地上最強のブログ

しばいてくぞ

それでも適当喋りますか

 

前回の記事から

い。

そう考えてくると、すんなりと世間で通っているもの、まかり通っているだけで真偽も是非も検証されていなかったりろくすっぽ考察されていなかったりするもの、と言うか総じて「通っている」ものが、敵となるのであり、したがってサンドバッグとなり、ゆえに玩具となる。言われていることや漠然と思われていることがそれだけのもので済むことなどまずもってないのであり、考えを巡らせて辿っていけば、なぜなぜ攻撃演習を行っていれば、いちいちそないに他人の知識を聞きに行ったり本などというウンコに当たったりしなくても、それなりに大概のことが見えてくる。おそろしく頭が悪いだけに、おそろしくよう考えよんねん。

終電の夜(Team K)

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  • 発売日: 2018/05/30
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例えばボディメイクに関して上で一瞬述べたが、フィットネスが流行っているのがそれがこのサービス産業の利潤追求によるもの(ちなみに体造りの上で、トレーナーや指導というのは必要ないし、食事に費やす莫大な手間も時間も気遣いも全く必要なく、必要なのは極低頻度・極短時間の高強度レジスタンスワークアウトができるちょっとした環境(ジムということになる)だけだから、年間4000億のフィットネス産業(リンク予備・リンク予備・リンク予備)で結構な部分を占めていようトレーナーの指導が情弱相手の商売なのは確かであり、しかしながらそれはおよそ教育関係が総じてそうなのであって物事は実は物事は何でも独学で出来るのである)であるのは勿論そうとして、また個々人がいい体を目指す動機、とその動機とその動機とその動機…の推測巡りや美学談義もそれはそうとして、しかしなぜ一般的にもまた健康が奨励されるようになっているのだろうか。健康奨励の歴史の研究が数々あるのは分かるがその特にどれを読んでいなくても流石に分かる、人体が健康になってトクする者が居て、それが本人なのはまずそうとしてもそれ以外にも居るとするならその本人を管理しているどやつかでありこいつを絡めて考えないと健康奨励動向が理解できないであろうということは。という話が戦時下のような国民動員体制下などの文脈で言われることは何ぼでもあっても平和が到来しているもののしかしこの上ない管理社会であるところの現在の脈絡で言われることは余りない(だろう。知らん)。そう、我々の健康は、国家が欲しがっている。国家にとって国民の身体が財貨であり、それは軍役する身体(〇〇する身体、現代思想系の物の言い方ゆうのは実に気持ち悪いな)に全然とどまらず、生産しよる身体から国家帳簿付けよる人体から対外交渉しよる人体から生殖しよる人体から国家を防衛しよる人体まで、あれもこれもである。しかし、そんなに国家に人体が必要だろうか?いやいや、必要である。世に、AIだかロボットだかが労働乗っ取る論が大流行していて、何が嬉しいのか必死の死に物狂いで空が落ちてくる心配をしている(印税稼ぎの)アホとこれを真に受けているアホがひしめいている始末だが、社会や経済や生産はまだまだマンパワーありきなのである。その人体労働力を必要とするのが企業や公務なのはそうだとしても、そいつらにそれを必要とさして自分自身が最終的にそれを吸引する必要があるのが、国家である。国家論がもう古びててグローバリズムがうんたら言いたかったにしても結局トップの最上に北米合州国がおることは否定できない(この記事この記事にアフィ貼った本読んでみろ)。