大国だが、ボディメイクの蘊奥にして前提たるものが脚トレである。逃げてないでスクワットをやれ。吐け。それも、前ならえして不細工に尻突き出して空気椅子やってる例の絵ヅラのあの気持ちの悪いヨガもどきではなくて、最低100kgは担いだバーベルスクワット。

↓ こういうやつな。きっしょ!!!!!!!!

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そこの来る日も来る日もひたすら上半身を一所懸命やってるひたすらうんこども、みんながやってるから「とりあえず」ベンチカールレイズに精を出している(だけの)腕バカ胸バカ肩バカ、目障りだぞ。(ベルトコンベア上でどたどた走ってる二足動物たちなどは目障り以前の問題。)

巷間、フルなりフルボトム(ATG)なりがヒザに悪いだとか、浅いスクワットほど大腿がメインターゲットだとか、浅いフェラしかせん風嬢は要らんぞボケだとか、お前の体で本当に実感したんか聞きかじったこと鵜呑みにしてるだけじゃないんかと思える糞伝言ゲームが蔓延しているが、こんな、ラクしようという魂胆と無成果しか見え透いて来ない流言を気にせず、なんっぼでも思う存分フルでやったらいい。(このへんこのへん読んどけ。)別にパラレルでもいいのだろうが、せっかくコンパウンドなんだからケツがっつり稼働させろ。

The Epic Aesthetic氏のHigh Intensity Training動画を参考として貼っておく:

とはいえ普通のバーベルスクワットだと、膝をどれだけ前に出しても、つまりどれだけ股関節中心に調整しても、そんな涙ぐましい努力をしても、アイソレートにならない(このタイプのスクワット独自の有効性が研究されているにせよ)。臀筋に来る。尻ばっか痛なる。尻でばっかヌイてる。

どうやって脚をアイソレートさせるか(筋肥大ワークアウトの要はもっぱら対象筋のアイソレートにある)。脚といって大腿前部ばかり見てるとアホだし他から見ると、まずカーフについては、アイソレート種目しか無い。ハムに関しても、SchinkenとSchenkelが名詞クラス「男性」だが、コンパウンドのデッドをやったとしてもまずハムストリングス一点に効く+あとせいぜい脊柱起立筋イジめる(そうではないデッドリフトの話はしない)。こういった問題少ない部位は措くとして、今は大腿の前、殿筋となんとか分離したい大腿四頭筋だが、これのアイソレートは、ググっても、わかり切ったレッグエクステンションを繰り返すバカの1つ覚えしか見つからない(特に英語ページ)。だが実際現実上のワークアウトでは、フロントスクワットが見事きれいに大腿だけに効く。大腿四頭以外どこも使わん。臀筋を稼働させない。そのことは日本語でならかろうじて明言しているのが見つかる

確かに、プレス系の大腿種目でアイソレートさせるものと言えば、こういったスクワット、つまりプラッツ式ハックスクワット(予備)が有るが、少なくとも筋肉痛確認方法ではフロントスクワットだけが大腿のみに効いてるとしか言えない。それもスミスでやるに限る。フリーだと、バランス取るのに意識と非対象筋群が傾注されてもて、アイソレートに集中できん(ショルダープレスなんかもそうだな)。

Fazit:スミスでのフロントスクワットが、脚のアイソレート。

Fazit:けやき/日向の神推しは、佐々木美玲

ところで、テロップが勝手にホザいてるだけのウソ「超高強度」と違って、真正本物の超超超高強度レーニングをやっていて最早トレ以外の日常的非日常的活動で何をやってもまず滅多に筋肉痛にならなくなっているのだが、そうなる数年前、高強度トレーニング道初級の頃に(スミスでの)フロントスクワットが成功して5日後になお歩行困難という筋肉痛になっていたことがあって、これが、ものの見事にキレイに大腿前部のみだったものだが、この後年の、高強度トレーニング4割は極めているだろう時点で、スミスフロントスクワットが成功した時に3日後になお日常生活に支障が有るほどの筋肉痛がやはり大腿前部のみに来ていたものである。ということがあったぐらい、スミスフロントスクワットが大腿前部のみに高負荷が集中することが実証できている。

