地上最強のブログ

しばいてくぞ

誰が何を言ってもそんなものは何でもない

 

前回の記事から

るワケがないことだ。そんな、アタマん中に一瞬湧いた糞クうソうを書くようなバカたちのマネはせんとってください。

げに、こいつらバカたちなら、DQN車が実は百年先の感性を見越した芸術的亀頭精神によって作られたものなのかもしれないだとか、ゴミを投機する奴が清掃の雇用を創出するための福利精神によってそうしているのかもしれないだとか、「投」げなけれ捨ててもいんだだとか、買い物で食品を選り分けてる食品ロス加担の犯罪者ジジババどもが眼力あらかたな一流店のシェフなのではないのだろうかとか、ホザいてくさらしてくれそうなものである。

そうして、タイヘン高尚ナコトヲオッシャラレテオリマシテ・キット深イオ考エガオアリナノデショウガ・ワタクシノツタナイ理解力デハ到底ツイテイケナイノデスガなどといった、相手を高尚とも深いともこれっぽっちも思っておらず・自分が理解力ないとも何とも思ってもない奴が決まってクチにする糞挨拶文言、これををホザくバカども、が湧いてくさらす。ヒドいのになるとこんな亜種もおる。こいつらは、相手を舐めてるから相手を持ち上げるのである。相手が自分より上だと思ってしまわないように必死に相手を口先で上にしているのである。そうやって、自分はあなたを認めましたのですから、と後になって取り繕えるように、保険の逃げを打っているのである。いやそんないいものでもなく、(自分より上らしいコワイコワイ)相手と関わらないようにするために、相手を避けるために、相手をバカ持ち上げてハイハイ立派デスヨ立派デスヨと、本来は見下すときに使う文言を必死に繰り出しているのである。ようするに、ミジメなバカどもなんだよ。スゴものイイものを素直に認めることが出来ず、一生あらゆるものに悔しがりながら嫉妬しながら生きてるだけの奴、それが身バレしないように、紳士的口調に努めるようにしている(が、バレバレなわけだ)。

 

君は僕だ

君は僕だ

前田 敦子

  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

で、今見ている『なぜ「話」は通じないのか』(9784794966704)のみでは全然ならず、世の中のありとあらゆる言葉の遣り取りにおいて人類の全員%が勘違いしていることを注意喚起しておくが、人が物を喋り書きするときには、その言葉に絶対も必然も無く、喋り書いてる側のオツムにも何の絶対も必然も意味も考えも無く、ただ自分の中から出てきて外から降ってきた文章を口にしキーに打ちタップしているだけなのであり、しかも、そうでいながら、他人に言葉を発され書き込みされリプされコメされナニされパコられたときにはその事実をかんっぜんに忘れ去っており、そして自分がシャベる時には何の考えも無いアホがシャベっているという始末なのである。つまり、誰が何を言っても実は何の大した中身も無い。

ところが、全人類が、相手の言ってることや他人の言動を 世界の終りのごとく宇宙の一大事のごとくバカ大げさに取りすぎなのである。滑稽にムダ真剣なのである。

よう聞いとけ:

あのな、ゆっとくがな、そいつはそんな真面目に考えてしゃべってるわけではないぞ。どんな人類も、絶対自分独自の熟考考究の末の精選吟味し抜いた上での言葉の精髄にしてエキスの菊正宗を 広い世界のなかのこの一期一会の最終最後の究極顔射の瞬間にぶっ賭けじっ掛けて 命をこないにどないしてすべてをあないにゴム裏返して、そうした上で、必然決死の玉砕覚悟を決めぶって特攻吶喊の玉砕精神でもってして手を挙げて発言してるのではない

ところが、お前のアタマん中では、他人があたかもそのようにして物を言っているかのようになっている。相手が言っていることに相手がしっかり意味と念と言霊を込めていると、思い込んでいるのである。

決してそうではないし、お前自身がしゃべる時にも決してそうではない。

悲観に足るような事柄はすべて受け手のアタマのなかの想像の中でのことに過ぎない。いや、ゼッタイにそうだ。

ええか、お前たちは、相手が もうほとんど自動発声機械と変わらない中国人サールの部屋から喋っているのだということを、ついぞ認識しない

だからこそお前たちは、相手の言葉にいちいち傷つき・気にし・~ト言ワレタなどという傷心をネチネチネチネチかかえるのであり、しかも自分自身がまた他人にそうしている機械なのだということを1ミリも知覚しないのである。