世界はまだまだ国家の時代なのである。(ちなみに言っておくが単なる論や話の上でやたらと終わらせたがられるものというのはぜんぜん終わっていないものである。近代も近代システムも国家体制も諸々の伝統も諸々の「従来の」も封茎男子も包建団子もデスクトップもHDDも、全然終わっていないし、終わりそうにもないから、アホたちは「終わ」らせたがるのである。そんなアホを尻目に残念ながらソレはまっだまだ栄える。明識と学識の論者らの口角泡もアホたちの放言と似たようなもんである。こいつらにとって「ピーク」「を過ぎ」終わっていっているものというのは、こいつらにとって終わっていってほしく視界から消えてほしいものであるにすぎない。)脱〇〇のお花畑咲かしとる社会(系)学者系の観念バカどもは途上国パッカーでもして「国家」存在のデカさしつこさ悪質さを肌で感じて身で削り尻で拭いたらいいのである。そう、福祉やセーフティネットや各種保障や医療完備や栄養管理がここまで徹底されているのは、国が人々に優しいからなのでは断じてなくて、国が人々を死ぬまでコキ使いたいからである。手駒で、手兵で、手淫で、ゴーレムで、ロボットなのである、国民(の身体)とは。そこでも、賢慮や学知が国家をやっているのではない(ワケがない。戦争史から事業史から政権史から何を見ても国家が1カケラも賢くはないこと一目瞭然)証拠に、健康の維持と増進の仕方がべつに正しくはない。だから数々の代替医療代替健康代替健康観代替健康論が有るのだが、いやまあそんな話じゃなくて、そんなこと以前に、医療やカロリー確保より前に健康は主に運動で作るものであるということが国家というバカには理解できていない。(し、健康論者国家健康管理論者の99999%も理解していず知ってもいない。そりゃ、こいつら運動せんバカだからな。)だから運動面が手ぬかりであり体育教育は量も質も間違っている。最低でも、バーベルスクワットを導入したほうがいい。斯くアホのトーシローよろしく勘と出まかせでやっていることだとは言え国家が健康を要求し管理している。ここまでは誰でも言う。しかし思う、その国家とは誰なのか。いやそのぐらいのことは誰でも言う。無限責任。よって方向を変えてみよう。不図思う、古今芸術家からタレントからチューバーから、表現者が出てくるところ斡旋業者が湧き旨汁を吸いに来よる。昔なら「ギルド」的なん、今なら「事務所」とか。しかし妙で、こいつらよりもこいつらが管理している表現者のほうが明らかに儲けているし名が通っているし広範な支持を得ている。事務所の勢力とホザいたところで一般人にはそんなこと知ったこっちゃないしそんな奴ら誰の記憶にも残らんしそいつらの収益などたかがサラリーに尽きる。裏話したらカッケーと思い込んでいるアホのヒトモドキのカスがこのテの話をしたがるが、自分で何を喋っているか分かっていないアホなのである。そう、管理する側・力ある側が財力があり名望が有り輝いているわけでは全くない。事務所が縛っているはずなのに俳優が1人歩きする。国家がどこまで力が大きくても数名の英雄数名の教祖数名のクーデター首謀者にその名も首もアッサリ持ってかれる。その「国家」の「国家」らっしいいい構成員となると官僚なはずだが、こいつらなんぞ無名のチンカスであり個人としては力も意味合いもほぼゼロである。大人帰宅部員である。だから国家がこんなしょぼいモノなわけがない。事務所や結社や組合ごときに比すべきものであるはずがない。史上最悪質の社会形態がその程度のものなわけがない。国家とは為政者でも委員会でもロビー団体でも大株主でも企業上層でもブルドーザーでも核弾頭でも将軍でも皇族でもない。お前や私である。そらそうだろな。混んでる遊興地や交通機関で呪わしい混雑の張本人は誰か。呪ってるお前である。

