地上最強のブログ

しばいてくぞ

反対からせえ

賛成カワイイ!

賛成カワイイ!

  • SKE48
  • 発売日: 2013/11/20
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

ホームにYahooを設定してるそこの低民度Googleに戻せ。

で、ググる時にこれだけは肝に銘じてください:否定的な語句とググること。

図書館()や本()をオワコンにしてしまえれるようなウェブの強みとして、どんなキーワードの組み合わせででも検索探査できるという点があるが、そうである以上、その特性を生かそう。例えば或る運動法や健康法について検索するときに、普通は、その語だけで検索すると、大部分、肯定的な話が出てくるに決まってる。カロリー計算・ランニング・ダイエット・成長ホルモン()・体幹(失笑)等何でググっても、それがそうだという話が出てくるだけだ。それがイイヨという話をえんえん繰り返しインプットし続けるのみになってしまう。で、その方法を何年も続ける。効果もうだつも上がらずお前の体型はクソださいままから変わらない。何がおかしかったのだろうか。信じてる(だけの)ことに夢中になって視野狭窄になってたのがおかしかったのである。いまお前の信じてる方法を否定的な語句でググり洗おう。「無意味」「必要ない」「効果ない」「嘘」「関係ない」「無駄」「体に悪い」など何でもいい(この記事の冒頭でやってるように)。そこで尚お前は無益無内容のカロリー計算をするだろうか。走っているだろうか。いや、今の方法が間違っていると分かって、カッコイイ体型・全体のプロポーションイイ体型になる正しい方法を採るようになるかも知れない。とはいえ、採るようにならなくてもいいのである。理想が四肢枯れ枝のガリガリ餓鬼体型なのなら、なんだやはり今の方法を続けているほうがいいじゃないかと、正しいことをしているのじゃないかと、高度に補強された明証性を獲得できるからだ。餓鬼道一直線、道が舗装されるな。

また、運動法や栄養論などと違って例えば「日本人 xxx」のように中立的でなさすぎる語でググる時にも、これを心がけるように。その語だけでググってると、悪く言ってるか礼賛してるかどちらにせよ一方的な話しか出ない傾向にある。「傾向にある」であって、どちらの論陣もいちおう出ては来る(のだろう。知らん。興味ない)が、必ず両方見るか?見ると言えるか?ちがうだろ。自国民を賛美してほしい信念で検索していると、それに肯定的な話しか入って来なくなり、ただただ信念を強化するだけになってしまう。否定的記事を読まなくなる。自分の信念に都合のいい情報ばかりに目を注ぐことになり、自分に都合の悪いことから目をそらすようになる。そうならないように、まずは否定側にこそ向かったるぞという志向・習慣・方法を定着させるということ、具体的には、否定語句とググって出てきた否定的な記事に果敢に飛び込んでいくこと。こういう話をしている。だから国民の話も運動の話も別にしていないし、ググり方の話も一の例にすぎない。それはただの例。だからこれもただの例だが、世に、ヘーゲルに関して5000億リットルほどの文章がありほぼどれもヘーゲルを勝手に社会思想化してるカスなのだが、その中で、加藤尚武以外に唯一感銘したのが、山下正男『論理学史』(岩波書店、1983)に有る数頁足らずのヘーゲル論(210~223頁)である。ここではヘーゲルの論理学ってのはこんなもんだと図式にしてどうだバカげてるだろとコキ下ろしているのである。これを読むと、ヘーゲルの論理体系がどれだけブッ飛んで面白くて、チンケな認識の彼岸彼方に向かって行くものか、が理解できる。反対者否定者からこそそれが分かるのである。

肯定する声しか聞かなくなっている状態だが、これは1つには、

確証バイアス

の問題である。まずこういう実験だが、この実験の実際の歴史や状況や意味合いやがなんか色々あんのだろうが、本記事に関係のある我田引水の考察をする。リンク先に書いてあるように【偶数なら赤】規則が成り立っているかを確かめるようにと言われると、まず8をひっくり返すだろう。

