地上最強のブログ

しばいてくぞ

連鎖する #06

前回の記事から

 

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なぜ会費無料クレカがあるのか不思議だが、会費を払う層が必ずいるのであり、クレカ会社が設ける各種〇〇費をどんだけ払っても痛くも痒くもない層が必ずいるのである。自分は緻密に計算して買っててアホCMに乗せられるワケがないつもりでいても、世の大多数が、企業のカモになってる買い方をしているのである。自分だけはマクド100円単品以外に目もくれないでいても、来客の大半が、セットや限定品演出品にボッタくられるのである。必ず、そのド定価で買う不幸福な人が居るのである。プラスドライバー1本やOS初期化一発で出来る修理を業者に出してウン万円を払う人間が、PC所有者の大半なのである。情弱は一生情弱のままでいるのが心のドン底から大好きなのである。「そんなバカな」と見えるどんな売り方にも、残念ながら、効果があるのである。

そう、ケンカを売りまくっている本ブログだが、世の中の阿呆をなんぼ責めても無駄であり何もどないにもならんことぐらい承知している。

現今の膨大な中身ゼロうんこブログに、特に欧米人が基地外と池沼の見本市のようなアホづらやジェスチャーをしているのが多いクソゲロきも画像、「アイキャッチ画像」などのキモげろクソ画像が充満しているが、アホが自分に「アホ」を貼り紙しているようなこんな池沼画像がクソ多用されるのも、効果があるからである。人類の知的水準を下げおのれの知的尊厳を蹂躙することになっても、ブログ読者は、「アイキャッチ画像」などの糞キモげろ画像に飛びつくのである。人をアホ化するいかなるものも、人に対して効果がある。ヒトが基本的にはそういうものだからだ。

知的尊厳蹂躙と言えばこの記事で半殺しにしておいた「録音笑い(laugh track)」という世にも頭の悪い文化だが、米国等の低能番組でこの低能装置がばんばん利用され誰も抗議デモを起こさないのも、ハンガーストライキもYシャツストライキもアイロンストライキも起こさないのも、この低能装置が効果があるからである。如実に視聴率につながっているのである。どれだけバカバカしくて不愉快な気がしても、米国等の低能番組視聴者は、これがないと物足りなく感じ不満をおぼえ、街頭に飛び出して徒党を組んで座り込みを決行し、リメンバートンキンハーバーと発狂するのである。そんなにも、これが大好きなのである。我々のような、円楽師匠や石橋木梨が造る本物笑いの文化の民からすればどれほど「録音笑い」が文明性に欠けた痴呆化装置であっても、効果があるもんはあるのである。

この記事この記事で書いたことだが、日本では、選挙カーという街宣車爆撃機が、珍走団のお手本となるために、ウグイス嬢というこの世で最も頭の悪い拡声器を悪用して、バニラ求人1億台分の同時多発テロを行なうのだが、それが合法的に受け容れられているという小説よりも奇なるディストピアが列島に実現しているのには、ワケがある。リンク貼る必要もないぐらいほうぼうで言われているが、あれは、思いっきり効果がある。あれが迷惑という声があちこちで上がっているように見えてもそれは少数意見であって、国民の大多数が、選挙カーからの空襲を受けるのが心から好きで、あれで耳をつんざかれた分だけ加害者に投票しに行くのである。大騒音もっとやって下さいという御自慢の「マゾ」民族である、召し上がれ♡ そう、一種の風俗ウグイス嬢が絶呼し連叫した名前ほど、投票されるのである。それが現実なのである。アーメン。

人は進んで白痴痴呆化シャワーされたがる。自分から進んで、自分をバカにして下さい・バカと化さして下さいと身を挺して身をもだえる。知的能力劣化低下装置と言えば、この記事この記事でかわいがっておいた吹き替えという(真の)言語しょう障害者用措置なども思い付くが、いやもうこいつに関しては何と言ったらいいのか、お前が吹き替えを愛好していればしているその分だけ人類の進化の道筋を夢に向かって単細胞生物に向かって全力ダッシュしていると思え、と言ったらいいのか、或いは、言語が古代から現代にかけて黄金時代→銀時代→青銅時代→鉄時代と退化していっているという話が立証されていると言ったらいいのか、そして言語能力も大いに退化しているよという指摘を加えたらいいのか、何と言っても言い尽くせないような、宇宙に冠たる完成されたバカ文化である。霊長類にふさわしいものではない。偶蹄目や頭足類にふさわしいものでもない。吹き替えで他言語を受容している限り、「外国語」は受容されない。他言語映像提供を吹き替えで埋め尽くしておきながら国民の《英語》《英会話》《能力》の《低》さ(くだらねー)を嘆いているようでは、車で来館してエレベーターで移動してジムのコンベアで一生懸命走ってる人間(?)よりももっと本末転倒のアホなことをしている。

