地上最強のブログ

しばいてくぞ

機能動詞(セット)って何なのか分かってるか (3)

 

前回の記事から

直前回の記事の冒頭で、動詞とセットの名詞が文法的「語」で半ばなくなっていることの例として代名詞に置き換えれない点を挙げている。

これはFVGや本シリーズがFVGと見なしている結構の名詞(Wein, statt, Geige)の説明などでよく言うことであり、まあとにかくその通りと聞いておくことではある。

しかし、現実現物ナマの言語の現場では、文法の通りにはいかない。ことがある、少なくとも。まず大一般論としてそうであり、外語テキストに取り組んでいるいかなる誰もがまず体験していることであろう。自分も本シリーズ以外の色んな項目や話題でこういった現実言語の非文法規則ふるまいを見てきたところではあるが、いかんせん記録して来なかったもので、今たまたま本シリーズに関するイレギュラーを見つけたのを記しておくことにする。

クライストにそういった例外が何点も見つかっているのだが、今把握できているのが次の箇所のみ(ここから引用):

僕たちのオフショア

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Denn nur auf gänzliche Hülflosigkeit ist diese Anstalt berechnet, und wer noch auf irgend eine Art sich selbst helfen kann, der findet hier keinen Platz, weil er ihn einem Unglücklichem, Hülfsbedürftigern nehmen würde. (Brief 22, An Wilhelmine von Zenge, Würzburg, den 13. (-18.) September 1800)

これこの通り、FVG「((k)einen) Platz finden」の名詞を代名詞で置き換えているのである!!!!これは文の流れからPlatzを代名詞にするしかないという文の形を見て取れるが、ここからFVGの名詞にどんな意識をしているのだろうかを推測することができるだろうか。

「心配する」を機能動詞セットとするなら「する心配があるなら」というような置き換えかも知れない。いや、日本語には存在しない代名詞を日本語で勝手に設定するのが日本人は大好きなのだから「するそれがあるなら」か。

ニーチェ、1888年春 (5)

世界はどこまで青空なのか?(Type-C)(DVD付)

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前回の記事から

 

könnte unter diesen Embryonal-Zuständen der Überzeugung nicht auch die Lüge sein?…

sie bedarf oft eines Personen-Wechsels (— erst im Sohne wird Überzeugung, was im Vater noch Tendenz war —)

Was macht es, daß ein Lügner uns einen Irrthum für eine Wahrheit verkauft? Seine „praktische Vernunft“ (— sein Vortheil, populärer geredet)

Was macht es, daß man zwischen verschiedenen Möglichkeiten sich entscheidet? Seine praktische Vernunft, sein Vortheil…

Was macht es, daß man zwischen verschiedenen Hypothesen so und so wählt? Der Vortheil.

Welcher Unterschied bleibt zwischen einem Überzeugten und einem Belogenen? Keiner, wenn er gut belogen ist.

Was macht es, was alle Philosophen bestimmt, ihre Überzeugungen für Wahrheiten zu halten? Ihr Vortheil, ihre „praktische Vernunft“

Die Fiktion, die Nützlichkeit, die Vermuthung, die Wahrscheinlichkeit, die Gewißheit, die Überzeugung — eine Geschichte des inneren Pathos, an dessen Anfang die Lüge, deren Gott steht…

„Ich will etwas für wahr halten“: ist das der Instinkt der Wahrheit oder nicht gerade ein anderer, der es sehr wenig streng nimmt mit der Wahrheit, aber den Vortheil kennt, den der Glaube mit sich bringt?…

Gesetzt, man hat einen Vortheil davon, sich selbst zu belügen, worin unterscheidet sich das Pathos der Selbst-Belogenheit vom Pathos der Überzeugung?…

Ist im Glauben, wie <ihn> das Christenthum versteht, die Klugheit oder die Wahrheit zur Herrschaft gebracht? Der Beweis der Kraft (d.h. der Vortheile, welche ein Glaube mit sich bringt), oder der — — —

Und was Märtyrer macht, ist das der Instinkt der Wahrheit, oder nicht umgekehrt eine Lücke der inneren Organisation, der Mangel eines solchen Instinkts? Wir betrachten Märtyrer als eine niedrigere Species: eine Überzeugung zu beweisen, hat gar keinen Sinn; sondern es gilt zu beweisen, daß man ein Recht hat, so überzeugt zu sein… Die Überzeugung ist ein Einwand, ein Fragezeichen, ein défi, man hat zu beweisen, daß man nicht nur überzeugt ist — daß man nicht nur Narr ist…

der Tod am Kreuze beweist keine Wahrheit, nur eine Überzeugung, nur eine Idiosynkrasie (— sehr populärer Irrthum: den Muth zu seiner Überzeugung haben —? aber den Muth zum Angriff auf seine Überzeugung haben!!!

