地上最強のブログ

しばいてくぞ

考えたらおかしい

Einem Unglücklichen, der einen Trost will, muß man entweder zeigen, daß alle Menschen unglücklich sind: das ist eine Wiederherstellung seiner Ehre, insofern sein Unglück dann ihn doch nicht unter das Niveau herabdrückt: wie er geglaubt hat. Oder man muß zeigen, daß sein Unglück ihn unter den Menschen auszeichne.

(Nietzsche, 1879,44[5])

 

(人生うまくいってないなら、誰だってうまくいってないと思い出せばいい。自分はそこまで下じゃないと錯覚しとけばいい。反対でもいい、うまくいってない自分は特別なんだと思い込んでも、おまえは気が休まるよな。

ニーチェ

 

この記事で述べた視野狭窄だが、これは、日常生活の上でなら人をボケにするというものなのであって、クリエイティブ方面では、役に立ってくることが有るのかもしれない。つまり、多様な情報を幅広く活用するというのと反対の方向、情報をいかに無視するかいかに捨てるかという方向。いかに自分に関係なさそうなもの自分の専門外のものを視野に入れないか。遮断することや敢えてシャットアウトすることも時には必要である。仙境。「隠れ家」。

いや、そうか? 専門特化する(こと自体はヒトの生来生得自然にして当たり前のことであって、さまざまな局面に対応できる全方位多方面的な人間を目指すことのほうがお門違いの見当違いである)というのは、思われているように1つの技能に特化されて行って1つの視野に狭窄されて行くことなのだろうか。専門と無関係な雑念雑事を排して一徹マンな「純」「粋」を極めることなのだろうか。それだけなのだろうか?それで本当にいいのだろうか?極力ソレしか出来なくなって行くことが芸の卓越の道なのだろうか?

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もし、なるべく遠く離れている観念たちを結合させ・別世界の住人たちを会合させ・深い溝(幅2ミリ)によって隔たっているはずの分野を架橋して・材木に鉄鋼や鉱物を接いでみて、誰も言わなかったことを言ってみて、朝勃ちでヌイてみて、今までにソコに無かった「新」「たな」モノをもたらす、といったこともまた(「こそが」とは言っていない)卓越の道なのなら、いろいろ知っといたほうがいいことになるし、色々知っとこうと年中開いといたほうがいいことになるし、習い事も所属道場も数種類のほうがいいし、マテリアルもプロパティも何種類と揃えといたほうがいいし、分散して預金しといたほうがいいし、沢山の人を招いたほうがいいことになる。マルチ。

と言うか、その分野での語り口に純化し尽くしていて雑念や通俗や他分野移入語彙の混じらぬ書き物っていうの、ふつう、クソしょうもなくないか?

自分には、クソしょうもない。自分には、純粋なものほど純粋でないものも無いし、クソ退屈なものも無い。抒情詩など情を1かけらも語らん。「純文学」(←どこのアホがやり出してん)寄りのモノほど、スッカスカで言葉だけであり、何も響かん。純化とはうまくいかないもので、いったとしても時代上の幸運でしかない。古来より、純粋とは、アホと識別し難い。聖なる愚鈍。

それで、それが、よく「天才」と間違われる。ただの脳の欠損で1能力に秀でてた稀少例の話をどっかで聞いて来て、そうだこれこそが歴史上の「天才」たちの実相なのだ・天才とはどこかがおかしい人なのだと信じ出すアホ、こんな虚偽をまことしやかにホザき立て書き込んで固唾を垂らしてウレシがるアホが、あとを絶たない。ちんこもたたんわ!!!!!!! ただ、下心がばれっばれで、天才とは言え結局オールマイティじゃないのであって常人の自分がそこまで卑下することなかったわアーヨカッタと、相手をサゲて溜飲を下げたがっているのである。人間は、つまりお前は、卓越に対してだけは一生言い訳を編み出し続ける嫉妬による)。あのな、全然ちがうわボケ。天才や偉人とは現象の名前であって、人間の名前ではないし、脳しょう害の名前でもない。

似た話だが、道を極めている的な連中、〇〇流大家的な何かとか、日本外なら芸術家なんかそうだが、こういう連中、他の用事や世の雑事や身辺の俗事に疎いものでありそれでいいのだと甘やかされその「不器用」が愛撫愛玩されてきたものだが、実は連中、そういう世間の欲望(←きっしょ)を知っていてそういう世人のまなざし(←きっしょ!!!!!)に迎合して無器用演じてたんちゃうんか?どっちにしろゲロきもい関係だが、まあそういうこった。推して知れ。推しはおしりん(青木詩織のこと)だ。マリーナ(大谷満理奈のこと)だ。横道侑里だ。どちらにせよここら辺のステレオタイプが多少関わって例えば男とは家事が出来ないものであり部屋を汚すものであり(なおゴミ屋敷製造機は男女平等の模様)それがカッコいいものであるという強固きわまりないステレオタイプと絵ヅラと現実がはびこびりついて腐っていやがるが、やめてくれ気色悪い。そんなものは誉めれたものでも肯定的に描かれてよいものでも当然として美化されていいものでもない。そんな男はただの人間のクズである。この世にいらん。粛清掃しとけ。

