地上最強のブログ

しばいてくぞ

お前はハナシがわかっているのか

Das Vollkommene soll nicht geworden sein. — Wir sind gewöhnt, bei allem Vollkommenen die Frage nach dem Werden zu unterlassen: sondern uns des Gegenwärtigen zu freuen, wie als ob es auf einen Zauberschlag aus dem Boden aufgestiegen sei. Wahrscheinlich stehen wir hier noch unter der Nachwirkung einer uralten mythologischen Empfindung. Es ist uns beinahe noch so zu Muthe (zum Beispiel in einem griechischen Tempel wie der von Pästum), als ob eines Morgens ein Gott spielend aus solchen ungeheuren Lasten sein Wohnhaus gebaut habe: anderemale als ob eine Seele urplötzlich in einen Stein hineingezaubert sei und nun durch ihn reden wolle. Der Künstler weiss, dass sein Werk nur voll wirkt, wenn es den Glauben an eine Improvisation, an eine wundergleiche Plötzlichkeit der Entstehung erregt; und so hilft er wohl dieser Illusion nach und führt jene Elemente der begeisterten Unruhe, der blind greifenden Unordnung, des aufhorchenden Träumens beim Beginn der Schöpfung in die Kunst ein, als Trugmittel, um die Seele des Schauers oder Hörers so zu stimmen, dass sie an das plötzliche Hervorspringen des Vollkommenen glaubt. — Die Wissenschaft der Kunst hat dieser Illusion, wie es sich von selbst versteht, auf das bestimmteste zu widersprechen und die Fehlschlüsse und Verwöhnungen des Intellects aufzuzeigen, vermöge welcher er dem Künstler in das Netz läuft.

(Nietzsche, Menschliches, Allzumenschliches I, IV/145)

 

(そのスンゴイものは、既製品ではないからな。スゴい人・すごいパフォーマンス・凄い力・すげえプレイ等々を目の当たりにすると、それもそうできるようになるまでの間は別にそうではなかった、あくまで時間をかけてそうなったんだ、ということを意地でも考えなくなる。一夜にして突如誕生したんだと思い込みたがる。魔法や神通力を信じていた古代人と変わりがない。古代のどこぞでは、神がちょちょいのちょい(←死語)で神殿を発生させたと信じていた。古代のエジプトでは、エン・サバ・ヌールがサイコキネシスでピラミッドを組み立てていた。また古代には人間が突如石コロに化けてその石ころがチョメチョメ(←死語)ということになっていた。サノスはインフィニティ・ストーンを集めている。こういうワケであるから、パフォーマンスが凄く見える秘訣が、準備期間や裏の苦労を極力想わせないようにするというものであってしまう。スーパーマンが魔法で出現したと感じさせるのである。見るアホたちが騙されてくれたらしめたものだが、まあ観る者というのは見たいコーフンで疑似酩酊のべろんべろん状態、判断力なんか低下しまくっているものだ。お前はもう、ダマされている。言うまでもなく、こういうのは、科学的態度と180000度正反対である。言わせんな。いかなるスンゴイものがあっても、そこにはそこに至るまでのプロセスがあり修業があり1万日間の法則があり背景があり歴史があるということを認識できるのが、アタマのまともな人間、科学的態度の人間だ。だまされてんちゃうぞコラ

ニーチェ

 

本記事は、この記事の中盤の記述への補足であり、またこの記事で仄めかしだけはした問題を取り上げたものである。よってこれらのリンク先から先に読んでもらわんと、本記事だけを読まれてもこまる。

 

スポーツなり格闘技なり力仕事なり白兵戦なり狩猟なり農耕なり何でもいいがほぼありとあらゆる人体筋力必要場面に於いて、出力というのは、可能な限り数のの協調によって発揮するものである。これが、本来の自然な筋出力であり、この際、可能な限りヨリ多数の筋群を可能な限りヨリ小さい時間量で動員できればできるほど、ヨリ「チカラ」が「強い」ということになる。