しかし、尚さらに知性の無くなってしまっている例を見よう。

アメリカの国家犯罪全書

アメリカの国家犯罪全書

  • 作者: ウィリアムブルム,William Blum,益岡賢
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2003/04/01

などを読めば分かることだが、侵略をする時に合州国は(侵略以外に何をしているというのか)、その酋長を筆頭に、政権者たちが、健常者人間から出てくるものとは思えないド間抜けな世迷言を放ちまくるのだが、そんな、どこからどう聞いても嘘大義・嘘正義・嘘民主・嘘公正・嘘道徳・嘘慈善・嘘餃子・嘘炒飯でしかない放言を意地の意固地で必ず放屁するのも、やはり、(この人たちがガチの狂信者だからであるのは勿論だがそれと同時に、)何かしら効果があるからだ。どこまでドマヌケで底が見え透いた公式表明も、それを聞いて心に届きますのですわという人間が国内と日本に大量に居るのである。小浜市という世界にさらした恥。ナチスが10個入ってもおつりが来るような史上極悪のならずもの国家アメリカの政府だが、こんなところでも、もちろん、ミサイルを発射した大統領なり、黒船を発明したペリーなり、ベトナムを焦土にしたマッカーサーなり、といった個人が問題なのではなくて、あくまで政体構造・国家構造こそが問題なのである(米国にイロコイ連邦の真似はできない)が、それはともかく、名だたる政権珍人たちの発言を収集してみたら、ホンネとタテマエ言語研究に大いに資するコーパスとなること間違いない。

もっと話を広げて恒例の「人類」だが、人類の宿業である認知バイアスに関しても、さんざんヤリ玉槍チンに挙げておきながら、言っておかなければならない:こいつにもまた効果があるということを。こういった認知エラーなりヒューリスティック判断なりといったものは、アウストラロピテクスには用があったところの、知的処理能力の中でのサバンナ生活ジャングル生活向けの部分であり、こんな所においては、排除すべき誤りでもないものなのである。これを活用する人種が、現在でも、確かに有る。それは、いったい何を想定して何と戦いたいのか意味不明の「サバイバル」に明け暮れている人種、つまり、ヒトが太古の大昔から自然生活に必要な《知恵》をすべて身に付けた・身に付けているべき独立独歩の生体であるのでは全くないことを何も知らずにカン違いに明け暮れている人種、或いは、生まれてきたことや人生の真実のような何かに迫れると妄念して「極限」状況や《生存を試される》イチかバチか木魚かの状況を無理矢理製作設定仮構した上でそこで原始ゴッコにこれでもかと打ち込んでいる人種、すなわち、ヒトに於ける自然というものが何であるのかを誤解し、と言うよりそれが何であるのかを考えてきた思想たちと付き合うことすらせずに、と言うより自分の中で虚妄しているだけの「自然」観念、自分が溺れたいだけの抽象的イデオロギーに取り憑かれて、今日も昨日も明日もあさっても、国家のお庭の中で野生遊び・自然ごっこ・サバイバルままごとに精を出している人種、こういった真実真正にオメデタイ人種、この人らには、排除すべき弊害でしかない原始知的能力が、すんごく必要なものになるのである。

関係ないが登山探検冒険紀行旅行ジャンルでは、

外道クライマー (集英社文庫)

外道クライマー

  • 作者: 宮城公博
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/03/20

が群を抜いて最高に面白い。目ん玉飛び出て乳首が浮くぐらい面白い。

ニーチェの文章論

日本ではニーチェというと、相も変わらず、「神は飛んだ」だか「神は参った」だか「超入」だか「延々回帰」だか、はたまた「権太への意志」だか「猛虎硬爬山」だか、お決まりでアリキタリな理解しかされていない現状であるが、社会心理学的発言をしていることなどは勿論その他にも皆目知られていない類の数々の発言や行動が有る