(Nietzsche, 1888,14[159])

 

(実際はそうではないことをそうだと偽ることと、実際にそうであることをそうだと信じることとはもちろん違うのだろう。虚偽と確信、違いすぎてコマるぐらいなんだろう。とはいえ、確信し切っている奴のほうが騙されてる者よりもはるかにタチが悪いという話も聞いたことがあるな。どうなんだろうかな。いま【信じる】というものを考えてみるが、信じるようになるまでにも前段階があるものだがこれすらも相当タチが悪い、いや確信後よりもタチが悪いものだ言っておきたい。そう、事柄をもうこれ以外本当のことなどありえないと確信しきるその時点までには結構な前段階が有って、その間にはそうなんやろかないやちゃうんちゃうやろかいな等々とフラフラフラフラするもので信・不信の振れ幅があり迷いが有るものだが、この段階では未だAはAなり!と思い至ってはない。あくまで非確信状態。それが結構な期間あるわけなのだから、時には虚偽や歪曲が紛れこむことだってある訳だ。確信されるものも内容によっては年スパンを要するものだってあって次世代目でようやく確信が固まるという事だってありうるわけなのだし。さてかように何かがそうであると固まるまでには、真偽のほどは措いていろいろな情報が入ってくる。その中での1つが本当らしくてリアリティがあってメリット十分に見えるだろう。元は色々あった可能性の中で特定の1つだけがてめのオツム上はリアルでお得なものと見えるだろう。元々はいろいろ考えていたのに1つのもの辿り着いてしまってそれが自分にはいいのだということになるだろう。で、この道程で出来あがった者が騙されているとかいないとか言うことに意味があるだろうか。ガッツリ思い込んでいることとガッツリ騙されていることに違いがあるだろうか。チで?!これは知性ある者に於いても同じことだろう。こいつらがやっていることはAはAなりと喧伝しているだけのことだ、自分の信じるがままに。もう一度言うとコレガコウデアルと思い固まるまでにはプロセスがあって、作業仮説を立てるなり推量をめぐらすなり完全に証明できるなりといった、情念パワーに満ちた逡巡疑念苦悩の時間を経るのだが、このプロセスだってその始めには、まちがっているように到底思えないしかし実はまちがったものが結局は有ったのである、そう言いたい。うむなるほど、コレガコウデアルとは是非とも思ってしまいたいものだ。安心できるな。しかしその時本当にものをゼッタイ確かに知ろうとしているのだろうか。それとも心底ではナメてくさってんのじゃないのだろうか。思いこんどきゃトクだわいなまあ考え詰め考え抜いたワケではねーがな、とナメてくさってんのじゃないのだろうか。そうなのだろう。そう、騙されときゃええわいなということなのだから、何が本当かなんて実は考え抜く気などないのだから、本当のことを目指しているつもりのお前は嘘を目指しているだけなのである。確「信」と言えば宗教だがここでも本当のことを追求しているのかどうかは怪しいもので、むしろ、本当真実のところはともかく信じとけばどないどないという話だろう。そうだから、真理のためなら命も惜しくないという手合いなど、いや真理のために!などと思っているのじゃなくてそんなん思う能力も無いような奴なのである。こいつらは決して高級なのではない。自分はこう思っている!!とガンバってホザかれてもだからどうしたというものだ。むしろやりたいことは確信の主張ではなくて確信権の主張だろ。いいか、確信していることがあったらそこで何かがおかしいと思わないかんのだぞ。確信してる確証してるハッキリしてる白黒ついてる、それは、アホのおつむだ。そうであっていいわけがないだろが。真理のために殺されさえした特に著名な人物であっても別に真理とかかわっていたのではなくて特定の確信に憑かれる特定の病気に罹患していたのである。よく聞けおのれら、確信するのは度胸じゃないぞ。確信をぶっ壊すのが度胸なんだよボケカス。)

