地上最強のブログ

しばいてくぞ

何が好きかじゃなくて何が嫌いかで自己紹介しろ

 

クソ与太話するぐらいなら否定のほうがマシだという話。

 

誰も考えたことがないことだが、「語」(という無意味な分類)の語義はだいたいは否定で考えてみるとわかりやすい。

「bleiben」なら「でなくなることはない」、「mindestens」が「~ならある」、「hätte nicht getan gehabt」が「~してしまったんでね」、「müde」が「もうデキないから」、「絶対(的)比較級」なら 反対に反対してんだから「älter-」が「若くはない〜」で「länger-」が「短くはない〜」。

こんなことぐらいなら分かるだろうが、もっともっと広範に何でもかんでもそう考えてしまうのである。極端に言えば、Meerを陸ジャナイ所、Landを海ジャナイ所、と定義していくということにもなるし、それはそれで別にいいのだが、そこまではいかなくとも、理解上の便宜でこういうことをしてみようということだ。

試してみよう:

Die Probleme, vor welche ich gestellt bin, scheinen mir von so radikaler Wichtigkeit, daß ich beinahe jedes Jahr ein Paar Mal mich zu der Einbildung verstieg, daß die geistigen Menschen, denen ich diese Probleme sichtbar machte, darüber ihre eigene Arbeit bei Seite legen müßten, um sich einstweilen ganz meinen Angelegenheiten zu widmen. Das, was dann jedes Mal statt dessen geschah, war in so komischer und unheimlicher Weise das Gegentheil davon, was ich erwartet hatte, daß ich alter Menschenkenner mich meiner selbst schämen lernte <und> immer von Neuem wieder aus der Anfänger-Lehre umzulehren hatte — daß die Menschen ihre Gewohnheiten hunderttausend Mal wichtiger nehmen als selbst — ihren Vortheil…

(Nietzsche, 1886,5[21])

 

(俺が考えてることはハンパじゃないからな、こう言いたくなるのも稀ではないぞ:これのことを本来考えないで済まないはずの奴らが何食わぬツラで平然て生きてられるのは、全然考えもしないでひたすら逃避しているからだ。げに、本来考えていないといけないことを、ヒトというサルは、ゼッタイに考えようとしない。まともな者が、絶えておらん。だから、もう、こっちのほうがマチガっているのではないのかと疑っていたぐらいだ。しかし人類猿はあいも変わらず、比較を絶してクソどうでもいいことに必死になって、真のモンダイを無視し続ける。)

忘れんうちに先に註しておくと、

チューしようぜ!

チューしようぜ!

文中に「was … dass …」というのがあるが、こういう「疑問詞+dass」という構文は、「what 〇〇 think is …」みたいなもので、「〇〇がXXするところの□□」という挿入表現、dass~トイウ風ニナルト私ガ思ッテイタトコロノ事を意味する構文であるが、ただ、(それならおもしろかったのだが、)ここではそういう構文になってはいない。そうではなく、ただのso … dass …構文。

さて原文を考える上で、訳文に見るように、平叙を否定に反転してみると、わかりやすくなる。全体に接続法第II式的表現なのだからなおさら反転が意味を成してしまう文章なのではあるが、そういうものでない場合にも、表現は反転さしてみたほうがいい。ヨリ理解につながる。いつもの:

Was soll nicht alles Meine Sache sein! Vor allem die gute Sache, dann die Sache Gottes, die Sache der Menschheit, der Wahrheit, der Freiheit, der Humanität, der Gerechtigkeit; ferner die Sache Meines Volkes, Meines Fürsten, Meines Vaterlandes; endlich gar die Sache des Geistes und tausend andere Sachen. Nur Meine Sache soll niemals Meine Sache sein. »Pfui über den Egoisten, der nur an sich denkt!«

Max Stirner: Der Einzige und sein Eigentum

 

(自分に関係していいとされることは、自分に関係のないことだけだ。社会のルール、政経おクニ日中韓、グローバル()どーのこーの、アホの「グローバル」、バカの「グローバル」、笑止高齢、挙げ句には、何を思っていいかのコンプラまで規制規制。なんかやったらbanされる。しかし俺のことは俺のことでしかない。誰も俺の人生は生きない。そして 自分の人生を生きる自分マンは、社会から村八分にされる。)

注しておくと、「Was … alles」がwasの複数形、そこにおる「nicht」は意味がない中身ゼロの否定辞。

 