そこまではいい。肝は、次に赤を返してしまうことだ。指示された時に言われた言葉が「偶数」「赤」だから、それしか見えなくなっている。「偶数」「赤」という観念が、当該事柄・くだんのこと・目下の対象・今見えていること・今見えているすべて・有ると言えること・存在の側・ポジティブのほう・正の値のほうになっている。だからまず8に飛びつく。これだって考えがあってのことでなく、「飛びつ」いているのである。次に赤に飛びつき、不正解になる。「赤」しか見えなくなっている。アタマが「赤!」でいっぱいになってるヒステリックな状態。ここに狂執的一直線に突っ走るファシズム的盲目行動の萌芽を見ても、別になんもおかしくない。一歩立ち止まってちょっと身を引いて「「赤なら偶数」とは言っていない」と考える余裕さえなくなっている。人は考えずに飛び付くのだ、見えているもの=プラスのもの=肯定面に。そしてそこでひたすら信念確証の確認をヒステリックに繰り返す。というように、この実験は、(今なら「偶数」「赤」だが)自分の頭に浮かんでいるものを一旦離してしまうことが出来ない様子、つまり自分がしがみついている観念のマイナス・欠如・否定・別様というものにアタマを切り替えることが出来ない様子を描いている実験でもある。この事は、数列による確証バイアス実験予備予備)を見るとさらに分かりやすい。この実験、「2・4・6」と見せられるとすぐにパターンを見出してしまうという別のバイアスも考えられるのだが、それは措いて、ここでの肝も、【2ずつ増加】という信念で凝り固まってしまうことだと見よう。【2ずつ増加】の数列例を提出し続け、【2ずつ増加】という確信ををただひたすら確認するだけ。やってるのは思考ではなくてただの確認。確信だけしか見えていずこれを繰り返す。【2ずつ増加】でないものというのが全然思い付かなくなる。一旦取り憑かれた信念確信思い込みをひたすらえんえんと確証し続けるだけのマシン。気味が悪いだろうが、これが我々なのだ。世間ではみんなこうなのだ。一歩うしろに下がって、斜に構えて、【6・4・2】なり【98.7・1.88・-331】なり【0・0・0】なり【x坪・y度・zヘクトパスカル】なりという質問を作ってみることが出来ないのである。ほんまにあってんのか?こんなんもあるんちゃう?という発想転回が出来ず、自分の確信に合う証拠だけを集めるだけ。飛び付いたものに一心不乱になってるヒト型化物。同じように、ひたすらえんえん路上とコンベア上で走り続ける餓鬼幽鬼。来る日も来る日も「ベンチ」に明け暮れその結果自分の体型も成果も得たかった物も何も考えくなっている「ベンチ」病患者。そうしている連中は元々は何をしたかったのだろうか。

