地上最強のブログ

しばいてくぞ

ありそうでない

二人セゾン(TYPE-C)(DVD付)(通常仕様)

二人セゾン(TYPE-C)(DVD付)(通常仕様)

  • 欅坂46
  • 発売日: 2016/11/30
  • メディア: CD

例えば「花のない桜を見上げて」で腕を回す振付は何を意味しているだろうか。他の箇所で回すのは?二手に分かれて輪になってのスキップは?佐藤詩織中心のパートは?そら、意味があるに決まってる。いかようにも解釈すればいいし、上野氏ならすでにどこかで説明しているかもしれない。では、MVは?相当数ある他の曲は?他のグループは?もっと言うと、他のジャンルでは?その音楽になぜこの身体動作なのか、この姿勢と挙措が何をどのように表しているのか、どんなことをどんな風に象徴しているのか、といったことの説明が体系的にできるだろうか。説明を導出する理論装置があるだろうか。振り付けというものを作品だとすると、この作品の解釈手段が歴史的十分にあると言えるだろうか(教練法習得体系が確立してて歴史が有るのとは別の話)。このジャンルができてまだ日が浅い?いや、この「作品」の数量は想像を絶するほど膨大である。将棋の手やメロディーがいつか出尽くすという話があるがこれと似て身体がしたことのない動作がやがて無くなるのじゃないか(つまり無くならない、それらの《枯渇》は比喩、石油とはちゃう)と言えるほど、それほどの蓄積がある。他愛のないサブカルチャー?しばしば億単位に達するつべの再生回数からも分かるように、ポップスというのはおそらく有史上最も多数の知覚に受容されている表現ジャンルである。風前の灯の各種高尚芸術・各種伝統芸能と比べて入場者数・購入者数・関係者数の桁が何個も違うことぐらい分かるだろ。パルテノンからシスティーナ、ルーブルからニューヨーク、忠臣蔵義経曽根崎から国立文楽劇場、よりも、4分足らずの1曲のほうが、比較を絶して遥かに多数の知覚に届いていることだって、10分そこらのMVのほうが、比較を絶して遥かに高カロリーの感動を生んでいることだって、ありうるだろう(あるとは言ってない)。そこで中心となる振り付けという作品を今話題にしている。

芸術に説明がないのではなくて、反対に、有るところにはごまんと有る。音楽なら、楽音の音響学レベルでの定義付けから、数10声にも至るポリフォニーの方法論から、脳研究にも寵愛されるリズム論からと、潤沢に説明の体系が有る。特定楽章の諸旋律の組み合わせが具体的にどのような情動に作用しているのか、或る和音が何個どのように配置されたらどのような効果を生むのかが、よーく分かっている。1幅の油絵をめぐって、その色の服装のその人物のその配置がどのような心境に対応しているのかをめぐって、遠近法の細目から成立背景から観賞側の内面状態までをもめぐって、何頁の言葉が費やされることか。ところでそう考えれば彫像には絵画ほどには解釈の蓄積が無いようである。仮説だが人間は実は3次元以上に弱いのでないか。現に2次元に満たない言語芸術であるなら是いやというほど説明がされているではないか。同じ奴ばっかりが取り上げられるにせよ、詩作品に関しては、韻律の処置から音素の意味論から語彙の統計から語りの間合いからと、説明のための手段が目白押しである。とはいえ、そうであるからこれらの芸術の説明はもう十分と言っているのではないし、むしろ足りてすらいないと思う。中には全然足りていないジャンルも有って、たとえ伝統芸術であってもそうである。和の芸道などどうだろうか。今生けたゼラニウムとキキョウの本数と長さと傾角がどのような効果にどのようにつながるのかを理論的に満足に分析できるだろうか。そのための解釈法が有るだろうか。一方現代芸術に目を転じると、映画が、視覚構造から精神分析から映像文法から数々の観点から解釈が蓄積している。解釈器具が他の分野からの流用である点で文学批評理論と似ているが、とにかく映画には映画学が有ると言える。コレオグラフィーはどうだろうか。身体表現という作品をあの手この手で解釈できるように道具立てが揃っているだろうか。基礎やアウトライン、教本や教授法ならもちろん有りその本が有る。が、舞踊学が有るだろうか。ないのではないだろうか。やれることが数限りなくあるのに。個々の振り付けそのものから、これと曲調や詞との組み合わせ、背景や衣装や制服やといったもの全部が、数限りない種類の効果を有している。咲良か友梨奈かでもまた違う。

