地上最強のブログ

しばいてくぞ

原始人の現代 (3)

 

前回の記事から

カン違いしてはいけないが、他人とチガえている独自の自分というのが打ち出せた時 その時が嬉しいのではなく、そういうこともあるにはあるとしても、実際は、生きとし生ける地表上の全人類が最も頻繁に心地よく感じるのは、他人に気に入ってもらえる時である。いいだろうか、一切何も特別なことをしていない時・特別なものに成っていない時のヒト猿のごくふっつーのデフォルトの行動というのは、ひとにおもねるというものであり、他人にイイように思ってもらえようと躍起になるというものであり、仲間に入れてもらおうと一生懸命になるというものであり、何とかして(他人の価値観の中で)自分を是認してもらおうとあれこれ画策するというものであり、他人様のご機嫌をうかがいご機嫌うるわしゅういただけるように気を配り気を使いして必死になるということである。

どれだけ信じ難いとしても、お前と私とヒト全員が24時間これをやっている。(他)人を畏れうやまい・(他)人の心に自分を同調させ・(他)人を基準にして自分を彫塑していき・(他)人に媚びへつらい・(他)人がどう思ってらっしゃるだろうかを全力で気にかけ心配し・(他)人様陛下が今日も健やかであらせられるように自分は這いつくばって奉仕し・他人の靴の裏を甜めて暮らす、というものである。

これは平和社会への道だろうか。オキシトシンどばどばで万歳だろうか。実際は正反対で、ファシズムへの道でしかない。世論と報道とコメント欄が同じような文言で埋め尽くされるのは何故だろうか、周囲の他人たちが言っていることと違うことを書けなくなる・発表できなくなるのはなぜだろうか、なぜそこで麻痺するのだろうか、高評価335で低評価2のところで低評価を付けるのに抵抗を覚えるのは何故だろうか、みんなが知ってて支持してて傍聴して投票している人に権力が集中するのは何故だろうか、誰も知らず・支持していず・聞いていず・評言述べていない人には何故公然と関心を寄せれないのだろうか。自分が周囲や他人と違おうとするその初発初動を妨げてくる麻痺、こいつの正体は何だろうか。何が、何の力が、他人と違わせまいと強制してきて、同調行動をとらせるのだろうか。その同調が集団化と集団暴走に直結しファッショ成立に直結してきたことを幾多の歴史と幾億の議論があれだけこれだけそれだけ述べているというのに、何故日々日夜毎日毎分毎秒、おまえは他人に同調するのだろうか。

他人に気に入られたいからだ。他人に、自分のことをいいように思ってもらいたいから、自分を好いてもらいたいから、自分に優しくしてほしいから、自分を迎えてほしいから、味方だと思ってもらいたいから、つまり、他人が機嫌がよくなるのがすんごい快感だからだ。ヒト猿の快とは、他人がヨロコぶ(とそいつが思っている)快であり、他人によしよしナデナデしてもらうことであり、他人のサークルに入会させてもらうことであり、他人の秘教に洗礼してもらうことであり、他人の毛づくろいをすることである。迎合、これが一般的ヒト行動のすべてだ。ヒトは迎合するサルなのである。

僕はいない

僕はいない

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もちろんこれは、考えないでやっていることだ。考えに絡めとられない限りでの行動だ。考えということが生じていないときに自然に自動的に即刻やってしまうことだ。つまり、システム1的な行動だ。ほっとったら自分の中の原始人がえんえんと取り続け他をしなくなるという行動だ。一方、考えてみれば、自分には自分というのが有る。なるほど他人のために尽くしていることにさしたる根拠も意味も無い。おかしなことだ。各人が自分というものが確立していれば、集団の暴力・暴徒の集塊が成立し難く、平和の敵が生じ難く、反グローバリズムの傾向が阻止されることになる。と言ったのに対してハナシが決してそんなに単純なものではないとどんだけ言い返してナニを持ち出そうとも、ハナシは結局この単純な論点に尽きる。個が確立されれば多様化し、多様性は全体化と中央集権を中和し続ける、そしてそういった方向はヒトには難儀でしんどいものであり、努力して自覚を維持していないと出来ないことであり、それも含めて諸々が実にしんどいものである。他人とベッチャリやってる人生ほどラクで好ましいものは無い。他人ト違ウの道は苦難で危険極まりない。歩んだ瞬間非難され、一歩間違うと法的にアウト。「好きなこと」で生きていくと言うのほど両義的なものも無い(と非難される)。人生は、黙って「みんな」党に投票し黙ってブラック残業し黙って徴兵されと黙っていたほうがラクに決まっている。そうして、今日も黙って、人ト違ウ生き方の人たちを喧々囂々ののしって中傷して抹殺するんだよな。うむ、猿なら、そらそうするよ(もちろん、本物のサルは全くの無関係)。人間は動物さ(←両義的!)。