例えばタイプライターを入手していた(リンク切れ用予備)ことなどが一部には知られておりウェブ上でこれに言及しているのもあるが、しかし例えば、ウェブ上だけに関して言えば、次のことなど、日本では全く知られていない:

ニーチェが梅毒だったというのは

全くのウソでたらめである

そんなことはとっくに知られている(リンク切れ用予備①予備②)ことなのだが、日本では、

いまのいまだに、この嘘デタラメを平気で広めるアホが後を絶たないありさまである。

たとえばこんなアホとかこんなアホとか、それはもう無数におるのだが、なぜこの(クソくだらない)話題に嬉しがるバカが次から次から湧くのかと言うと、自分のいじきたない下卑た願望を著名人に投影したいからである。つまり、こいつらは、実は、よく知られたニーチェ悪用よりもはるかに悪質な、史上最も醜悪なニーチェ悪用をしているのである。ニーチェはこんな奴らに受容される運命だった!

さてそんなことはどうでもよくて本題であるが、『反時代的考察』シュトラウス章に於けるようにふっつーに文章作法について述べていることなども、絶えて注目されない。これが、修辞論者とか文体家とか何とかいうことでなら注目されことはあるようなのだ(知らん、どうでもいい)が、しかしそれは要するに、ニーチェに大げさでゴテゴテしい思想家像しか見ない見たくないというクソバイアスのゆえである。つまり、専門筋に於いても、てめえのオツムを使えんボンクラどもがこの人を受容してきたという状況なのである。

そのシュトラウス章以外にも、「遺された断想」の「1876年春」に文章論を綴っている。(以下ここから引用する)

15 [1]
Hypothetische
Sätze im Deutschen. "Wenn" drückt ursprünglich einen Wunsch aus; die Sätze dieser Form "ist dies so, so wird daraus" enthalten im Vordersatz eine Frage oder einen Zweifel. Deshalb ist diese letztere Form nicht völlig mit der ersteren zu verwechseln, noch weniger hat sie etwa allein Recht (wie dies W<agner> zu meinen scheint, der sie fast ausschließlich anwendet).
(wenn文には仮定の意味と願望の意味があって元々は後者後者のナラバ文には感情的な含みが有り前者には無い。だからwenn文はwenn文でも仮定願望かで多少違うし、もちろん片方がwenn文のすべてなのでない。のに、ワーグナーなど、wenn文を願望の意味ばっかで使ってる。)

15 [2]
Lange Perioden soll man meiden: oder, falls sie nöthig sind, rein logisch beurtheilen; ich will, daß man das logische Gerüste deutlich klappern höre: denn sie sollen zur Erleichterung des Denkens dienen; Deutlichkeit ist die erste Forderung: was geht uns (Deutsche!) Schönheit und Numerus in der Periode an!
文が長くならないようにしましょう。長くするならするで論理構造最優先で。長くするのもそれはそれであくまで読みやすさのためな。まちがえんな。ドイツ語に限ってだが、1文がデカい時には、修辞文彩は要らないし、単数複数もテキトーでええ。論旨最優先。)

15 [3]
Es ist die rechte Zeit, mit der deutschen Sprache sich endlich artistisch zu befassen. Denn ihre Leiblichkeit ist ganz entwickelt: läßt man sie gehen, so entartet sie jählings. Man muß ihr mit Wissen und Fleiß zu Hülfe kommen und die Mühe an sie wenden, die die griechischen Rhetores an die ihre wendeten – als es auch zu spät war, noch auf eine neue Jugend zu hoffen. Jetzt stehen bis zu Luther's deutschem Stile alle Farbentöpfe zum Gebrauche da – es muß nur der rechte Maler und Kolorist hinzukommen. Es muß ein Handwerk entstehen, damit daraus einmal eine Kunst werde. Auch unsre Klassiker waren Stil-Naturalisten.
(現在ではドイツ語というのが十分に発達していて蓄えたっぷり(この記事末尾)なので、文体技巧をどんどん開発していこう。ほっとくとすぐ腐ってまう言語だから、有識者が一丸となって、古典ギリシャ語でやってたみたいにカンフル注入してやろう、ドイツ語が後継者なのだし。もっかい言うが、ルター『聖書』から何から現在ではドイツ語というのが十分に発達していて蓄えたっぷりで、今はこの蓄えを活用できていないのだ。いわば文明化を進めていく時期なのである。)