この記事にも一瞬書いたが、ヒトの感覚というのは思われているよりも貶められているよりも実際はもっと鋭いものである。例えば

ゾンビでわかる神経科学

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  • 作者: ティモシー・ヴァースタイネン,ブラッドリー・ヴォイテック,Kousuke Shimizu,鬼澤忍
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などのように典拠も稀になら有るのだが、ヒトの感覚がそこそこやるものであることは余り言われないだけでしかし事実ではある。ここに書いてある通り、匂いしか使えなくしたら警察犬の仕事を真似れれたり、聞くには原子が鼓膜に当たる音も聞いていて、視覚となると光子2個まで検出している。他の動物におけるものとの比較で言えば把握可能量的にはいくらでも劣るのだろうが、しかしとにかく可感域の範囲内でならとんでもなく繊細微細なことをやっているようである。感覚可能範囲・弁別可能数量ではイヌにいくら劣ろうが現に匂っている限り内ではとんでもなく繊細な嗅ぎ分けか少なくとも嗅ぎ体験をしているのかも知れない。聞こえる音波域自体は狭くても聞き取れている範囲内ではとんでもなく微細な音経験をしているのかもしれない。この記事以来書いてきたように《動物にも実は有る》知能の見直しが始まっているが、さらに今度は【人間にも実はある】「動物並みの」感覚能力という見直しが始まらんといかんのかも知れない。外界から受け取っている刺激情報そのものが気が遠くなる量なのだから、それに対して何をやっているのかをそないザックリ論じるわけにもいかないだろう。このリンク先記事で紹介しているウン千億ビット・ウン千万ビットの感覚入力という議論と神経科学がまだロクに出会っていないのである。ウン千億ビット分の少々・ウン千万ビット分の少々というのは犬にもコウモリにもマスにもカケスにもクジラにもボノボにもヘルダーリンにも同じことであるはずだ。磁力を感知することが分かったにしても、それもまたウン分の1の磁力を感知しているのかも知れない。言うまでもなく(そして言わすなバカ)人間と動物とどっちがどっち話をしているのではないしそういうバカ不毛話は死ぬまでしないし死んでもしない誰もしなくていい。そうじゃなくて、ウン千億ビットウン千万ビットという実際受容量を考え併せたら感覚内容ということ自体がまだあんまよく定義されていず解明されていないのかも知れず今のまま脳がどんどん分かっていくよりも前にしなあかんことがあるのかもしれないという予感を書いているだけである。

もしかしたらまだ発見されていない感覚が有るのかも知れず、実際何個かは自分でも見つけれるであろうからちゃっちゃか見つけてみよう。例えば時間の感覚には未発見の領野が相当量あると思われる。クソ「埋蔵」与太話云々より遥かに面白い埋蔵物が予感される。そう、世の中には、あまたの議論や葛藤は抜きにして結局どうせ西暦で覚え西暦で考え西暦で表象することしかできないのだからすなおーにそうしたらいいのに、何と元号で物を言う気になるという信じがたい狂人があって、しかもあろうことか、こいつらの中には、何時何時に何事件があったかとか何時何時に何政権になったかとか何時何時に初シコったかとか何時何時に初パコったかとかいうことを「昭和〇〇年」や「平成〇〇年」で正確にイメージすることが出来てしかも実感まで出来るというタマゲた変種すら有るのである。倫敦タクシーと海馬なり点字と視覚野なり、何でも思い出したらいいが、人間は通常を逸脱した機能や感覚を得るために脳組成レベルで変容を被ることが出来る。元号人間という奇種の脳を調査する必要が有るだろう。おそるべき変容を被っているに違いない。※なお明治あたりまでしか通用しない模様。