まあそんなことはどうでもいいとして、両義的、つまり曖昧と言えば、意外といろんなものが曖昧である。例えば、日常知覚する対象、1日46時間の間48億兆ほど脳に送られるセンスのデータのうち、と言っては細かすぎるから、意識にのぼっているものに限って言ってもいいが、意識しているもののうちの大多数は、それが何なのかを、あんま深く考えはしない。それは何の音なのか、これは何の感覚なのか、これは腹に何が起きているのか、歯茎がどうなっているのか、あれはどういう意味で言っていたのだろうか、それは何が見えていたのだったのか、今日はどういう一日だったのか、今は暑いのだろうかそうでもないのだろうかどっちだと判断するといいのだろうか、これは結局トクだったのだろうか、それはちゃんと省けていたのだろうか、こう言って本当によかったのだろうか、あいつは何を見ていたのだろうか、今日はヌかんでよかったのだろうか、間に合ったことになっているのだろうか、それ以外のことが出来ただろうか、云々々々々々々等々々々々々々々々々々、無数のことを、つっこんでは考えず、ぼんやりアタマにのぼったままにしておく。

つまり、深くは考えない。さりとて、問題にして気にしてはいる以上、考えてないわけでもない。なるほど曖昧だよな。意識の内容というのは大部分がこういうものだろう。それは、一般的なヒト(の特に成体とかそんなん)に限ったことではないだろう。みんな大概そんなもんだろう。例えば、動物もそうだろう。動物の認識(能力)を云々する時には、「かれらは」(←キショい)ワカっているのだろうかまたはワカっていないのだろうか、考えているのだろうかいないのだろうか、等の二分法を立ててしまう。ヒトのように分かっているのか、何も分かっていないのか。…… いやいやいやいや、そのヒトというのが、分かっているのでもなく分かっていないのでもないのが、これ普通なのである。じゃあ、動物もそうでええやないけ。

ここに好例の題材が有る。動画ネット試聴の時代の恩恵として、動物にマジックを見せる映像というのを、潤沢に見ることが出来る。このリンクはいつか切れるだろうからアテにしてないで自分でググってくれ。今「潤沢」と言ったばっかだ、他にもいくらでも有る。そこで見ての通りだ。マジックを完全に理解している。しかし、タネはもちろん分からない(自分にもさっぱり分からない、当たり前だ)。さてそして、映像を見ての通り、不思議なことが起きているの対してしっかり反応はしているが、さりとて、そこに懸命にかかずらうでもなく、大きなストレスを受けているでもないように見える。つまり、ソレハ一体何ナノカ?という思考をしてはいる、しかし、深くは進まない、深くは考えない:ようわからんが、まあそんなんもあるんだろう。そしてさて、「かれら」(←きっしょいて)の普段の意識の内容も大方はこういうものではないのだろうか。それは、実験者や読者の期待とたがって、完全にワカっているか何もワカっていないかの全か無かではなくて、おおかたワカってはいるが、大した差し迫ったものでもないし そないふこう考える気にもならへんわと思っている、そんなもんなのかも知れない。例えば散歩中の犬は自然界なら見ない聞かない無数の不可思議謎異常怪奇奇妙に出くわし続けているはずなのだが、その1つ1つにちょっと待ってくれと反応し1つ1つからストレスを受けているようには全く見えない。自分のスキームや理解図式からソレが何なのかはおぼろげには分からんでもないがしかし深く考える気にもならん、深く考えんでも困ったことにもならん、知ーらね、と思っているのかも知れない。考えてやるかやらないかを、主体的に決定している。

散ればいいのに…(研究生)

散ればいいのに…(研究生)

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こういう、「さじ加減」とでも言うのか、物事に裁量を利かせるのは、人間の専売特許ではおさおさないのだろう。動物もまた、事物や出来事に対し、判断や熟考に値するかどうかを適度にテキトーに自由自在に裁量し判定しているのだろう。そして大部分の事は、よく分かっていない、つまり判っていなくもない、つまり何となくはワカっているのだろう。そんな意識内容なのなら、他人と他犬と、もしかしたら他魚とも、大して違いはないのかも知れない。

動物も、アイマイなのだろう。それは意識の全か無かではなく、どっちでもないのだろう。動物と同じくつい両極端に見てしまうものというのが他にも有るが、それらに関しても反省しておきたいところだ。例えば女は聖女か娼婦かというのがバカも甚だしい二分法、というほどのものでもない 酔っ払いのクダ程度のものだというのは、誰にでも分かる。女も男みたいに曖昧だし男も女も曖昧だし両性の線引きもほぼ全く意味が無い。それでも、そんな見方はする。子供は崇拝対象かアンファン・テリブルかどっちかだ。全か無か。従順そのものか犯罪者かどっちか。もちろん、そんな線引きなど、無い。子供もトテツもなく曖昧であり無数の中間があり完全に個性的である。

言うまでもなく、全か無かというのもシステム1的思考すなわち無思考である。コトが曖昧であるということが受け容れられて、多様であるということがちゃんと我慢できて、自分たち(人間)かあいつら(動物等)かというバカ二分法に捉われないには、しんどししんどい考エル作業が不可欠になる。全か無か有るか無いかと決めつけてしまうほどラクなものはない。「敵」「か」「味方」かが大事、それ以外は考えたくもない。味方には全力で気に入られよう。それには、敵という生け贄が不可欠だよな。