読んでの通りで捕捉することもないのだが、いっこ言うとくと、確信の道のなぜ始めっから嘘があって最終的に嘘にしかならないのか何故そう決めつけているのかと思うだろうが、最後に明らかになるように、非確信反確信確信破壊にしかWahrheitが無いという前提でものを言っていたのである。懐疑主義だの脱構築的だの言いたければ言うたらいいが、そういうのが何かを目指しているものであるならば(文系お花畑の有象無象どもの論述に見るように、非常に目指しているよな色んなお花畑をよ)、結局たもとを分かつことになる。こちらは何も目指していないのだから。確信病を丹念に記述しているだけなのだから。そんなのに思想的期待重荷を負わせるのはやめよう。

次に、この記事で見た『悦ばしき知識』断章上の、原因を人間に設定する認知エラーについて述べた文章を見てみたい:

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Wo es eine gewisse Einheit in der Gruppirung giebt, hat man immer den Geist als Ursache dieser Coordination gesetzt: wozu jeder Grund fehlt. Warum sollte die Idee eines complexen Factums eine der Bedingungen dieses Factums sein? oder warum müßte einem complexen Factum die Vorstellung davon präcediren? —

Wir werden uns hüten, die Zweckmäßigkeit durch den Geist zu erklären: es fehlt jeder Grund, dem Geiste die Eigenthümlichkeit zu organisiren und zu systematisiren zuzuschreiben.

Das Nervensystem hat ein viel ausgedehnteres Reich: die Bewußtseinswelt ist hinzugefügt. Im Gesammtprozeß der Adaptation und Systematisation spielt es keine Rolle.

Nichts ist fehlerhafter als aus psychischen und physischen Phänomenen die zwei Gesichter die zwei Offenbarungen einer und derselben Substanz zu machen. Damit erklärt man nichts: der Begriff „Substanz“ ist vollkommen unbrauchbar, wenn man erklären will.

Das Bewußtsein, in zweiter Rolle, fast indifferent, überflüssig, bestimmt vielleicht zu verschwinden, und einem vollkommenen Automatismus Platz zu machen —

Wenn wir nur die inneren Phänomene beobachten, so sind wir vergleichbar den Taubstummen, die aus der Bewegung der Lippen die Worte errathen, die sie nicht hören. Wir schließen aus den Erscheinungen des inneren Sinns auf sichtbare und andere Phänomene, welche wir wahrnehmen würden, wenn unsere Beobachtungs-Mittel zureichend wären und welche man den Nervenstrom nennt.

(Nietzsche, 1888,14[144])

 

(ばらばらな対象が一定のまとまりたちに分化しつつ何かしらの定数を示せば、人間の心や魂みたいものが有ってそうなっていると勝手に妄信してきたものだが、ばかばかしいにも程がある。事象というのは複合的である。それだけでしまいだ。そこから引き出す一定の図式や観念などもそれだけのものにすぎない。それが事象を支配していることになどなる訳がない。まして事象よりも先に有るなどというワケがない。たしかに物事が進行して一定の状態になると、最初から目指すゴールに進んでいたかのように見えはする。が、そこに心のようなものがあるかに思うのは阿呆である。と言うか心や魂や精神といったものには、事象をまとめたり分化分業させたりする能力など別にない。精神とかいう意味不明なものが宿るのが大脳から末梢神経にかけてであるとするなら、こちらのほうがずっと広いのであって、それに対して意識などというものはオマケの付け足しにすぎない。環境に適応順応するという生体生存の一大作業にあって「精神」や意識がしている仕事など何も無い。いま相手している事象や出来事がただの物と見えて同時に心みたいなんがあるようにも見えるのはまあいいとしても、だからといって、1つの実体や基底が2つの面を示しているのだ双貌的なのだなどとホザいてみたところで、分かることなど何も無い。実体や基底や実質、こんなものは、ものを理解する上でクソの役にも立たない。クソのほうが役に立つ。もっかい言うが意識だの心だの精神だのというのは二義的副次的なのである。どうでもいい余計物なのであって、やがてこの世から消えゆく定めにある。来たるべきものは意識など無い機械たる人間だ、それがなおなお人間だとしての話だがな。自分の内面や内的過程を探るのはこれ読唇術にも似ている。形がなくて捉えれなくて何でもない内面というものを捉えるには形ないこともないナニカになんとか喩えるしかないものだが、そう喩えたナニカも現時点の人類水準では知解不能の意味不明なものにすぎず、今のところはそれを仮に活動電位とすることにしている。)