一方、無酸素ウエイト(マシン)ワークアウトによるボディメイクのほうは、こんなんとは反対のことをする。筋群が協働することこそ出来ないように出力部位を不自然に限局し固定してしまって、その上、レップスやセットという不自然な労働条件を設定する。しかも、そこでピックアップした対象筋に、現代の日常生活ではまったく体験しない不自然な強度の収縮をさせる。かくして、人工的・不自然に筋繊維発達を誘発する。そういうものである。

さて、こんなことをやって、「力」「の発揮」の練習になると思うか?なるわけがない。

そう、何であれ、「強く」なりたいのなら、当該パフォーマンス自体にもっぱら励んでいれば、よいのである。「強く」なりたい「うまく」なりたいというどこの誰も、ジムには用がないし来なくていい。(そして問題はもっと幼稚かも知れない。つまり、例えばパンチ力は背筋力ではない。2つの「力」の具体的内容が、まるで違う。おそらく、チカラを云々するほとんどの言説発言会話で、チカラという語の文法を間違っている。「強さ」の文法などもっと酷く間違っている。この記事参照。)

という理解から、武道家とトレーニーの力の差(があんのか知らんが、あんだろ)だとか、体が細いのに大した力の人々だとか、その他その他のこんな話あんな不思議、或いは「見せかけ()」がどうのこうのといったアホ談義、これらの中身がぜんぶ理解できる。「筋肉」がなんぼ太かろうが細かろうが太かろうが、出力の多少を決定するものが可能最多数筋群の一斉同時動員の技能なのだから、それに熟達している格闘者とそれに熟達していないウエイト器具挙上者に差異があったり、お前の知るそのショボいかフツーの体格の人がその謎のスンゴい力を出せるのも、当たり前なのである。太さデカさがどうもチカラと直結しなという不思議は、不思議でも何でもない。この技能が高いか低いかの問題だ。

 

ヒールの高さ

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もっかい言う、力の強い弱いというのは、全身骨格筋のうちのどれだけ多数をどれだけ短いコンマ秒でどれだけ当該目的行為合致的に協働収縮させることができるかどうかのその技術・技能である。個々では小さい筋肉も一斉に働けば大きな出力。お前、足し算できるよな?「力」の「強さ」に関してアホブログ・アホ袋・その他アホページが「神経」の話をしてるのに騙されるな。また、ヨリ「太い」筋肉にヨリ「力」があるのは当たり前であるが、他筋肉との協同動員をしていなければ、その分だけは当該目的行為上での出力総量が当然《小さく》はなる。お前、引き算できないのか?1本の筋肉がどれほどデカくても、他筋肉との協同動員によるほどには劇的なチカラ発揮は示しがたいのである。逆に、もちろんのことだが、使用筋群が限定されている状況下・体位下・ポジション下であればあるほど、1本あたりの単純な太さが今度はモノを言う。デカい体が脅威なのはこんな限られた状況下でだ。

以上のような達成のためにはウエイト(マシン)トレーニングが資することは一切ない。ウエイト(マシン)を使ったワークアウトという行為は、パワーやKO勝ちを導くために存在するのではないし、それらと一切何の関係も無い。

このように各筋の協働動員こそが=だけが即ち「力」であるということ、こんなことは、誰もがさんざん目にしてきている漫画やテレビや解説本に描かれて書かれて流されてあること、それらからテメエのおつむで考えてったらいずれは判ることである。ところが、ウェブ上では、力と筋肉の関係の話をしている場面は、阿呆船に乗った池沼と池沼のハナモゲラ語会話である。なぜ、こうなるのか?モノを見れないから、見てるモノから何も取ってくることが出来ないからだ。コンパウンド種目とアイソレート種目で扱ってる重量のその目方の数字すら読めないからだ。アホとは、想像を絶してアホなのである。

