地上最強のブログ

しばいてくぞ

DCエクステンデッド・ユニバースは超必要だが マーベル・シネマティック・ユニバースはいらない

この胸のバーコード

 

この胸のバーコード

  • SKE48(teamKII)
  • 発売日: 2013/03/06
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

SKE48には神曲しかないのか?!

 

最近考えていてブログで書いていたことと同じことを述べている文章が

の124頁にある:

人類は直感的に、知性がヒトをふくめた動物の価値を測る尺度にふさわしいと考えがちです。しかし、そう考えてよい科学的根拠などどこにもありません。つまり、ほかの能力や形質に対し、知性を特別視すべき理由はどこにもない、と考えるほうが自然なのです。〔改行〕知性はほかのいかなる形質━━たとえば体の大きさや、耳の垢の湿り具合(乾き具合)━━と同じように、ただ単に個体差があるにすぎないと考えるべきです。たとえば、ある二つのクラスで “耳垢が乾いている人” の割合を比較した結果、一方のクラスはもう一方より有意に大きな割合をもつという事実が判明したとしましょう。この事実に対して、あなたはどう思いますか? たぶん多くの読者は、「ああ、そうなの。で、それがどうかしましたか?」と思うだけでしょう。知能についても、まったく同じように考えるべきなのです。〔改行〕そう考えると、ここまでの議論の前提としてきた、知性がヒトとほかの生き物を隔てる本質的な差であるという立場には、なんの根拠もなく、幻想にすぎないということになります。つまり、知性の程度を個体間で比較することは、生物学的にはなんら意味をなさないのです。

が、この箇所だけではなくて本書は生態というものについて非常に勉強になる全頁熟読ものの良書である。某欧米諸国では、イルカやクジラが「知」能が高いから保護しないといけないというカルト宗教を奉じる連中がおり、シャチとその獲物のペンギンなどが愛くるしいから好ましく取り上げるという野蛮人アニミズムにふける狂人たちが居るもので、良識ある著者が居る国に生まれてよかったよかったというものだ。

ところで、書籍というものを出す人間には、何か例や話題を出すときに いっっっっちいちカビの生えた古クッサい話を持ち出したがるという異常な病癖、人呼んで異常レトロ病がある(し、そこでオツムが停止停滞している)もので、この著者にしたってもちろん 例えば158頁なんかで「レッドツェッペリン」(←誰こいつ?)などと言っているようのではあるのだが、しかしながら、重要な話をするときに例に出すのが、確かに著作でありがちなバカの1つ覚えのクソえもんではある(141頁~)ものの、しかし191頁から、何と、(本書出版時点で)最新の映画である「アベンジャーズ」最新作(『インフィニティ・ウォー』)を引き合いに出しているのである。

これは、日欧米問わず、学術書啓蒙書研究書入門書のたぐいで、絶対不動の栄久公準として、特にポップカルチャーから何か例を引くときには 三畳紀後期の地層から例や話題を引いてくる(ビートルズやジャイケルはジュラ紀の地層に埋まっているし、寅さんやサザンやドカベン室町時代の話)という定言命法が存在しているだけに、非常に極めて人知未踏の絶壁絶後に稀で特殊なことである。

なお、マーベル・シネマティック・ユニバース(の、緊張感やドラマに欠落した滑稽で迫力の無い映像)とその不当な大人気がゲロクソ不愉快だが、そうは言っても、漫画実写系リメイク系では 「X-MEN」シリーズやDCエクステンデッド・ユニバースやモンスターバースやダークナイト・トリロジー(やあと「ウォッチメン」あたり)に比すれば見応えがないというだけのことであって、観ないことはないし、サノスは諸手を挙げて大好物だから、この点から言っても本書は非常に好ましい好感を与える。立場に立脚する。

