地上最強のブログ

しばいてくぞ

考えてなどいませんから

よく、考えもなく一定の判断枠組みの自動動作で全自動決め付けしているだけの無思考と、実体験を丁寧に吟味して自分のアタマで考え抜いて物を言っている場合とを区別することがあって、今ではこの阿呆vs.熟考の構造が科学で実証されていてシステム1とシステム2と言ったり出来るようになっているが、その話はもちろんそうだろうことであって異を唱えないつもりどころか全面的に承服し援用もしているものなのだが、ところで、テメエでテメエの暮らしと実感からよっくよくしっかり考えて自分なりに物を言っているつもりでも実は全然まったくそうではなくて一定の判断枠組みにしゃべらされているだけの全自動うんこ製造機になっているだけのアホがぎょうさん(←ぎょうちゅうではない)居るものだ。

このテのアホが例えば自分の経験とちゃんとした計算から物を言っているつもりで【一人暮らし自炊はコスパ悪い】とホザいているのを聞くことがまま有る。どう聞いても考えても、事実に完全に反するアホの愚言でしかない。ごっっっくふっっっつーに、炊飯器でコメ炊いてマゴワヤサシイをローテしてとでもしてたら、外にメシ食いに行くとか外でメシ買ってくるとかよりも、カネと時間の「コスパ」が半分なり4分の1なり何なら10分の1なりにしかならない。どう計算してもどう行動してもそうなる。明らかに、外食でクソ飯クソ少食クソ貧栄養クソ場所代その他糞コストでボッタくられる(外食はボッタくられてしかいない)よりも、とっとと自分で炊飯器ボタン押して鍋火通しているほうが、比較を絶してずっとはるかにトクに決まっている。それがそうならないような異常で極端なメシを作ってる異常者や、ただただメシ用意がヘタクソで自分のせいで時間もカネもかかりすぎているだけのテメエ棚上げアホは話に含めていない。

それでも、自分でメシ用意しててそれなりに計算も出来ながら一人暮らし自炊は割に合わないなあとホザくアホが湧くのだが、これは、異常者やドアホでないなら何なのかと言うと、自分のアタマで考えて物言っているつもりでその実は一定の判断枠組みの自動動作で全自動決め付けしているだけだからであろう。もう、ヒトリグラシデメシ作ルトコスパ悪イモノダという観念乃至信念で頭がいっぱいのぎっちぎちになっている。この、どっかで仕入れてきた言説風説を自分に刷り込みに刷り込み込んで、信じ切ってしまっている。そんな奴だったら、そんなオツムからしたら、どんなごはん作ってて実際に総合どれだけトクしていても、何が何でも、コスパ悪いよな~という「判断」(だとして)しか出てこなくなってしまう。

もちろん、一人暮らしや自炊や費用対効果の話をしているのではない

重力シンパシー 一般発売Ver.CD+DVD

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  • アーティスト:AKB48
  • メディア: CD

本ブログ全体がそうであるように現実などどうでもよくてひたすら言論上のハナシなのだが、ここでもここでもここでもここでもここでも言ったように人類の9999千万%が考えることなどせずただ一定の観念にしゃべらされてるだけであるのと同時に、そうでもないつもりの者も思いっきりぜんぜんそうであるという問題のハナシである。

例えば批評なんかによく現れる。実はその絵面その曲その詞その構図そのデザインその論証その研究その取材その動向その解釈その〇像その〇〇の会活動その革命その戦争その実験その都市その発掘物……が、真実本当に何たるナニであるのかは、わかったもんじゃない。それの①見かけ上の印象をそのまんまに受け取る阿呆にせよ、②実はこんな捉え方をできるとのたまい出す御仁にせよ、③後世後代の枠組みからまったくモダンな光で照らす科学にせよ、どれだけ立派非立派な批評をアタマデカンガエテしているにせよ、そこまで立派なものではない。

ふつうブログ等ネット上で批評書いてる奴の100000%が①で、たまに(的外れで電波の咲いてる)②が放言しているだけ、書籍上なら(まともな)②乃至③だっておるにはおるが、それでも、本当に自由に思考をしている気配が無い。世界でただ1人自分だけが言っていることというのを持って発表しているヒト個体が居ない見たことがない読んだことがない。

なんでやんねん、人間様ぐらい高度に思考が発達していてどんな言葉でも言論でも紡げらっしゃる奴なのなら、そんなことできて当たり前だろ。それでなんで誰もやっとらへんねん、おかしいやないけ。

もちろん、先人の蓄積の上に云々他人の意見につながりながら云々とかホザき出したいのはわかる。しかしそれはそれだけのもの、それはそれでそれというだけのものだ。それと全く違う営みだって何だって何宇宙だって何存在だって、人間になら、いくらでも想像できるし、別に想定でもできるし、いやいや表明だってできるし、っていうか発信だってできる。が、なぜ誰もそうしないのか。ここで例を出すと待ってましたと揚げ足取りにき出すバカが必ず湧く(バカというのは言論の中のわかりやすい極一部分に飛びついてカジリついてそこだけしか見ずそこだけしか取り上げずそれで何かを言った気になる)から例えばこのへんの記事読んどけとリンク貼るだけにしておくが、もちろんこんな例の他に6666666億兆例ぐらいに関して言いたいことがある。例えば、どうせその内消える文例なのだが、