そして実情はもっとヒドい。言葉を使えないサルなのではあっても、使えないなりには必死に使ってくるのである。それは、とにもかくにも何かはしたいから、言う・書くというカタチでナニカガシカはシタ自分でおりたいから、とにかくナニカをしたく何かをしたナニカでありたいから、ゼロやナシではどうしてもおれないから、ナニがナンでも気が済まないから、である。

そう、『なぜ「話」は通じないのか』で例に挙がっている講演後スットンキョウ質問者というのとかその他そういった愚物というのは、取り立てて問題にするような大したものではまったくない。取り立てなくても問題にするようなものではない。そこでは、理解者たる者が御言葉を発しているのでは断じてない。断言する。

また、121頁からAmazonレビューのアホをコキ下ろす筆致が実にいいし的確そのものなことを言っているが、アホガキ(だろう)をうがって解釈していく126頁からがやはり大げさに取りすぎであって、レビューを書いているアホなどというのは、それこそ、「聴いた風な話」(112頁)をしているだけの、「言ってみたかった」(126頁)だけのことを書いているだけの、習い立ての難しい言葉を練習してみたかった」(126頁;強調は引用者による)というだけたったそれだけで書いているだけの、相手にするにもアタイしない人畜未満のヒトゴミにすぎないのである。発声しキー打つだけの機械なの。うんこ製造機の「言葉」など無いからね。

人間は、相手の話が別に分かってはないのだがとにかく何か言わなくちゃとして言ってるだけなのであり、だから片言隻句に「反応」するのであり、とにもかくにも何か言っとかないと気が済まないバカなのであり、そういうことも出来ないなら、最終は黙るだけ、硬直してしまって相手を積極的に無視してその存在を自分の中で必死に打ち消してそうして黙殺戮を犯すというカタチでは ナニカを残そうとする。

なんのことはない、要するに、何も持っていず・何も出せるモノがなく・何も考えれず・何でもないカスにすぎんのである。そいつらが何クチきいたところでだからなんやねんということにしかならんのである。

ということで、ようするに、言いたいことは、一流でも(まして二~十流ならなおさらそうだ)言葉がダダ滑りしているということである。まして二~十流ならなおさらそうだ。このへんなら、「知識」とその使い方に面白味が一個もない無個性無難バカばっかであるってことである。要のようするに、つまらんのである、こいつらの「知識」は。

 

…… とはいえだ!!!! 槍玉に上げてみた本にせよ、おたまに傷があるだけにせよ、いつも傷があるだけにせよ、本当にブッ刹したいカスどもにせよ、結局のところに関して言うと、しゃべろうとしているだけマシではあるものである。アウトプットしているだけ、人としてずっとイイ・ずっと正しい・ずっとまとも・ずっと健全・ずっと良識ある。書こう言おう出版しよう公開しようアップしようと、発信しようしているだけで、社会動物としては十分貢献している。内容がどんだけクソでも、しゃべってるだけ まだマシだ。

半信半疑

半信半疑

櫻坂46

  • 発売日: 2020/12/09
  • メディア: MP3 ダウンロード

ところが、自分の考えていること・自分ならこう言うということ・自分が知ったこと・自分が発表できるもの・しゃべれる内容を、決して表に出さないで 自分の中(という意味も存在も無い絶対無)に封じ込めておくのを生きるヨスガの教条信条としている癲狂な連中が居て(誰のことだろ~ね~、おまえのことだよ)、こいつらの或る種(もとい全員)となると、他人にもまたそのような生き方を要求するという始末である。

いやもっと悪いことに、露骨には「要求」しないのである。自分ではその生き方を貫こうと必死になって日々を過ごしておきつつ、相反してくる者に遭遇したら、態度と無視という手段によって要求を押しつけてくるのである。私ならそうはしませんという無差別テロ、言いはしないで示すという集団リンチ、無言でせまるという殺人行為、穏やかな注意という致死暴行、セルフフェラというノーベル賞

持っている物を出さないということによって、自分の意見を押しこめてしまうということによって、引っ込み思案という人生阻害の病弊を治療しないということによって、投票せず表明せず発信せず発言しないということによって、それらによって およそ情報という観点からどれだけの怠慢罪を犯していることか、人類文化に対してゼロ貢献とい

次回の記事に続く