15 [15]

Die süddeutschen Mundarten haben die einzige Vergangenheitsform längst eingebüßt. / Rückert stellt Imperfect, Präsens und Perfect in verderblicher Weise neben einander, z. B.
 Als er nun bei der Gränze Zoll
 nicht wollt' angeben, was er führt,
 und seinen Kasten öffnen soll,
 der Zöllner hat den Fund erspürt.
So ein Perfect in der Erzählung ist ganz tadelnswerth.
南独方言では過去時制用の動詞形が無くなっており、〔バイエルン州の詩人・翻訳家の〕リュッケルト(Friedrich Johann Michael Rückert, 1788–1866)など、過去形現在形完了形をごちゃごちゃにしている。
〔詩行訳略〕
物語文章では完了形を使うな。)

15 [16]
Weglassung des Particips: "die Post ist durch, der Bruder ist mit, das Lied ist aus, die Sonne ist unter, das Thor ist auf, der Gast ist fort, das Geld ist weg, die Festung ist über." "Er hat ein Halstuch um, er hat die Sache weg, er hat das Räthsel heraus."
(完了文を作るに際して第2分詞を抜いてしまうことが出来る:〔„[…] durchgegangen“や„[…] herausgefunden“が本来ということ。〕)

15 [17]
Perfekte mit "haben" als Hülfszeitwort. Ursprünglich „er hat ein Haus gebau tes", "ich habe ein Kleid gekauftes", also Apposition des Accusativs wie bei "er schießt den Hasen todt" ("todten" alt).
(完了文では„haben“を助動詞で使っているのだが、これも元は本動詞だったもので、例えば「家を建てた」の元が「建てられているものとして家を持つ」で、「服を買った」の元が「買われたものとして服を持つ」である。つまり結果構文における(4格)名詞Prädikative同格等置と同じ。)

15 [18]
Aus dem Imperfect hat sich die Conjunktivform entwickelt. Die Vorstellung des Vergangenen umgebildet zu der des Nichtmehrvorhandenen: "er lebte" enthält „er lebt nicht mehr". Nun drückt Conjunktiv die Läugnung des Nichtvorhandenseins aus, entnommen aus dem "Nichtmehrvorhandensein". Im älteren Deutsch "ich spräche" für jede Nichterfüllung in der Zeit, jetzt unterscheiden wir "ich spräche" (noch nicht erfüllt) und "ich hätte gesprochen" (nie erfüllt). "Es gienge wohl", aber es geht nicht.
(接続法形は元は過去時制形である。無イクナッタというのは実際無イという意味に転じうる。「おった」ということは「いまはおらん」ということでもある。ただ昨今では接続法は否定そのものを言ってはいず今ハチガウと言うだけである。かつては接続法で物言えばつねに無そのものを言っていたのだが、現在では接続法現在だと未ダ莫シというだけのことであって、更更莫シと言えてるのは接続法過去である。)

15 [19]
Der Conjunktiv des Präsens unterscheidet sich so vom Indikativ, daß der Indicativ ein Wissen, der Conjunktiv ein Glauben ausdrückt. Daraus die ungerade Rede entwickelt: man lehnt ein bestimmtes Wissen ab, aber spricht doch den Glauben aus, daß etwas wahr sei. Die ungerade Rede früher allein in der Form des Imperfect-Conjunctivs, und kommt so noch vor. Alt ich spräche" (conditional); neu "ich würde sprechen". Alt "er spräche" (in ungerader Rede), neu "er spreche" (Conjunctiv Präsens). – In der Schweiz sagt man „die Russen seien über den Balkan gegangen" für "sollen sein". Es ist gut und nachahmenswerth.
(よって接続法現在と直接法の違いとして、前者が事実認識を言っていて後者が思いを表明しているだけというのがある。接続法を使って言っているのは、トノコトという間接話法であり、事実はとにかくダソウダという思いである。かつては間接話法は本動詞の第II式でのみ表していたのだが、現在ではwürde併用でも可だし、第I式でも可。間接話法つまり伝聞と言えばスイス方言ではsollen併用よりも第I式にするのだが、こっちのほうが好ましい。)