他にも、価値感という感覚についてもまだよく見つかっていない感覚があるかも知れない。各人考えてくること、宿題な。例えばネットで物売ってみればよく分かるが物に付ける値段とは恣意的である。閲覧と閲覧者のタイミングによっては1350円付けたものが2250円で売れたのかもしれない。一体これは何なのだ。物の価格とは何なのだ。それは5角形の辺数が5であるという風に事物に固有不変に付いているものでないことは無論の勿論だが、それにしても恣意的に過ぎないか。なるほど係留(アンカリング)のバイアスが決定的ではあるだろう。それにしても思う、この物品Xに付けた1350円という数字は一体この宇宙のどこに何の根拠があってその数字なのかと。こんなもの「主観」(←まったく意味の無い語)と言っても言い足りないような主観である。何となくで決まっているものでしか有り得ない(究極的にはということだ。余計な事情通反論やめろよボケ)。つまり経済とは突き詰めて言えば畢竟心の中のモノ的なモノである。いささか心的で心理的で心情的でありすぎる。どう考えても、一定の意味では、物の値段など感覚なのである。そうであるからこそ、世の中には、次のようにホザけるような感覚すらありうる(感覚とはどんなもんでもありうる):日本は物価が安すぎるのが問題でそれが経済に悪影響であると。実に、ものは、なんとでも、言える。口を利くだけなら、一切なにも考えなくても、利ける。喋るだけのアホ、言ってはみるだけの無責任、とりあえず聞いてもらいたいだけのヒトモドキ、こんなアホが放言放屁を垂れあうアホ糞まみれの言論界では、どんなアホが何をホザき出してもそれもまたありうると覚悟しておかざるをえない。人間というアホは、しゃべらしといたら何でもしゃべりだしよるのである、参った。日本は物価が安すぎる、そんなことを感じれるなら、1人で感じとけ。感覚を絶した感覚だな。お前にこそ必要なのが言論統制だ。さて、1点だけ真理があって、日本では確かに安すぎる、クルマという、何よりも気軽に買えたらいかんものが、異常に安すぎる。(なお、《クルマがなければ》云々言い返してくるのはすべて空想と被害妄想から成る似非反論であるが、いちおう相手にしてやってこれだけを言っておこう:これを言い出すバカはただ単に自分個人がクルマに乗ってラクしたいだけなのであって、社会全体人類全体からしたらこんな個人的都合など言い出したらあかんことでしかない。なお、運輸流通関係はまったく別の話。)

泥のメトロノーム(うまくち姫)

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さてこの記事で端緒を付けておいた【とにかく何かは言っておきたい】バカ問題だが、これに関してしばいておきたいサンドバッグだが、それはつまり、

  • 言いたいことそのものを言うのが憚られるならとにかくそれに近いかまたはそれを想起させなくもないナニかはなんとか言っておこうとする阿呆、
  • そのものズバリを言うのがコワくて出来ないにしてもとにかく微量でもいいから気だけは済ましたくて何事かはとにもかくにも喋っておこうとする間抜け、
  • 相手を説得的に承服させることが出来なさそうならせめて自分の確信納得ワールドを死守するために最低限これだけでも認めさそうとしてくる奴、一言で割引してでも反論したいボケ、
  • 直接に・面と向かって・事柄自体を挙げて陳情することがコワくて出来ないのだがせめてもと事態とは何のカンケーもない(がこいつの中の微弱な知覚上は事態を連想させるものではある)みみっちい行動や仕草を繰り出してくるバカ、

などのようなマヌケのアホどもである。こいつらは、会話上でなら、のらりくらり・ぬたりのたりと、それはもうぬらぬらぬらぬら、認めるでもなく譲るでもなく怒るでもなく、相手の言い分で自分の確信ランドが侵犯されないように浸蝕されないように何とかカンとかみみっちい抵抗を頑迷に続けているアホである。こいつらがこちらを認めることなど未来永劫無い。こいつらは自分のやっていること・やってきたことが絶対完全の正義で究極真実だと信じて止まない隠れカルトであり、どれだけ話しても得る物の全くない発声機械である。珍しくない人種であるどころか、自分が強く出れない相手に対している時の人類の1000%がこれである。行動上でなら、このバカは何をやってんだ?という不可解行動・不可解動作・不可解仕草・不可解ジェスチャー・不可解クセを繰り出しているアホである。これはこいつらには不可解でもなくて、というのは、何か一矢報いたいという漠たる観念だけが残留していてそれで無意識自動的に何がしか体が動いているからであり、空間や空気に何かをしたら相手にも何かしたことになる気になるとこまでアタマが堕ちているからである。こういうのを転位と言っても転化と言ってもいい。相手に何もできないなら、最低でもナニかにはなってるナニかをやっておいて気を済ます、そんな無意味のレベルにまで堕ちれるのが、人の心というものである。