というたいがいおもろい本に日本アマゾンで付いてる「2018年10月27日」のレビューだが、自分なりに自分のアタマで批判的にこの本を批評しているかのように見えるだけでその実中身のまったくないカス文で、どこぞで読みかじってきた物の言い方をしているだけ、こんな物の言い方をした文章を書いてみたかっただけというアホが書いたゴミ文でしかない。この記事で見た、知ったふうな口をきいてみたがるアホのヒトモドキの典型的な奴が書いてる中身ゼロの「書評」(ではないが)。もちろん今このレビュー書いたこのアホの話をしているのではなくて(こんなアホの話などしてない)、独自の視点と自分なりの批判的観点を持って誰も言えなかろうことを書いているつもりの世の中ネットの中の文章のほぼ全部がこのアホと同列同等のアホなんだよという話をしている。このアホの文を読んで本書を読むと、本の中の一文章だけを恣意的に取り出して歪曲しているし虚偽すらも書いているのがよく分かるが、こんなんは別にこのアホに限ったことではなくて、ありとしあらゆるそれなりのことを書いているかのように見えはするレビューや書き込みや口コミのほぼ全部がその程度のものでしかない。で、このアホが、研究法や実証過程が堅実な上に重要な研究分野を拓いている立派なこの本に対してなぜ低度でお粗末な難癖を付けている付けたがるのかと言うと、こいつの文の文調で文を書きたくてたまらんから、その文調その見方その捉え方に合うようにしか本書を読めないようにオツムが限定されて歪み切っているからである。これが、考えているかに見えて考えてなど全然ないただのバカだ、その1サンプル1標本だ。(バカでないなら本書を読めばその含蓄と可能性の豊富さを感知できるし、バカでないなら、本商品の本当の欠点がクソブログどものあの気色悪く不快で汚らしい「アイキャッチ」画像風のクソ表紙になっている点だということが判る。)

自分があるかのように見える奴のほとんど全員に、自分などない。そいつは、てめえのオツムに或る時どこかで吹き込まれた観念(や思考のただの雰囲気)をべしゃったり書いてみたりしたくてたまらんだけなのである。自分に憑依している観念に強制適合するようにモノを見ようとして見ているだけなのである。結局、一定の、誰かから・どこかから決めつけられた枠組みにしがみついているだけ、みんながそう言っているその言い方とみんながそう見ているその見方から1ナノミリも外に出れない檻中の盲目畜獣にすぎないのである。ちなみに、「みんな」がすることなり「同調」ナンタラなりに批判的な声を上げるのが大好きで日々批判の書き込みをしソウダヨナーウンウンとしているどこぞの列島民がまさにそのみんなにひたすら同調することしか24時間していないこと、確固たる個とか個の自由とかぜんっぜん求めていずものっそい群集心理に埋没しきっていること、残念ながら見ての通り周知の通りである。同調はファシズムはダメだよーのお前が一番同調しているファッショだ。自分を持ってるつもりのお前が誰よりも自分が無い。「ブチ壊」しているつもりのお前が一番旧態を保守している。もうこんなのはいいよと前方と未来を向いているつもりのお前こそが、そんなのよりも百歩後ろに退行している。テキストやイメージの外観外面にだけとらまわれて陳腐なこと書いて評文書いてるつもりのアホがアホなら、自分ならこう独自に見る考えると書いてる奴が、与えられた枠組みと感じ方のルールを(アホみたいに)疑えていない。本当にその曲はその歌詞の通りその歌ってる外観のとおりなのか?しかし、その「裏」の読み方も、呆れるほど陳腐で、どこぞで聞いた風な口調だ。

結局自分病は根治しがたく、いや部分治もし難く、いや治療の端緒もつけ難いようである。そんなことを述べている本として、いかにも思い付きそうで「みんな」が是認してくれそうなしかし凡百のゴミ本でなく、

を挙げる。本ブログを読んでる読めてるぐらいの水準になら言うまでもないことなのだが、タイトルから中身がまったく想像できない本、売るためのクソ邦題でしかないから、そこ注意な。言ってる「予測」というのがこの語から連想するようなよくある軽薄なカス言説ゴミコラムクズオピニオン等ではまったくなく、認知バイアス自分病から知性がどれだけ免れているかが予測力に表れるというそういった指標の1つだということ、思い込みや枠組みの泥沼から抜け出すことや人々を描いた本だということ、それが主にもっぱら重要である(他の誰がどれだけ本書の外観と表層の議論にとらまわれて平板な読み方をしていようと)。だから、「予測」したくてその話が読みたくて本書を読んでその話ばかりが響いて残ったのなら、お前は何も考えれていず、お前には、自分がない。これには自分ならこう取り組む!という自分が、おまえには無い。

そう言えば本記事とまったく関係ない話だが、自分も思い込みが打破されたという例として、

こんなんがあるが、ここここで書いたように選挙活動が迷惑活動で国民の生活への嫌がらせとしか思っていなかったところ、考えさせられた。もちろん、取材対象からというよりも、随所で選挙取材の情熱を吐露している著者からだ。あんなものに情熱を持ててあんなものが好きであんなものを追い求めるような人がいるんだ…と実に考えさせられた。

まったく関係ない話だが、それにしても、首長決定の選挙という社会事象は国民のバイアスとヒト知能の原始性の総決算または見本市である。ここには、思い込みと信念という没知性と反主体性のすべてがあり、それしか無い。勿の論、そんなことを言う人など地球上に1人もおらずそんなことを考える者など誰もいない。いやそれは居ても、話題「政治」と話題「心理学」を会わせる議論が存在しない。たとえあっても、日本にはない。この主題にはこの見方!!この話題にはこの語り口調!!とアタマが凝り固まっているからだ。