今までの訳の通り内容に一貫性がそんなにかたいがいない文章をむりやりまとまりあるものにしているが、とにかくこういうことが書いてある。そしてここでのまとまりは、事象はあってもその裏の精神や心など無い、原始信仰の呪術観念をやめろボケ、ということであり、生体と神経はあってもそこに有るらしい意識など無いに近い風前の灯火であるということ、物事に心など見るな、そしておまえ自身にも心など見るなバカ、ということである。無いものは無いと言えよう

 

スマイル神隠し(てんとうむChu !)

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ニーチェ、1888年春 (4)

 

前回の記事から

うだっただろうか。

Welcome to the pain zone. That's where we live.“ (Tom Platz) という世界でやっている者には人ごとではない事柄である。ところで、とっさの場合の筋反射の話が見られるが、これなど、とっさではない安静下での筋運動でも筋運動過程が意識過程よりも先であるというリベット実験を知っていたかのような例の衝撃的文章を想わせる考察だ。リンク先に見る文章は考察だけが書いてあるので一体どこからこんなことが分かったのかと謎に包まれるばかりだが、上の文章を見れば、このような運動が先→意識が後という過

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程を現に知覚して認識していたようだということ、実体験からリベット実験先取り的知見を述べていたようだということが分かる。

さて今見た断片の直後に同じタイトルの次の断片がある。

Der Wille zur Macht als Leben

Der Mensch sucht nicht die Lust und vermeidet nicht die Unlust: man versteht, welchem berühmten Vorurtheile ich hiermit widerspreche. Lust und Unlust sind bloße Folge, bloße Begleiterscheinung, — was der Mensch will, was jeder kleinste Theil eines lebenden Organismus will, das ist ein plus von Macht. Im Streben danach folgt sowohl Lust als Unlust; aus jenem Willen heraus sucht er nach Widerstand, braucht er etwas, das sich entgegenstellt. Die Unlust, als Hemmung seines Willens zur Macht, ist also ein normales Faktum, das normale Ingredienz jedes organischen Geschehens, der Mensch weicht ihr nicht aus, er hat sie vielmehr fortwährend nöthig: jeder Sieg, jedes Lustgefühl, jedes Geschehen setzt einen überwundenen Widerstand voraus.

Nehmen wir den einfachsten Fall, den der primitiven Ernährung: das Protoplasma streckt seine Pseudopodien aus, um nach etwas zu suchen, was ihm widersteht — nicht aus Hunger, sondern aus Willen zur Macht. Darauf macht es den Versuch, dasselbe zu überwinden, sich anzueignen, sich einzuverleiben: — das, was man „Ernährung“ nennt, ist bloß eine Folge-Erscheinung, eine Nutzanwendung jenes ursprünglichen Willens, stärker zu werden

Es ist nicht möglich, den Hunger als primum mobile zu nehmen: ebenso wenig als die Selbsterhaltung: der Hunger als Folge der Unterernährung aufgefaßt, heißt: der Hunger als Folge eines nicht mehr Herr werdenden Willens zur Macht

die Zweiheit als Folge einer zu schwachen Einheit

es handelt sich durchaus nicht um eine Wiederherstellung eines Verlustes, — erst spät, in Folge Arbeitstheilung, nachdem der Wille zur Macht ganz andere Wege zu seiner Befriedigung einschlagen lernt, wird das Aneignungsbedürfniß des Organismus reduzirt auf den Hunger, auf das Wiederersatzbedürfniß des Verlorenen.

