地上最強のブログ

しばいてくぞ

もうちょい普遍的にしてもらえませんかね

 

本ブログで書く見解は全部いつかどこかで反論してもらいたいものなのだが、かといって、ブログにコメント欄なんて設けでもしたら、やって来るのは、マト外れで素っ頓狂なことぬかしていく奴や、記念カキコのゴミ寸評を書いてくバカや、何を酔っ払ってるのか意味不明のお花畑といった池沼たちといったところが関の山で、いやそれならまだいいほう、ほとんどは、論じていることを1ミリも理解もせず しかし文句だけはつけておきたいというだけのヒトモドキが湧くだけであり、だから設けないのであるが、

それはそうとして、例えばこの記事で述べたようなヒト音声に関することも、例えば

という名著で述べている見解によって補足しなければならないものがある。

と言って本書がヒト音声に関して述べていることは上掲リンク先記事で述べていることに別に何かを反論するものではない。

いや、そんな話をしているのではなくて、この本の何が感銘深いと言って、普遍的な着想がである。例えばこの記事で紹介している『虹の解体』などを思い出すが、こういった類の本 というかそういった論述が、何故にいつも感動を超えた感動を押し寄せてくるのかと言うと、それは、言っていることが極めて普遍的だからであり、この世界の事象を原理と根底から説明しているからであり、そうして どんなことにもそんな日常にもあんな出来事にもそんなお前にもこんな自分にも3億33パーセント通じる包括的で巨視的で一般的なことを述べているからである。普遍的であればあるほど、感銘に導く。どこにでも通じる話ほど、値打ちがある。一般的なことを述べてこそ、なんぼである、それ以外はしゃべんな。

当たり前すぎるこのことを、字書いて出す者の69億78パーセントが全く理解しとらんようである。もちろん話題そのものはローカルでもマニアックでもマニキュアでもピストンでもバキュームでもストロークでもいい、そこから、知的財として残るに値する考察や論述を出来ればそれでいいわけだ。

ペディキュアday (通常盤)

ペディキュアday (通常盤)

そういった本なのだが、見ての通り題名が内容をまったく反映していない。邦訳書の書名は無視したほうがいい。

ちなみに捕捉と言えば、この記事で紹介した本だが、アッカーマンというのは日常の疑問を科学から見るという面白い本を書く人のようで、とくに今リンク貼った記事に書いた本の中で述べるNon-exercise activity thermogenesis (NEAT)(非運動性活動熱産生)など、自分の健康と体調と今までの人生を解明してくれるように見えるというような非常に解明的な概念だが、

それはそうとして、この人の

なども日常の疑問を扱っていて啓発的そのものである。COVID-19下である現在に特に読んで得るものがある。

それにしてもマスクて効かんのだな。本当にしないといかん所では全然していないというのにな。なお本書に述べる風邪の罹患と回復は、自分からしたら、嘘千万である。自分はもっぱら寒さで風邪を引き、ドカ食いで治る。

 

ところで一般的と言えば、また日常的と言えば、次のような日常的な事がある:オツムの弱い者ほど一般的思考が出来ない。例えば、自分もそうだったが、子供は、〇〇といったような話があってだねと何かの話をされると、すぐ「誰」のことかと言い出す。「えっだれ?」「それだれ?」まさかお前はええトシこいてやってないだろな。

子供には、文脈や所有者や当事者と切り離した事柄それ自体というものがまだなかなか理解できない。まして、そういった語りが楽しいという大人の境地が遠いものである。コトが誰かのコトでないと気が済まない。知識に住所番地が付いてないと、理解できない。お前何中だよ。

同じように、子供のままオトナになった生き物でも、そういったことになる。この世の中の或る事象や行為についてそれが不愉快とか困るとかいうことをヒト全体に即して一般的なこととして喋ったつもりが、子供オトナは、自分のことを言われているとか身近な誰々さん何々ちゃんのことを言われているとか思いだす、いやそんなことしか考えることが出来ない。いまこのように書いたとしても、この人はどこかで出会った具体的な誰かのことを念頭に置いて亀頭に擦って書いているんだなといったようなことしか考えれないし、とにかく話を己や他者に拡げて考えることが出来ない。拡張しろ。

