地上最強のブログ

しばいてくぞ

『曙光』の頃のニーチェ ~1881年の断片~ (2)

 

前回の記事から

んも見ず何のドイツ語読解力も無いボケどもとそのあわれなる読者には一生思いもつかず触れもしない、マジのホンモノのニーチェである。

例えば、知覚に次いで運動の無意識過程について述べた文章:

命は美しい(Type-B)(DVD付)

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Das was einer zweckbewußten Handlung vorhergeht, im Bewußtsein z.B. das Bild des Kauens dem Kauen, ist gänzlich unbestimmt: und wenn ich es wissenschaftlich genauer mache, so ist dies auf die Handlung selber ohne Einfluß. Eine Unzahl von einzelnen Bewegungen werden vollzogen, von denen wir vorher gar nichts wissen, und die Klugheit der Zunge z.B. ist viel größer als die Klugheit unseres Bewußtseins überhaupt. Ich leugne, daß diese Bewegungen durch unseren Willen hervorgebracht werden; sie spielen sich ab, und bleiben uns unbekannt — auch ihren Prozeß vermögen wir nur im Symbolen (des Tastsinns Hörens Sehens von Farben) und in einzelnen Stücken und Momenten zu fassen — sein Wesen, eben so wie der fortdauernde Verlauf bleiben uns fremd. Vielleicht stellt die Phantasie dem wirklichen Verlaufe und Wesen etwas entgegen, eine Erdichtung, die wir gewohnt sind als das Wesen zu nehmen.

(Nietzsche, 1881,11[12])

 

(イメージがあってそれから身体が運動するのだろうか。噛む前には咀嚼「イメージ」でもあるってのか?仮にそんなものを精確に記述できたとしても、運動自体には何の関りも持たない。歩くとか手挙げるとか漠然と1掴みで言ってるどんな1運動も無数の個々の動きの総合総体である。噛む1つ取ってもそうだが数々の器官の無数の微細な運動の総体が1個の噛ムに成るわけである。『範馬刃牙』のマウス登場直前の小話思い出せ。そんな微細部分1個1個の事知ってて意識してる者など、どこにも其処にも居ない。それでも、体はそんなん全部できる。ええか、噛み噛みしてるお口のほうが噛み噛みしてるお前よりずっとエラくずっとスゴいねん。そんなお前の噛みイメージ噛み意図なんぞのごときチンケな小物がだ、こんなお口の噛み運動のごとき巨大な機構をだぞ、引き起こすわけがないだろ。それはお前から完全に独立している。ましてその運動の1部分すらも、ようわかっとらん。運動全体の小々々々断片数切れをなんとか感じて見て聞いてなんとかどないか固定同定できて名指しているだけに過ぎない。ゆうたら、運動とは何なのかも分からんのであったら、運動の間起きてることも到底到底ほとんどなんも判らんのである。それはこんなのだ!って妄想迷妄することしかせいぜい出来とらんのである。そんなん虚妄。認知は虚妄でしかやっていけない。)

という風に、運動は、運動者のものではない。少なくとも、「のもの」ではない。意識ごときが所有するものではない。従って意識が何を思おうが為そうが思い為そうが、一人で勝手にウレシがってるだけのことであって、身体に何か作用できることなどない。こういう理解が、例の、リベット実験(と準備電位)の知見の先取りを思わせる諸考察の元になっている。しかしそれには実験をしたのではない。何をしたのかと言うと、よく考えたのであろうし、よく観察したのであろう。噛んでいる間に舌・前舌・口蓋垂・臼歯・4番・6番・切歯・口蓋・咽喉等々々々の数々の諸器官が関与してるよな、これら1個1個々々々々々が万差億別のあれやこれやの動きしてるよな、と観察したのであろう。そして心中のBildやWille1個は1個なのだから1器官の1微細運動にしか相当しない。一体心中のイメージ1個~数個が何万何億の動きにどうやって対応すんだ。彼我で大きさが違いすぎる。よって心中過程が身体過程を引き起こすわけがないしこれに直接関与などできるわけがない。… こう、観察したのだろう、本来誰にでも出来るように。