Die Unlust hat also so wenig nothwendig eine Verminderung unseres Machtgefühls zur Folge, daß, in durchschnittlichen Fällen, sie gerade als Reiz auf dieses Machtgefühl wirkt, — das Hemmniß ist der Stimulus dieses Willens zur Macht.

Man hat die Unlust verwechselt mit einer Art der Unlust, mit der der Erschöpfung: letztere stellt in der That eine tiefe Verminderung und Herabstimmung des Willens zur Macht, eine meßbare Einbuße an Kraft dar. Das will sagen: Unlust als Reizmittel zur Verstärkung der Macht und Unlust nach einer Vergeudung von Macht; im ersteren Fall ein stimulus, im letzteren die Folge einer übermäßigen Reizung… Die Unfähigkeit zum Widerstand ist der letzteren Unlust zu eigen: die Herausforderung des Widerstehenden gehört zur ersteren… Die Lust welche im Zustande der Erschöpfung allein noch empfunden wird, ist das Einschlafen; die Lust im anderen Fall ist der Sieg…

Die große Verwechslung der Psychologen bestand darin, daß sie diese beiden Lustarten die des Einschlafens und die des Sieges nicht auseinanderhielten

die Erschöpften wollen Ruhe, Gliederausstrecken, Frieden, Stille —

es ist das Glück der nihilistischen Religionen und Philosophien

die Reichen und Lebendigen wollen Sieg, überwundene Gegner, Überströmen des Machtgefühls über weitere Bereiche als bisher:

alle gesunden Funktionen des Organismus haben dies Bedürfniß, — und der ganze Organismus, bis zum Alter der Pubertät, ist ein solcher nach Wachsthum von Machtgefühlen ringender Complex von Systemen —

(Nietzsche, 1888,14[174])

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〈以下、↑ の原文の翻訳〉

(前回とまた多少違ったWille zur Macht論だが、人類が【+快楽+幸福】と【-不快-苦痛】を原理に生きているとよく言うが、そんなわけがない。こんな話をしていても仕方がない。快不快などというのはそんな追求したり撲滅したりしようと躍起になるべきような立派なものであるのではなくて、随伴させていただいたり派生させせさせていたただいたりするだけのものにすぎない。人間は何がしたいのか。いやそも生体の肢なり器官なり細胞なりが志向していることは何なのか。それは、力を着けたい強くなりたいということである。この強くなっていく過程で随伴するのが快感覚なり不快感覚なりである。そして力とは対象を屈服させて自分が上に立つためのものであり強さとはそういうものであるから、倒す相手負かす対象というものを一生求め続け出会い続けることになる。それしか人生はない。うまくいかない時には不快感情が生じたり苦痛を被ったりすることになるだろうが、それは当たり前のことなのであって、そんなんは特別ガンバって忌避回避しようとしたり減少させようと努めたりするべきものではない。むしろ生命活動に不可欠なものであり要求さえして行ったらいいものなのである。生命活動とは敵に勝つことだ。苦痛の源だったものを屈従させることだ。上にのしあがって快哉快哉というものである。痛みを避けとってどないすんのじゃアホンダラ。敵と戦うこと、痛い思いをすることは、必要なことなのである。こんなのは例えば原生動物が索餌している場面でもそうで、仮足を伸ばして周囲の対象物を探索するのは飢えのような苦感覚に迫られてそうしているのではない。肉質虫綱アメーバ目もまた【力への意志】により仮足を伸ばしているのだ。そうして、自己外物を屈従せしめて取り込んで同化してしまおうとしている。注意したいが、摂食なり食餌なり消化吸収なりというものは、或る根本的なモノから派生しただけの単なる結果にすぎないのであって、つまり他のモノに勝ろう優れよう勝ってやろうという根本的な動機があってこれの1つのバリエーションにすぎないのである。それだけで取り立ててどうというものでは決してない。一体飢えなぞのごときが生体の主動因でありうるワケがない。保身や保存などのごときと同じで、こんなやつらに大した役など務まらない。なるほど生体が栄養を求めるがゆえに飢えの感覚が生じると言う。しかしその本当に言わんとしていることは、外界の対象物敵対物に自分が勝てていない不甲斐なさ(勝ち負けという根本次元)のゆえに飢えに至るということに他ならない。根本にあるものと、飢えという現象面結果物と、何でこんな2つに分裂するのかと言うと、力が弱いからだ。弱いものだから、勝ちたい思たら即勝てるという一体状態であることが出来ず、勝ちたい→勝てない→飢えると分裂構造化してしまうのである。要は個体の力の問題でありケンカの弱い強いの問題だ。確かに摂食というのは今足りていなくなっている栄養を得ることなのではあるが、しかし生体がやっていることは、あくまで、減ったものを補填するなどというしょぼい事ではない。チカラを得て強くなるために色々なことが出来るようになっていき色々なことをするようになるのだが、その中で対象を取り込む欲求に関しては摂食によって満たすようになり充足がワンパターンになっていくのだが、しかしそれは、強くなりたい欲求の1側面である。〔←何ゆうとんねん意味不明じゃボケ。〕だから空腹や飢えと言ってもそれでチカラが減っていて弱体化していることを意味するのではさらさらない。むしろハングリーというのは強くなっていくための格好のダシではないか。阻害はイイコトで悪いことはイイコトなのである、チカラとか意志とかにとっては。ゆっとくが不快や苦痛を疲労や苦労なんかといっしょにするなよ。後者ならそら力は減退するは意欲は萎えるはしよるわいな。それは力を使った後の話だ。今してるのは力を得ていく途上でのダシとなるマイナスなものの話だ。方向が反対。もっと言うと、マイナスなものが適度ならそらチカラ増強上昇のダシにはなるが、しかし過度なら疲労消耗を招くことになる。そうなると今度は生体は勝てないようになっていってしまう。弱っていく過程になってしまう。己のチカラのために敵が要るとは言ってもそれには勝たないと意味がない。骨折り損のくたびれもうけになってたらいかん。その時の快は勝利にではなくてただ休息に有るのみ。ところが現在の人間心理の科学ではこの2つが区別できていないのである!!!何度も言うが疲労につながるほどの過度な刺激は、安静状態休眠状態につながるしかない。これは、この世への絶望を信条とするような信仰や思想に顕著な特徴である。一方地に足付いて戦ってきた強い者ら富める者らとなると、志向することは戦いに勝つことだ。自分ワールドの領土拡張だ。累々たる屍だ。そしてマトモである限りは生体はこっち方面に生きるのである。ニヒリズムに用はないのである。強くなりたい勝ちたい圧伏したいという感情構成体が生体なのである、少なくとも思春期までは確実に。)