有るものには説明があり、ないものにはない。たしかに地政的なものも無視できない。(どうでもいい)ハイネやヘルダーリン、(クソどうでもいい)ジョイスプルーストに費やされた言葉と邦文学作品の評論とで、数量に雲泥の差があるが、それは、かたや何十もの言語が受容する欧米言語作品たちであり、かたや列島の外にほとんど出ない作品たちである。(ところで言語数といえば、生前現地でも無名のにいちゃんだったカフカに、Wikipediaで152の言語数のページが有る。(ただ、Wikipediaがページによって言語数表記に多少の違いがあるので、挙げてく数字には1~2程度の誤差がある。)ブレヒト95やヘッセ99や父マン104を大きく上回り、ニーチェ149をも上回り、ルター161・ゲーテ171やホメロス170やダンテ172に迫る(シェイクスピアで192)が、こんな権威で塗り固められた連中とおよそ正反対の人物だ。地政など自力で超えれるものではないのだろうか。それはともかく、このようにWikipediaの言語数から受容範囲を推定する方法なんてのも、やってる研究者いないだろう。本記事の主題である知の盲点の1つだろう。ちなみに日本文学だと、紫式部125が抜きんでてすぎてて(『平家』が21で清少納言が49)、明治大正の大物連が漱石48・鴎外30・他はもっと少ないという惨状で、三島由紀夫82や川端康成92が意外と村上春樹78や大江健三郎78を上回る。なお東野圭吾で13、宮部みゆき13、J・K・ローリング113、ケルスティン・ギアで15、ガルシア=マルケスが流石に144。こうやって続けていると色んなことが判って定量的知見につながるぞ。)そしてポップスの身体表現作品は上述のように(おそらく)世界中で数億人に受容されている。にもかかわらず、同じぐらい広範に受容されている例えば映画と、同じぐらい豊かな説明体系が果たして有るだろうか。振り付けの身体動作の読み解き方が、十分に著述され出版されているだろうか。

いやそもそもの問題として、身体表現一般がもたらす心理的効果が総じて、「学」と言えるほどまでにシステマチックに研究されているだろうかと疑問である。表現者側の《運動と脳》な話ならあっても、鑑賞側の解釈のためのSymbolikが無い。他の例なら体操だってそうだ。器械体操よりも表現性に寄っている新体操になってくると、個々のアクションの1つ1つが何を象徴しどんな鑑賞効果をもたらすのかを多少でもいいから体系立てて説明してもらいたいものである、審査視点とはまったく別に(同じことがこのジャンルにも言える)。身体表現のうちジェスチャーなどにはそれなりに研究もある。くだらん。一方身体運動芸術の表現論・表現理論、振り付けの記号学、コレオグラフィーの心理学が、無いか僅少なのである。ボーカルはなぜ前蹴りするのか。

心理学の意義を批判したり何ならこれを終わらそうとしたりするアホもあるが、心理学は大して寄与できないのではなく(

増補 オオカミ少女はいなかった: スキャンダラスな心理学 (ちくま文庫)

増補 オオカミ少女はいなかった: スキャンダラスな心理学 (ちくま文庫)

  • 作者: 鈴木 光太郎
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2015/05/08

    283~295ページ参照

)て、反対に、発言が足りてなさすぎるのである。仕事が疑わしいのではなくて仕事が少なすぎるのである。身体表現の記号学がいかにも手薄だと述べてきたが、こんな分野にこそ手を出してしかるべきものだろう。現時点でそうしてるよりももっと沢山色んなものに手を出さなければならないのであるし、しかも別に心理学に限ったことでない。人類の知的営み全般が、致命的に仕事足らずなのである。

たしかに、意外なものに説明がある。いつも個人攻撃されるあの人物が思い浮かぶが演説というものにそれなりの分析がある。作品研究の外に作品出版者の研究が有る。本当に、実にいろんなものに研究があり、古代中国の言語哲学が研究されている。実にいろんな貴重な情報が収集されてきた。米大陸先住民の言語という大宇宙の50以上の言語に取り組み100万ページ分の音素を収集し人類の知に考えうる最高度の貢献をしたジョン・ピーボディー・ハリントン(John Peabody Harrington, 1884–1961)のような人物のことが日本語で読める。他に幾らでも例を思い付くだろうし、思い付け。そう、有るものには、説明が有る。何故おかしくなってなぜ笑うのかについての論考が仰山ある。ただしなぜ面白くないのか・なぜ退屈してしまうのかについては十分に論じられている気配がない。笑い研究は盛んだがシラけ研究はあるだろうか。飛行機がなぜ飛ぶのかというどーでもいい話が盛り上がる一方、走る自転車がなぜ倒れないのかの説明があるのには、いたく感心する。何なら、走ったほうが雨に濡れないかどうかの考察がある。歩行のメカニズムはしつこく研究されてる。が歩法はどうだろうか。まして歩く人体の美(醜)学などむしろしつこく研究されて欲しいぐらいだが、有るのかどうか。説明とは、ある物にはあるが、ないものには呆れるほどないのである。

  • 怖い話をするのも聞くのも一種の快である(だって娯楽やんか)。それを低能の伝統語彙が納涼とか呼んでいるが、要するに快だ。ということはカタルシス論の俎上に乗るかも知れない。乗ってるだろか?或いは恐怖対象が目の前には無いという場面での語りなのだから、ホラー鑑賞と一緒だ。だから窃視=映画鑑賞論にも取り込める。取り込んでいるだろうか?
    「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)