再三何度も言ってやるが、強さとかパワーとか攻撃力とか破壊力とかいうものの達成(度合)の観点からすれば、四肢の個々の筋肉がどんなデっけーかスンゲーか、そいつがどんなジャンボな巨体か貧相なモヤシかどうかは、そこまで大きな意味を成さないのである。ましてや、最終的結果に対してそういったチカラが一要素を成すにすぎないところの人体同士の決闘場面といった複雑極まりない現象に於いては、外見上のカラダのスゴさスゴくなさなど、ほぼ何も語らないに等しい。(それが大いに語るようになるようにまで状況・条件を人工的作為的に設定し尽くしているのがリング上の世界であり、ここは実は極めて非現実的で抽象的な世界なのである。ってかそれがスポーツにおけるフェアというものの前提だ。現にその世界から一歩はずれて例えば禁じ手通用の舞台にでもなれば話が一変し体重がイコール戦力なのではないくなる。)

理解したいことは、部分は部分にすぎないということである。結果は全体に宿る。全体というものを見よ。事象という複雑なものをその複雑さのままに直視しろ。それをサボって分かりやすい1部分だけを見るという抽象的で不毛な思考停止をやめろ。

ところで、戦闘というものの成否優劣勝敗が単純安直に理解または曲解されている現象であることと並んで、さらに、戦争というものの実態がいかに誤解されているかというのもあって、例えば

などを読めば、近現代日本で何万何億回と語られ(思い)描かれ信じられてきた戦争風景のイメージが崩れ落ちるとともに、ゲームなどのサブカルチャーで描かれてきた戦闘・バトル・征伐・冒険のカッコいい剣劇と肉弾のイメージも人類の実際の戦争とかけ離れた空虚な架空であることが痛感される。

このような、本当は常に複数の諸部分またはそれら全体という関数があってこそ出力されているところのパフォーマンスを一部のものに限局して見てしまうという誤理解だが、こいつは広くあまねく様々な言説もといハナモゲラ語会話に於いて見られる。例えば、この記事でも言及したが、アホはすぐ「脳」に走る。脳と「知能」(てそもそも何だ?言ってみろ)的な出力とが相関していると知ると、脳が考えるのだろう脳がすごいことを考えるのだろうという錯誤・錯覚・誤解・カン違いをすぐ犯す。「脳」さえわかりゃええんだろうと極端に走り、アインシュタイン「の脳」があれだけの業績を成し遂げたのだろうと思いこみ、何なら頭蓋骨に偉人の素を求める。

しかるに、物理学でも画業でもプログラミングでも盤上競技でも演奏でも制作でも記録挑戦でも著述でも何でもいいが、「天才」とは、脳という1臓器が作るものではない。結論から言うとそれは現象の名前に過ぎない。「才」とは、存在はしない。関数として現象するだけ。

まず、いくら自分で自分のなかで「天才」なんだとふんばっても誰にもそれは見えないのだから「天才」とはもちろんまずそういう出力でありパフォーマンスであり表現であり表に現れたものである。表に現れてない「天才」、文章になって出版されていない「天才」は無であり、いかなる内面のスゴさも、表現していないなら無である。ということはだ。表現に用いたモノすべてがそのスゴさの因子でありそのスゴさである、と言わざるをえない。量子力学の理論を文章にした腕と手と指とペンと紙も、現象(=結果)「天才」の変数なのである。脳も、脳梁も皮質も視床も間脳も脊髄も末梢神経も目も耳も口も食道もび骶骨もちんこも座布団もぜんぶが結果「天才」への変数であり、手も足もペンも紙も椅子もOfficeソフトも胃腸の具合も睡眠時間も交際関係も時代背景も全部、環境もひっくるめて全部のぜんぶが、偉人や偉業や、充実した人生や不満足な人生や、器用さや不器用さや、勝利や挫折や、革命や発明や、などの出力を成立させている。天才「の脳」はそれが収まってる身体・その身体が収まってる時代と地域に放りこんだって初めて然るべく機能するのであって、アインシュタインの脳を安土桃山に放りこんでも、モーツァルトの手指を春秋三国に置いても、室伏の腕がテノチティトランにあっても、ボルトの脚を白亜紀に送っても、現今の歴史上機能してたようにはこれらは機能しない。