意味不明な個所も1点あるがおおむね明快である。直前の173番と合わせてニーチェ生物学というかニーチェ神経科学という観を呈している。173番から進んで不快・苦痛・空腹といったマイナス感覚の積極的な価値を考えている。それはあくまで、戦いこそがすべて・勝ちたいということがすべてという生命すなわち宇宙万物全存在の不可欠構成素のようなものなのである。ただこのセンで行くとあたかも苦痛が大きければそれでいいことにもなってしまいかねないところで、そこは、しっかり予防線議論を張っている:チカラを圧倒してくる苦痛/不快はオーバーワークなのである、と。

それにしもこのような生命「観」が、ダーウィン進化論なり行動主義なりと並んでかそういったのを圧して思想の大きな潮流となっていたらどうなっていただろうかと想えて已まないものである。

 

1888年、多数の内容豊富な断片があって引用もキリがないというものなのだが、いま、ニーチェ確信という病気のことを述べている断片(Nietzsche, 1888,14[159])を見てみよう。

Religion als décadence

Kritik des Glaubens

Überzeugung und Lüge.

1. „Zwischen einer Lüge und einer Überzeugung besteht ein Gegensatz“: es giebt keinen größeren…

2. Aber es ist mit Recht gesagt worden, daß Überzeugungen gefährlichere Feinde der Wahrheit sind als Lügen (M.AM.)

3. Müßte vielleicht auch die vorangestellte Überzeugung unter die Feinde der Wahrheit gezählt werden? Und unter ihre gefährlichsten?

Eine jede Überzeugung hat ihre Geschichte, ihre Vorformen, ihre Tentativen und Fehlgriffe: sie wird Überzeugung, nachdem sie es lange nicht ist und noch länger kaum ist…

次回の記事に続く

 

なんてボヘミアン

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