こんなバカと話すのは苦も苦である。何を言ってもいちいち実在の何かや誰かに帰責されるのだから、おちおち物も言えない。こいつらには批判とか批評とかいうものが存在せず中傷とか加害被害というものしか存在しない。舌鋒や攻撃は「誰」かに向かうものでしかありえない。「人間」や「国民」といった段階はまったく知解できず、顔を知っているトモダチ家族職場の誰々しか理解圏域に入らない。こいつらの世界は身近と親近に尽きるものであり、こいつらの環世界は単細胞的原始的段階にとどまる。そして問題は、このように書いたところでイメージされているのであろう連中だけがこうなのではなくておよそ知に用事があり知が何なのかがわかっているはずの人種でも事態はまったく同じ絶望的なものであるということである。

一般的なことのほうが面白く、話を抽象的に捉えるほうが興趣をおぼえるというように、抽象的な事柄や事績や人物のほうが気になるというのが有る。身近な物事や誰々でなく周囲の人々でなく、そんなものにはいささかも心動かず、遠い国の悲喜コモゴモや・会ったこともない誰かや・フィクションの中の顛末や・こちらが一方的に知るだけの誰かや・自分の人生と直接には何の関係も利害もないストーリーや・活字やモニターの向こうにしか無い世界や・架空の中にしか居ない誰々や・ニュースが伝えるだけの不幸や・歴史の彼方にある生活、こういったものにこそ感興し動揺し感動し没頭する、そういった事が、確かに有る。

例えば自分が人生でいちばん激動したのは

邪宗門 上 (河出文庫)

邪宗門 上 (河出文庫)

邪宗門 下 (河出文庫)

邪宗門 下 (河出文庫)

を読んだ時である。感興記すレビューが意外にも数々付いていて実際によく出来た作品なのかも知れないが、とにかく、《おもろい本は冒頭からおもろい》の法則を地で行くもので、行徳まさの来歴からもう最高潮、その後もテンションが一切下がらず(戦時中のひのもと救霊会の牧歌的シーンでも)、読んでて悲鳴の止まらない凄惨な満州遁走編も米軍抗戦編も永遠不滅の阿礼も、全編全文章が異例中の異例というか今後どこの誰にも二度と書けないだろうという物スゴ凄まじさであるが、まあとにかくそんな本である。

登場人物も地域時代背景も物語設定も、縁もゆかりも無い。実際の一番の感動ポイントが、当時という色んな事が限られていた時代にすごく生活が限定的な社会集団内で一生を送る人というのが考えさせられるというものなのであって、そないに縁もゆかりも無い遠い異世界を想っているものでもない(100年前の日本の話だ)っちゃないのだが、それでも、この世で最も動揺し(て半年ぐらい情緒安定しなかっ)た物事というのがこういった本の中の物事であって、身辺親類縁者の誰々や何々ではないのである。