というのは、この世には 主人公が好ましいと言える作品がほぼ絶無(13歳刃牙は認める)なもので、物語というのは何であれ主人公とその身辺の以外のものが常におもしろく、それもあるのか、主人公や善玉を損壊し害してくる敵役が常に好ましく、アメコミ実写化に於ける圧倒的なヴィランたちというのが殊の外感興をそそるからである。そもそも 世界平和や生態系などにとってはヴィランが好ましいことが多く、マグニートーは言うまでもないとして、核兵器を放逐したエン・サバ・ヌールの感動的なシーンを思い出すまでもない(から思い出せ、観てこい)。(映像では本数がまったく足りていない

f:id:kakaist:20210313110704j:plain 朝日新聞デジタルの「世界の核兵器、これだけある」。リンク切れに備えて画像。

が、映像の都合上仕方のないことなのだろう。弾頭数万本が浮いた宇宙空間を描けるわけがない(こういう所でもツッコミどころ等とホザくバカが湧きそうなものだ。「ツッコミ」「どころ」などをホザいているバカはすべてを勘違いしている))。善玉や主人公というのは種差別エスノセントリズムというエゴのカタマリを振りかざすもので、ヴィランが地球や宇宙を支配していたら とっくに地上は平和になっている。

ちなみに上でマーベル・シネマティック・ユニバース(の特にアベンジャーズのサノス編登場まで)が緊張感やドラマに欠落した滑稽で迫力の無い映像と書いたが、それは、例えば『マン・オブ・スティール』のような涙なしには観れないような怒涛のドラマチック映像と比べるとよく分かるもので、後者の映像のド迫力は映像だけで胸が詰まり肺胞がたけび嗚咽にむせび励むものである(自分は、「ツッコミ」「どころ」などとエラそうに冷静沈着を装って突き放して映画を見るような人間のクズではないんでな)。それは、手持ちカメラで揺れに揺れて心を揺さぶる映像のみならず、随所で多用している急激なズーム、といった心理を揺さぶるカメラワークが効いているところではあるが、言語に関しても言えることがあって、サブい軽口を一切吐かないという点である。

欧米のとくに米、つまり北米の大手の映画に顕著な特徴、なのかそうでもないのか知らないが、そういう特徴として、台詞に、語呂やダジャレ的なもの、特に相手や他の誰かが言ったことや何らかの知られた言い回しや格言などを 気取ってヘンに引用したり改変したり応変したりするというドヤ顔クサいにも程があるクソやりとりがある。とにかくこれは、ゲロクソさぶい。おもしろくも何ともない。衒学臭くて不愉快なだけだ。自分は、あんたや誰がしかの言葉をこんなにうまく操ってみせれるんだよ、あんたの言葉の意味なんて手のひらの上のおちゃのこさいさいだよとひけらかしているのが、いかにも鼻につく。これは、もはや愚弄するようなマネだ。言葉も視聴者も。軽妙と言って済ませれるものではない。誰もかれも黙ってこれを見て聞いてしているが、アホなのか?搾取されるままの消費者そのものだな。

これは、欧米言語、というか北米合州国公用語の日常にも見られる特徴なのだろうか。欧米言語の伝統か何かなのだろうか(少なくとも ドイツ文学の歴史には滅多に出てこない)。押韻というのが確かにあるが、脚韻はそんなに伝統あるものでなく何の由緒もない。頭韻やその他のダジャレなら、欧米言語以外の言語にいくらでもある。

思い返せば、日本語でも確かに、特に10~20台のアホガキの会話には、そしても自分もまさにこいつら同様だったが、相手や誰かの言葉をしょーもなくバカバカしい引用して改変するということが多い。ガキは 言葉尻(も言葉頭も言葉胴も)をとらまえるのが大好きなものだ。それは、今( )の中で例示したものとは種類が違う。ただただ、相手にマウンティングしたがっているだけのガキ根性だ。自分のほうがこんなに言えるんだぞーこんなこと言えるんだぞーすごいだろーエヘン、ドヤーーー。こういう、低劣で低級でしかない言葉遊び(言葉なんていくらでも遊べるもので、言葉で何をしたところでひとかけらも大したものではない)、これが、近年の(だろう)北米のアクション系の映画などに頻繁にみられる。ただただ ウザい。地獄のミサワに使ってもらえ。