こういった、直接ソレそのものに向かうことが出来ないならせめて近縁の何かや少なくとも最低限のナニかはしておきたいという、恥ずかしいにも程があるようなみみっち根性、人心のどこまでもダサくなれる呆れ果てた本性、こいつの転位行動だが、色んな場面で見られるもので、上に書いたことも抽象的に書きすぎているとはいえ心当たりある者ならニヤニヤする内容だろう(しかしお前のことでもあるぞ)が、次のようなヒト動物行動など、思い当たるフシありありだろう。直接非難はできないがどうしても1発くらわしたい所の相手が同席している時に、同席している別の者にその話題と近い話題を出してきて非難の替わりにするというネチネチ根性、こんな漫画レベルの行動なら浅はかな誰にでも思い付くことだが、これの逆など、どいつもこいつもやってはいるくせになかなか思い付かない:すなわち、今その魅力に直撃されていますわというタマゲた人が眼前に居て、しかし面と向かう的なかたちで直に称賛することがしにくいとか憚られるとか照れがあるとか抵抗があるとか「すなおになれない」とかいう場合に、同席している別の者に対して当の賛辞に近い何かを向けてしまうというそんな行動、または、其処に居ないところの特に大して魅力もない別の者への賛辞的なものを喋り出してしまうというような行動、これである。こういった【本当に褒めたい相手でなく隣の人に誤爆してまうバカ】行動、稀ではないどころか、魅力や長所が自明すぎる相手に対している時の人類の1000%がこれをしよる。一般に、良さや凄さや美しさが一定閾値を超えるか圧倒的である者、一言でimponierendな人品、に対する反応というのは、おお素晴らしき哉あなたよといったストレートな賛辞であることなどなく(それは漫画や映画や小説)、ほぼ必ず、何事もないかのように涼しい顔を決め込む、という反応である。人間は本当にスゴいモノが傍に来ると素直に驚くのではなくてアホみたいに取り澄ますのである。かような人物が衆人環視下に現れたときの群衆の反応などその最たるものであり、もし仮に素直に嘆賞し出したとしても、それは、しても大丈夫と分かっている既知の有名人だからであるに過ぎない。どれほど魅力を放っている者、どれほど有能ぶりを証示した者であっても、それが未知の初対面なのなら、誰も決して素直に誉めようとしない。そして其処で「隣の人に誤爆してまう」バカ行動というのは、絵にかいたようなぶざまな無意識行動である。その隣の別に誉めるにも値しない相手、或いは本当は惚れてもたワケでも何でもない第三~四者をなんで誉めてるのかに、自分で気付いてもいない。