それにしても人間は物語に弱い。始めて・設定して・描いて・盛り上げて・堕として・昇らせて等々としたったら、活字でも映像でも、イチコロで参る。

それは、人間がストーリーが大好きな動物だからでもあるだろう。〇〇に対してしたXX、△△ということがあった誰々、□□だからある今、◇◇に至る運命、XXせざるを得ない何々、そんなんが大好きだから、何にでもストーリーを見たがり・人に属性をつけたがり・人に「性格」を付けたがり・人や物を「キャラ」にしたがり・設定ということをしたがり・起承転結を強制し・原因と結果を虚妄し・今の〇〇に対する過去の〇〇などという嘘話をウレシがり、A「だから」Bというもの全般、「だから」という宗教的信念を固持したがる。そういったものがどれだけウソで錯覚かということがなんぼ完膚なきまで指摘されようと、この世を原因と結果で、アアシタカラコウナッタ・ソウイウモノダカラコウスルの信仰箇条で捉えようとしたがる。そうして、コウイウものである誰々何々がソウイウようなことをすると、ウレシいのである。コウイウようなものでも何でもない原子の集合が別の原子の集合配列に変わっただけという真実の世界など見たくも考えたくもない。美は美であって電磁波ではない。出来事は意味であって分子運動ではない。だから、被告には動機がなければならず成育環境がなければならず、立てこもり犯には「」(←存在物・実在物というより必要物・要請物)が呼ばれるという陰惨な喜劇が繰り返されねばならず、英雄が旅に出ねばならず、段階的にレベルアップせねばならず、「10年後の^q^」〇〇と言わなければならず、田畑が実りに向かわねばならず、時間をかけた事には成果がなければならず、悪い人だから悪い目に遭わねばならず、悪い目に遭っているからには悪い人でなければならず(後知恵バイアス)、理や義や大義や名目がないと行動してはならず、カンフー映画で主人公は一度ボコられねばならず、グループには不仲と仲直りがなければならず、個人には「ルーツ」(失笑)がなければならず、誰にもキャラクター(der Charakter:性格)が付いていなければならず、一般に 〇〇〇「」XXXという属性ラベリングをしないと何も認識できず、すべてのことには意味と理由があることになる。この中でのみ、感情が動く。身近で親近な人やことでも、そこにストーリーが乏しいと、無機的であり、関心を引かない。一方、1万年前ぐらいから、メディアが提供するものは、ストーリーに満ちており、大いに関心を引く。

みんな、文脈が大好きなのであり、脈絡の中にしか生きれず、因果や関係をデッチ上げていないと息もできないのである。

原始人の現代 (3)

 

前回の記事から

カン違いしてはいけないが、他人とチガえている独自の自分というのが打ち出せた時 その時が嬉しいのではなく、そういうこともあるにはあるとしても、実際は、生きとし生ける地表上の全人類が最も頻繁に心地よく感じるのは、他人に気に入ってもらえる時である。いいだろうか、一切何も特別なことをしていない時・特別なものに成っていない時のヒト猿のごくふっつーのデフォルトの行動というのは、ひとにおもねるというものであり、他人にイイように思ってもらえようと躍起になるというものであり、仲間に入れてもらおうと一生懸命になるというものであり、何とかして(他人の価値観の中で)自分を是認してもらおうとあれこれ画策するというものであり、他人様のご機嫌をうかがいご機嫌うるわしゅういただけるように気を配り気を使いして必死になるということである。

どれだけ信じ難いとしても、お前と私とヒト全員が24時間これをやっている。(他)人を畏れうやまい・(他)人の心に自分を同調させ・(他)人を基準にして自分を彫塑していき・(他)人に媚びへつらい・(他)人がどう思ってらっしゃるだろうかを全力で気にかけ心配し・(他)人様陛下が今日も健やかであらせられるように自分は這いつくばって奉仕し・他人の靴の裏を甜めて暮らす、というものである。

これは平和社会への道だろうか。オキシトシンどばどばで万歳だろうか。実際は正反対で、ファシズムへの道でしかない。世論と報道とコメント欄が同じような文言で埋め尽くされるのは何故だろうか、周囲の他人たちが言っていることと違うことを書けなくなる・発表できなくなるのはなぜだろうか、なぜそこで麻痺するのだろうか、高評価335で低評価2のところで低評価を付けるのに抵抗を覚えるのは何故だろうか、みんなが知己して支持して傍聴して投票している人に権力が集中するのは何故だろうか、誰も知らず・支持していず・聞いていず・評言述べていない人には何故公然と関心を寄せれないのだろうか。自分が周囲や他人と違おうとするその初発初動を妨げてくる麻痺、こいつの正体は何だろうか。何が、何の力が、他人と違わせまいと強制してきて、同調行動をとらせるのだろうか。その同調が集団化と集団暴走に直結しファッショ成立に直結してきたことを幾多の歴史と幾億の議論があれだけこれだけそれだけ述べているというのに、何故日々日夜毎日毎分毎秒、おまえは他人に同調するのだろうか。