キュン(通常盤)

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そしてこんなことを考えてこんなことを日々綴っている人なのなら、意味不明な超人思想形而上学道徳生理学者なんかよりずっと面白く馴染めれて興味深く親しめるものである。この人は、日本語で読めるこの人の文とこの人に関する本がこぞって語ってホザき描いてしまっているような、つまらん説教師では全くない。そんな文系バカでは、まったく金輪際ない。

もっと見てみよう。断片1881,11[113]:

Eine Bewegung tritt ein 1) durch einen direkten Reiz z.B. beim Frosch, dem man die Großhirnhemisphäre ausgeschnitten hat und dem das Automatische fehlt 2) durch Vorstellung der Bewegung, durch das Bild des Vorgangs in uns. Dies ist ein höchst oberflächliches Bild — was weiß der Mensch vom Kauen, wenn er das Kauen sich vorstellt! — aber unzählige Male ist dem durch Reiz hervorgebrachten Vorgange das Bild des Vorgangs in Auge und Gehirn gefolgt und schließlich ist ein Band da, so fest, daß der umgedrehte Prozeß eintritt: sobald jenes Bild entsteht, entsteht die entsprechende Bewegung, das Bild dient als auslösender Reiz.

Damit ein Reiz wirklich auslösend wirkt, muß er stärker sein als der Gegenreiz, der immer auch da ist z.B. die Lust der Ruhe der Trägheit muß aufgehoben werden. So wirkt das Bild eines Vorgangs nicht immer als auslösender Reiz, weil ein wirklicher Gegenreiz da ist, der stärker ist. Wir reden da von „Wollen-und-nicht-können“ — der Gegenreiz ist häufig nicht in unserem Bewußtsein, wir merken aber eine widerstrebende Kraft, die dem Reiz des Bildes und sei es noch so deutlich die Kraft entzieht. Es ist ein Kampf da,

次回の記事に続く

 

『曙光』の頃のニーチェ ~1881年の断片~ (1)

この記事までに何10記事で見てきたように、現在これが

ニーチェ」「思想」だと思われているものは完全に誤りであり、本当にこの人が重要視していたものとは何の関係もない。お前たちの日本人「ニーチェ」は、19世紀の欧州に居たあの人とは一切まったく何の関係もない。

だから言っておくがこの人に関するいかなる日本語の本を読んでも、この人の実像とこの人が考えていたことは全然まったく分からない。それは、一部には、紹介者研究者論者たちがドイツ語を読めない(←ほんまやで)からでもであるし、また、そもそもとして人間が自分が見たいものしか見ないバカ生物だからでもある。アホは信念を信じ続ける。

このことは繰り返し強調して強調してしてもし足りない。してしてうるせえよ。

この人に関しては、例の悪質な誤情報もとい名誉棄損の中傷がいまだに出回っているものだが、そこからしても、人類がこの人に関していかに無知か、と言うかこの人の書いたものやこの人に関する記録をいかにふっつーに虚心坦懐に読んでいないか読もうとしないか、いかに、厳然と現前している情報を受け容れようとしないかが判るばかりである。

そういうことを質して糾して正して行くのもこのブログの使命(いやちゃうよ、アイドル鑑賞ブログやで)である。

上掲記事でも見て来ているようにこの人は現代21世紀科学の感覚の持ち主である。ふつうニーチェと言えば《大体〇〇というようなことを言っていた人》と思い込まれていて、『超訳』のような悪質な歪曲本が出ては誤解が定着してきてしまったものだが、この人は、お前らの思ってるようなしょうもないことを述べていたのではさらさらない。

今さらさら【Type-B】

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(それは元アイドルや)

例えばこんな断片を見てみよう:

Wir hören wenig und unsicher, wenn wir eine Sprache nicht verstehen, die um uns gesprochen wird. Ebenso bei einer Musik, die uns fremd ist, wie die chinesische. Das Guthören ist also wohl ein fortwährendes Errathen und Ausfüllen der wenig wirklich wahrgenommenen Empfindungen. Verstehen ist ein erstaunlich schnelles entgegenkommendes Phantasiren und Schließen: aus zwei Worten errathen wir den Satz (beim Lesen): aus einem Vokal und 2 Consonanten ein Wort beim Hören, ja viele Worte hören wir nicht, denken sie aber als gehört. — Was wirklich geschehen ist, ist nach unserem Augenschein schwer zu sagen; — denn wir haben fortwährend dabei gedichtet und geschlossen. Ich habe öfter beim Sprechen mit Personen ihren Gesichtsausdruck so deutlich vor mir, wie ihn meine Augen nicht wahrnehmen können: es ist eine Fiktion zu ihren Worten, die Auslegung in Gebärden des Gesichts.

Ich vermuthe, daß wir nur sehen, was wir kennen; unser Auge ist in der Handhabung zahlloser Formen fortwährend in Übung: — der größte Theil des Bildes ist nicht Sinneneindruck, sondern Phantasie-Erzeugniß. Es werden nur kleine Anlässe und Motive aus den Sinnen genommen und dies wird dann ausgedichtet. Die Phantasie ist an Stelle des „Unbewußten“ zu setzen: es sind nicht unbewußte Schlüsse als vielmehr hingeworfene Möglichkeiten, welche die Phantasie giebt (wenn z.B. Sousreliefs in Reliefs für den Betrachter umschlagen).

Unsere „Außenwelt“ ist ein Phantasie-Produkt, wobei frühere Phantasien als gewohnte eingeübte Thätigkeiten wieder zum Bau verwendet werden. Die Farben, die Töne sind Phantasien, sie entsprechen gar nicht exakt dem mechanischen wirklichen Vorgang, sondern unserem individuellen Zustande. — —

(Nietzsche, 1881,11[13])

 

ウッホウッホホ

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(例えば外語などを聞いているとひたすら無意味な音声が聞こえて来るだけだが、言語に限らず、普段聴かんジャンルの楽曲なんかもそうだ。聴覚がなんぼ情報としての音声をぜんぶ捉えてくれてても、そこに意味を聞き取れるかどうかは別の話だ。と言うか情報としての音声なんて量が多すぎてほとんど意識には入って来ない。理解するのは聴覚情報のごく一部である。そしてその一部から全体の意味を勝手に推し量る。聞(聴)くというのは聞(聴)くということではなくて推量である。いや推量どころか創作と言ってもいい。ふつうさ、何語も何語も有る1文のうちよ、しょうみ2語ぐらいしか「読」んではないだろ?同じく、人が発した音声の内「聞」いたと言えるものは2~3音素でしかない。それで語全体を「聞」くのである。いや文全体すら「聞」くのである。ってか聞いたことにするのである。むしろそれが「聞」くことなのである、ほぼ全部を聞(聴)きはしないということが。そんな時に起きている情報処理過程なんてのは、お前ごとき人類ごときがアタマ絞っても解かるものでない。気が付いたら情報処理が終わっていて創作理解が出来上がっているのである。視覚体験も同様。はっきり言って、会話相手の顔を現にそのもの「見」ている者など居ない。喋っとる内容から《いまこんな表情》と勝手に創作して勝手にそんな表情を「見」てしまっているのである。つまりやな、ヒトには、知っているものだけしか見えないのである。見るというのは、視覚が捉えた無数の情報を何らかの知ってる形に加工することである。そんなもん「見」てなどはいない。創ってるのであり、創ろうとしているのである、絶えず。「実際」「に」「何が」「見」えていたかなんて話など無い。何を創ったか・何を見たことにしたか・何をそこに知っていたか、である。これが無意識過程だ!!そこでは、外界がどんな風になってるのかいなと素直にまさぐっているのではなくて、こんな風になっとんねんと素直に決め付けているのである。それはもう外「界」とも言えない、造ったものなのだから。知ってる世界から知ってる世界を造っただけ、そんな「世界」とも言わん。知覚内容が外界を写すことなど無いし、外界からの情報処理に逐一照応することも無い。自分のその時々の状態で千差万別。これこれをそう見て聞いていると言うよりは、そう見えてしまって聞こえてしまっているということである。)

これがニーチェの文章だと知っていたか?想像だにしてたか?名前隠して出されたら誰の書いたものか分かったか?