こうならんように、否定に耳を傾けるのである、それも初めっからだ。(認知バイアス等の図予備予備予備

という話であるから、よって、今度は、世間でそうなっている所の事、一般的にそうと肯定されているものを否定してみよう。裏返してみよう。反対にして正しくしてみよう。読書を主とする知識のインプットに際して、初めから批判的態度で接するバカであってはならない。意見や主張にきちんと良い子ちゃんに「距離を取る」バカというのは、議論を整然と捉える姿勢が身についているのでも何でもなくて、相手の世界に入っていくのにビビっている怯懦のヘタレなのである。おい本読んでる奴、ゆっとくがな、まずはその著者に一旦溺れろ。その著者が言っていること以外の何を通してでも世界が見れなくなって四六時中その著者の主張見解論調を思い出してこねくり回して確認し尽くし倒してるようになれ。これに傾倒して、帰依しろ。そうしてその思想を徹底的余すところなく自分に消化し尽したら初めて理解したことになる。その後にはその思想を真に料理することが出来るようになり、何なら(数々の哲学者でそうであるように)離反し決別し弾劾するようにすらなる。それは、理解した人間になら、なんぼでも許される。一方お前らの「理解」は理解をしないこと、理解を拒絶することだ。「言っていることはわかりますよ、けれどもですねえ」「なるほどこういう意見もあるのだなと読んでおきました」「一定の意味を見出すことはできるがしかしながら」などと相手を片付けて抹殺する(fertigmachen)のがお前らの「理解」だ。お前ら良い子ちゃんはそもそも相手の言うことを読んでないし聞いてないのである。自分ワールドから踏み出して相手の中に入って行ってないのである。自分ワールドを否定してくれるモノに出会って行けてないのである。なぜかと言うと、自分を揺らされたくないからだ。自分ワールドにとって新奇であるものを輸入するのがコワいからだ。だがそうしている限りは、読書など出来ていない。読むという外面的行為だけなら誰にでもできる。本ヲ・読ムという事態を物理的に発生させることだけなら、お前にも猩々にも出来る。印刷されてある字を目で拾ってくだけならな。でそうして、「読了」とかホザくんだろ。お前のお行儀をつくろってお前ワールドの読書録にお前の気分のいいコレクションが1つ並ぶわけだ。一体お前は何を読んだんだ?お前の確証を読んだだけだろ。

反対にするということだから、次のことも反対にしておこう。正しい向きにしておこう。芸術であれエンタメであれ何層文化であれ何分野の演目であれ、受容・鑑賞・享受に際しては、自分の感性しか当てにするな。それにまつわり付いている定評・評言・レビュー・推薦・コメント・評論・批評・考察・「比較〇〇」などといった言葉という塵埃で感性を曇らせてしまうな。人類は言葉に弱いから、この歌は・このオケは・この寺は・この刃は・この芸は・この色・この人は・この絵は斯く斯くというものなのであり斯く斯くと受容するものなのであるという評言を簡単に詰め込まれてすぐアタマでっかちになってしまう。そうして、知識で鑑賞してしまう。そうして、資料傍証を精査したわけでもないのにいっぱしな口をきいてさかしらな書きこみをするようになり、本当に自分がどう感じているのかが見えなくなりむしろどんどん錯知覚するようになる。お前が受容するそれに世間が貼り付けてるラベルを取ってみろ。誰もかれもが称賛しているものが自分にとっても絶対普遍的に価値があると言えるか?それが歴史の記憶にかくもデカデカと登録されているのは、ただ単にマタイ効果の集積によってではないのか?逆に、大衆社会に消費される一過物とされているものがお前にとってもそうなのか?真実心底そうか?こういったような評言てのは、世間というでっかい確証バイアスちゃうか?お前はお前が聞いてきた評言をくりかえし確証し続けているだけなのでないのか?世人が勝手に判を押してるだけのもの、自分が昔日に接していたものを確証し続けるために、あのオールディーズ・この「懐かし」・そのレトロ、そして例の「古典」様を、《これがけっきょく一番だよ》と思い込み信じ込んでいるだけなのではないのか?これよりマシでも、お前は自分が幼少時青少年時に接したものをアンカリングしてしまってその後に体験するものもすべてそのフィルター越しでしか見なくなるだろ。結局「思い出」から外に出ることが出来ないのだ。なお、自分の感性などと言って、何か実体がある核のようなものを仮構しているのではない。言い直すと、受容・鑑賞・享受に際しては、自分がそう感じてしまうというその感じ、勝手自動的に、どこをどうしても、そのように感じられてしまい致し方ないというその感受、それだけをアテにしろ、ということである。そうして、自分なら例えば、虚心の坦懐に聴いて、テンシュッテットの演奏が、退屈極まりない駄演である。世上、テンシュッテットだからイコール必ずイイゼッタイいいハイ終わりという思考停止どもの絶賛が実にうるさいが、何度・何の曲を・何「年代」の演奏を・何時頃に・何分間再生しても、いくら邪念と騒音と生活を断って己の内面を研ぎ澄まして己の心の明鏡止水へと映しても、テンシュッテットの演奏は、クソ面白くなく心に響かず一切感興できない。凄味ゼロ。迫力ゼロ。凡庸な演奏の典型例。なお、ケーゲルもチェリビダッケもだ。ジュリーニの良さも嘘クサい。これらは全て、ただただ単なる世評、言葉が勝手にホザいているだけの自称の良さだったのだ。そして、だいたい何の曲を聴いても結局いつもバーンスタインの演奏が他を圧して極上無比であった(フルトヴェングラーの録音が無いものに関してである。あればフルトヴェングラーが常に唯一無二である、もちろんアホたちとお前たちの声など無視遮断して聴いてきた上で言ってる)。即効性中毒性を持って良さが伝わって来る。だが、これも、世評とは無関係のことだ。さかしらな先入感を混じえずに聴いてそうだっただけだ。なおシェルヘンもだ。ついでに言っておくと、欧米のどこでもいいしインドでもアフリカでも沖縄でもモンゴルでも雅楽でも民謡でもフォークソングでも子守歌でも胡弓でもサムルノリでも何でもいいが、「民族」や「民衆」や「世界の」「伝統文化」といった方面の音楽(?)というのは、どれだけがんばって聴いても、すべて、聴いているのが苦痛にしかならない不快な雑音なのだが、何故こういうものが現在礼賛され賛美され礼拝されているのだろうか?理由は音楽的価値というよりドロドロした政治的配慮じゃないのだろうか。他に、世の「名画」の大多数が、歴史上存在していてもらわなくてもよかったというような代物だ(例えば「モナ・リザ」とかいうグロキモ画)。今述べているごく一例の他に上記明鏡止水に映したもの数知れなくあるが、世評というのがいかに凝り固まった確証バイアスであるかが分かっただけだった。