さて、否定という話をしているのだが、否定と言えば、文章論を離れて、否定すること自体は、中身ゼロの無意味行為である。否定してそれで(sondern)ナニが言えるのかを提示しないと、何にもならない。いくら否定をして文句をぬかして罵倒して中傷して、書き込んでるバカが知ったふうな口をきくバカ書き込みをしても、否定しているだけなのなら、ゼロにゼロをかけゼロを足しゼロを引いているだけにすぎない。その言葉がどれだけ傷つけるものであっても、気にしなくてよい。無は無にすぎない。否定の上で、その上で じゃあ自分なら何を言えるのか・何が出せるのか・何を加えれるのか・何をしたのだろうかという実のある実物を提示しないと、意味がない。ゼロがゼロであり続けるだけだ。それも、相手がやろうとしなかったことをあげつらい引っぱり出してきてコウスレバヨカッタノニ話を決してしないこと!!!そういうことをホザき出すアホのカスのヒトモドキのクズは、否定だけする奴よりなお悪質だ。その可能性は採られなかったところの、考えた末選ばれはしなかったところの事をウジウジぐちゃぐちゃどないこない言う奴は、一切何をも理解していないクズのゴミだ。そうではなく、相手を否定したのなら、自分という特定一個人一身がそれでは何を提示できるのかということを言わなければならない。自分ならこうしたと、自分の顔も名前も出して言う。その責任が負えるのなら、何を言ってもいいだろう。いくら否定してもいいだろう。ゼロでしかない否定のその先の実数・実話・実のある話がちゃんとあるのだから、ゼロがゼロでなくなり始めれているのだから。そしてそういうことが出来ないのなら、ダンコ黙れ。ゼッタイ喋るな。書き込むな。世にばくぜんと「アンチ」と呼ばれてるカスどもは、こういう否定しかできないヒトモドキのアホどもである。

ということで否定自体は絶対にゼロなのでもない。否定にも効用があるっちゃある。そういう話。

 

の116頁にも書いてある(というか引用してある)が、自分はこんな人ですぅと述べる時には自分はこんなん好きですぅという慣習になっている。アホどもがお花畑を咲かせ合うちゅうこっちゃ。

友達の友達はクソなものだが、友達の好きなものもこっちにはクソどうでもいいものだものだ。まして赤の他人 アホのボンクラ あそこの毛の趣味や好みなど 知ったこっちゃあるかボケ。

それがこちらと共通したとしも、虚しい。おうおうにして、「同」じ「好」きなものと言って同じものはからっきし見ていない。おう!!!「映画」が「好」きなどと言って、こっちと相手で観てきたものもジャンルも一致することがまず全然ゼッタイ無い。こっちもあっちも映画好きなのに、ぜんっぜん話が合わない。必ずそうなる。一事が万事そうだ。ちょっと行ったことない山の話されると、登山が共通の趣味である意味など無くなる。iPhone 12と言ってPro Max買ってる自分はmini買ってる阿呆と話すことなど何も無い。いや同一物所有しても、用途がまるで違う。そのモノに認める価値とそのモノの認め方がまったく違う。なんで他人ゆうのはこんなに阿呆なんだろう

つまり何が好きですかにが好きですゆうてるのは、放言し合ってる阿呆が乗り合わせた阿呆船のあーでもこーでも放言会風景でしかなく、意味のない与太話に花咲き頭沸くばかりなのである。その平和平和したボケかましたほんわ~空気では、ほんわ~がほんわ~してほんわ~するだけで、なんにもかんにも出て来ない。

少なくとも何かしらヒートしているほうがよっぽどかいい体験になり最低限体験にはなる。好きです好きです言ってるだけでは誰もヒートしない。むしろ否定していこう。嫌いなものを挙げていこう。攻撃をすればヒートをしていく。文句を言ってるほうが人は聞く。文句をこそ聞きたい。悪口や愚痴こそ聞きたいのであって、何がイイかなんて お前から聞きたくもない。逆にお前が何かを罵ると、お前がの人間がありありとこちらに伝わる。否定する自分のほうが自分をよくよく語る。

そんなんはおかしい・文句はダメだよと思った者は、別に文句がダメなのではなくて、逆だよバカ問題を理解しろ。何が逆かと言うと、肯定する場面と否定する場面がだ。どいつもこいつも、匿名では、エラそうにトウトウと人を否定し嫌いを吐き文句を連ねてくさる。自分を出さなくていいところでは、堂々と否定的になりよる。一方自分を出さなくてはいけなくて名札も顔も見えているところでは、波風立てず嫌われず安全にしておきたいと 安直無難にも好き好き好き好き話しかしない。何かがイイです好きですと言っている限りでは、誰も怒らせず、責められず、責めを負わず、責任を免除され、【自分】というものの責任から逃げてられる:平和♡ アホウ!!!!!!!そこでこそ、自分を出す責任を負えというものだ。他ならぬ自分を紹介する場面でこそ、自分を最もありありクッキリさせる否定表現・辛辣批判・舌鋒非難・他人攻撃をしてみろというものだ。そうしてたら、誰もお前の言うことを聞く気になる、中身があるんだから。かたや、誰でもなく何も問われずに済む匿名の場でこそ、人を誉めてイイことを書け。何が好きで何がイイかを語れ。何の何が何長所かを滔々と述べろ。ひたすら馴れ合え。祭り上げろ。功績を功績として何回でも確認しろ。表彰しろ。お気に入りつけろ。しかるに、現実は、この逆になっている。