この世界が雪の中に埋もれる前に

この世界が雪の中に埋もれる前に

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  • 発売日: 2017/07/04
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これが人間ドーブツの行動であり、こういう観察が出来るのが地球立人間動物園ならでわの特典である。斯かる動物の素っ頓狂ぶりを観察していくのだが、今書いたことと関係するだろうが、またしなくても別にどうでもいいのだが、と言うかふと思い出しただけなのだが、社会が平等か階級的かそうであるべきか実態はどうであるかという話、こういう「おはなし」に属するおはなしと、人間が事実どういう動物なのかという事実とは、ぜんぜん全くと言っていいほど、「悲しいほど」(なんも悲しないわボケすぐ悲しむなボケ)、カンケーがない。それは、この動物が階級社会絶対一元主義の上下関係溺愛熱愛動物だからであり、人間というものの(本)質ないし(特)性から言えばこいつらには上下関係や差別しかありえず存在しえないからである。左様この動物は上下関係が大好きである。世界の機関や組織を見渡す限りそれが分かるが、いや例えば全員が一丸絶対平等となって一枚岩を成したほうが明らかにいいしトクだし合目的的であるようなミニ組織でも小集団でも、心の底の衷心の心情から、すすんで上下に分化したがる。例えば社会的弱者の特定集合など、この内部の中では断固平等公平を貫き自分らの敵に立ち向かっていけば明らかにいいはずと思えるのだが、こんなところでも、それはまあ身分の別先輩後輩の差別先人後人の権力差を好んで作りたがる。何なら、差別に反対するはずの組織内でも、それはもうキッレーに上と下とその間とその間の階級階層をびっしり作りよる。いや不図我が身を振り返っても(そして自覚の足りない者ならなおさら)、普段どれだけ名望者や高名人士のエラさを錯覚妄謬と断じているにもかかわらず、そのテの者に接するときには自分から進んでそいつをエレーやつだと見ようとしている。進んで身を屈めてしまう。進んでそいつにグレートでスッゲー人との名札を貼ってしまう。進んでへいこらしてしまう。進んで畏敬しようとしてしまう。進んでそいつが自分や他の何かの「上」であると設定してしまう。こういう悪癖を絶つことが出来る者など断えて居ない。人間には社会という状態が、ではなくて上下という関係が付いた社会状態が、呼吸よりも摂食よりも必要なのであり、他人との上下関係や支配被支配関係とその確信が無いと飯も出来ず息も喉を通らないのである。ここまで断固ゼッタイに、2個体以上さえあれば即刻迅速に、上と下を定めてそこに安住しようとする習性、是、自然界と動物園に見る猿類たちの習性そのものである。かくまで断固ゼッタイに人間は差別動物であり階級猿類なのである。もちろん事物に上下があるのは固よりでありピラミッド状でこそ部分たちが機能するのこと分かりきったことである。しかし今は「機能」と言って済む話をしていない。明らかに反機能明らかに不経済明らかに非効率になるような仕儀でもヒトという奴らはしてくさりよるのであり、単なる「~のために」に回収できる上下分化以上のことを何ぼでもしていよるのである。それは、太古にジャングルなりサバンナなりどこぞなりで権力争いとグルーミングとマウンティングに明け暮れていた数百万年間の続きである。かくして、スキあらば小競り合いとプチ小競り合いとナノ小競り合いを繰り返すこと幾億幾兆回、世界中の学校で無数のいじめウンタラを発生し倒し、小まめに小まめにクーデターを繰り返し、隣人があれば律儀にいがみ合い、隣人は常にコロしたい厄介者であり、新参があれば排斥し、我も我もとお山の大将お山のマドソナに手を伸ばし取って替わり、波頭や気泡のごとく盛衰栄枯をひたすら繰り返し、歯を剥いて、平れ伏して、毛づくろいして、交尾する。どこまで非機能的で反民主的で虚無的で反人間的であろうと、この種は、この種のしたい事をひたすらしたがるのである。これが広大なシステム1の世界(の一部の出来事)だ。その逆巻き沸き立つ荒波におびやかされる絶海の孤島がシステム2の領界であり、いま言った比喩でカントが見ていた「純粋悟性」である。では何故そうであるにも関わらずこのサルはこのサルの習性にどっぷり従わずに平等社会や法治国家や民主体制をもまた目指し築こうとするのかと言うと、それは上下や階級や差別がもっともっと徹底的になりうるために高度な管理体制を敷きたいからだこれが「統治」だ「支配」だその完成だなどとさかしらに口真似をホザいても何も分かるものでなくて(その超高度管理社会がだったらなぜ特に民主平等を標榜するのかということも説明つかない。管理社会警察国家だけならどんな体制下どんなカースト下でも可能ではないか)、ありうる回答としては、この種はこの種がこの種であるところの特徴や本質を止めたり捨てたり乗り越えたりしていくという世にも変わった奇種だからである。自分がそうであるところの限定された自分、これをヤメていくことが出来るか少なくとも止めていこうすることが出来るということが、「人間」の最終唯一の本質である。そういう否定的作用が、ヒトに於いて特段顕著に発達していると言われる意識というものの役割である。それはしないさせない禁ずる手を引くコトを生業としている。

