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今 君といられること

今 君といられること

  • SKE48(teamK II)
  • 発売日: 2012/09/14
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

この記事で試みている似ているモノ指摘だが←の記事で述べたモノたちはどうだかわからんにしても、この記事収斂進化の観点から述べたように世の似ているモノ指摘の大半が無駄なのかもしれない。また、収斂進化的観点で見る以外にも次のようにも言わなければならない:ヒト種という、極めて限られていて偏っている知覚様式と生産様式と創作様式を有し、且つまた、ついつい既存のモノや他人のモノに類似したかその枠内にあるモノを作ってしまう安易安直に走りがち、そんな生き物が作る文化文物など、是、似ることが多くて当たり前であろう。

実は類似議論や・材源研究や・パクリ指摘等々なども、この記事とその前の記事での考え方で解けるものが多いのかも知れない。それは数字や分布を見直そうというものだ。

人は他人と違うのだから違うことをすると勝手に思い込んでいるが、いや人は他人とアホみたいに似ているのであり、バカみたいに同じようなことを思い付き、呆れるほど同じようなことをするのである。コトは広く文明史から言い出してもいいかもしれない。偶然の一致だがシンクロニシティだかシムシティだかゴッサム清算するだか言う不思議も実は不思議でも何でもない筈である。同じゲノムを有した生体たちだと、その置かれている環境が大体でも似てくると、同じようなことをし出す・同じような労働様式や社会様式や行動様式を生み出す、に決まっているのであって、むしろ各地域各時代で人類が全く異なったことをすることのほうがあり得ないことである。

同じことをしたら不思議なのではなくて違うことをしたら不思議なのである

上で数字や分布を見直そうといいながら具体的な数値など別に一切上げないしそんなんなーも知らんのだが、とにかく、人類の生産や創作に与えられている所与の条件等やそれらに取り組むこの種の「神経(学)的基盤〔neur(ologic)al bases〕」等の組み合わせパターンなり、さらに社会行動上の入出力パターン、といったものの変数をあれこれ捏ね捏ねくり回し分析を出しでもすれば、大多数の人間が同じようなことをするという傾向の非常に有意な分布が得られるはずである。

人は他人と違うのだから違うことをするはずだと勝手に思い込んでいるせいで、作品もまた他人と同じようなものを作るはずがないと無意識の奥底で勝手に仮定してしまっていて、そのせいで、作品が似てくることなどありえずもし似てきたらそれはパクリだ剽窃だ盗作だ2番煎じだと思い込んでしまう。しかし、ここでも、産物が似たり寄ったりしてくるほうが自然なのであろう。

類人猿の1種よりも遺伝的多様性が狭い人類(このページこのページなど参照)、例えばちょっと離れた所に生息しているチンパンジー2個体間の遺伝的距離が例えば日本人個体Tとスウェーデン人個体Rの遺伝的距離よりもデカいという、そんなことが言えるのであろうほどに地上全体で個体差が均一な人類という種、我々がこれであるということをまずは自覚し自認し自知しよう。おそらくだが、平均的な生物からしたら、よく似た犬猿猫雉熊鰐2個体の顔の区別が付かんよりももっと「日本人顔」と金髪碧眼白皙北欧人の区別が付かないのであろう。紡錘状回顔領域ナメんな。(そうすると、列島人と半島人との顔の比較(ができていると信じ込んで)に必死になっているヒトモドキ、こいつらがいかにアホでマヌケかよくよく理解できるものである。)あともう1コ言っておくと、この記事最下段あたりにも書いて参照ページのリンクも貼ったことだが、遺伝子多様性はアフリカという1大陸上の人々>>>それ以外の全人類である。

こうなってくると、例えば20世紀の日本人作〇家Xと19世紀の欧米人作〇家Yなりであっても、その生体としての差異など、もう無いにも等しいぐらい無いに近い。ヒト的にはほぼ同一人物だ。似たようなことしたとしても、当たり前だとしか言えない。脳からしてが似すぎとんねん!!しかも文化コードを共有しているのである。どうなってくるか、想像に難くないな。

人類とはトテツもなく似たり寄ったりで同じような連中なのである。示し合わしもせずに異地域・異時代・異社会間で似たような形式や物品や記号が生じたとしてもそれは当たり前すぎるぐらい当たり前のことなのであり、まして生息環境や言語や文化を共有するとなってくると、同じようなことや似たことをしないほうが無理なのである。

そんなに①均質で均等で一辺倒な個体たちにとって/②美的体験上という文脈で/③心地よく快をもたらすところの/④特定の色や音や字の配列を/⑤(言語や作曲技法や文体や語法や準拠枠などの)共有同一コードに則って/⑥特定の文化的時代的傾向という制約の下で/⑦特定の仮想受容層に向けて作る、などというほどまでに限られた条件下ともなってくると、似たようなものを作り出すのがこれもう必竟どうしようもなく当たり前なのであろう。