と書くとバカみたいだが、お前らは、そのバカを普段から犯してるだろ。特定の個人という単なる1個体1生体が世界と人々のすべてから孤立自律してあたかも真空中で「天才」や「最強」だったりするかのように、ありありとイメージしてるだろ。してきただろ。していてツユもおかしいと思ってないだろ。平気で、或る偉人の「腕」ガー名手の「指」ガーあいつの「足」ガーその人の「頭」「脳」ガー … と口にしてるだろ。お前らは自分の部分偏向病をちっとも自覚してないだろ。これを読んでるそこのお前は常にいつだって立派な部分病患者だろ。いかなる偉業《強さ》「才能」「一流」うんたらも、社会組織宇宙組織全体の中での文字通り1ファンクションとして機能し作用し結果しているものだという唯一の正しいイメージが、ぜんぜん全くできていないだろう。できていなかっただろう。そういうものはすべて、取り巻く歴史と社会集団と諸事情と諸思惑と諸人体と人体と諸細胞と諸生理と諸プロセス………といった途轍もなく複雑な諸系全体の中でのその都度その都度その都度その都度のファンクションだということが、このブログを読むまで、分かってたか?

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

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  • 作者: 増田俊也
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 今後ノンフィクションの古典となる金字塔

ということから当然、「中心」人物的なものの非存在無意味も判るし、世間が繰り返し吹聴喧伝してきた特定の「偉人」に無我夢中全身全霊で注目しこれに必死でかかずらうことのアホさ愚かしさが判る。その偉人はそこに居て人脈と環境と状況に助けられ導かれたからその偉業を成したのである。誰もが知るあの発見者もこの探検家もその革命家もどの救世主も、隣国に生まれてたらホームレスに終わってただろう。あくまで、その「人」が傑出するのではない。脳(や心臓あたり)が「中枢」なのではないように、その人物が「中枢」なのではないし、「中枢」「中心」「主役」たる人や器官や国や事柄など存在しない。そう見えるだけだ。もっと悪くは、お前がそう見たがるだけだ。

かくして、「脳」には、意味がない。そんなんにこだわってもしゃーない。お前の脳はお前の体とお前の生きた人生の全複雑系の中でのみ、お前の知るその出力をするのでありしてきたのである。もちろん脳に限らずパフォーマンスとは一事が万事このようである。クソくだらん話だがあくまで低レベルに付き合った話題に限定して言うと、握力と「背筋」どころか「腰」から足先まですべての運動出力を合算したものがパンチ「力」につながるのであり、なのだから当然地面の硬度もそれに関与しているのであり、履いている靴も、着ている衣服も、いやそのパンチが世界に現象するに至ったまでのすべての諸関係・諸環境・諸文脈・諸やりとり・諸事情・諸感情がそれにつながるのであり、むしろそれ自体なのである。一生懸命握力鍛えても何も得られない。アホにはこれが分からない。

以上の、一切まったく何の興味も無いクソ話から離れてごっつ興味ある話に移ると、「上腕〇〇cm」等々のアホ談義がどれだけアホなのかも、いまやたやすく理解できる。その周囲cmのその腕がスゴいのかスゴくないのかどうかは、皮下脂肪量によるし、それよりももっと前に、身長(という名の骨長)による。他の部位との対照による。肌の色(の濃度)による。ステージ上の照明による。Tシャツかタンクトップかによる。お前が歩いてるのが地元の商店街かいけいけのビーチか火星かペコポンかによる。さらに、鑑賞側の知識と価値観による。時代と地域による。全部合わせて考えたか?そう、お前らのアホ談義には、いつも変数が足りてない。同一(ではないのだが)の顔貌が美人にも非美人にも映り撮影できるのは不思議か?いや、変数が足りてなくて平気でいられるお前のオツムが不思議だよ。どう見えるかには、膨大無数のファクター=変数が関わっている。そうだぞ、《いい人》も《悪い人》も存在しないぞ。そう見える都度都度の現象が存在するのみだ。その現象には数え切れないファクターが絡んでいる。忘れんな。忘れていいのは、現代の量産三文小説の「作家」だけだ。こいつらが描く人間は2ケタばかりの変数だけで出来ている。 

不器用太陽

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  • 発売日: 2014/07/30
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