こういったクソ軽口ゲロ引用が無い映画ほど当然感動や感銘に直結しやすくなり、多い映画ほど軽薄でうすっぺらで大味で視聴後何も残らない量産品となる。

さて本書のことなのだが、特に論じる気がない。ここまでのところは、この記事この記事この記事この記事で書いたこと、文章や書籍の一部の文言に反応して自分が聞きたいものだけを聞いて自分がしたい話だけをするという邸能ボンクラのすることをしてしまっているわけで、本書をまともに検討していないのだが、別にそれでいい。

というのは、本書だけのことでは全然まったくなくて世の777777万億兆冊の本に関して常々思っていることだが、やたらと議論議論している不毛な印象。論理に論理、理屈を理屈で理屈する、議を論して論するだけの、議論のための議論という内容。それは、本来あるべき言論だとは別に思えない。ただテメエおつむ内の論理の筋が整合して自分が気分よくなるだけのことだろう。読者と著者の論理ストーリーのスジが通って何か気持ちいいだけというものでしかない。

しかし、そんなに議論を整理しても仕方がない。そもそも、著者が仮想敵として料理していく言い分のほうが、まともに考えて言っていることではなくて どっかから拾ってたものにすぎず、言い分や一定の論理のカタチだけはしている音や字のゴミにすぎない。そういう発言は、何か言わないといけないから仕方なく言っているだけ(この記事この記事この記事この記事あたりを参照)か、ただ相手に口喧嘩で勝ちたいからするだけのものでしかなく、したがって、どんだけまともに相手しても不毛なだけである。そういうものにどれだけ論理の穴や話の飛躍や論拠の誤解や議論の混同を丁寧に指摘してあげても仕方がない。また別のボンクラ意見を持ち出してくるだけだ。喋るため喧嘩するためならアホは何でもホザく。こいつらが投げる糞は無尽蔵にある。相手していても仕方がない。

そして、議論をやお話というのをどれだけきれいきれいに整えても それも仕方がない。それが瑕疵なき完璧な珠になることはない。何と言ったところで何とでも言い返せる。もちろんその積もりはないのだろう、対話の空間と一定の秩序がセッティングされるように交通整理しているのだろうが、そういうのも バカバカしい。整理して話したら実りあるものになるわけではない。そもそも議論とは勝ち負けではないのは当たり前だが かといって噛み合っている必要もないし土俵も共通もすべからくどうでもいい。そこからおもしろい話が出てくればそれでいいのである。

現実にはコレしかないと言える筋など無いし論理など無いし、議論がそんなにキチンキチンと片付くことはないし、片付けれてる積りの妄空想しかない。それは別に片付いてなどいない。そもそも片付けよう整えようとするのが間違いだ。そうするのはそうしたほうが議論の風通しがよくなり対話の場が設けられるからだと思っているのなら、大間違いだよバカヤロウ。議論や対話というのは共通の枠組みだか前提だかでバカ丁寧にするものではない。別にそうしたから普遍性があるもなのではない。著者のように議論を整理し尽くしていってハナシだけはキレイキレイに整理整頓して、それでじゃあ現実の目の前の絶滅寸前動物どうなるのかの実践的知見が得られることはない。ハナシが筋が通った気がして気分がよくなるだけ。ただのお話。著者はピーター・シンガーを出してきてその評価は明示しないようにしている(201頁~)が、ピーター・シンガーのような意味ある議論そのものの議論、中身そのものの中身、これぞ人を動かす議論だと言える議論は ただのひとかけらも出来ていない。おもしろい事は言えていないのである(議論は、だ。解説部分の文章はとてもおもしろい)。ただそれは、この本の著者に限ったことではまったくなくて、無数の本がそうである。

 

次のピアス

次のピアス

Not Yet

  • 発売日: 2014/04/23
  • メディア: MP3 ダウンロード