アホは「パクリ」と言い「似」てると言って喜ぶ。冷静になれバカ。冷静に傾向や分布というものを見直してみろ。他人の作品とカブるほうがむしろ当たり前で非常に起きがちでprobableなのではないのか。お前は特殊例を指摘しているのでなくて一般例を確認しているだけなのではないのか。それは本当にパクリなのか。

と言うか、同人活動やコピーもの等に顧慮して言えばパクリたるパクリとは民事的になんか法的に係争になるような何かの〇〇〇権侵害だか云々だかの行為のことだけこれだけを専ら指すのでないとおかしいのだが、そんなことはどうでもいいとして、以上の人類の傾向事実から、似てるものとして問題になりうるのは、ワザと同じことをしたもの、パクる意図と意志を明確に持って剽窃し盗作し流用したもの、これらの意図や意志が(何重にも)立証できるものだけに限られる、としか言えなくなる。それ以外のすべての似ているものは当然なるべくしてなった似てしまったものにすぎないことになり、「偶然にも!」似ているのではなくて必然にも近いのであろう確率・妥当性・頻度傾向で似ているのである。

そうなってくると、他人と同じようなものを創ってしまう心配とか、他の作品と同じだという問題意識などが(ほぼ)何もかもすべてナンセンスで間違っていたことになるとすら言えてくることにもなる。そんな話はしてもしょうがないししなくていいのである。創作者たち表現者たちは、似てしまう心配などせずに創り続ければいいのである。

今日までのメロディー

今日までのメロディー

  • AKB48
  • 発売日: 2014/05/21
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ちなみに言っておくと、亜流や門弟であること、独創者の祖述者であることや転用者であること、等といったことも、別に悪いことでも何でもない。勘違いが多いが、先行していた者や・創始者である者や・引用元であるものや・枠組みを作った者や・時代を拓いた者や・誰とも違っていたものが常に最高最上の価値があり一番面白いのでは、ぜんっぜん全くない。この記事も読んどいてもらいたいが、イイものはイイのだからその「上」や「先」ならもっとイイはずだと思ってしまうものだが、素朴で初歩的なカン違いである。

事実は概してまるで逆である。そのオリジナリティやオーソリティに皆人が平伏させられる者、ときに自分の先行権や著作権を主張し起訴までする者、こういう者の当該作品って、だいたいクソおもろないクズであること多いよな。誰のことかは心当たりあるはずだ。

ここに来てまた1つの【逆だよバカ】問題を提起することになる。表現者として発信し生きている人々は他人と同じモノを出してしまっても別に気にしなくていい。他人と違う生き方をしている時点ですでに十分「違」っているのだから、その産物作品文体パフォーマンスまで差異化に狂奔しなくていい。他人と似てしまっても、それはそいつと生物的同一種たる者の宿命にすぎない。いやそれどころか、意図的に似さしても転用してもいいだろう。なんぼでも引用してパロディーして尻馬に乗っかってしたらいいのである。面白けりゃそれでよく、法的に抵触することでないならそれでええのである(それが、表現の自由の保障された治国家の意味だ)。亜流だろうと変種だろうと何番煎じだろうとカバーだろうと、要するにおもしろいほうが勝ちなのである。(もちろん倫理面道義面クリアしてのことは勿論だいちいち言わすなボケ)。表現の世界で一番乗りや私有地や独占権を主張するほどのアホは無い。むしろ徹底的なオープンソースと共有性と公共性と既存性の中でどれだけ抜きんじてオモシロイか、それが表現の世界での本来の勝負だ。「創造」とか「独創」とかいったものはそれこそ単なる確率的偶然の産物にすぎず特に値打ちもなく、アホが虚妄する「天才」の「業績」に過ぎないのであって、しかも天才とは独創的な者という意味では別にない。アホはすべてを間違え、すべてを逆にする。

そう、似てしまったり同じであってしまったりすることに警戒する必要があり批判も必要であるのは、特別な生き方をしていない大衆大量衆の側、我々の側である。我々はただでさえ他人とおなじような奴という有害極まりない生き物であり、この上行動も生活も活動も投票も受容も他人と同じであってしまったら、大量衆のものすごい力で世界をどんどん均一のっぺらぼうにしてしまう。そして今やなっている。

(世界と人間が均一でのっぺらぼうで平板になってしまった事柄など、もうありすぎてありすぎて枚挙にイトマがない(といってその反対もようさん有るぞ)ものだが、頑張って何とか1個だけに絞って例を挙げると、例えば人類はこれまでに誰の想像をも遥かに絶する数の言語を失ってきた。と言うか元々人類は現代からは想像も空想もできないほど多様な言語に囲まれた中で暮らしてきているのである。バイリンガルとは今でもそれだけでは値打ちのない連中だが人類史ではさらにそこらじゅうにありふれた奴だったようだ。こんな状況が現在では広域単一言語国家が何個もできてしまうほどにどんどん均一のっぺらぼうになっている。世界の大言語トップランクを見るとほぼ誰にとっても自分の言語と何の大差も変哲もないしょうもない言語たちである。こんなんが数億人に話され、もっと多種多様で新奇異質な言語たちが年間何十というペースで消失して行っている。

