地上最強のブログ

しばいてくぞ

それは本当にそうなのか? (2)

 

前回の記事から

関係ない話からしておくが、社会系の特に政治系政界系政論系の論者の最も目立った特徴として、およそ繊細で微妙な思考や感性という事と一切無縁であるという点、一言で、死ぬほど頭が悪いという点がある。

例えばこいつらは、どんな事績や人物であっても、政治やその思想(←だとして)の点から見てしか判断できず評価できない。自分の政治志操からして気に食わないなら、どんなに色んな価値があって・様々な見方が出来て・たくさんの興味深いことをやっている人でも、切り捨てて終わる。こいつらには、政治的に役に立たないものは一片の価値もないのであり、(こいつらの)世の中を良くする貢献のないものは虫けらでしかないのである。そうやって、例えば近年では丸山眞男が異端審問に掛けられてしまった。政治バカに料理されてしまった思想史家。アホは誰でも殺す。

例えば適菜収『問題は右でも左でもなく下である』が88頁あたりから嬉しそうにヘーゲルを嘲笑し出すとき、こいつには、ヘーゲルという人が書いた文章と言語遺産がどういったものでありどれだけのことが出来ていたのかそこでどれだけの知を開花していたのかの理解も知識も予感も感触も、ひとっかけらも無い。こいつがヘーゲルを1文字たりとも読んだことがないことだけは、よくよく分かる。(もちろん「ゲーテ」もドイツ語もまったく理解していない。日本語でしかない「アウフヘーベン」(失笑)。)

当然、こいつの演壇で応援演説させられる「ニーチェ」は、ひたすらもっぱら、こいつの中の政治家「ニーチェ」、こいつの政治プロパガンダをメガホンもって応援してくれるこいつ限定の謎「ニーチェ」、つまりニーチェでも何でもないどっかの糞日本語名義人にすぎない。

こいつが同書で切り捨てている有名人らにも無数の意味と側面と日常と見方と功績と毎日毎秒があり、そんなことは繊細で微妙な思考や感性の0.00000ミリでも持っていれば分かることで実際今この文を読んでる者には判ることだが、そんなものはこいつらには、天地がひっくり返っても、ちんこがそっくり返っても、無い。こいつらにとって人物や出来事とは、ナントカ情勢の中でどれだけ役に立ってるものか股はどれだけ敵になっているものか、それだけのものでしかなく、それだけのものしかこいつらのオツムには無い

そして理解も知も、こいつらには、まったくの不要なのである。自分の政治根性なり世の〇〇「問題」なりに都合がいいか悪いか、自分の政治願望を満たすかどうか、自分の政治話上それが海なにか山なのかどうか、それだけのことしかカんがえることがデきズ,そもソモカンガえるということがいっさいできないヒトモドキだからダ^q^

これが政治論者のアホどもだ。問題は右でも左でもなくこいつらである。そしてこいつらに関係ある者がまた全員ものすごく頭が悪く、こいつらがどれだけバカなのかがワカラない。

「多くのバカにはバカしか分からず、多くのバカにはバカも分からない」(E・ハーソン)。

 

 

骨折ロマンス

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渡り廊下走り隊7

  • 発売日: 2013/01/23
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さてそんなことはどうでもいいとしていいかげん本題だが、本当にそれはそうなのかということだ。お前はいっこいっこちゃんと考えているか。

本当にイルカはかわいいのか。あの体かたちは明らかにめっさ気持ち悪いぞ。本当に雨ならゆう鬱になるのか。実は一日中自宅に居て外出者の苦労が気分いいのではないのか。本当に「自然」「の中」で食べれば美味しいのか。本当に「の中」で出せばエモいのか。