    「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー

    • 作者: 岩本憲児,斉藤綾子,武田潔
    • 出版社/メーカー: フィルムアート社
    • 発売日: 1998/01/01
      にローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」が収録してある
  • 覚醒時のほうが睡眠時よりしっかり消化していると言う。だったらずっと起きてりゃどんどん消化される筈だが、睡眠が足りてないほど腸を壊す。逆に、食後すぐでもいいから寝さえすれば腹がすっきりする。おかしいではないか。一般の説明と合わないぞ。こう断言してる奴など嘘つきなわけだし、こうホザいてる奴らは誤情報を垂れ流しているわけだ。寝ている間のほうが活発に消化されるぞ!!!かと思えば正反対のこと言う者もある。どないなっとんねん。(なお本ブログでは知恵袋をさんざん悪しざまに言ってきているが、実際は、専門研究や学問が本記事で例示してるような素朴な数々の疑問にろくすっぽ取り組んどらん役立たずのボンクラであるのに対して、知恵袋は、日常気になってることやふと気になったことに本当によく答えてくれるものである。回答してる篤志碩学たちに名誉あれと言うべきものである。)
  • 引用の必要もない(ししたくない)ぐらい「ハンター×ハンター」には手が喋ってるコマがやたら多いが、確かに手つきは色んなことを喋る。ジェスチャー学がこれをどこまで研究できるのだろうか。今後もしないつもりだろうか。
  • 帳簿上の都合とか差し引いても考えても、人間はキリのいい数字に行きたがる。5000円ほどありますとは言えても6660円ほどありますとは言えない。このことの心理の研究は有った気がする。しかし、全体からすると、「してしまう」行為のほとんどが手つかずである。なぜ本は頭から読んでしまうのか、なぜ文章は冒頭から書いてしまうのか、なぜ原則論から始めるのか、なぜ人間は初めと始めの頭から仕事に取り組んでしまうのか、そっちのほうが非効率で拙劣になってしまう時であったとしても。そして何故シーケンシャルアクセスしかできないのだろうか。ランダムアクセスでやってみたほうが上手いこと行かないかどうかなぜ試行しないのか。情報に序列順番などないのに。
  • 手作業の巧みさの研究があって色々な手作業が脳内マッピングの観点とも絡んで説明されていて、感心できそうなのだが、いかんせん偏ってる。楽器演奏とかばっかなのである。ブラインドタッチはどないか。クロースアップ・マジックは?動画が山ほどある数々の職業上の手作業は?巧みさの研究には、展望があるというより、今後研究されることが無いであろうものが失望されるばかりである。格ゲーのコンボや最難度テトリスなど、まさしく目を見張るような超絶技巧であるが、研究されることなど未来永劫ないだろう。ヒトの脳がそのためにここまで進化してきたと言える最たるものが驚異的精巧な手作業であるのだが、にもかかわらず、これぞ人間知性だとして歴史上これまでに論じられてきたものは、御存知のようなものばかりだ。
  • 色の名称がふんだんにある一方で味の名称がわずかしかない話を
    言語が違えば、世界も違って見えるわけ