消滅する言語―人類の知的遺産をいかに守るか (中公新書)

消滅する言語―人類の知的遺産をいかに守るか (中公新書)

の256~255ページからの孫引きでこれまでに推定「最大60万」の言語が存在していたのなら、人口が爆発した現代にそれがたった6000前後とはこれ如何というものである。こういった話題に無知な一般の日本土人は、珍しい言語となると、やれ人工言語だとかのクソくだらん話題にウレシそうに沸き立ち興奮する。しかし、我々日本土人が失礼にも「現地民」だとか「原住民」だとか「土着民」だとか呼んでいるあの映像の中の人々が、我々が知っている言語とはかけ離れた規則や特性や構造を有した言語(何千もあるぞ)を話しているのであり、こっちのほうが、アホが胸ときめかせ心はつらつするオカルトまがいのクソ人工言語よりもはるかに面白いし含蓄があるし価値が有るし貴重だし真正である。

ここでも書いたことだが、言論の世界では、言論そのものとは無関係でこれを受容するだけの一般人というのは、常に、罪なき無辜の物言わぬ多数者にしてすべての思想の宛て先であり答えであり究極の善と正義のヨスガで砦であると決めつけられてきてノータッチであってきたが、こんなんは完全に間違っている。こっちの側にも世界と人間と言論と知識に対して存分に責任があるし、文化や芸術や文物や言語や慣習や行政や文明に関することについて別に何も免除されえない。【する事が他人と違ったものであるように気を付けなければならない】という心構えは、何か心構えをして暮らしていないといけないワケではないと思い込まれている人々、ぼっっけー!と暮らしてりゃいいと思われている人々なら考えなくていいことなのではない。そしてそういう心構えは、他人と差別化して差異化してなんぼと思い込まれている人々が留意しなければいけないことなのではない。

事態がまるで逆に理解されているのである。他人との一致や同調や同化や類似に気を付けて生きなければいけないのは、創作者表現者サイドの人々なのではなくて、平々凡々の大多数人のほうなのである。【多様性への責任】は、物言わぬ多数者、一般市民、特性のない男女、表現者や特別な人々を支持と不支持で殺す受容層、ファシズムを成り立たせる層、民主主義を成り立たせる層、ピラミッドの底辺、膨大なフツーの人々、どこにでも居るパンピー、等々々の側にこそある。

フツーに暮らす我々こそ、他人と同じようであってしまってはいけないのである。今までの間違っていた考えを逆にして元に戻そうな。

やらされてるだけです

前回のシリーズでも主に論じたことが【他人と同じことはするな・他人と同じような奴であるな、そんな人間のクズになるな】という命題だったのだが、この長年の問題意識がもう1個の問題意識と不可分であったし別に「もう1個」と別物でもないのだが、そのもう1個というのを言うと:フツーでセイジョーで罪を犯していない人はそうでない逸脱者らより望ましく好ましく社会に健全な存在で一点の疑いもなく善良で市民及第合格で心がキレイで誠実で美しい〇〇人であるということなど別に全然なくて、どんな「世間」「様」に《胸張って》顔向けできるつもりの「立派な」自他称模範的市民村民公民公僕であっても《一皮むければ》(正確な言い方で言うと【状況さえ与えられれば】)どんな悪逆の暴虐に走るか知れたもんでないしなんぼでも走ってきたし、むしろ犯罪史的なんやジェノサイドの歴史的なんやを見ると健常側大勢側大衆側普通側こそがどんな狂人よりも狂ったキチ〇イに化ける実例が見つかるばかりであるが、是如何というものである。オカシイほうよりも、オカシイと非難しているキレイでクリーンで善良で《罪もない》「無辜」らしい連中のほうが悪質なことがなんぼでもあるし、なくてもいくらでもそうなりうるし、世の巨悪や成功者や金持ちに義憤立腹し自分と自分が属している何かだけは完全正義だと信じているヒステリックな生き物のほうがよっぽどか異常者に見えるし危険人物に見える。

こういった話は、勿論、自分が気に食わない人間がいたらすぐこれを浮き立たせてて「特別」側に仕立て上げて「へんなひと」「変わった」人と烙印を押してするという広範普遍的な本能行動なり、侵略者汚職者失政者に精神疾患的なもの等々を見たがろうと必死になる脊髄反射言動のアホさ愚かさ無意味さ無内容さに関する話でもあって、己の我とそれにそぐわない《あの人たち》を設定するアホ(無)思考全般に関する話であるから、臨床的な話や特定の人物の事細かな分析なり特定の病状や病的何かの話に特に関心が有るのではない。が、それにしても、

一流の狂気 : 心の病がリーダーを強くする

一流の狂気 : 心の病がリーダーを強くする

  • 作者: ナシア・ガミー,山岸洋,村井俊哉
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2016/02/29

