地上最強のブログ

しばいてくぞ

余の訪園録 (9)

so lange wir jung sind und unser selber noch nicht gewiß, ist die Gefahr nicht gering, daß uns die Wissenschaft durch die Wissenschaftlichen verleidet werde — oder die Kunst durch die Künstler — oder gar das Leben durch uns selber.

(Nietzsche, 1881,12[201])

 

(自分と人間のことをよく分かってないガキほど、「知識」みたいなものにダマされて知識に向かわなくなり、表現ではなく表現する人を見てしまい、自分が1個のサンプルであるにすぎないところの人生というものでなく自分の生活なんていうチンケなカスに注目してしまう。

ニーチェ

 

前回の記事から

う風潮が、大食なりデカ外車なりにマッチョ願望を託すアホと同系統いやそれ未満のアホ、底の浅い見え透いたカッコ悪いカッコつけであるという話は今は措いといてやるにしても、こいつらが、睡眠時間が6時間を下回れば害悪しかないのであるということも今なお分かっていない(しかし体感はしているかもしれない!)アホであること、これは言わざるを得ない。これこれこれでも見たらわかるが、そんな短時間睡眠だと、酒にべろんべろんに酔ったのと同じ状態になる。まあバカというのは酒に酔ってる自分も自慢したがるものだし、ついでに言っとくと、長時間寝すぎてる自慢のほうがまた有るものである。げに、バカは何を材料にしても自慢したがる。とにかく、わかったか?「そんなにたくさん寝ない」というのは、カッコいいことなのではなくて、恥ずかしいことなのである。

 

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よく、ワークアウト(いわゆる筋トレ)や体づくりに関して発信発言発表表明出版している人に関して、この人が《体を「さらして」(←というバカの1つおぼえ表現もきっしょいよな)ないから信用できない》といったことを(特にネットで)で書く奴が湧くもので、歴史ごと地上から消えたほうがいい例のカスBBSなどでは99999999億匹ほど湧いているが、こいつらはこのように書いておいて何か意味や中身があることを言えているつもりなのだろうか。アホはどこまで考えないのだろうか。

よう聞けボケ、まず、言論は言論である。それを発している個人が具体的にどういう人なのかなど、全くどうでもいいし何のカンケーもないことである。こっちはその言論を聞いてさえいればいいのであって、それを発した人がどんな外見で普段何してて何歳でとかいうのは、それについて言及するのが人身攻撃に当たるからやめたほうがいいとかそんなレベルのものであるのではなくて、一切まったくしゃべってはならないし考えてはならないし知ってもならない事柄なのである。言論者のみならずおよそ表現というものに関わっているすべての人に関して、そうである。さよう、筋肥大やボディメイクや健康習慣について科学的な有効性や実体験にそぐう説得性をもってきっちり喋れてさえいたら、その人が真実本当にはどんな体型をしていて上腕何センチ()かなのかは、まったくどうでもよくてお前は関知しなくていい事なのである。マイカー廃止セミナーに自家用車で来てもらっても構わない、きっちりクルマ社会撲滅運動を推進してくれるのなら。1日4箱の重喫煙人(「排煙人」のまちがいだが)であっても、喫煙人全滅論を熱心に推進して且つ成果まで上げてくれるなら、なんぼでも吸うたらええ。同性愛者が同性愛者抑圧政策を取ったとしても、それでだからどうだということには全くならない。蚊帳の外から特定党特定国について何を言ってもいいし、自分が属している社会集団についてひたすら批判ばっか喋っても別にいい。これだけは覚えて帰ってくれ:その言葉やその表現に関して、それがどのようなによるものかということは、それの内容とは永久永遠永劫の久遠にわたって、なんの関係もない。しかし現実が逆であり、そのことから、人間というのがコトガラというものに関してすぐ「誰」に向かうところの「誰」キチ〇イ病患者であることが明らかである。

しかもそれだけのみならず、《体さらしてないからダメ》発言はまた別の観点からアホのアホによるアホ発言である。あのな、もしな、いざ「さらし」たその体がハンパなくゴツかったら、どうすんのか。それ、逆に、あかんのじゃないのか?(そう、これは逆だよバカ問題でもある。)そんなゴツい人が何を言って書いて啓発しても、その人の体になんかフツーの人は成れるワケない(か成るには犠牲にするものが多すぎる)のだから、逆に説得力がないではないか。超一流が私はこのようなメソッドでこうなりましたとどれだけ言っても、その人がまさに超一流であることによって、人口極希少者が言っていることであることによって、その内容はマネても仕方がないものになるし、その人にでもならない限り効果をあげない方法である公算が高くなる。それは参考になるものなのか?その人がその方法でそうなったのはその人がそれだけ特別でありその方法がその人固有の一回的なものであることに因る、ほとんどの場合。そんな話、聞いてどうする?なるほど、だったらその超(~準)一流がありきたりで一般的なメソッドや発言をしていたとしたら、それで済むことになるのか。いやそしたら今度は、そんな誰でもしゃべってることは誰でも喋ってるのだから特にその人から傾聴することもないではないかということになる。… 確かに、仮にいわゆる「筋トレ」や「カラダ」の思想発信者が貧相な体をしていたとしたら、それは聞く気もなくなるかも知れないだろう…か?いやいやよく考えたら、そんな人なのであるから、自分と同じ目線なのだし、自分と同じく上を向いて頑張っているのであるから、むしろ聞く気になるはずだし、逆に大会優勝級の体だったとしたら、そこから何を言われてもそれをお前につなげることは出来ないかたやすくなさすぎるだろう:お前がショボい奴であるということに依って(そしてお前がショボくない者なのなら、他人の意見などそんなキョーミ持って聞きに行ったりなどしてないはずだし、聞いても《体さらしてないからダメ》式の文句垂れなどしてないはずである)。