    言語が違えば、世界も違って見えるわけ

    • 作者: ガイドイッチャー,Guy Deutscher,椋田直子
    • 出版社/メーカー: インターシフト
    • 発売日: 2012/11/20
    の94~97頁でしているが、分類が少なすぎるというものも確かに思い当たる。「感覚日記」はそういう話ではないものの、網膜と錐体が捉える感覚以外の感覚に色名称並みに旺盛に分類名を付していけば結構な数1000にも達してしかるべきだろう。
  • 小分けで多回数食事して大食い防ぐという話ならウジャウジャ有るが、その反対が全く無くて、つまり、バイキングに張り切るときには事前に物食っといたほうがいいという事を誰も言わない(知らないかまではわからん)。正確に言うと、大食いの数時間前。14時入店のつもりなら7時に或る程度食っとく。(ちなみに、昼の12時になったら食事という固定強迫観念があるが、バカバカしいだけだから「昼休み」という風習を廃止してくれ。その分給料増やせ。お前たちは「食事休憩」というエサを与えられる動物だな。)そうしたほうが、腹背中くっつく空腹で臨むよりもスムーズにぱくぱく行ける。こういうのも、素人考え俗衆イメージが見当外れするところだ。ペコペコであればあるほど腹が受け付けるとついイメージしてしまうが、実際はそうではない。で、なぜこうなのかが、分からん。説明が欲しいが、無い。おそらく、どこにも無い。というか胃腸はつくづく入って出る・入っただけ出るものではない。便秘5日目でも本日便通5回目でも、どちらであっても、体調にも腹具合にも食事量にも体感できる違いがなく体重さえ違いない、そんなことがあるって人もあるだろう。つくづく、目に見えて入った分だけが腹に入ってその分だけが(直腸から)出るという単純なイメージと合わない。それの詳説ページがあるか?
  • 食い放題やバイキングと言えば元取るだの原価だの利益だの溢れかえってる話だけが溢れかえってくさっているが、何故なのかどこの誰も気付かない事があって、普通の外食店では何がどのような盛り付けでどれだけの量出るかが店側から決められているのに対して、バイキングではそれを自分で決めることが出来るという事である。何をどれだけ食べたら元が云々というのは、低能アホの関心であって、大事なのは、何をどれだけ食べれようと食べれなかろうと、自分が取りたい物を好きな量だけ好きな形でビュッフェから持ってこれて或いは注文できる、というのが、食いほ飲みほの真の価値である。〇〇放題では、自由を買っているのである。買った中身が金勘定上損失なのか利得なのかは、ぜんぶクソどうでもいい話である。自由を買い選択の快を買うのが、〇〇放題の真意である。
  • 風邪を治す方法と言えば、どこのどいつもこいつも同じことをしゃべくってるが、自分は長時間の睡眠ではまったく効果なく、食事を抑えるほど治りが悪い。特に炭水化物だがドカ食いをすればするほど調子よくなるし、睡眠も椅子で短時間居眠りすると調子よくなるし、ボトボトに寝汗かくと一気に治る(「脱水」とかホザく気)ない。風邪の時にはどれだけ「激しい運動」をしても悪化にも回復にも全くつながらない。といったような知識言説は、皆無である。同じような体質だという人が居たとしても。
  • 世間一般で言ってることの通りに自分の体がなってないのならそれは発言して情報に寄与しろと言うものなのだが、言おうとしない。例えば、暑いと寝れないというバカの1つ覚えしか見当たらないが、明らかに、暑ければ暑いほどすんなり寝入れる。(教室が温かいから寝てしまうのであって、窓開けて寒風入れたら飛び起きるだろ。)そして、熱帯夜ほどストンと寝付ける。夜眠れなくなるのは秋からであり、冬にこそ、布団の中で目が冴えないことがなく、昼夜逆転しないことが無い。明らかに、「うだるような」暑気の季節ほど早寝早起きが簡単にできる。暑クテ眠レナイ・熱帯夜寝苦シイと世間で喧伝しているのに騙されてんのじゃないのか?言葉に騙されて感覚を歪めてるのじゃないのか?というような言説がこのブログ以外にまったく存在しないのだろうか。
  • 関連して外気の体感には気温の話ばっかりだが、無視軽視されているよりは遥かに湿度がデカい役割を果たしている。お前が不快に感じている空気のかなりの部分が高湿によるものだ。紫外線照射量から考えても旧暦の季節名称が正しいが、実際8月は、素直に感じれば、暑いだけであって、不快ではなくなっており、空気はマジで「秋」になってる。湿度が下がってるからだ。木陰涼しいなんてこともあるぐらい下がってるからだ。なおこのような日向日陰の体感差も、湿度による。逆に高湿度であるほど空気が均質になり、気温が下がりにくく上がりにくくなって、何時でもどこでものっぺらぼうの体感になる。雨の間は夜冷えにくい。反対に天気いい夜ほど冷えるリスク高まる。冬に雨だと(陽光無いのも手伝って)朝の低気温からなかなか変化しないから午前にクソ寒い(ゆえに悲哀感煽られて自殺する気になりやすいかもな)ことになるが、午後から急低下しないから夕方急激にクソ寒く不愉快になるということもない。晴れだと逆になる。こんなことも、事細かに考察してちゃんと公開している論を見たことがない。 
  • この記事で述べたことの続きだが、言語システムの隠れた不足のこと。例えば日本語で、「できる」が(デ)アルに付けにくい。SEIN KÖNNENが気軽に言えないのである。アレル/アレナイという結構がどうしてか言いにくい。おそらくだが「恋を語る詩人になれなくて
    制服の芽

    制服の芽

    • SKE48
    • 発売日: 2010/04/28
    • メディア: CD
    は「恋を語る詩人であれなくて」かも知れない。しかし、こうは言いにくい。抵抗がある。何もおかしくはないのに。そう、「あることができる」も「あることができろ」も「あれよ(や)」も「あれれろよ」も特に何もおかしくはないのにも関わらず、言いにくいのである。「ですます調」などとは言うが、誰しも不便を感じているようにイ形容詞には接続できないものだった。「ですます調」などという言い方をするとこれさえ付けたら何でも手軽に敬語になるかのように取れるが、到底そんなことはなく、イ形容詞以外にも付けれないものがまだまだある。はっきり言って現在でも「ないです」におかしさを感じないことは誰にもできない(正誤の話ではない)。こういった、文法体系上は違反ではないのになぜか作るのに抵抗がある結構が、様々な言語に有るだろう。それらが収集網羅されてもらいたいものだ(サレルにモラウも付けにくい)。だが、そんな網羅資料、まずないだろう。病気や障害から脳機能が解明されてきたように欠陥から言語が解明されてもおかしくないはずなのにだ。
  • 実は元(屈強な)男の着用物だったものとして、スカートやセーラー服以外に、北米の木こりが着る(バッファロー)チェック柄もそうで、これがさらにトレーニングウェアとしても有ったのであるが、現在、このトレーニング用としてのチェック柄ウェアの情報が、探せど探せど全く出てこない。