    題名と中身が違いすぎているぐらい違っている。このクソしょうもなそうなタイトルは、途轍もなく面白い中身をまったく表していない。

という本が、特に斯様な問題意識を扱っているものではないものの強力な支持を与えてくれるものである。この本は、そもそもからして、この記事でも書いたように世の言説や研究に無視されているなと常々思っていた「」をちゃんと査定して位置付けていてしかもこの無視の内実事情も説いてくれている点で稀に見る啓発的なものである。その時点ですでに超良書ではあるのだが、ただ、扱っている人物たちが0.0000000ナノマイクロミクロンも興味ない連中だから手放しで買い得と言いたいほどには評価もできないもので、しかしそうは言うものの、以下のような言い方などはしていないとはいえ以下のような話を強力に支持してくれるような内容である:この世の何事に於いても正常でフツーの精神の人間が好ましいのでは全くなくてこいつらこそがバイアスだらけの一種の病的状態であるということ、精神疾患者はむしろ実はそういった病状(本書との関係で言うなら、現実を正確に認識できない楽観視のバイアス)が取れている部分がある者なのであって(特に危機的時代の)為政者にふさわしい者であるということ、健常側平均側普通側こそが創造性にも現実認知にも共感力にも心の強さにも劣った欠落した問題者側であるということ(そしてこの4つが双極性障害疾患の人だと好成績を示す傾向にある)、そしてこいつらがこの欠陥ゆえの失策や暴走を犯し且つそれを認めようとせずしかも他人と同じように犯し他人も同じように犯すものであるということ・こいつらの悪弊として他人とまったく同じようにふるまうというのがあるということ、こういった話を強力に支持してくれるものである。

さて「一流」も「狂気」「リーダー」もこの本の中の歴史人物たちもクソどうでもいいからこの本の話はもういいのだが、この本が扱っている疾患の人らと例えばがっつり付き合いたいかというとそうでもなかろう(この本もまた述べていること)し実際シンドいそうだ。かと言って健常人もその凡庸さと凡庸な認知欠陥の数々のゆえに付き合うに大変シンドい連中である。

然るにそんな疾患の人々も、軍指揮官や国家元首や運動指導者やといった然るべき居場所にいれば、賞賛されてきたような業績を成し遂げる、ということであるようである。そうでなくてフツーの暮らししてたのなら、おそらく生活に支障をきたす可能性多く、おそらく外来などに掛かっている可能性もあり、おそらく社会人として十全に機能していると言い難いようになっているかも知れない(とはいえ、全然機能していず生活どころか世界全体に支障をきたらしている奴が膨大な数にのぼる一般人・フツー人・健常人の奴らよりはずっとマシだろうが)。そんな、友人ならおそらくダルいのだろう者が偉人として輝くのはそういう位置・状況・立場に就いたからである、そう考えるのも大事であろう。これは、友人ならゲロくそダルい奴らである健常側の凡庸人である「ホモクリット(homoclites)」をなにかしら機能させるにはそういう機能をこいつらが発揮する場所や立場や地位や境遇に放り込んだること、こいつらの機能発揮に関しては実はそういう観点が重要であること、むしろそれしか無いとすら言いたくなるものであること、といった話を思い出させる。

思い出せてよかった

思い出せてよかった

  • STU48
  • 発売日: 2017/11/22
  • メディア: MP3 ダウンロード

例えばこの記事に書い(て参照ページのリンク貼っ)た【A国とB国の臓器提供同意者数がなぜ異なるのかという問題】だが、自分が死んだ後に臓器あげますという人が多いのはそういう「善意」ある人が多いからなのでもなければそもそもこれが「善意」行動だからなのでもなくて提供するように制度上決まっているからであり提供が社会的デフォルトだからである。その反対は酷薄者の国なのではなくてただ国が提供デフォルトを決めていないだけである。善意や好意のゆえとされる行動を取るのはその行動xを取るようにという決まりXがあるだけだからということが往々にしてある。もっと言うと、善意や好意が有ったとすらしても、それはその善意好意yを持つようにという雰囲気Yがあるだけだからかも知れない。

我々はやらされてるだけであることが多く、思っているよりも多いのかも知れない。それは自分の意志(なんてものがあるならな)なのか?そこに居るから・それをやらないとコワいから・そうする立場だから・それしかできないから・ソウスルコトニナッテイルからやっているだけで、そこにその人の人格の責任なんて実は問いようがない(立法司法のフィクション体系物語体系の都合を別にすれば)のかもしれない。

といった問題の中でもアホがすぐウレシがって注目する歴史的社会的大仰な大大大大問題に関しては上のほうでリンク貼った過去記事の中に貼ったリンク先参照ページなど参照したらいいのだが、他愛のないクソ事例なども見てみよう。

A国には、特に勘定時レジなどで、【釣銭を手渡しする】という非常に迷惑で気持ちの悪い風習が有る。やるほうもやられるほうも気持ち悪がっているだけで、百害しかなく一利もない、無意味でひたすら有害な奇習である。考え広めた奴らと従事している奴らの性根と(無)感性、「お」客様には「お」金などは手で手に渡すのが礼儀なのよこれこそが「接」「客」なのよというゲロ気持ちの悪い根性、が見え透き渡った、催反吐性のぬるま湯行動である。釣りなどそこらへんに置いたらいいハナシなのだがそういう訳にもいかず「手と手」(ゲロ!!!)を触れさそうとする。