15 [20]
1 . Wir müssen streben, das Hülfszeitwortwesen zu beschränken!
2. Die Einschachtelung der Präpositionen zu meiden!
3. Man nehme sich mit "müssen" dürfen wollen sollen mögen können" in Acht!
4. Auch die Bildung mit " daß" ist übermäßig geworden.
5. Herstellung der Conjunctive und der Imperfecte!
6. Der Genetiv der Sache zu conserviren, statt der überwuchernden Präpositionen z. B. den Helden seiner Thaten preisen, den Fremden seiner Herkunft fragen, den Kranken seiner Wunden heilen. Erhalten noch in "anklagen, beschuldigen, zeihen, bezichtigen, überführen, überweisen, erlösen, erlassen (der Haft), entledigen, entbinden, überheben, entsetzen, berauben, verweisen (des Landes), entblößen, entladen, entlassen, entheben, würdigen, versichern, befreien, belehren (eines Besseren, der Zukunft)". Bei "sich" sind wir viel conservativer: „sich seiner Thaten rühmen, sich langen Lebens freuen" „sich eines Mannes annehmen" "sich einer Sache bedenken, sich der Gelegenheit bedienen, des Lebens wehren, des Todes fürchten" vielleicht "sich des Verfahrens ärgern, sich der Schickung grämen, sich der Gefahr scheuen."
(まず、助動詞を使った構文をなるべくやめましょう。また、前置詞に頼るのをやめましょう。それから、モダリティ助動詞〔の変化形?〕にも注意しましょう。あとdass副文も無駄なことが多い。次に、接続法と過去時制の独自の動詞形を作ってしまいましょう。あと、目的語になる2格を前置詞句にするのをやめよう。„den Helden seiner Thaten preisen“・〔略〕・„den Kranken seiner Wunden heilen“とかを前置詞句にしないように。2格名詞目的語をまだ使っているのは„anklagen“・〔略〕・„belehren“など。再帰動詞だと2格目的語がなくされずに済みがちである。

15 [21]
Ganz recht ist beides "mich dünkt" und "mir dünkt", es friert mich" "mir friert". "ich schlage dir ins Gesicht, ich schlage dich ins Gesicht." Dativ oder Accusativ bei dünken, ekeln, schmerzen, ahnen.
(3格と4格とどちらも目的語になりうる動詞ではどちらを使っても全くよい。)

15 [22]
Feierlich ist jetzt der Genetiv beim Verbum „es schenkte der Böhme des perlenden Weins", aber noch ganz gewöhnlich, z. B. wo die Leute Vergnügen an Wortspielen haben und selbst deren machen. Des Brotes genießen, des Gehörten erstaunen, des Krüppels spotten, der Gefahr achten, seiner Mutter vergessen. Einer besseren Zukunft sinnen, des nahenden Unglücks erschrecken, des fröhlichsten Lebens wimmeln, des muntersten Gesanges ertönen (der Wald z. B.), eines Kindes genesen.
若干量を意味する2格目的語などの文体的な2格があるが、遊びで使っているだけの時もある。〔例示略〕)

というのは、現代でも「あらまほしき」と言ってみたり「XXなどとのたまう」と言ってみたりするのと似ているのかもしれない。

15 [23]
Die Präposition " von" hat den Genetiv verdrängt. Nicht bei "satt, müde, voll, quitt, leer, frei, los, fähig, kundig, theilhaftig, habhaft, überdrüssig, beflissen, gewahr, bedürftig, bewußt, befugt, gedenk, verblichen, froh, werth, ansichtig". Die gemeinen Mundarten kennen den Genetiv fast gar nicht mehr.- "dem Nachbar sein Garten" (doch auch 's Nachbars sein Garten).
(前置詞vonのせいで2格使用がだいぶ減っているのだが、„satt“・〔略〕・„ansichtig“といった形容詞の目的語としてはまだ2格を使っている。口語では2格が絶滅寸前で、3格と組み合わせた結構を使っておる。)