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もう一度言おう、説明があるものにはあるが、ないものには無いのである。電車でアホみたいな席取りになるのは「パーソナルスペース」から説明される。一方で、前の者の体温残ってる席に座るのが気持ち悪いあの心境を正面切って分析している文章を見たことがない。怒ってたり蔑すんでたりする所で「コワ」がったり「悲し」んだりするのは分かる。怒り関係の表現が穏やかでなく禁忌されるからだ。過保護社会だが、これが行き過ぎると、誰も怒らせない事を「人を怒らせる方法」(ていうサブい番組)などどホザき出して、本当に怒りを招く物騒事から注意を反らそうと必死になる。平和キチガイ社会だが、それはそうとして、とにかく、嘘八百の「こわい」「悲しい」の内幕は分かる。分かるし、くだらんことだ。一方、自分のミスに腹が立っているところで他人に謝ってしまう心理は何なのだろうか?腹立って許せない自分に謝罪しているのを眼前の者に転化しているのだろうか?謎の心理だ。これに比べたら、相手からぶつかられたのに自分から率先して謝る(憤然としながら)ような謎行動など、ようするに相手に謝らせたいのであり、裏が見え透いたしょうもない遣り口だ。

何人もが疑問にすれば説明者も現れるのだろうが、人類の大多数がいかんせんくだらん疑問しか出さん。なぜリンゴが木から落ちるのか。なぜ血が赤いのか。海の水を抜いたらどうなるのか。性欲と食欲の社会的評価が入れ替わったらどうなるのか。ティラノサウルスの手が島木譲二の前足ぐらいの大きさしかないのは何故なのか。などのクソしょーもない疑問なら、幾らでも出しよる。もやし小僧や老境の中年が「なぜ人を殺してはいけないのか^q^」をけんけんがくがくする滑稽な図を見てみい。

池の水を抜きたい(池の水選抜)

池の水を抜きたい(池の水選抜)

  • AKB48
  • 発売日: 2018/11/28
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こういった、どこでも誰でもが言ってることをしつこく繰り返すというのもあれば、他に、もう既に誰かが言っててそれについての考察も相当蓄積されていることを改めて再度再々々々度繰り返すというバカ1つ覚えもある。CiNiiでも何でもいいから研究論文のタイトルを見てみよ。お前はその話題が何回目だと思っとんだ?またシラーか。またメランコリーか。またルターか。また「自由」か。また「コミュニケーション」か。また「リハビリテーション」か。またラットの神経か。また「ニューロン」か。また「夢」か。また「現象学」か。

そうして、うんざりするとしか言えない点数の「うつ」研究があり鬱病本がある。一方で、に関しては、ウツのついでに論じられるだけだ。ウツこそ主人公にして神経症の王様なのであって、には雀の涙ほどの封土しか与えられない。日本語の書籍で言うと、を主題にした本が、実に、1冊しか無い。しかもこの『躁病見聞録―この世のすべては私のもの』(幻冬舎)というリンク貼る気にもならんクズ本だが、ただただ重症患者の話であって、気質・気味・傾向の理解には1ミリの参考にもならんゴミである。なぜかと言うと、ここここでも書いたように、これ見よがしにギネス級の極端な事例をしゃべられると、同系症状だが極端なのではないというあらゆる人が迷惑するのである。死ぬほど大変な奴がひたすら注目されることで、死ぬほどではなく大変なすべての人が無視されることになり、微度~軽度~中度~上の下程度のすべての人が報告をしてはならないことになり、情報を共有できないことになる。症状や症例や困りごとを語り合う場面で、創作かと思わせるような椿事体験を声高に何レスもしゃべり倒すアホが居て、そんな事にまでなるぐらいなら自分の知能疑えよと言いたくなるような大災難談を繰り広げるバカが我も我もと湧いてくる。つまり、うつ症状などクソかけらも無いが年中気味でありしかも「病」では全くないという人には、自分を知れるための本が存在していないのである、うつの人間になら、自分を知るための書籍からページからが至れり尽くせり用意されてあるというのにだ(木村敏からも得られるもの無い)。そんなバカな。「鬱」じゃないのか。ソウ+ウツではないのか。うつしか相手にしてもらえないのか。… このように、知識とは、異常に不均衡なのである。うつなら、軽度の傾向から危険な重症までどいつもこいつも研究し倒し罹患し倒していて、多彩豊富な言説が繰り広げられていて、諸手を挙げて迎え入れられているが、は取り上げるに価しない少数派であり、上記アホぐらいの末期症状が展示されてハイ終わりなのである。