そして、上記発信者のような人たちは、以上のことをよくよく判っていて、へたに自分を「さらし」てしまうとそこを論点足掛かりに揚げ足取りをされ出すということを用心しているのだろう。《ほらーやっぱりこんなカラダやから…》という方向に話を歪曲されてコトを捻じ曲げられてしまうということ、愚衆というアホが年がら年中こんなことをやってるアホどもだということをよくよく理解しているからこそ、「さら」さないように気を付けているのであろう。

以上の論理により、顔ノ見エナイ人・〇〇サラシテナイ人・正体ヲ明カシテナイ人ハ信用デキナイワと考えホザいてるアホがいかにアホかということがよく分かる。しかし、アホたちはそんなことを一切考えず感じず予感すらもせず、明日もアホであり続ける。ちーん。

 

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さて、ほとんど誰もが体という自分自身のもののことを知っていない話として知能に関する勘違いなどもあって、それはそれは数々の謬見が発見され研究され実証されているのだが、例えは知能や知力が頭の中でのことであって頭の中でなんやかや一生懸命やることが知能や知力の使い方であり育て方であり維持仕方であるというカン違いなどもまだまだまだまだ根強い。現代では、もう脳とは身体運動のための器官なのであると言い切ってしまうDaniel Wolpertなども居るが、たしかに、この記事などで人体の最高価値が高度な知にあるのではなく身体表現にあると言っている本ブログなども、諸手で賛同する。他にも、この記事でリンク貼った「社会脳」論などに言われる(別にこの説だけで言っていることではないのだろうが)ように複雑な大脳は複雑な社会に対応して出来てきたものだという論もその通りとしか思えない。つまり人類とお前が一番誇っている生物としての徳義たる知能というもの、これは、アタマん中で一生懸命なにかしらこねくり回したりケツ落ち着かせて読書に励んだり「ガリガリ」「勉強」したりすることで涵養され維持されるものなのではなくて、さまざまな種類の他人たちとアクティブにがんがん付き合っていくことと、いわゆる「運動」をすること、によって涵養され維持され継続発達し多様化し強化されるものなのである。脳を「丈夫」にして知的体力を「鍛え」たいのなら、すぐ本を読もうとするな。ガリガリ書こうとするな。人と付き合え。カラダを動かせ。机にかじりついての勉強も青少年のごく一時期にこそ有効かも知れないのだろうが、人生全般においては、或いは体の弱り人間関係の閉じてく中高年期においては、そんな密室での静的な1人「思索」に煩悶してても、得るものろくにないのであり、ましてや知「能」は「脳」のものだからと読書や計算や理論や果ては「脳トレ」系の情弱売品に精を出しているようでは、これはもう愚か極まりない。私は運動しません運動キライですと宣言できる研究者が居てよるが、こいつは、交遊広く運動ぎょうさんする非研究者より頭が悪いこと確実にまちがいない(別に研究者とは「頭」の「いい」連中ではない)。その意味でなら、在野人よ、象牙の塔のアタマでっかちどもにビビらんでええぞ。

そういう奴らについて今ひとつ言っておくと、こいつらが恐ろしくワンパターンでド間抜けな行動しかできないことの証拠に、こいつらが特に論文(こいつらの専門だ)なんかを読むときの振る舞いを見てみるとよい。御高名にして御賢慮なる先生様が査読なさるときには、定型テンプレのワンパターンで、論文の冒頭部分にいの一番に引っ掛かりよる。初めに目にしたものにものの見事にプライミングされてしまい、ひたすらここについてクドクドクダクダぬかして来よる。或いは、全体まんべんなく目を通しているようであったとしても、言うところをよく聞いてると、各段落の頭の部分ばっかしか見ていずこの部分に引っかかったまま考えている。つまりこいつらは初頭効果という低級な認知トラップの模範的奴隷なのである。バカは頭から読み出し、冒頭しか見ず、初めしか覚えず、いつまでも初頭にこだわる。展開など見もしない(!!!)このように言うと、いや冒頭というものは大事だよと言い返してくるだろうが、アホ、初頭効果があるから、これに引っかかるボケがごまんといるから、冒頭が大事になってしまったのである。原因と結果を逆にすなアホ。これは自分が独自にテキトーに順番バイアスとでも呼んでみている認知欠陥に近いものだが、いやこっちが頭から尻へと順番にしか作業や読解を進めれない愚直バカを指しているのに対して、いま問題にしているバカたちは、頭の部分しか読めないほどのバカなのである。というより、アタマでっかちの貧相な奴ら(学者の肖像写真てヒドいよな、テンプレしかおらんよな)なだけあって、読書体力もないのかもしれない。よく貸し出し図書に書き込みする人間のクズの書き込み(ちなみに貸し出し図書に書き込みするよと誇らしげにホザいていた高名な学者先生が居る。犯罪自慢そのものだ)が最初の数~数十頁で終わっていることがあるが、なるほどバカは何事でもバカである。愚直に頭の頭から読み始めて、途中で疲れてしまっちゃったわけである。さてもこの手の連中にかかれば、自分の論文の結論すら読まれることがない(!!!!!!)。

 

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