他人に気に入られたいからだ。他人に、自分のことをいいように思ってもらいたいから、自分を好いてもらいたいから、自分に優しくしてほしいから、自分を迎えてほしいから、味方だと思ってもらいたいから、つまり、他人が機嫌がよくなるのがすんごい快感だからだ。ヒト猿の快とは、他人がヨロコぶ(とそいつが思っている)快であり、他人によしよしナデナデしてもらうことであり、他人のサークルに入会させてもらうことであり、他人の秘教に洗礼してもらうことであり、他人の毛づくろいをすることである。迎合、これが一般的ヒト行動のすべてだ。ヒトは迎合するサルなのである。

僕はいない

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もちろんこれは、考えないでやっていることだ。考えに絡めとられない限りでの行動だ。考えということが生じていないときに自然に自動的に即刻やってしまうことだ。つまり、システム1的な行動だ。ほっとったら自分の中の原始人がえんえんと取り続け他をしなくなるという行動だ。一方、考えてみれば、自分には自分というのが有る。なるほど他人のために尽くしていることにさしたる根拠も意味も無い。おかしなことだ。各人が自分というものが確立していれば、集団の暴力・暴徒の集塊が成立し難く、平和の敵が生じ難く、反グローバリズムの傾向が阻止されることになる。と言ったのに対してハナシが決してそんなに単純なものではないとどんだけ言い返してナニを持ち出そうとも、ハナシは結局この単純な論点に尽きる。個が確立されれば多様化し、多様性は全体化と中央集権を中和し続ける、そしてそういった方向はヒトには難儀でしんどいものであり、努力して自覚を維持していないと出来ないことであり、それも含めて諸々が実にしんどいものである。他人とベッチャリやってる人生ほどラクで好ましいものは無い。他人ト違ウの道は苦難で危険極まりない。歩んだ瞬間非難され、一歩間違うと法的にアウト。「好きなこと」で生きていくと言うのほど両義的なものも無い(と非難される)。人生は、黙って「みんな」党に投票し黙ってブラック残業し黙って徴兵されと黙っていたほうがラクに決まっている。そうして、今日も黙って、人ト違ウ生き方の人たちを喧々囂々ののしって中傷して抹殺するんだよな。うむ、猿なら、そらそうするよ(もちろん、本物のサルは全くの無関係)。人間は動物さ(←両義的!)。

まあそんなことはどうでもいいとして、両義的、つまり曖昧と言えば、意外といろんなものが曖昧である。例えば、日常知覚する対象、1日46時間の間48億兆ほど脳に送られるセンスのデータのうち、と言っては細かすぎるから、意識にのぼっているものに限って言ってもいいが、意識しているもののうちの大多数は、それが何なのかを、あんま深く考えはしない。それは何の音なのか、これは何の感覚なのか、これは腹に何が起きているのか、歯茎がどうなっているのか、あれはどういう意味で言っていたのだろうか、それは何が見えていたのだったのか、今日はどういう一日だったのか、今は暑いのだろうかそうでもないのだろうかどっちだと判断するといいのだろうか、これは結局トクだったのだろうか、それはちゃんと省けていたのだろうか、こう言って本当によかったのだろうか、あいつは何を見ていたのだろうか、今日はヌかんでよかったのだろうか、間に合ったことになっているのだろうか、それ以外のことが出来ただろうか、云々々々々々々等々々々々々々々々々々、無数のことを、つっこんでは考えず、ぼんやりアタマにのぼったままにしておく。