なお、こんなことを書いたからと言って、「筋肉痛」をウレシがるようなトーシローが物を言っているのではない。と言うか、筋肉痛というのは最終結論としては恐らくただの痛みに過ぎない。どこに効いたかの参考になるというだけのもの、しかも筋肉痛が起きているところに必ず筋肥大有効な負荷が加わっていたかの保証が別にあるわけでない。上腕二頭が痛くなったアップライトロウは二頭の肥大につながるのか。背中が痛くなったキックバックは広背「に効」いてるのか。坂口渚沙はなぜ完全完璧なのか(リンク予備)。

みっともないトーシローたちが「筋肉痛」や挙上重量などの話題に飛び付くものだが、そういうのがもし筋肥大を結果するものでないのなら、まったくの無駄話に過ぎない。目的はあくまで筋肥大によるボディメイクという事柄一点である。痛い思いをしている自分ちゃん・力持ちの自分ちゃんにウレシがっているオツムには、勘違いしか無い。痛みは痛みにすぎない。力は力であるにすぎない(Larry WheelsはLarry Wheelsである、マネしようとすんな)。ちなみに話ついでに言っておくが、テレビと言えば某サブいスポーツマンが外国での運転中の長時間腹筋運動後での大変な筋肉痛云々を話しているが、腹筋という無駄運動の最たるもののしかも「筋肉痛」などという話など、だからどうしたというゴミ話題の最たるゴミ話題であり、こいつの腹筋がこれで有意に発達しているのでないなら、オメデタすぎて話にもならない阿呆である。お前は修行でもしてんのか。(いや、そうなのだろう。「トレーニング」に励む人口の99999%が、筋肥大が目的であるという事を忘却の彼方に置いてきていて、そのやってることが時給0円肉体労働はたまた激安サウナに堕しているのだが、筋肉痛をウレシがっている人種などは、激安マッサージ或いはジム内武者修行のつもりでトレをしているようである。

なお、無酸素ウエイト(マシン)ワークアウトにスポーツ等のパフォーマンスの補助効果を求めてもほぼ全く意味がないし求めてほしくないのだが、それでも、こんなんこんなんや見たら、さぞかし有効な補助になっているのだろうと思ってしまう。実際バーベルスクワットとデッドリフトやってりゃ(ベンチは要らん)、何がしかは得られるものがあるのだろう。知らん。どうでもいい。がとにかく、それでも、特に(スミスマシン)フロントスクワットからは何も得てもらわんでいい。(スミスマシン)フロントスクワットに、脚の筋肥大用のアイソレート種目以外のものであってもらいたくないものである。その理由、この記事で述べる。

ということで、フロントスクワットは専ら筋肥大目的の行為、ボディメイクのための特権であってもらったら、それでいい。というふうに書くと、フロントスクワットがスクワットの小集合であり何とも狭い世界のエクササイズだと速断するかも知れないから言っとくと、到底そんなことにならない。この記事も参照されたいがいま人間身体のsummum bonumが美というものだとしか考えられないすると、同時に身体に寄せる関心のほうもほとんどがその美醜への関心であること、これも否定しがたいだろう。健康や労働よりもずっとはるかに美醜だろう。喧嘩よりも「強」さよりもずっとはるかに美醜だろう。ずっとはるかに美醜だろう。結局多かれ少なかれエエカラダになりとーてお前はジム行っとんだろ。走っとんだろ。モテてーんだろ!!また、だいぶ上にリンク貼った記事で詳細に検討しているが、造型という意味での美造り=ボディメイクには、筋肥大しか方法が無い。以上の観点からすると、エクササイズ人口の巨大部分が筋肥大目的の種目を選んでいるのが当然、という論理的帰結になる。で、尻を巻き添えにしたくないなら、フロントだ。当然そうなる。

ところで現実にはフロントスクワット人口が多くもないが、それは、誰も「べき」から「する」が導けないから、正しいことを知った上で何かに取り組む人が稀だから、であるに過ぎない。人間は合理的に行動しはしないのである。もう一度言う、人間は合理的ではないのである。もう一度言う、人間とお前は理性の声を聞かないのである。フロントスクワットの普遍的有効性自体は、なーも変わらん。