しかし、こんなことを書いていた人なのである。これがこの人の関心なのである。こんな面白い話をしている人なのである。意味不明な啖呵を切って見得を張っていた(ことにされている)意味不明な世界苦悩家にして思想冒険家ではないのである。そんなクソくだらんもんではない。《ニーチェと科学》だの「生理学」だの知ったツラでホザきながらこの人のナマの思想ナマの著述をな

次回の記事に続く

 

涙サプライズ!【劇場盤】

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「おもしろい」わけではないぞ

 

前回の記事から

の続きだが、そんなことはどうでもいいとしてここでも言ったようにグループ屈指(と決める)の歌声の太田夢莉の話であるが、Queentetのつべ公式なら聴き放題な訳だが、それにしてもこの大声ダイヤモンドの歌い出しソロ、掛け値なしに最高で、これはもう、酔う程エエ小田えりなや或いは横山結衣なんかと聴き比べても遜しょくなく…

本ブログに戻るが、

  • 上の文章の中に「ノートPCなんぞはどだい《子供のオモチャ》に過ぎない」と書いてあるが、こういう書き方、よく見かけるだろう。自分などは、引用たる引用をする時にこそ「 」を使うものの、他に、【実際にあった文言を引き写しているワケではないがまあこんな言い回しだってあるのだろう】というような含みを込めるときにこうやって《 》とうい引用符に括ったりしている。だから、引用なのではない。今の【 】だって同じで、引用なのではない。しかし、引用符っぽいものに入って、あたかも一般的に言われている文言であるかのように見えてしまっている。読み飛ばしている者にならなおさらそう見えるだろうし、そもそもどうせ明確な意識をもっての引用符の使い分けなんてどいつもしとらんのだし出来んのだし知らんのだし、読む者がまたそれを分かって読んでいるのだから、なおさらケジメなどだらしなくなっているだけだ。それでも、明確な意識がなくても、このように、【本当はどこかで言われていることではなくて自分の文言であるのにあたかも一般性があるかのように見せかけたい】というときには引用符もどきのモノに入れよるものである。そうして、文言の自己責任(←ゲロ糞キショい語だから意味をまちがって使ってやろう)を軽くしようとしやがる:コノヨウニ言ワレテイル(可能性ダッテアル)モノナノデスカラ…。ひどい奴だと、明確な意識がないことを逆手に取って(でもなく、本当に引用符の使い分けが出来ないアホなものだから)、文面の引き写しでも何でもないのに「 」に入れるようなボケもおる。そうやって、それが世間で言われている事であるかのように思いこませてきよる。「 」始め引用符使うことが多い奴は、こういう思い込ませをしたがっている。そういう下心で引用符を使ってやがる。決シテ私1人ガ言ッテイルコトデハナクテ世ノ中デコノヨウニ言ワレテイルノデスカラ…とか何とかエクスキューズ付けたいわけだ。こんなんは、日常の会話シーンでよく居るカスのゴミ、隣で聞いてる第3者にすぐ同意を求め出すメメしいカマ臭いゴミのカスを思い出せばよい。「みんな」に訴えるのが大好きなクズ。ええかコラ、少なくとも、てめえが語ってる積りなのなら、てめえの拳でてめえの自己責任でてめえ自身の言葉を吐いているつもりなのなら、引用符に逃げんな