つまり、深くは考えない。さりとて、問題にして気にしてはいる以上、考えてないわけでもない。なるほど曖昧だよな。意識の内容というのは大部分がこういうものだろう。それは、一般的なヒト(の特に成体とかそんなん)に限ったことではないだろう。みんな大概そんなもんだろう。例えば、動物もそうだろう。動物の認識(能力)を云々する時には、「かれらは」(←キショい)ワカっているのだろうかまたはワカっていないのだろうか、考えているのだろうかいないのだろうか、等の二分法を立ててしまう。ヒトのように分かっているのか、何も分かっていないのか。…… いやいやいやいや、そのヒトというのが、分かっているのでもなく分かっていないのでもないのが、これ普通なのである。じゃあ、動物もそうでええやないけ。

ここに好例の題材が有る。動画ネット試聴の時代の恩恵として、動物にマジックを見せる映像というのを、潤沢に見ることが出来る。このリンクはいつか切れるだろうからアテにしてないで自分でググってくれ。今「潤沢」と言ったばっかだ、他にもいくらでも有る。そこで見ての通りだ。マジックを完全に理解している。しかし、タネはもちろん分からない(自分にもさっぱり分からない、当たり前だ)。さてそして、映像を見ての通り、不思議なことが起きているの対してしっかり反応はしているが、さりとて、そこに懸命にかかずらうでもなく、大きなストレスを受けているでもないように見える。つまり、ソレハ一体何ナノカ?という思考をしてはいる、しかし、深くは進まない、深くは考えない:ようわからんが、まあそんなんもあるんだろう。そしてさて、「かれら」(←きっしょいて)の普段の意識の内容も大方はこういうものではないのだろうか。それは、実験者や読者の期待とたがって、完全にワカっているか何もワカっていないかの全か無かではなくて、おおかたワカってはいるが、大した差し迫ったものでもないし そないふこう考える気にもならへんわと思っている、そんなもんなのかも知れない。例えば散歩中の犬は自然界なら見ない聞かない無数の不可思議謎異常怪奇奇妙に出くわし続けているはずなのだが、その1つ1つにちょっと待ってくれと反応し1つ1つからストレスを受けているようには全く見えない。自分のスキームや理解図式からソレが何なのかはおぼろげには分からんでもないがしかし深く考える気にもならん、深く考えんでも困ったことにもならん、知ーらね、と思っているのかも知れない。考えてやるかやらないかを、主体的に決定している。

散ればいいのに…(研究生)

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こういう、「さじ加減」とでも言うのか、物事に裁量を利かせるのは、人間の専売特許ではおさおさないのだろう。動物もまた、事物や出来事に対し、判断や熟考に値するかどうかを適度にテキトーに自由自在に裁量し判定しているのだろう。そして大部分の事は、よく分かっていない、つまり判っていなくもない、つまり何となくはワカっているのだろう。そんな意識内容なのなら、他人と他犬と、もしかしたら他魚とも、大して違いはないのかも知れない。

動物も、アイマイなのだろう。それは意識の全か無かではなく、どっちでもないのだろう。動物と同じくつい両極端に見てしまうものというのが他にも有るが、それらに関しても反省しておきたいところだ。例えば女は聖女か娼婦かというのがバカも甚だしい二分法、というほどのものでもない 酔っ払いのクダ程度のものだというのは、誰にでも分かる。女も男みたいに曖昧だし男も女も曖昧だし両性の線引きもほぼ全く意味が無い。それでも、そんな見方はする。子供は崇拝対象かアンファン・テリブルかどっちかだ。全か無か。従順そのものか犯罪者かどっちか。もちろん、そんな線引きなど、無い。子供もトテツもなく曖昧であり無数の中間があり完全に個性的である。

言うまでもなく、全か無かというのもシステム1的思考すなわち無思考である。コトが曖昧であるということが受け容れられて、多様であるということがちゃんと我慢できて、自分たち(人間)かあいつら(動物等)かというバカ二分法に捉われないには、しんどししんどい考エル作業が不可欠になる。全か無か有るか無いかと決めつけてしまうほどラクなものはない。「敵」「か」「味方」かが大事、それ以外は考えたくもない。味方には全力で気に入られよう。それには、敵という生け贄が不可欠だよな。