15 [24]
Amtmann's ist Genetiv (im Sinn von Amtmannsleute). Dativ Plural überall bei Ortsnamen auf -hausen -hütten -bergen -thalen -felden -walden -linden -eichen. Baden ist "zu den Bädern", Schiffhausen "zun Schiffhäusern". So in Rothenstein, Altenburg. Zu ausgelassen.
(例えば「Amtmann's」という語があるがこれは「Amtmannがた」を意味しているところの2格名詞である。ところで「-hausen」から「-eichen」といった語尾の地名はすべて複数3格であって、「-thälern」なり「-wäldern」なりのことである。単数に見える地名も同様だがこれは流石にヒドい。)

15 [26]
Warnung vor den Zusammensetzungen wie „Forschungshülfsmittel". "Culturkampf". / Ebenso vor dem Vertrauen auf die Tragkraft eines Wortes, wie z. B. "die Anschauung von der Leistungsfähigkeit der modernen Photographie in Verbindung mit Pressendruck".
合成語の乱用を避けましょう。また、「印刷との併記の現代技術の写真の可能性の検分」などといったような詰め込んだ句も避けましょう。)

この胸のバーコード

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  • SKE48(teamKII)
  • 発売日: 2013/03/06
  • メディア: MP3 ダウンロード

連鎖する #05

前回の記事から

 

この記事の中盤に書いているような事柄をはじめとして、現代日本語は文章が完全にぶっ壊れている。そのことをツイデ以外で指摘している人間が存在しない。日本語論が腐るほどある中で、やれ「わかりやす」い書き方だのやれ「伝わる」工夫だのといった不様な手取り足取り講座なら腐りに腐りに腐り臭うほど大量生産(だけ)されているが、こういった本のどれにも、読んでて気持ちが悪いクソ文章をやめていこうという問題が意識されていることは、ない。断言しとく。

ここにも書いたが、近現代の日本語の文章には、読んでて気持ちが悪いといった特徴をはじめとして様々なクソ特徴を搭載したクソ文章の大家たちが居て、ごくわずかな数例だけを挙げても、石川淳唐十郎柄谷行人平井呈一田中克彦森見登美彦吉田秀和清水義範梅棹忠夫、あと2千人ほど、それはもうウジャのウジャウジャという有様で、これら底辺たちの上(かみ)座部に、すべてを痴れる者にしてキングオブクソーズ・神部武宣が君臨しつつ、かような土壌において、近年には、無内容・無示唆・無目的の絶頂を示す糞文海皇・小谷野敦が一連の糞洪水を垂れ流す始末、その文章のクソばかばかしさ+クソキモさたるや、例えばサブいウザいキモいの三位一体を開陳せる有栖川有栖が些末に見えるほど、体の大きな小学生・小林秀雄もなんのその、かかるがごとき日本糞文史の伝統には、夢野久作はじめ池沼テイスト溢れかえる大正文章の綺羅グソたちが鎮座ましまし、ついには、およそ人類が書きうる文章の中で最も気持ちの悪い文章を爆糞していた稲垣足穂というクソ文始皇帝が便座ましまし、こういった大軍勢を率いるのが我らがクソ文界永遠のレジェンド・村上春樹という糞文プリンスなのだが、以上はどれも名であって、その下位にクソ文家のがひしめき、その下位には億を超す個体無数がぶりめくのであるが、このような希望に満ちた絶望的状況の中では、例えば橘玲百田尚樹が物凄く頭の悪い文章を絨毯爆撃して日本の知的水準を原始時代以前に戻そうとしているということなど、もう戻っている今となってはどうでもいいことであり、 この爆撃機があと9000恒河沙は有ってそのすべてが日本人民から基本的には崇拝礼賛されているのだから、ここで何を言ってもどうしょうもない。

絶望状況に悦ばしい知らせとして、詳しくはこの記事の後半に書いているが、現代日本語のあらゆる映画・ドラマ・演劇・アニメ・漫画・コント・童話・宣伝映像・ドキュメンタリー・再現映像・アナウンス・解説・ナレーション、のすべての「セリフ」が、日本語ではない。日本語らしさというものが完全に欠如した、何語なのかの原形すらとどめていない純キモ言語が、これを人間が喋るのだと言わんばかりに「」に入れられて《台詞》ヅラさせれらているのだが、これを喋って平常でいられる人種を見ていると、日本語の感覚すらが現在どこまでぶっ壊れているかが看取できる。