とはいえそうとばかりも言っていられないところもあり、物事はなんでもXと言えばXで終わりというものではないのであり、片付け(れ)たと思って片付くことなどないのであり、Xと言えばたちまちYが立つところであり、XはYを甲は乙を

君は僕と会わない方がよかったのかな

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確かに何でもソツなくこなす有能な人や・一を聞いて十を知るKY(空気読メル)や・「てきぱき」とこなすスマートでクールな〇〇マンや・知識をスポンジのように吸収していく理想のスポンジというのは、人間(味)としての魅力にまるで乏しい奴らであって、逆に、いつまでもうまくいかず一向に上達せず周囲とうまくいかずそれでもなにくそとモガき続ける人ほど魅力を燦然と放っているもので、自分にも、人間の魅力序列が

頑張るが実らない人>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>頑張って実る人>>頑張らない奴

というものである。

上のほうの話に戻るが、コトは無節操と紙一重である。異なる世界を架橋するのはいいが(「のはいいが」と言う奴は「いい」とは思っていない。譲歩文は否定文より強い否定文、偽善否定文である)、哲学にネットスラング持ち込んだり、サブカルチャー論テレビ論アニメ論に社会学用語(←ゆっとくがむちゃくちゃ気持ち悪いぞ)散りばめたり、性産業界を社会問題の語彙でクソまじめに語ったり、思想系や科学にやたら仏教持ち込んだりしていると、ただただ気持ち悪いだけである。学際とはうまくいかないもので、いったとしても体制のドロドロの人事と都合と予算と専横の中での幸運(でもないが)でしかない。こんなんとは違う。

 

スキ!スキ!スキップ!

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「考えたらおかしい」と言うと「考えたらおかしい」ことになるから「考えないならおかしくない」ことになるから考えたらおかしいのだが、言語とはそういうものである。

上に深い溝とか書いたが、よく何々タチノ間ニハ深イ深イ溝ガ横タワッテイタノデスという言い方をするが、それがどうしたんだ?溝が深いことが亀裂の深刻さと何の関係があるんだ?なんぼ深くても またいだら済む話だろ?これ、「壁」の間違いだろ?或いは「隔たり」とか距離の問題だろ?壁が高かったり距離が離れていたりしたなら疎通不可能云々てことになろうが、しかし足の下の「溝」が「深」いことは別に両者を隔てる何の効果もないぞ。このアホな言い回しをしゃべってるバカは、自分で自分が何をしゃべっているのかも分からんバカなんだな。考えたらおかしいな。

漫画等で対戦相手が小道具やなんか注入的なもので〇〇が17%アップ・XXが8%上昇・ほくほくが時速3㎞上がり…という描写があるが、これそんなスゴいことなのか?その対戦相手Aと別の対戦相手BがAに比べて〇〇が17%高くXXが8%高くほくほくが時速20㎞速いことっていくらでもあるよな。その指数たちは、スゴいのか?

某国には本当にマニュアル通りにしか喋れない動けない生き物(某国外では僅少か皆無か、某国内よりも多い)が人口の99百%を占めているが、こいつらは、マニュアルみたいな、自分が決めたのでもないし自分がその正当性に客観的妥当性を勅印したのでもないものに、何故そこまで全身全霊で従うのだろうか?考えられ(てい)るのは保身しかない。巨大な原動力だ、特に某国人には。しかし、そうなのだろうか?特に電話などで全身全霊ぶりを発揮しよるのは客興奮時だ。つまりマニュアル甲羅に篭るカメになっている訳だ。人間は刺激すると引っ込んでしまい、繰り言しかしゃべれなくなり、嵐の通過を切望して身を丸める。単純な奴で詳論の要なし。他に、例えば注文に譲歩して規定対応を変えてくれるようにはなったのにしばらくするとまたマニュアル行動を復活させるというような強硬な奴などいる。などいると言うかこんなんばっかか。復活さしたらまた怒らしてまうのに、こうしよる。もう保身でもない。考えられるのは、マニュアルの内面化だ。組織への自己同一姿勢だ。しかしこいつらそんなに賢いか?そんなに我意や意志や知能があるか?これは自分にはなんぼ考えても分からないのだが、そこは教養が説明を与えてくれる。一貫性の原理consistency principle)だ。つまり何の考えもこだわりも信念も意志も自由もない。ただただ、今までにやってきたことだから今もやるのであり、それが変えられないのである。そこに知能の所産などない。一貫性の原理、ここに書いたような永年の趣味という奇習などを説明するもののようであるが、いや、もっと多数無数の行動を説明できる。

行動に説明を求めるとほとんどの奴がトートロジーしか喋れない。それもそのはず、説明など・明白な何かなど・考えある行動など・考えなど、元から無いのである。そこまでそうしてきたからそこでそうしているのでありこれからもそうすることを変えれないのである。ものすごいバカだ。しかしこれが人類だ。そしてしかも、なぜそうしているのかに答えれるような人間なら、初めからそんな所に居ないわな。従って、従ったマニュアル対応人には考えや知能を期待することが不可能である。

人間は人間であることを簡単に止める。それには、バカどもがカン違いしているのと違って、特別にファシズムなど必要ない。人間は人間でないことのほうが好きなのである。