金は気分の問題

 

おしゃべりジュークボックス

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COVID-19の(特別定額)給付金10万円で〇〇を買うとか何とか言っているのを見ると、コイツ自分でおかしいこと言ってるのがわからんのかと思うもので、というのも、誰にでも分かるし分かっている(はずの)ことだが特にその振り込まれるその金銭でもって購入等をするわけでは別にないからだ。その振り込まれた貯金上の数字がそのままその購入等に振り分けられるわけでも何でもない。仮に44万という貯金の数字があったとしてそこに10万という数字が加わっとしたら54万になる、ここから、給付10万で買ってるつもりのその買い物をしたとしても、それは54万という塊のほうから出ているものであって、この54万塊の中の特に給付10万部分から出ているわけでは別にない。そらそうだよな。仮にこの54万塊から10万を特にわざわざいちいち下ろして来てその現金でその買い物や支払い等をしたとしても、愚に変わりはない。その現金が振り込まれた現金と同じものとは限らない(連番を調べでもしたんか)し、そもそも振り込んでるほうは現金で振り込んでもいない。ぜんぶ、数字上のこと。そこに「給付金10万」を勝手に読み込むのは気分の問題に過ぎない。当たり前すぎて言うまでもないことであり聞かされたくもないことだろう。ではなんでお前はこのバカげた発言を平気でするのだ?

事は、あまりにも簡単すぎて自明すぎて逆に誰もが忘れ切ってさえいるようなこと、或いは存外忘れていずにいつも大概しっかり意識していること、《〇〇の金でXXを買う》等とホザくときにいつも思ってはいるが思わないようにしていること、そんなことかもしれず、そんなことなのであろう。だから、問題なのである。

なお、言うまでもないことだが、仮に現金で受け取ったとしてそれで予定の買い物や支払い等をしたとしても、ハナシは同じことで、特に給付金10万円で以ってしてその払いをしたことには、やはり別にならない。というか、ならなくていい。そうした場合と、他に、その現金をタンス貯金仮に22万に足して32万塊にしてそうしてこの塊から抜いた給付のほうの万札で払ったする、こちらと、事態には何の違いもない。どちらで払ってもその払いはその払いにすぎず、何のカネを使っても別に何の違いもなく意味もない。お前は連番によって金額が変わるとでも思ってんのか。ものすごいバカらしい話をしているのは分かるだろう。ムズカしいことはまだ一言も言ってない。

カネなどというのは何が何でもゼッタイに数字上だけ限定のことにすぎない。それが元は何のカネだったか・棚ぼたのカネなのか・拾ったカネなのか「勝った」カネなのか買ったカネなのか・「汚」れたカネであるかないか・「血」にまみれたカネであるかないか、云々、こういった話や台詞や信条や主題や主張や物語の何もかも全部が、まったく何の意味も無い。ただただ気分の事柄にすぎず、したがって中身は皆無の絶無である。内容のないブラーブラーをやっとるだけだ。

もし給付10万でウンタラ話に意味があるとするなら、それは、現時点所持金ゼロ円でそこにその10万が入るという時ぐらいのことかもしれない。しかしそれがまたおかしい。よく、やれ給料振り込まれてそれで何かをするだとか、やれ「懐」があたたかいだとかホザくものだが、そういった発言が意味を持つときは、その入るカネが無いと所持金尽きる状態にでもあるときだ。だとしたら、お前はそんなに貯金ゼロで暮らしてんのか。おまえは異常者かということになる。言うまでもなく当たり前すぎることだが今は特別な人生を歩んでいる特別な人たちに関しては一切話していない。ふつうに暮らしとってフツーに預金の数十万もあるようなふっつーの庶民層(以上)の話だ。