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  • 発売日: 2018/06/20
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いま人体の特性特徴という話になってるが、その骨格筋配分布置の特徴を見ると、キンニクというのが半身に偏っていることが判る。そう、太く逞しい腕()でもステキな「胸」「板」(爆)でも広い背中(失笑)でもなくて(背中筋は「広」いのではなくて「薄」い)、お前の全身に付いてる筋肉、その大部分が、脚と尻に集中しているのである。よく言うように骨格筋の7割が半身という言い方をしてもいいだろうし、鐘の音鈴の音の100割が髙橋彩音だという言い方をしてもいいし、乃木坂の半分が結局1期生だという言い方をしてもいいだろうし、体積で見ると半身のどの代表的筋肉も半身のどの代表的筋肉よりも小さい・半身最大の三角筋でもカーフよりも小さい・腹筋()など大腿の約10分の1しかないという言い方をしてもいいだろう(これこれこれと等々参照になるページなんぼでもある)。筋肉とはまず脚であり、脚こそ「ボディ(ー)」の本体である。とまで言うしかない。それもそうで、その逆である上半身偏愛人類史の慣行なのだから、逆命題を打ち出したらええのである。これこそが「バランスの取れた」意見である。美術史を見れば、無知愚昧の上半身偏向に溢れ返っとる。しかし、よう自分自身を確認せえ。人間は脚動物である。「脚」トレをしてなんぼ、脚が発達してなんぼなのである。

ちなにみ、書いてきたようなことはネットに溢れ返ってる話だし、本なんかにも書いとることなのだろう。知らんが。ところが、ヒトがその美学美的感性上なぜ特に半身を偏愛するのか、なぜヘソや胸から上ばっか注目するのか、ここばっか注視の対象になり脱がれ描かれるのかと言うと、その事には誰も注目しようとしない。これは本当は誰でも気付くはずのヒドい偏向である。美術彫刻その他の造型芸術を見渡せば、ひたのひたすら上半身偏向が見つかるばかりである。胸像・トルソー・肖像、描かれ造られ想われるのは(現代の気色悪い用語で言うと、「まなざし」(←気持ち悪すぎる反吐語彙)が「注がれる」のは)、いつの世でもどの地域ででも、アホほどひたすら、上半身ばかりである。もちろん詩文芸などの言語芸術世界でも、人が観て寿いでそこに一喜一憂するのは、もうバカの1つ覚えにひたすら、上半身また上半身である。こういうのは、もちろん、心的なものというかチカラや生命が胸腕背中シックスパック()にイメージ投影されがちだからなのだが、とはいえ、だからそれがなんでなのか、なんで人が下半身から目を反らすのかということ、これを誰も言ってない考えてないようである。上半身が「デカ」く見える(そら内臓ぎょうさん詰まった袋だからな)から?視感覚受容器が上半身のしかもてっぺんに有るから?ハイ無難な回答、お前は帰れ。今「美」を前提にしているのですけど、なぜ、明らかに「醜」の代表であるようなチキンレッグや奇形の奇病であるサイギャップでも誹りを免れてしまう程に、下半身が審美から免除されるのか、上半身にばっか関心が集まるのか、なぜそないに下半身から目を反らしたいのか。お前そこまで考えたか?ということである。思うに必竟これも(他の数々の人間に関する問題と同様に)性絡みの事情に因るのではないのだろうか。端的に言うと、そこに〇ンコ〇ンコが有るから、下半身から目を反らすのではないのか。そこを注視鑑賞造型関心の対象にはしにくいと言う暗黙の禁忌、何なら社会的でさえあるタブー感情が、あるのでないか。そこが性的に直截的な箇所だから、そうだから、「脚」と「尻」が(明らかに美に最もカンケーしているのに)話のラチ外に置かれるのでないのか。誰も見ようとせず見たくてたまらず、指の間に隙間を開けて目を覆いつつ見開いているのではないのか。このようにして、下半身が簡単には脱衣できざるものとなり、被服によって年中極力隠され、注目から外れるように努力される。チキンレッグのいわゆる《ズボンで隠れるから》などを思い出してもいいだろう。注目しにくいから、話のラチ外に置かれる。どんどん露出から遠ざかる。スパイラル。しかしながら。ということはだ。すべての細部議論検討を無視してざくざくのざっくりに言うと、表現に於いてヨリ下半身の絵ヅラを露出できてる・前面に出せてる・ためらいが無い・見せようとしてきてる・下ナメである、というケースほど、ヨリ人体美に露骨直截に迫っていると言えるのはないのだろうか。少なくとも、そういう傾向を考えても、面白くなくなくなくはないであろうし、何か言えてなくはないであろう、マジの虚心坦懐に人体美自体を想っている者であるのならば。このような比例関係を、仮説してもよいであろう。脚(と尻)に注目できれば出来るほど表現に素直でいてると言えるのではないか。短パンvs.ビルパン。この観点からもっかい美術史表象史を見直したら何か得られるのではないだろうか

 

僕の涙は流れない

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