例えば、万引きを防止するために、万引きするなと客に対して伝えるのでなくて、そうやって客にもっていくのでなくて、買った証明にシールテープ貼るという風にして店側自分たち側に負担をもっていくというやり方が有る。あくまでシール貼ってるだけですよ♡お客様に万引きなんて疑っていませんよ^^ということなのだが、気持ちが悪いにもほどがある。そう、ここは、波風を死んでも立てないように死力を尽くしつつ且つトラブルのトの字で起きたら死ぬという異常生物が住まう国である。ご賞味あれ。

そんな行動を取るこんな生物となると記号操作にも斯かる死力使命が傾注されており、例えば、「訴えたる」と言うと物騒だから「内容証明」などと意味不明をホザき、「怒る」と言うと物騒だから「キレる」などとボカしホザき、「こ〇したい奴」と言うと物騒だから「こまった人」などとトボけホザき、「殺傷」と言うと物騒だから(どれだけ「乱」れていなくても)「射」などと間違えホザき、「大声」と言うと物騒だから(どれだけ「奇」でなくても)「声」などと間違えホザき、その他おまえが思い付いた・思い付かなければならないA国の数々のクソ言語使用、どれもこれも、第三帝国言語・LTIよりも遥かに悪質で全体主義的で社会腐蝕浸潤的で人心荒廃的で、何よりも、気持ちが悪い。

とはいえ、そんな風に言語を使用するようにという強制力が有るから気持ち悪いことをホザくのであって、中立化無性化無調化無難化が大好きな言語だからその話者は無難語で喋るのである。どだい、させられているだけです。シールを貼るのも、相手を気持ち悪がらせようという意図があって貼っているのではなくて、また業務への忠誠心が有るからそうしているのでもなくて、ソウスルコトニナッテイルから貼っているだけなのであり、やがて意地でも貼らないといけなく思い込み出すのであり、元々は無かった業務義務感を勝手に発生させ勝手に内化するのであり、そうして結局客とケンカになるのである。また、釣りを手渡されているほうも気持ち悪ければ手渡しているほうも気持ち悪いからレシートブロックなどともっともっと気持ち悪くなっていくゲロ循環を誰も止めれないのも、そういう慣習があるからであり慣習の力に逆らうことなど誰にも出来ないのである。

A国人は悪意があって気持ち悪いわけではない。実際、近隣のB国では、釣り銭は、正しくも、レジ台に置いてくれるものであり、投げて置いてくれさえするものであり、すがすがしくて真実に「気持ちのいい」接客であり、手に置かれるとよく見えない額面もはっきり見えて確認できるし、手のひら上やレシート上に置かれると財布に入れづらいという迷惑も免れた、そんな完全に正しい行動であるのだが、やってる人が正しい人だからやっているのではなくて、こういう渡し方をする慣習だからそうしているだけなのである多分。しかし慣習等による元強制行動は心も作るもので、A国人にはぬるま湯が正しいものになりそういう規範が内化され感情化すらされるもので、こいつらがB国で釣りを渡されると横柄で接客態度悪いと感じことになる。職務や立場、慣習や風習によって、人は、どんな気持ちの悪いものでも気持ちよく感じるようになり、どんなに正しい清潔な行動でも不愉快に感じるようになる。

例えば、「あやまる」や「謝罪」という、宇宙史上最高最糞に気持ちの悪い価値と慣習が定着すると、これが心の底から大好きにすらなれる。ただ自分があやまるだけなら別にこんな原始人信仰の言霊風習など付き合ってやりもするのだが、問題はあやまられる時で、これは流石に忍耐の限度を越えてキモチが悪い。人間は対立し齟齬し摩擦し合うものなのであってそれは仕方がないのであって人間関係が潤滑しないと地球が砕け散るワケでもないのだから、こちらが気に入らんのならいつまでも怒っていてもらっても全く構わないしずっと悪意なり憎悪なり敵意なりを持っていてもらったらいいのであるが、A国の社会慣習と言語行為デフォルトにより、あやまってこようとする。とかく、すいませんごめんの花見を開きたがる。ああ気持ちが悪い。とはいえこれも必竟こちらを気持ち悪がらせようとしてそうして来るのではなくて、自分が居る社会の強制によってそうしているのである。仕方がない。

気持ち悪い人だから気持ち悪いことをするのではない。後ろの人のために戸が閉まらないように押さえておくという世にも気持ちの悪い是非やめてもらいたい嫌がらせのぬるま湯行動も、やってる者がアホだからやっているのではなくて、ソウスルコトニナッテイルからそうするのである。そんなことをする気持ちの悪いを奴を正当にも打擲するという国に住んでいたら、そんなこと誰もしないのであり、ってゆうか元々誰もしたくはないのである。しかし、慣習は内化される。それは「やさしい」のではなくて気持ちが悪いのであること、それは「レディーファースト」ではなくて双方に迷惑な欺瞞行動の名残なのであること、「お酌」などはア~ンよりももっと気持ちの悪い悪習であること、などを正しく知覚できなくなり、気持ちの悪いほうを選好するようになり信奉するようになる。