さて斯ような人間動物のいともマヌケでちょっぴりお茶目☆彡な行動を観察していくのだが、こいつらの愚行は主にその用いる言葉に現れる。アホなことホザきよんねん!!どんだけかと言うと例が200,00万京個ぐらいあるからほんの数例だけ抜いて来るとして、例えば、ここで書いたことと違って重度の夜型である自分などがダマされる悪質な大嘘が流布していて、それは、睡眠状態に入らなくても安静状態で伏している(いわゆる「横になっている」)だけでも何割かは睡眠した効果が得られるなどという詐欺詐称のウソでたらめのことである。そんなワケがないだろクソボケ。脳が睡眠の状態に入るという意味での寝るということをしない限りは、睡眠の効果は、0.0000ミリも得られない。布団の中にいるだけでは、時間の無駄以外の何にもならない。なぜか何処でも言われないが自分など睡眠の過不足が消化力に直結するもので8時間を下回ればそれにカッキリ比例して腸がヘタレていきより、完徹した後には何を食べても一切消化せず下痢するのみ、逆に10時間も寝た翌日にはどんな暴食も受け付けれるといった有様で(おんなじですって奴おるやろ。声上げろや!!)、例えばこれを指標に、また別にこれだけでなく他の体調も指標に、長年冷静慎重に観察してきて分かったのだが、睡眠状態に入らなければ、入らないだけ寝ていず休んでいず何の効果も得ていないのであり、逆に、「横になって」いなくても睡眠状態に入りさえすれば入った分だけの効果が得られる。脳か脳波かが睡眠と言える例のあの状態になるということと、「体を休める」とかいうあの行為をするということとは、まったくの別物であり、片方が片方を補償することなど、金輪際ない。

それにしても、流布しているデマを自分の身で検証もせず自分の体に聞いてみもせず鵜呑みにして次々に伝言していくというアホのカスが跋扈しているものである。ここで一瞬書いたが日本の住居にどんな建材が最高最適完璧独尊に適しているのかというのは、今までに使ってきた建材の伝統という因習からは説明できることでないだろう。木がぎょうさん生えててしかも加工しやすいものだから木を使ってきただけだ。列島の住人が、考え抜き・測量し・調査精査して・研究し尽くした結果として木と畳と和紙を選んで使ってきたのでは、ありえないだろう。ここでアホがしがみつく「風土」などというオカルトを相手にしても仕方ないし、この意味不明語が気候とか土壌とか地形とかを意味しているなら、それらに照らし合わせても、植物系の建材が天地神明の客観的絶対普遍性を持って日本の住居に適しているという真実の保証もべつに無いだろう。検証もなく、かたくなな信念があるのみだ。コンクリのマンションは夏涼しく冬暖かく木材は外気と隣り合わせだが、これが自分の肌身の実感で検証だが、伝統カルトの「風土」信者たちは自分に嘘をつき続けるのだろうか。(なお「風通し」なぞ一顧だに値しない。)こういうことに関して説明というのをしている者は、一体、有る程度のデータや実体験に基づいて冷めた目でコトを根拠付けようとしているのだろうか、それとも、伝統にしがみつきますと発表しているのだろうか、どっちなのだろうか。自分で分かっているのだろうか。もちろん用語がオカルトなほど後者寄りである。

説明をしている気になって何の説明にもなっていないとか信念を表明しているだけになっているとかいうことしばしばであるが、例えば大災害時に暴動も起こさず秩序も混乱させず行儀よく配給とかの列に着く国民のモラルや意識が自慢されるが、モラルや意識からこういった行動が説明できているのだろうか。同じ行動を、他人と違ったり目立ったりすることを病的に怖れる心性からも、半世紀以上かけて骨身に叩き込まれた法治社会の圧力感からも、暴動人数に達しないという単なる閾の統計傾向からも、何からでも説明できるのだがな。(と、日本で災害時に暴動や略奪が起きないなどという大嘘を信仰しているバカどもを相手にしてみたが、それにしても、人は災害時にはパニックになり暴動略奪に走るのが常であるという事実無根をいまだに信心しているバカのマヌケのアホは、

でも読んどけ。そんな邸能なら本よむ体力もないだろうから、サボらさしてやろう:161ページからでいいから読んどけ。読んでお前と世間の勘違いと無知にびっくりしろ。)しかも、マイナスな説明プラスな説明どちらにせよ、それが一時期世相を説明しているのか、それとも「国民性」とかいうオカルトを信仰告白しているだけなのか、知れたものでないではないか。近年限定のことを太古以来のこととたやすく錯覚してしまうからな。実に、結局自分の喋りたいことを喋っているだけ、見たいものを見ているだけ、口にしたい「国民」ウンタラを口にしているだけに過ぎないのなら、何のことはない。秩序だ道徳だ「集団」ウンタラだ、おまえそれ言いたかっただけやろ!!

