alle hat er nöthig, um als Organism selber zu leben, es sind Lebensbedingungen!
Aber wir sind lange Mißgestalten, und dem entspricht das viel größere Mißbehagen der frei werdenden Individuen — im Vergleich zur älteren abhängigen Stufe und das massenhafte Zugrundegehen.
(Nietzsche, 1881,11[182])
(「個」というものになっているヒトの生体行動・行動戦略として、外部に対して防衛反応を取るというのがあって、他の存在に対して侵略拡張政策を行うというのがあって、甘言を弄して取り込むといった権謀術数というのがあって、溜め込んだものを発信し垂れ流すアウトプットというものがあって、自分以外のものを承認するということ・自分が他に属してしまうというのがあって、或いは自分の後を継がせるという戦略があって、等々であるが、勘違いが多いが 個体のこういった行動は生まれつき備わっているものではなくて獲得性質であるにすぎない。「個」体になるのであって、始めから個体である人間など居ない。ヒトの生まれつきの状態は「個」ではなくて大個体大組織大社会のいち部「分」である。その社会のほうにまた先述の生体戦略があって、おまえという一人間はそれのための手足にすぎず細胞にすぎない。人類史の99%を占める時間をかけて、そうなったのである。社会というでっかい個体の細胞になって、その社会個体として、宇宙万物のありとしあらゆるものを知覚する、そういう生き物なのである、おまえは。何よりもまずもって!!おまえがお前個人として何かを感じることなどない。社会のほうの相手方しか見えず、自分の相手・自分にとっての敵・特に自分にとっての誰かというものなど、見えない。その社会個体に資することになるのなら、身を投げ出しチンされけ出し三枚にでも下ろされて見せること周知のごとく、 戦争従軍。ヒト生物は自分として生長し成長することはなく、でっかい個体の機能としてそうするだけだ。それがすべてのすべて。そこにまつろわぬ者は、抹殺し弾圧するのみ。集団は個人の足を引っ張るだけだ。おまえは何が何でもおまえではなくてナニカの一部にすぎない。生物としてしからしてが、そうだ。おまえ生物とその行動は、個体としてのそれではなくて、何が何でも、集団-個体の一部一手足としてのそれである、これに尽きる。だから、社会の構成「員」など無い。そんな確固たる「個」体など、「員」など「人」など、無い。個人が個人らしかったり〇〇長だったり何かしら特別であったりする時には、個人だからそうなのではなくて、生体に重要特別器官があるごとくそうであるのにすぎない。心筋と爪キチン質の関係程度にすぎない。そもそも個v.s.国という構造もない。個など存在していないのだから。それは、存在させさせていただいている畜群のなかの1匹にすぎない。自分がナニをするのかナニをしたいのかの体系は、自分でカンガえて獲得するものではない。それはお前のものではない。お前はこう欲望せえよと社会から授け押しつけられただけなのである。自分で得たものなど、無い。人類の原初状態などというならそういうものが原初状態だ。全体の部分。組織の奴隷。お前じゃなく、社会が生きるのである。まちがうなよ。お前がスルのではなくて、組織がスルのである。残念だったな。生き考えるのは、でっかい個体。個々の「ひと」様ボケ様アホ様どもではない。しかるに、その大個体のほうが落ち目になり出せば、構成物たちは矛盾の中に放り出される。社会が瓦解すれば、その社会のなかでのみ意味のあったもろもろものやり方や生き方が行先を失ってしまう。そこでこそ機能していた畜群1匹1匹は、そこから外れると、機能しなくなり、すごく困ることになる。成り立っていた大個体の中でのみ役に立っていたプロパティを背負わされて、それを自分用に編集しなければならないことになり、それを自分一個体の生存用に造り変えることになり、経験を再マッピングすることになる。
そんな頼りない「個」体がうまくいくことなどなく普通はすぐに死滅する。そういう大個体崩壊という時代も人類にはあった。個々人が個人に成り出し自分を持ち出す時代だ。しかし得ているモノ持っているモノはあくまで畜群用なのだから、一人でそれを背負うとなると、ふつうは重量超過だ。社会の機能など個体には重すぎて、個体を死ぬまで膨張させるだけ。こりゃ参った。そういったなかで、次々死滅していく個体を救済する方法を模索するのだが、結局どうなっていくのかというと、かつて大個体の中に居たときのように生きるしかないやろと愚考させさせていただくのである。結局、でっかい全体の一部であることしかできない。仮想的にでも、元の木阿弥に戻るしかない。これで実際大多数が保存されることになったのだから、しゃーないもんだ。そして、もうこうなったら、大個体が不死だということにしておいたらいいだろう。こいつはずっと生きてんだから、そっから外れるほうが間違っている。個体が個体に成ったときにうまくいかなかったのは、「個」であるのがマチガっているからだ。そう、愚考しよう。しとこう。仮想でも集団個体が唯一大正義だ。大正義に反するけしからん者もいくらでも居る。そういう者の中では、畜群用・集団用の自分など、個としての自分をコロして来るものでしかない。厄介かも知れない。が、結局それも必要なのである。成立している個人であっても、社会性をまったく剥奪してしまうと、死んでしまうのである。とはいえこんな者など滅多に居ない。ほとんどの人類が、完全に畜人でもなく完全に個人でもなく、完全に個人たれる者の邪魔にしかならないカスである。人類が本質的には何であるにしても、どんな歴史様を歩んでこられさせていただきらっしゃいたてまつりましたのだろうと、どうでもいい。個たりえようとしている者の価値に比べたら、クソどうでもいい。足引っぱらんとってくれ。)
というふうに、ヒト人類が群棲動物であること、群れのただただ1匹であることがその現存在な存在本汁すべてを成すのであること、これを念を押して確認している。それがイイとか悪いとかそこから何かを超克するとか射精するとか言っているのではない。《家畜のようなあわれな大衆と彼らとはやっていけない孤高のぼくちゃん》の夢想に夢精している小二病(小学生に失礼)な10台~90台のアホどもをヨロコばせることをしてくれる人ではまったくない。そう捉えてきた本邦の受容史すべてが間違い。
最後の「viel größer[]」あたりで群衆の邸能さにイラッと来ているところが出てしまってはいるが、そうは言っても、全体の筆致はナチュラリストなそれである。ナチュナチュ。イイもワルイもくそもない。人類の個体が事実として個体群の股肱であり股間でありその部分としてのみ生存し機能しそこから外れてしまうと窒息してしまうような奴らなのである。我ありじゃなく我々ありで「みんな」あり、そんな他属存在にして隷属栄養生物なのである。

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