そしてそれが「やさし」くて「配慮」「気配り」のある行動だからそうするのではなく、してる者にやさしさや配慮があるわけではなく、こいつらは気など配れない。だから、同じこのこいつらが、歩道で自転車に乗るという、歩行者への過失致傷未遂を24時間はたらくのであり、自転車置き場やレーンを断固無視して歩道や通路に長時間駐輪して歩行者の通行を妨害するのであり、ヒト型人糞の歩く公害どもが呼出煙を吐き散らすのである。ゴミ置き場が掃除されてれば分別する気になり、スラムマンションでは全ゴミがごっちゃになる。誰も、気を配って生きてなどはいない。

慣習や雰囲気や規則が行動を決め、状況や場面が行動を作り、人も作る。道譲る譲らんやぶつかる云々やその他の通行上のいざこざが起きるのは、ほぼ常に、両者が接触せざるを得ないところを通っている時である。横幅5~6人分のガラガラの歩道上で肩が触れることは無いし互いに気を付ける気分にもならない。悪意や意地は隘路が作るという部分がある。そこが狭くなっているから、だから、そのぶつかりかけたそいつが配慮の足りない悪人になる(そして自分もなっている)のであり、触れようがないほど離れて通行できたらいざこざの起きようがなく意地悪の存在しようがなく悪意の有りようがない。

こういう話は、貧困があるから犯罪等々といった、何億番煎じの、誰もが飛び付くみんなが論じる他人とおんなじテーマでなら、いやというほど認知され議論されている事柄である。しかしこういうところの論者も、特に外的設定が行動の内因をも決めるという原則を自覚している上でハナシに取り組んでいるのでもなくて、貧困ガー犯罪ガーという定型思考もとい言語習慣に従って言論しているだけなようである。結局やらされてるだけ。だからなのか、さんざん繰り返された決まりきったありふれた定型の話題に即した話なら無数にあっても、さんざん繰り返された決まりきったありふれた定型の話題ではない話題なり、生活の身近な事柄などの自分自身の現実上のあるある、などに即して考えることができない。結局、おまえはやらされてるだけなのである。てめえのオツムなど無いのである。

 

「情報」の「氾濫」 (2) ~これが背中のトレだ!!~

 

前回の記事から

れのアイソレートなど思い描けもしない。

広背等の背筋群は、関節を動かすという働きをしている。ではない。背中のトレとして注目するべきものは、振りかぶった大げさな腕の動きでもカッコだけは付く鬼のデッドリフトの鬼ぶりでもなくて、の関節の稼働範囲や稼働方向という一見狭小な事柄なのである。と言って内転や伸展といった話をする必要もないし、そんな用語や専門解説をふりまわすだけふりまわしてるだけで じゃあ何をしたらいいのかが分かるのではないような糞ブログを書いてても仕方がない

もちろんを動かすためのものなのだが、重量負荷を加えて肩を動かす際にはが力の起点になる。正確には、肘鉄から上腕三頭筋にかけての腕の裏部分。パットなり何なりのブツを、ここに当てる。このように~その上をもっぱら負荷抵抗の作用点にした上で、関節だけが動くようにして関節のほうは伸び曲がりしないようにすると、の筋肉が関与しなくなる(読んでるだけやのうて今すぐやってみい)。もっかい言うと、(固定した)で/からモノを引っぱることで、余計なものを関与させずにアイソレートさせてを動かし背中を収縮させることができるようになる。

(真の筋肥大主目的ワークアウト、とまでは言わなくても、中級上級編のそれでは、対象筋を極力アイソレートしてなんぼであるから、余計なものを関与させすぎている諸々のコンパウンド種目は固より、背中ならデッドのような余りにも色んなことやりすぎていて物も言えない種目(しかもこれはハムストリングスの種目だ)についてはなるべく述べないようにする。なお、背中の筋群をさかしらに細分類しても実践上は何の意味もなく、今も、背中だ広背だとテキトー無造作に述べておく。それで十分なのである。実践上は極論すれば広背筋の収縮だけ考えて取り組んでりゃそれでええ。そう、お前は、棘上筋が小円筋が菱形筋が下後鋸筋が頸腸肋筋がだのごちゃごちゃゴダゴダぬかしてる前に、本丸の広背筋1本をまずは正確に収縮できるようにだけでもなれ。何なら、それよりも前に、その激しょぼの体を多少はコマシにしてから理屈をやり出せ。アホはクソ知識から入る。参考書積ん読の勉強できない奴と同じ行動パターンだな。)