  • 本当に面白がってて面白がっている者など滅多に居ない。相手に面と向かって怒りを表現できなかったり・直截的に「批判」(という語の使い方も完全に間違ってるよなアホたち)を書き込めなかったりすると、人間という奴は何をし出すかと言うと、結構多くの場合、溜めこんで堪えるとか根に持って燃えるとかするよりも、笑ったり・オカシそうにしたりし出す。これはいわゆる「ユーモア」文化、チカラない階級が上の階級に抵抗するための手段にしていた涙ぐましい糞行動にも似ているが、弱い奴ほど(必死にガンバって)笑おうとする、悔しいものだから、それしか吐き出す手段が無いものだから。あわれで滑稽で涙ぐましいものだが、そう言って弱い者イジメをしていてもしょうがなく、弱い者分析をするのだが、これと同じ類で、君ッテ面白イネと言ってくれる時には、誉めてくれてるのではなくて、イカられているのであって、おもしれーじゃねえかと言われているのと同じなのである。あんま言わんほうが言いことを漏らしたときに微笑まられてしまうのも全く同じ。笑いとは好ましいものであるかもしれないが同時に醜悪な攻撃手段であることも銘記しておこう。名器つるぺたまん。
  • 欧米のPC/IT系ユーチューバー動画がクソ不愉快なのは、コギレイで装いくっさいところだ。いちいちクソ身綺麗でこましゃくれててコマーシャル臭くて優等生ぶったウソ臭ぷんぷん映像。そんなんは案件やインスタでやっとけボケども。一方日本のPC/IT系ユーチューバー動画の一番いい所が(どんだけ小綺麗に編集したつもりでも)どうにも素人くさくて泥くさくて一般人目線なところだ。しかしこのことは或る程度はユーチューバー動画全体に言える(もちろん例外も大量にあるがそんな話はしてない)。欧米チューバーの動画がどうにも宣伝映像まがいの小ぎれいに整いすぎた嫌味たらしいものに傾く(そんなんはテレビやTikTokでやっとけ)一方、日本チューバーはネット上動画ならではのものをちゃんと提供している。彼我の比較であちらのコンテンツのほうが明確に劣っている、少なくとも、クソ面白くなく、不愉快だ。素人カテゴリー動画なのに素人臭くないというクソ嫌味。はっきり言って、例えばユーチューバーの大元にあるらしいジャッカスやその系統なんかよりも〇ペゼン地球等々のほうがずっとイイ、ずっと格上。この話は勘違いしている者などいない事だろう(というか彼我の誰も他国のチューバーなど見んだけだが)が、間違う奴が出てこないこともないだろうから、このように注記しておく。発祥の地であり本場である欧・米のチューバーの動画のほうが概してネット動画らしくなく、かたや日本のほうはどれもこれも全部ネット動画らしいモノになっている。(例外はなんぼでも有る。わかっとる。いちいち揚げ足取んなボケ。)
  • ざっくり乱暴断言ついでに言っておくと、こういう事は漫画文化に関しても或る程度までは言える。細かい例外など知らんが、大勢の大体を見る漠たる印象で言う限りでは、欧米の漫画はどれもこれも いかにも造って装って余所行きを凝らしていて、見せてやって歌舞いてるのでございというような、わざとらしくて演技臭くて外面的でコマーシャリズムぷんぷんである。造り物クサすぎる。一方日本の漫画はヘンに装ってない。ヘンに装っていても、漫画じゃなくてイラストでやれボケと言いたくなるような装いくっさい絵柄などしていない。アメコミを模しているつもりの漫画でも、アメコミの嫌味な画風ではない。断言する。かかってこい。日本の漫画というのは、具体的で・物を言ってて・「人間味」があって(敢えてこんな言い方をする、文句ぬかすな)・ニュアンスがあって(欧米のには無いと断言する、文句ぬかすな)・描写が細かくて・そもそも描写が有って・手作り風味で・ウソがなくて・内面が有って・多種多様で・とにかくなんかしら生きている。いかにも「描」かれてます的な整えすぎ装いすぎ造り込みすぎ凝らし過ぎのウソ臭さが無い。

 次回の記事に続く

 

ファースト・ラビット

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