もちろん、今述べていることは誰にでもワカりきっていることであり、ことさら改めてこのように述べてアホ指摘をすると、そーだよわかってるよ気分の問題だよその通りだよわかって阿呆な発言をしてんだよそんなこといくらでもあるだろうアンタだっていくらでもするだろうと返してくるだろう。と言うか、そう返してこい。そう返してくる者しか相手にしとらん。それ以外の、予想だにしなかった意味不明な返しをしてくる変わり者のきっしょい奴には是非とも湧かないでほしいものだ。

そう、気分の問題だ。入ってくるカネがそんなテトリス的に動くとはもちろん誰も思っていない。給付10万もらえると、それで気分がアガって、もらえない時とは違って、もらえていない隣宇宙の自分とは違って、そんな自分にはちょっと買う気にならなさそうなアレを買う気になる、そういうだけのことだ。買い物でなく生活必需支払い等でも同じことだ。カネの流れなどというのは他愛ない市民であっても種々数々の様々であって、COVID-19下であろうとそれは同じことであって、そのカツカツの支払いにやっと間に合ったその金額が、特に給付分から来ているものなのか・それともタンスの底にあった分から来ているものなのか・それとも昨年の節税項目〇〇の分から来ているものなのか・87日5時間13分14秒前に親戚の〇〇ちゃんから借りた分から来ているものなのか・それとも道で拾った分から来ているものなのか・それとも従業員にちょっと待ってもらっている先月分と今月半分の給料の分から来ているものなのか・それとも……以下無際限。このように、自分のマネーフローを精確に追跡できる者などいない。し、別にできてもいっしょのことで、冒頭に書いたようにその支払いは自分の所持金塊の中からしているものなのであって、特に何の何からしているというものではない。そう思うなら、それは気分の事にすぎない。結局、その給付があろうとなかろうと、一緒のことだ。なかったとしたら、また別の支払い方法を見付けることだし、別の買い物口実を見付けるだけのことだ。特にその入ってくるそのカネが意味を持つのは、そのカネしか本当にないんだという異常者、スポット派遣の「即給」が意味を持つような異常者、メルカリで100円いくらを値切ってくる異常者、「いいね」だけ付けて買わない人間のクズども、こいつらに限ったことである。

だから、意味の有る期間上において所持金の数字が意味の有る変動をすること、これだけが要諦でありそれ以外ではない。給料など毎月だろうと毎年だろうと毎秒だろうと、毎世紀でさえなければ、いつ振り込んでもらってもいっしょのことだ。余命1ヵ月なのに3年後の話をされても困るだろうが、フツーの者なら、今月もらうか来月もらう半年後にもらうかなどに違いはない(あったらあかんこと上で述べた通り)。それが早いほうがいいとコダワることには気分以外の何の根拠もない。明日10万円もらえるか来年11万円もらえるかに選択の余地などない。多くの者が前者を選ぶのは気分の中に生きてそこから一歩も出れないアホだからだ。

そうだろうな、確かにそうだ、借金が明日返済できるのと来年返済できるのとでは、数字上は同じ話でも、選択の余地なく前者を選ぶ。気分、超重要。一気に全額払ったほうが心の負担が無くていいに決まっている。ところが、多くの者がだらだら払いたがりちょびちょび返したがりローンなどというバカの骨頂を好きこのむ。気分の中に生きてそこから一歩も出れないアホだからだ。気分、超重要。

そう考えたら、明日11万もらえるか来年11万もらえるかにも、別に大した違いはない。その11万が精子を左右するわけでもないのなら、1年後そこらぐらい 待っときゃええ話である。気ィついたら振り込まれとるがな。返済だって、今すぐ全額返済できようが80年後に完済できようが、数字上は結局は同じことだ。ちょっと3億年後まで待ってください。そう、数字上は、同じことだ。ところが、同じ数字に対して異なった反応をする;プロスペクト理論が解き明かしたように。同じものなのに違って見えるわけだ。