これが、背中のアイソレートである。方法としてはマシン・プルオーバー(上記リンク先記事参照)が有るのだが、どこのジムにも滅多に置いていない。

しかしまだ述べることがある。

背中の筋肉の本来の稼働は、腕が・弧を描く軌道による、と考える;用語を一切使わないで、実践的な何事も分かりはしない説明をしないで、書いてる自分が満足して納得してるだけで実は自分に喋ってるだけの説明をしないで、コトを可視化して言うとすると、こういう言い方になる。

そしてこれはだからつまり、腕が①下か②前か③上かから負荷を引っぱるという働きでは、実はない背中は別に引っ張るものではない;胸が押すものではないように(ベンチプレスは無駄運動である)。①(ダンベル・バーベル)ベントオーバーローにせよ、②シーテッドロー(というか地面に水平なロウイング)にせよ、③ラットプルダウンやチンニングにせよ、フルの稼働はしていない。ロウイングやチンニングというのは、軌道による関節稼働というフル収縮に対する不完全なマネゴトなのである(大胸におけるプレス系が胸本来の収縮であるベアハッグの不完全なモノマネであるのとまったく同様に)。そっちが一般的なのは、そっちのほうがフリーウェイトではやりやすく、マシンでは製造しやすいからである多分。つまり低コストだから選好されるのである。どいつもラクしようとしとんねん!!よって、腕弧軌道による広背フル収縮という正しい広背種目は、正しくても、一般的にはなりにくいものである。

ということが判ると、背中トレ代表的種目のグリップに関しても、誰も言わない次のような本質的事柄が理解できるようになる:背中は、
ナローグリップだと伸びきりはするが縮みきりはせず、
ワイドグリップだと縮みきりはするが伸びきりはしない。
どちらも片手落ちなのであり、の軌道がナロー→ナロー/ワイド→ワイドと直線である限りは、何をどうがんばったところで、片手落ちのままである。(自分で確かめてみたら即わかることだ。今すぐやってみい。)

ナロー/ワイドの違いとは本来はこれなのであって、糞ブログどものクソ解説のどれもこれもが、この話に片鱗も触れない、中身ゼロのゴミコピペでしかない。やれワイドだと大円筋だか大陰唇だかに効いて背中の「広」(?)がりが付くだとか、やれナローだと背中下部だか中部だか四国だか九州だかに効くだとか(そもそも「効く」「効かせる」だとかいう意味不明な呪文をええ加減やめろ)、そんな無内容無責任無人島な書き込み、人の発言を口マネしてるだけの、てめえの体で筋肥大という成果に於いて確かめたのでもない放言タワゴト寝言戯言など、金輪際まったく聞く必要がない。ちなみに中部四国九州なら服部有菜廣瀬なつき吉野未優が推しである。

伸張し切った点から収縮し切った点への軌道はでしかない。しかし、そのような運動は、ベントオーバーではやりにくくマシンが無く、シーテッドロウではマシンが無い。上述マシンプルオーバーが正解なようだが、これも、実は、肩が内旋しやすく水平外転(伸展)しにくいものだから背中のフル収縮には至らない。プルダウンならどうか。伸張時にナローで+収縮時にワイドで+軌道は、こんなんを成立させるプルダウンマシンとなると、左右がセパレートになってて軌道が自由になってる型のプルダウンマシンや、そうでなくてもとにかく弧軌道を描くプルダウンマシン、ということになるが、これらは高価なほうであろうからか、滅多に置いてないし見たことがほとんど無い。

さてそんな弧軌道も、ケーブルでなら、例えばFTS(Functional Training System)などでなら、下からも前からも実現できるし、上からなら就中やりやすいだろう。それはそうだろう。ところでそれだと手でグリップを持っているから腕が関与してしまう。腕トレにもなってしまう。

a)広背筋の本来の稼働を・b)アイソレートで・c)完全フル収縮で 行うという理想中の理想を実現するマシン(マシンしかない、フリーウェイでは断じて不可能)としては、ビハインド・ネックの広背マシンNautilus behind-the-neck machine)(上記リンク先記事参照)しか無い。他のマシンをこれに模して応用してもたかが知れている。

だがこんなマシンとなってくると、知る者など、まずおらん(ネットで知れるものなのだし自分もネットだけで知ったのだが)。また、ここまでにしたような程度の説明をしているブログも絶えて存在しない(自分で知ってて理解してるだけで自分の中だけに閉じ込めておいて公表ということをしない奴、そんなクズなどは論外である)のもあって、そんなマシンが自分のジムにあっても他のマシンとの有意味な区別が付かんだろう(トーシローというのは自分自身の体に付いてる自分自身の筋肉について何もろくに知らず知ろうともせず、ワークアウトでも何でもない時給ゼロ円肉体労働トレーニングをするのである)。実に、クソ説明ブログが氾濫しているのみであり、ネット頼りのトレーニーたちは、同じ時間と労力をかけるにも、片手落ちの収縮による半分腕トレという二重に間違った背中トレをさせられることになる。いやしかもそらだって、本来の広背トレのための器材が世界中のどこにも滅多に置いていないのだから、余計そういうことになる。ケーブルがあっても応用のさせかたも分からん。