本当にそれはそうなのか?無数に無限数に疑えるし、疑うだけタダだし減るもんじゃない(そういえば、本当に「減るもんじゃない」のか?)。まわりでも見てみろ。本当にリモコンのスイッチはゴムでいいのか。本当にゴムを付けていいのか。ハンガーはあの形でいいのか。飲むときはコップしかないのか。水源は自然現象しか無いのか。保存法は冷蔵庫しか無いのか。モニターは四角形でいいのか。バックパッカーバックパックが最適なのか。政府は首都に置かないといかんのか。その普及率は合ってるのか。その流通は必然なのか。その地形は当然なのか。それはその形そのフォルムでいいのか(最広義の「デザイン」の問題)。音階は音符でしか表せないのか。買い物には「袋」しか無いのか。紙を重ねて本にするしか無かったのか。巻く可能性・束ねる可能性・並べる可能性はどこで潰えたのか。心臓は左にあっていいのか(ちなみに「左」ではない)。酸素以外で呼吸できないのか。味付けは塩(分)しかないのか。そもそも5つしか味は無いのか。そもそも攻撃は手足しか無いのか。そもそも身に着けるということは合ってるのか。記録できる物体は固体しか無いのか。擦る・転がす・塗る以外にペン物体の可能性は無いのか。そう言えば靴を見ると、呆れも果てたことに、21世紀のいまだに、ヒモなどという縄文式道具を使っている。おかしいと思わんか?ヒモパンだけにしとけ。服なんていまだにボタンなんて使ってるぞ。骨とか珊瑚とか使ってた時代から進んでないがな。もう石コロで支払いしようぜ。そして「傘」だ。こんなにも防水出来ず防雨出来ないクズのゴミ、頭上からの水を防ぐにはどうしたらいいかを乳幼児に尋ねて返ってきた答えのような、思い付きレベルいや脊髄反射レベルいや延髄思考レベルの安直でバカ直の雨対策もとい無対策、原爆に竹光で立ち向かってるほうがまだ頭まともに見えるような頭の悪すぎる非解決、こんなものを、大の大人の7500兆人がいつまで使い続けるつもりなんだ。

おかしいもの、なんぼでも見つかるよな!!!!

例えば、その騒音は本当に騒音なのか?「騒」かどうかとなるとそれはデシベル等によって「騒」かもしれない。しかし「騒音」という言葉を使って言おうとしていること、【迷惑で不快な音】ということになると、それは本当にそうなのか?

例えば話し声、もちろんコンビニ前たむろの害人が「騒」いでるバカ話し声は問答無用にうるさいが、しかし話し声というものが総じて何でもうるさいというものでもなくて、隣室などでごくたまに訪問があって普通に会話する程度で話している時には、別にうるさくも何ともないというか、迷惑でやめてほしいと即刻すぐに感じるようなものではない。

これが、【話し声でありさえすれば即ウルサイト感ジル】とインプットして何も考えない者なら、何も考えず感じもせず脊髄反射でうるさいやめてくれとなる。しかしそれは、他の本当にうるさい話し声が迷惑であるように丁度そのように本当に迷惑なものなのか?確かにコンビニ前たむろ有害人のノリで数人が「騒」ぐように話していればそういうものでもあろうが、しかしワンルーム的なところの隣室的なところの住人とその訪問者的な者の会話とは、たいていは、神経に障わるような限度に抵触するようなものではない。

他に物音などもそうだ。話し声憎きあまり 時に興味をそそる内容の会話をしている(それが具体的に何なのかは言わないが)ものに対しても一辺倒に怒るバカ同様、物音であるところのいかなる音にも無考え無感覚の自動反応で怒るのも、どうしたものだろうか。片付けや引っ越しや いやそれどころか工事の音であっても、一過性のもので頻度が非常に低いものであるなら、別に神経に障るというものではないだろう。

しかも物や家具やといった物体を動かしたりするような音ときたら、これは、出している本人も一定程度の労力を費やして出しているものだ。ここが肝心だ。この音は出している者も出すためにそんなにラクなものではないと思うと、その音を出すために本人にも一定程度の負荷とストレスが掛かっていて時間コストも掛かっていると認識すると、公平の感覚が励起されて、不快感が減じる。なんたってそいつもしんどいんやし、ということだ。

そしてその反対ほど不快に感じる。例えばテレビやラジオやゲームやバカメロや車のフカシが世にも不快で何よりも怒りを掻き立てるのは、音を出している労力の源が電子製品や原動機や電気や石油であって本人でないからだ。そいつ自身は音を出すための何の労も払っておらず楽々安楽状態、そんなんが音を垂れ流しているとなると、不公平の感覚が励起されて、音に悪意がたっぷり着色されることになる。そいつ自身の痛みが無くこちらの痛みのみ専らあるという不公平感、これによってムカつくのである。

話し声や床音も、出している生き物にそんなに負担になっておらずそいつの痛み少ないのなら、その少なさに丁度反比例してムカつくことになる。いや明らかにそうだ。上述ヒト状害虫どもが明確にうるさくて迷惑なのは、こいつらのほうはひたすら楽しいだけでこっちは楽しくも何ともなくそれを強制的に聞かされるだけ、だからである。このゴミどもはそんな不公平悪を撒き散らしているのなのである。だから、楽しい会話ほどウルサいものになり、笑い声が最も不快な人声ということになる。逆なら、本当は、うるさくない。モメている会話は、そもそも頻度が極めて低いものというレア感もあって、うるさいものでは、本当はない。ここまで書けば、他に例が思い付くな?思い付けよ。

次回の記事に続く

 

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