といった状況下では、この記事でさんざんバカにしておいた翻訳文章の気持ち悪さなど知覚すらできる人間が見渡す限り1人も居ないということになる。アイ・アム・レジェンド

もちろん、この記事の後半で触れている著作家のようにアタマのマトモな文章を書く人もそれなりに居ることは居て、翻訳界にも、例えば

1493――世界を変えた大陸間の「交換」

1493――世界を変えた大陸間の「交換」

  • 作者: チャールズ・C.マン,布施由紀子
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2016/02/25

    ジャレッドダイヤモンドのさらに10倍はおもしろい、稀代の名作。

という本を訳している人、

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

という、重要な文学理論概説書(はこれ1冊しか読んだことないがな)の訳者といった、気持ち悪くはならないで済んでいる文章を作れるレア種もいるにはいるのだが、いかんせんレアすぎる。例えば、ここでも触れたことなのだが、客観的命題文では「you」が独語の「man」と同じ形式主語であって一切「訳」さなくていいという底辺知識すら持ち合わせていず日本語の文を「あなた」だらけにするというド低能ぶりが日本語訳者たちの現状なのだが(↑ の訳者もそうだったかは覚えていないが)、そもそも知識以前に日本語の文が「あなた」だらけになってるとフツーに気持ちが悪いという感性レベル原初レベルでの疑問をこの世の誰も持たない現状のほうが憂慮に値し、もうどうしょうもないのである。

また、例えば、上記記事の中で記した人たち以外にも、まったく気持ち悪くがない(もはや奇跡のような)文章を書く人々がわずかながら居るにはいて、その最も目立つ特徴として、上記クソ日本語騎手たちの最も目立つ特徴である、鼻に付く飾った言い回し・意味不明・キザ・ムダ衒学・語彙キモすぎ・ウソ臭い・背景匂わしてて臭い、といった、コード化しすぎというクソ特徴を免れているという特徴がある。特徴特徴うるせーよ。つまり、気持ち悪くない文章の特徴とは、アホみたいに文体ばらないことだ。愚直にもすれすれの、もって回らない・遠回りをしない・とにかく回らない、何が言いたいのかをはっきりさらせボケと怒鳴らせない、頭の下がるようなどストレート文章。これを、「馬鹿正直文体」と呼んでいる。呼んだのはこの記事が初めてだが。典型的には、岸田秀平林直哉。また、この記事でジョージ・レイコフの訳書を挙げているが、訳文から伝わるところでは、この人も「馬鹿正直文体」の人である。現代の哲学者たちという糞文家たち、トマスネーゲ〇あたりの、何が言いたいのかをはっきりさらせボケと怒鳴るしかないうんこたち、とはダンチである。

遠回りの愛情

遠回りの愛情

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2014/10/08
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

さて、上で見てきた高名な生先方もまたシロートと同じくペダンチックが大好きなもので、シロートとは違って浅薄定型ではない事柄に関して・浅薄定型ではないスタイルで・浅薄定型ではないらしい場所で・浅薄定型ではないちんこを立ててペダペダするのだが、これがシロートと来たら、舌なめずりして無茶ぶるいして目をらんらんと勃起して、自分は賢いんだと証明したがる。そう、わたしはばかでございと開き直っていることになってしまっているパンピー、こやつらは、1分も話せば分かるが、1行も読めばわかるが、知ってる知ってないに関してどれほど自分が大したひとかどのモンかを証明したくて拍手してもらいたくて、それはそれは地獄のように必死千万な奴らなのである。

ここには、どんなバカでも居る。まあ7000億種類ほどいるのだが、1例もとい1うんこを挙げておくと、例えば、マジックのトリックやタネを知ろうとしたり書きこんだりするというバカ中のバカ、アホの神とバカの神が交わって生んでしまった痴呆低能池沼の権化のようなアホバカが居る。マジックはもちろん裏がある。それは、マジックを観て楽しいのとは全く別のことだ。お前は遊園地でアトラクションに乗るときにその建築設計図を入手しないと乗れないのか。バカは区別ということができない。