確証バイアスとは肯定面をひたすら確証しつづけるキ〇ガイである。だから、一般に流布していてすぐに目に付く評価(という単なる言葉、単なる印刷物)が一旦刷り込まれると、そればかりが思い付くようになり(利用可能性ヒューリスティック)、それのマイナス方向・それの負の値・それの消極的見方・それの否定がさっぱりアタマから飛んでしまい、この評言に一致する話だけを集めるようになり、さらには、自分の中でこの評言に一致しないという認知的不協和が生じないように、受容鑑賞に際して自分の感性を捻じ曲げ歪めるのである。クズを読まされ観せられ聴かされても素晴らしいのだ、世間で言われているのだから。「歌唱力()」がイコール感銘を与えるものなのだ、世間でそう言われているのだから。そうして、教科書で・新聞で・テレビで・文庫本で・映画で・広告で・新書で繰り返しプロパガンダされる歴史上の有名な人物たち有名な事績たちが兎にも角にもエラくて偉大で本物なのだと、すり切れテープよろしく(自分からすすんで)繰り返す。毎日毎年毎世紀、同じ偉人・同じ巨匠・同じ思想家・同じタレント・同じ作曲家・同じ源平・同じ侘び寂び・同じ京都・同じアメリカ・同じ和食・同じ英語・同じ富士山・同じ大統領・同じ平和展・同じ人種3原色・同じ党派対立・同じコロンブス・同じデカルト・同じ坂本龍馬・同じ義経・同じ……を見せられ、見せつけ、納得し合う。そいつ、本当に偉いんだろか?これ、本当に意味があるんだろか?と刹那反省してみることもしない。自分自身の感性と相談する気など誰にもない。誰にも、だ。一般に反省力が有ると思われているかも知れない連中でもそうだ。学術書なり研究論文なりで、なぜ、毎度毎度、誰もが知っている有名人の名を飽きもせず挙げるのか、わかるか?その人物が取り上げるに価すると熟考配慮されていることなど、無いぞ。あのな、そいつの名前を挙げといたらと査読官が安心しよるから挙げとんねん(そいつの名前が書いてあったら読者が安心しよるからそいつに言及しとんねん)。「古典」の価値が本当に知覚されているのではなくて、「年末恒例」のノリでそいつの名前が挙がっているのである。本や文章書く奴のほぼ全員にとってダーウィンシェークスピアは紅白の出場者なのである。知識人どもにしたところで、「おなじみ」に登場してもらって安心させてもらいたがるのである。人間とはそこまでアホなのかとびっくりしたか?左様、そこまでアホなのである。だから人間は選択をする時には係留のヒューリスティックの奴隷なのである。以前選んだものを相変わらず選ぶのである。おんなじ服を買ってしまい着てしまうのである。ほとんどの知人が、何年たっても同じ趣味をしているのである。会うたびに同じことばっか主張しとるのである。ふんぞりかえっとる審査員どもも、結局去年優勝したやつを優勝させるのである。相も変わらずxx党が与党なのである。一国が取っている社会体制は歴史的必然ではない。お前のキャリアは召命ではない。その行動は使命ではない。それでしかありえないからそういう人生を歩んでいるのではない。最初にたまたまアンカリングしたそのそれを止めることが出来ないという係留効果に陥っているだけだ。