以上のことに関して、さかしらな観点や用語に顧慮した話をしておく。

  • 弧軌道という点から言ったら肩の「伸展」も「内転」も要するには同じことである。
  • 「伸展」に特化しているように見える種目としてはストレートアームのラットプルダウンだが、御存知三頭も前腕も存分に使ってしまう。失格。
  • 合格なのはマシン・プルオーバーで、こちらだと三頭も前腕もリキまなくて済む。が、こちらでも、(マシンのグリップによっては)肩が内旋気味になるし、水平外転(伸展)させることができにくい。収縮が甘い。
  • 肩を内旋させない・きもち外旋にするというのも背中の収縮の要である。広背筋等の作用が肩の内旋だとは言うが、実際やると話が別で、内旋しても背中には感触がなく、外旋すると背中が大いに締まる。
  • いずれにせよ、内転(伸展)しきった時点で非内旋になっていないと背中が収縮しきっていない。
  • そして、前から後・下から上へのローでは肩の非内旋という契機を含めることがまずもって出来ず、その不手際分だけは背中が収縮し切らないことになる。ベントオーバーやシーテッドローは、この観点からは、収縮し切っていない種目である。
  • シーテッドロー的動作で肩のきもち外旋気味を確保するには前腕をパッドに当てる方法しかなく、敢えて言うと、反対向きのペックデックという絵面になる(しかも前腕をパッドに当てれるタイプのペックデックマシンのみ)。他にもあるのかも知れんが考えんのもめんどくさい。ただ、こんなトレだと、肩の水平外転(伸展)だけの運動になってしまい、内転も伸展もしないくなる。
  • とはいえ肩の水平外転(伸展)トリビアなのでは全くなくて、重要な背中収縮契機の1つである。これは、「肩甲骨を寄せる」のとか「胸を張る」のとかとどっちみち同じようなこと。肩を水平外転(伸展)させれば結局肩甲骨が寄り胸が張る。後者が結果であって原因側ではないということをわきまえてればええだけの話や。
  • 肩の水平外転(伸展)の主働筋として広背筋が挙がらないが、内転(伸展)しきった時点では水平外転(伸展)もしていないと背中が収縮しきらない。胸張ったら背中締まる。
  • 肩が内旋せずにいて水平外転(伸展)しているときの背中は伸展で収縮していることはありえず(どんな動作やねん)、内転しかありえない。これで収縮しきった絵となると、上述ビハインド・ネックの広背マシン(Nautilus behind-the-neck machine)で収縮しきった絵がそれである。
  • 反対に伸張しきった時点はどんなんか。肩が外転(屈曲)しきってて、内旋しきってて、水平内転(伸展)しきっている絵、それは、肘~上腕で目隠ししているような絵だ。マシン使用上現実的なイメージではないからこんなんは無視して、現実的に言うと、プルダウン系なら、ナローグリップのフロントネックで伸ばしきった状態だ。FTSなら、右肘で左目を・左肘で右目を目隠しした状態である。

といったことなど、どこの何のページでもまず述べていない事柄である。そして繰り返すが他のページにも書いてることなら、いくらでも書いてある。

成程こんな状況を鑑みては、ネットなど似たり寄ったりかつ低級な情報が氾濫した取りに足らぬ媒体だとも言いたくなる。よう分かるわ。ところで、そう言うならば、確認しないといかんのだが、それ、本ならそんなことないのだろうな?書籍様なら、背中の筋肉の本来の収縮が腕が弧を描く収縮でありそれをアイソレートさせる方法が肘を作用点にしての負荷挙上であると、確実に明言してくださいますってらっしゃるのだろうな?オウどうなんじゃコラ。

ちなみにトレーニングが話題になったところで言っておくが、世のトレーニングノウハウのほぼ全部が、情弱商売である。最早占いとも並んでいる観のある情弱産業であり、従事者たちの滑稽さが、「ダイエット」や、何なら「ヨガ」の滑稽さにも近くなっている。で、効果がない情弱向け商品になぜアホたちが飛びつくのかというと、運動がツラいから「食事」による方法に逃げるバカどもとも似て、どの商品も指導も、得たい理想を安易にラクして得させてくれそうに見えるからである。言うまでもなく、ラクしたいバカに道はない。お前のカタボリックもやしガリガリ体は、一生ヒンソーで不健康でダサいです。そう言えば、知能的なものを維持したいがしかしラクしてそうしたいバカなども、脳トレ系のインチキに走るよな。あのな、知能を維持向上したいなら、知能を使うことをのものをせえよバカ。それを模した何事かをやってんちゃうぞ。安易安逸に逃げてんちゃうぞボケ。本読むのシンドいからってゲームやパズルやクイズに走るな。指回すな。舌回すな。「脳」「の機能」(ああくっだらね…)はどうやって維持するかというと、それは、根性によるしかない。ボディメイクもいっしょだ。若さは根性で維持するしかない。根性がない奴は  あきらめろ  さっさと根性出せ。