区別ができないとい言えば6兆回ぐらい述べてきた話だが、ここなどで述べたようにいかなるジャンルであれ《表現》内容と表現してる実在の人間とはまったく物なのだがトーシローはこれが理解できず鼻をクソほじりながら「作者」を必死に求める。サイン()をもらったり自宅を突き止める。それをやったところで何になるんだ。お前がその作品・出し物・番組・ライブ・パフォーマンスから受けた感銘はそれそのだけその場限りそれだけのそのそれでしかない。それをやった「人」に当たったらところでお前の感想には何味も付け加わらんぞ。ということが、トーシローは、ついぞ分からない。むしろそれを作った「人」を知れば知るほど何かを得た気になり、やがて、【他人よりも自分のほうが知っている】という、知のドシロートを一番ウレシがらせる劣情を満足(だけ)させる。

なぜこんなイジくそ汚い欲情があるのかと言うと、そのことはこの記事で周到十全に述べた。バカは、すべてが自分の思い通りであってほしいのである。自分の納得システムからはみ出すものを認めず許さないのである。こうして、日夜、逸脱するものに目を光らせ、殺そうと身構えている。おっさんが日夜路上でチャンネーに目を光らせるのとはワケが違う。現代人バカは魔女狩りを嗤い呆れるが、自分もまったく同じことをやっている。魔女を探そうとする「カルト」的狂気とまったく同等同質の狂気で、あいつが「在日」ではないかどうか、「整形」ではないかどうか、「ステ」ではないかどうか、「創価学会」ではないかどうか、「生活保護」ではないかどうか、死に物狂いで気にして、血眼になって探り当てて、何ならデッチあげて、半狂乱、いや全狂乱になって書きこむ。狂っていないアタマで1ミクロン秒考えたら、次のことが分かる。メディアに出ているその人がどんな来歴で出自で、どんなに己の納得体系に合わない人でも、それでお前にカンケーはないのだし、お前がその「人」の何かが気に入ってる・好きであることが「裏切られる」(この世で2番目に不潔な被害者妄想)のでも何でもないのである。しかしこれだけのことを、トーシローは、意地でも、考えてもみない。そうして、自分が信じている価値体系を毀損しないでくれと被害者妄想に絶叫する。守りに入れば人間はすなわちクズなのは異論を俟たないが、この爆狂乱バカのクズっぷりは突き抜けている(こういうのを「クズ」って言うんだよ、クズども)。なにせ、中傷や書きこみによって、のみならず、もっとはるかに悪質なことに、中傷や非難を漠然と歓迎し賛成し時には支持することによって表現者を虐殺するのだから。ヒトモドキは集団リンチをするしかノウが無い。一体何人の表現者が客の信念体系の犠牲になって殺されてきたことか。実際、表現の世界では主客が反対で、【観させていただく】【魅せてやるが本来の関係なのだが、バカはすぐ逆にする

さて尾籠な話が続いたので、クソはクソでも吸って吐くクソ・たばこについてだが、タバコほど悪質なものだとさすがに認識が逆になったままではいず、喫煙者本人の事などどうでもいいのであって煙を出された周囲の被る迷惑がもっぱらひたすら問題だという正置構図が理解されてはいるようだが、それでも、趨勢の大勢を見るには、「喫煙」ではなくて「排煙」が問題でありこの向きの議論しか意味がないということが通念にまではなっていないようである。ここでも、数々の逆置すなわち犯罪がまかり通っている。いうまでもなく喫煙者というのはテロリストなのだから、監視され規制され取り締まられる側のほうなのだが、これがなぜか反対になっていること、周知のごとし。関連して「たばこ吸わない人」などと平気平然でホザきよるが、それは「快楽大量殺人しない人」と言っているのと同じである。それは何のカテゴリーでもない、吸う側がテロリストカテゴリーに入るのとは違って。こういう認識逆転は喫煙人の陰謀かも知れず、吐煙をしておきながら自分たちのほうが不憫だと思わせたいのだろう。法治国家・平和社会とは被害者になったもん勝ち国家だからな。

冗談はここまでにしてマジレスしとくと、魔女狩り共産党狩りをしないように、創価狩りや在日狩りをしないだけでなく、その反対も、しない。しとったらアホである。同じく、喫煙者狩りをする気もない。本ブログで高評価したってる奴らに喫煙者が居るのは知っている。それはそいつその「人」の事柄だ。その人が残す表現は、その人とは別モノ元別宇宙である。

君もキチガイに決別しよう。

 

次回の記事に続く