このように、知は異常不均衡を呈する。ヒトはなぜ協力するのか、社会契約がどうやって始まったのか、共同体とはいかなるものか、に関しては山のように海のように言説が有る。これに比べた限りで言えば、人が孤立してしまったり組織に適合しなかったりするパターンにはほとんど関心が向いていないのではあるまいか。社会性の研究は腐るほどあるが隠居性の研究は見たことが無い。一致協力の片翼があれば不一致非協力のもう片翼があるのだがな。

涙のシーソーゲーム

涙のシーソーゲーム

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード

同じように、「利他」論が噴出している一方でエゴイズムがとんと解明されていない。利他主義。アホ丸出しで偽善丸出しなのだが、学者にはこれがお気に召すらしい。ヒトが自分の不利益になってでも他者を利するという行動がいかにも解明を待つ不思議な行動だということ、そういう研究動機はもちろん分かる。が、それなら、利己主義のほうがもっと不思議で解明を待つものだろう。利他主義研究自体がすでに言明しているように利他的行動がヒト生体にインプットされた必然的行動なのなら、利他心や協力行動、扶助や憐憫のほうがむしろ当たり前のものであり、こういった自身の内部に備わる心理機構に力づくで反してまでエゴを貫く行動のほうが余程か説明不可能で説明必要である。

弱さの考察と賛美が猖獗を極めているが、その反対のほうに手を出す者が存在しない。なぜ自分が強くあってしまうのか、なぜ傷付ける側であってしまうのかという問題が、無視抹殺され、黙殺抑圧され、無いことにされている。「殺す側の論理」は殺す側に即してその論理をたどってはいない。殺す側のほうに立ってはいない。「殺される側の論理」第2巻に過ぎない(どちらにせよ、忘恩無知のヒトモドキ群がウェブ上至る所で中傷しているこの本多勝一が日本語文筆史上最高級の知性であることは注記しておく)。世にある平和論・暴力論・憎悪論・攻撃論が、ごく一部を除いて、被害者側・殺される側・弱い側からの苦情詠嘆にしかなっていない。殺してしまう側の論理が書かれる日は来ないだろう。

小説でも詩歌でも物語でも何でもいいが、人生や人世や人性を描く場合には、大方は、何かが欠けているとか無いとか、失うとか別れるとか足りていないとか、欠乏や悲哀が描かれる。無力だとか届かないだとか、カネを持ってないとか魅力に乏しいとかいうのが、主題になる。貧しい側や被差別側の中からの・この側に立ったところからの声を上げる。しかしこの側に告訴される持てる側・富める側・統べる側の中に立っている作品というのが、まず無い。あっても、結局今度はその側の中で不利で弱くて劣勢にならないといけない。文学とは病気自慢である。表象表現に携わる連中は、総じて、病んでいることが大好きである。病弱礼賛。敗北万歳。柔弱最高。愚昧歓迎。「心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:41)が文芸の金科玉条であろう。弱っちくてダサくて醜くてダシ抜かれやすいという間抜けが、表象作品の寵児であり最高善である。表象が健康というものを捉える日は来ないだろう。充溢や強壮を描きたい人は出て来ないだろう。そんなん古典主義で終わった。

»Ja«, sagte er noch einmal, »stärker, böser und tiefer; auch schöner«

ことほどさように、人は、分かり切った話をえんえんと繰り返し、まだ掘り下がってないものに目を付けるとか誰も入ってかない坑内に進んでみるとかいうことをしない。それには、無理からぬ人性のメカニズムが有るには有って、つまり、もうすでに分かっていることを確認しつづける異常性癖が有る。確証バイアスだ。これにハマると、ってか皆ハマってるのだが、「他」とか「別」とかいう様相のものに向かえなくなる。そういうのに向かうのこそ知的営為なはずなのにだ。だから、現代人は背広着て都会歩く石器原人だという指摘が時々あるが、もっと言うと、人間は実は「知」というものに不向きなのかもしれない。「知」が、未だ拓かれざる沃野を目掛け、未だ昇らぬ曙光を焦がれ、誰も通っていない海峡に挑み、あらゆる事象を記述しようとするものであるなら、そんなこと誰もしとらんのである。「可能性」と口だけではホザくが、その実可能性なんか考えたくもない、今と別の在り方なんて悪夢でしかないのである。そんな習慣とバイアスの奴隷がどの口で「多様性」などとホザく。何が「知」だバカ。とにかく、このように、人間は、幼少時かどっかで知的探索を始める時、純粋に「知りたい」と思う「好奇心」なんかが有るのではない。そんなキレーゴトの夢物語、イデオロギーまみれの偉人伝、バカ理系+理系バカの夢想を、本気にするな。本当は、宇宙()の果てが見たいなんていうのではなくて、「宇宙」にまつわる想念と言説が頭から離れないだけなのである。「ピュア」ではない。純心など存在しない。人間は、自分の確信を確証するために考えたり知ったり学んだりするのである。新しくて全然新しくないことを「学ぶ」のである。「作る」のである。「広める」のである。それは自分ワールドの改築と建て増しに過ぎない。世界を知りたいではなくて自分チャンの仮説(という確信)を愛撫したいというのが、科学の根っこにある動機なのである。科学ほどのものでこうなのだから、そのモノマネに過ぎない全学術と人文学など、言わずもがな。リンゴはなぜ木から落ちるのか、花はなぜ咲くのか、季節はなぜめぐるのか、というのは、真心から出る問題意識なようでいて、その実、社会的慣習やそれに植え付けられたバイアスに、言わされてるだけなのである。