それでもテキトーしゃべるか?

それにしても、上で触れた冷めた目というもの、これは注目しといたらいいものである。もちろん冷めているだけの目…と言うか冷めた目でいたがっているだけのアホなど論外だが、ある程度事柄を突き離すほうがよく分かることがたしかに有るものだ。

よく著作などで、自分にしっぺ返し的な結果になったり自己言及的な顛末をたどったりする事に対して「皮肉なことに」「皮肉にも」「~とはなんとも皮肉なものである」といったような評言を添えることがあるが、だからどうしたというものである。それが「皮肉」であるという(ゼロ)情報またはお前の筆のニヤけを聞かされてこっちはどうしたらいいと言うんだ。それが「皮肉」な成り行きであるということがその事柄やその人物に何を付け加えていてその事柄や人物の説明に何を付加すると言うのだ。いや何も付加しない。著者が何となく言ってみたかったことであるにすぎないからだ。それ言いたかっただけやろ!!そんなことを本に書いて読者に読ませるなボケ。もっかい言うが「皮肉」だ(と著者が思っとる)からと言ってだから何なんだと言うのだ?仮にその事態が「皮肉」な運びではなかったとしたら「皮肉ではないことに」とでも書くんか?反対も同時に意味を持つものが意味を持つものだが、「皮肉」に関してはそうであろうとなかろうと純然無意味だな。… とまで言ったげないとワカラないほど、アホとはアホなのである。

感激や感動やリスペクトなどには多く錯覚乃至1人よがりが有って、自分が見ている相手というよりも自分が見たい相手を見ているだけなものだが、これはエピソードや思い出というものの解釈に於いてもそういったようなことがある。大体人に惚れ込むのは何かの忘れられない場面に感動したことがあったとか、「がんばって」いる姿に胸を打たれたからとか、何かしら決定的な絵が効いているものである。しかし当場面の真意ときたら是えてして無情なもので、そこで輝いていた当人はその輝きに打たれた惚れ者の思っていることを思っていたのでも何でもなくて特に他意もなく他愛もないルーティンをやってたとか何の気なしに何の気もなくそれをしてたに過ぎないのであるということが、えてして有る。当人にはどうでもいいことや覚えてもいないことをしていただけの場面、そうでなくても惚れ者が期待していることとはてんで別なことを考えて或いは考えもしないでいただけの場面、かもしれない。実に想いというのがこうして一方通行なもので、それは意図や情報の一方通行でもあって、想っているほうも1人よがりでオメデタイなら、想われているほうも自分1人以外の内面など判らず知らず1人だけよがりのオメデタイもので、且つまた後者同様前者も人の心知らざる薄情者ではある。それはともかく人間関係とはこのように自分に都合のいいイメージの投映し合いなのであり、特に自分が見たいだけの他人の発注購入なのであり、自分ランドの植民地の検地にすぎないものである。人は人が欲しいのではなくて自分を増やしたいのである。ここから好意というものもこういったものになってくる。人にしてあげたいものや与えたいものというのは自分がしてもらいたいことや貰いたいものなのであって、相手の需要にマッチしているかどうかをそこまで相手そのものに即して吟味することなどない。ヒトというのは何がどうあっても互いに薄情者で1人よがりな社会性でやっていくという奇ん妙奇っ怪な社会動物なのである。よって下手の中途半端に他人ワールドに入場してしまうと悲喜悲哀こもごもすることになる。そして下手に他人ワールドと外交しないでいる根っからのエゴイストが対人関係でことごとく成功することが描かれたり知られたり悔しがられたりするが、まあこいつ自体はただのアホなのだが、こいつの行動はこいつが構成員を成す生物種の行動型にぴったり即してしまっているのであり、そりゃ上手くいって当然なのである。そして人間は自分が構成員を成すところの生物種でなくなっていくことが特徴なのだから、他人ワールドが存在することを認識することが出来るようなそれはそれは奇っ怪な動物なのだから、別に「当然」でもないのである。