行動経済学なり現代心理学なりが解き明かしたことが、単に、利益や損失の 勘定 感情に基づいて計算的でない行動をするということであるというにとどまらず、同じ数字同じ事柄であってもそれがどのようなものなのか(という文脈)によって異なった行動をするということであるなら、極めつけに普遍的なことを明かしているということになる、哲学に近いまでに。すなわち、事物側に有ると思っていた連関や意味がヒトの中にしかないものだった、ヒトが文脈化するのであって事物に文脈が存在しているのではない、ということ、この知見は、コペルニクス的である。コペルニクス丼。

こういった観点から不合理で阿呆な行動を正しく見てみよう。例えば締め切りや期限というものに対して阿呆で不合理なふるまいをするものだ。自分はせんし気持ちも分からんのだが、とはいえ昔日幼時にはしていたのであり、切り捨ててていい他人事ではない。しかも阿呆たちもまたええ歳こいた大人なのであり、それほどそこまでなーも考えず毎度毎度締め切りぎりぎり行動をしているのでもない、つまり何となくいつまでも仕事を始めないでいたら期限が迫っていたわというだけのものではない、かもしれない(もしそうであるのなら、以下に述べる弁護の要さえもない 真にオワってるバカである。二度と出て行け)。

たぶん、遠く先に見えている期限に対して今すぐに仕事にかかるのがなにかモッタイない気がするのだろう。期限手前で動くのと今動くのとが何か違ったものに見えるのだろう。実際には、合理的にすなわち事物に即して見れば、どのタイミングで腰を上げても、同じことである。今かかろうが直前でかかろうが、やらなあかん仕事の内容も量もそれの成果も昆布も鰹も椎茸も、そしてお前らには信じがたいことに、腰を上げるしんどさもまた、すべてが、まったく同じである(理論上はだ、いちいち言わすな)。それでは、締め切り間近でばたばた(←アホの定言、お前ばたばたさしたろかコラ)するより、今仕事にかかってしまったほうが、いいことはいいだろう。いつもらっても同じカネ、いや待ったほうがやや多い、それがワカラないバカ、同じく、いつ着手しても同じ労働、いや早よはじめたほうがややラク、それがワカラないバカ。

こうして、締め切り行動バカは、金銭から考えると、納得がいかなくもない。プロスペクト理論の描くような行動は、自分も必ずするし、愚だとアタマで分かってもするし、その時の感情は頑として動かしがたい。例えばレジ袋有料化が迫っているがここでもそうである。この政策が愚昧なのは、表現が悪いからである、そこに尽きる。レジ袋を有料にすると言うのではなくて、反対の言い方をすれば、つまりレジ袋を断ると値引きすると言えば、損した気がしない。レジ袋有料化を義務にすると言うのでなく、レジ袋断り客の値引きを義務化すると表現すれば、搾取政策に見えなくなる。もちろん経営としては難しくなるのだが、描けば、商品がレジ袋有料化を反映した価格になるようにしておいて、断る客には値引きをする、ということになる(うわむっず。知ーらね)。単に有料にすると表現しただけでは、もらわなくなる傾向が大きくなるだけだ。店側に(政策側に)トクはそんなに無い。一方断ると値引きと表現しておけば、断らなくても負担ゼロと感じてしまうので、基本的にはもらうようになってしまう。店側に(政策側に)トクなばかりだ。客も、払う金に関して今までとの違いを知覚しないし(違いが無いわけではない)、断るだけで何円かもらえるというおトク感があるばかり。これをウイーンウイーンと言う。今の政策では逆にンーイウンーイウだ。レジ袋有料とはもともとサンディがやっていたことだ。果たせるかなここで袋もらうのは損気分でしかなく、まずもらわない。店側も客もトクしない。ライフもやっていたが(リンク予備①・リンク予備②)、断ると値引きするという表現だった。イオンもそうらしい。もらっても負担感がなく断ったらおトク感ばかり。結果としてまずもらうことになる=レジ袋分利益が生じることになる(のだろう、知らん)。そして、どちらの表現をされても、同じことになる(ならない政策をするわけがない)。消費者の払うカネの額には別に何の違いも生じない。気分だけの問題だ。その気分が超重要だ。