知的営為の自由が保障されても、人は、このように、「自由に」振るまいはしない。本記事で、ここまでに、人間が実は3次元に弱いのでないか、実は「知」が苦手なのでないかと言ってみたが、さらに言うと、人間は、自由の使い方を知らないのではないだろうか。憲法と法律がウンタラカンタラの自由を保障しても、やることは、ネット便所落書きや、1億番煎じのテーマをめぐる口角泡飛ばしだ。人間に「自由」を与えても、猩々にスマホを与えるほどにも使いこなせないのかもしれない、少なくとも学知や理論の領域では。

こういったような内実を見れば、本記事が問題にしている理論の異常偏向も成程もっともと言える現象である。一見豊かな説明体系に見える人類の知の「宝庫」では、その実、研究するものが決まり切っているのであり、研究すべきものがお仕着せられるのである。中には、呆れたことに、珍奇な事柄や未開拓の対象に向かうのが恥ずかしいだなどと感じれるような、論外中の論外の、見下げ果てたアホもいるのだろうが、そうではない者らにあっても、当お仕着せは、全くの無自覚に遂行され継承される。人は説明がある所で説明するのである。説明が無いところは、そう言えば無いなと気付かれる所ではなくて、真空なのである。倍音()やマイナーコード、コントラポストや補色のタッチは、その効果が詳論されねばならないし、される。その装置に事欠かない。他方、振り付けやヘッドバンキング、モストマスキュラーや3回転半は、その鑑賞効果を説明する装置がないことに気づかれもしない

(本記事で述べていることは、日常のそこらじゅうに転がっている茶飯事でもある。誰にでも分かるように、どいつもこいつも年がら年中まわりと同じことしか喋らないものだ。ググればひたすら同じテーマ同じ情報同じ文言が並ぶ。会合や授業で発言させれば、すぐほかの奴とおんなじ事を喋りやがる。たまたま重なったなどホザいてんじゃない。重なってるなら喋るな、無理矢理にでも別のことを喋れ、無理矢理にでも他人と別のことをしろ。なぜこんなに人と違うようにすることにコダワるのかと言うと、人間はほっといたらドンドンドンドン周りと同じことをし出すからで、そうして社会がどんどんどんどん均質平板で無味退屈になっていくからである。それが一番迷惑なのだが、どうでもええ話もしておくと、知性の偏りはファシズムへの道である。遺伝情報が多様でなければならない話を思い出せばよいが、個々の事象・個々の生体・個々の言説・個々の集団の変化や差異が少ないほど、構成素が均一であるほど、生態・組織・社会・文化のファッショ化や壊滅のリスクが高まる。多様性を失っていくと後でツケが回ってくるのである。しかも、大人口の現代都市文明では、知識体系が固定化しつくした社会というのを体験する機会が無いから、つまり目に見えてそれと分かる極端な文化停滞を体験することが無いから、知識が偏っているという危機感を覚えにくい。実際には、学知は、危機的と言えるほど偏っている。しかし特に誰にも痛くもかゆくもないから、知識なんて食べれる美味しいものでもないから、だーれも異常を感じないし考えもしない。という傾向に抵抗する必要性と困難は、早起きの必要性と困難にたとえると分かりやすい。いろんな考えや個体差や事情があるのはそらそうだが、長期的超長期的に考えて究極トドのつまりの結論で言えば、およそ5~8時の「早朝」範囲内で起床し続けているほうが、結局最終的には、得をする。しかるに朝起きるのは常に苦行であり、ツラいことを無理してやることになる。それでもやらないと、後あとの後々々々に結局損をすることになる。損のツケが回ってくる。人間はほっとくと何度寝でもするし起床時がどんどんどんどん遅い時間にずれこんでいく。早起き努力とは、自然勝手にそうしてしまうという傾向に逆らうことである。と見てきている今、次のことが言える。本記事のようなことを書くと、「1人が他とちがうことしたらまわりがみんなそうし出す」と心配()し出しホザき出す無思考無知能のヒトモドキが必ず湧く。被害妄念に膨らんでるこのヒトニザルはその耳に怒鳴りこんでやらねばならない:周りと違うことをしてもそれに倣う者など出て来ない。そんなツラいことを無理して真似る者など出て来ない。それは、早起きを「してしまう」と言ってるのと同じ愚言・同じ「心配」だ。あまのじゃくに「危険」を感じるバカというのは、ありもしない「危険」を勝手に感じているだけだ。リスクが非常に低いテロへの対策に、リスクが非常に高い疾病や交通事故への対策の数百倍の予算を費やしている合州国のヒステリックな恐怖妄念が批判されることがあるが、それと同じようにこのヒトモドキがその被害妄想を批判されたらいい。バカは常に問題を逆にしてしまうからバカに騙されないように気を付けてほしいのだが、危険は、周りと違うことを出来ないこと、早起きに失敗してしまうことにある。同調同化すること、ずるずる遅くに起きてしまうこと、ほっといたら勝手にそうしてしまう自然性向というもののほうが常に悪質なのである。ありふれた日常的なものこそ脅威のタネなのである。なお、今見ている種類のバカは、ただでさえ筋萎縮病の患者でいながら筋肉を減らしたいなどとぬかし出すようなアホ、いやアホを超えたアホ、生活困窮者でありながら金が欲しくないなどと言い出すのを上回るアホ、《金が欲しくない》以上に愚かな「筋肉が欲しくない」を平気で口にできるキング・オブ・アホ、こいつらの問題ともつながる問題である。)

現代思想系に は 、「まなざし」というゲロへどにクソ気持ち悪い語をはじめとして、数多くの気色の悪い表現がある。「まなざし」と書いてあるのを読むぐらいなら人肉シチュー風呂に漬かるほうがマシであると言えるぐらい気持ちの悪い語だから、いつか別記事を設けて「まなざし」信者をボコボコにしよう。(もちろん現代思想系の語用のことであって、他の「まなざし」には何の文句もない。恋した日の胸騒ぎを…気の強いまなざしを。本ブログは学術ブログ。)他に、例えば、アホの1つ覚えで「過剰」とホザく。これを言えば、鬼の首でも取れるのである(げろキモい「セックス」のように)。現代思想系は、腑抜けのヘタレ、カマ臭いなよなよ人(じん)たちが担っている物だから、ありとあらゆるものに「過剰」を感じて怯えるのである。どんなものも怖がり被害者妄想に溺れるのが大得意。だから、「言説の過剰」だなどといかにもホザき出しそうであるが、もしそんなことを言い出したとしたら、他のあらゆる「過剰」談義がそうであるように全然まちがってるわいボケと言ってやらねばならない。言説はむしろ全く足りていない。人類はしゃべってなさすぎる。ホザいては幾らでもいるが。同じことばかりオウム返しているだけで、色んな組み合わせ、反対方向、思い切った提案、などを数限りなく試していない。人目を引くセンセーショナルなものや考えたこともないアイデアが、過剰なのでなく、ぜんっぜん足りてないのである。思想信条の自由よりも、付和雷同の禁止のほうが必要である。そして後者のほうが自由を保障するだろう。上で人間が自由の使い方を分かってないといったが、これは、自由を全然使っていないとも言える。自分の生まれ育った環境が吹き込んでくる思考習慣・信念体系・観察原則、こういった知の教条集を拝領して、自分から自分を洗脳してしまって、自分の確証で自分を縛って押さえ付けているのだが、こういう自分から一旦離れたらどうなんだ。確証バイアスとは自分に固執することではなくて自分の中に巣食ってしまった社会に盲従隷従している状態であるが、この社会に距離を置いてしまったらどうなんだ。自分でなさすぎなんだろ。自分であってなさすぎるのが問題だろう。てめえの頭で考えてないのが問題だろう。他人の言ってくることはともかくとして自分ならどう感じているのか、自分自身は何が気になっているのか、自分自身は何を明らかにしてもらいたいのか、自分の問題は何なのか、をちょっとは意識してみたらどうだ。自分の問題意識からしたら、はたしてこの世の知識体系は不足ないか?有る物しか見えなくなる確証バイアスを外したら、ないものが幾らでも見つかるはずだ。もちろん知識とは途轍もなく豊かで、問題意識を持たずに居たら、こんなことまで研究されてるのかと驚嘆するばかりだろう。このことは何度くりかえし確認してもいい、それは分かる。実に色んなことを思考実験する。また、実に色んな人物に照明が当たる。ほんとにもう、実にいろんなことが研究される。そのように膨大な知識があったところで、自分にとって不足なのなら、大したことではないのではないだろうか。タイトルに惹かれて読んでみて、そこに、自分の求めているものの答えがあったか?そして、自分に立ち返ってつらつら考えてみたら、むしろ、こんなことまで研究されてないのか、誰でも気になってそうなあんなことまで誰も喋ってないのか、と思うばかりだろう。すべての土地が歩かれたか?何千人が〇〇尾根・〇〇壁を踏み荒らしたが、実際は、触れられてさえいない地面のほうが圧倒的に多いである。すべての小節が書かれたのか?すべての色が作られたか?まだ見つかる栄養素が・マイオカインが・古細菌が・燃料があるんだろ。利益追求からニーズ傾聴にもう1寸シフトしたらそれだけで商品数が数万個増えるんじゃないのか。なぜ靴は未だにヒモなんだ。原始的にもほどがある。二元論廃止な、2千元論でやれ。

Es gibt so viele Morgenröten, die noch nicht geleuchtet haben.