こういった話に関しての本は相当数あるが、推薦としてはこれである:

思考のトラップ 脳があなたをダマす48のやり方

思考のトラップ 脳があなたをダマす48のやり方

  • 作者: デイヴィッド・マクレイニー,安原和見
  • 出版社/メーカー: 二見書房
  • 発売日: 2014/08/26

運動に戻ると上述ベンチ阿呆のようにもう数字しか見えていないアホ、観念【〇〇kgヲxx発挙ゲタ】に凝り固まっていて、それで結局自分が何を得れているのかを反省する最低限の知能すら失っている退行人類がトレーニーの大多数であるのだが、ボディメイク上は【重量を挙げる】という観点など無意味である、いや反対である。筋肥大を起こすには対象筋に高強度の収縮をさせるしかないのだが、つまりまず正確にアイソレートしたいのだが、どうしたらいいのかと言うと、重量を挙げたら筋収縮したじゃなくて対象筋を収縮させたら重量も動いたという意識で取り組めばよいのである。挙上したら→収縮でなくて収縮したら→挙上。逆と言えば、大筋群から先にやって小筋群でいいのですか^p^とかいうのも、発想が逆だ。ワークアウトは正しくやればそもそも大筋群→小筋群の順でしか出来ないという前提が先にあってそれでこの順でやらないかんという結論が後から出てくるのである。この発想の順が本来の正順であって、大筋群→小筋群でしないといかんと言われているからそうしています、それでこの順でしか出来ません、などというのでは、発想が転倒している。小筋を先にやると大筋種目で重量もレップスも見事に落ちる。無駄に疲労してしまう。かたや小筋なら疲労していても挙上低下に目立った落差が生じないから、大筋で疲れてから小筋をやっても別にいい。大筋群→小筋群でしたらいいとかしなさいとかではなくて、それしか無理という事情が先にあって、その結果としてこの順が推奨されるということなのである。だから、小筋群→大筋群の順でやっても別に支障なく筋発達を見ているよという人なら、推奨逆順でやっても全く構わないのである。

リンク貼る必要もなく無数に見つかるが、PCスペックの質問に対して、まず何をしたいのかを決めてからスペック決めなさいとバカ1つ覚え回答するというアホたち。反対だバカ。質問してる者の念頭にあるのは、とりあえず何らかのPCだ。することなどまだ分かってるものでない。一般的に言っても、自分が何をしたいかを分かっている人間などいない。そうでなく、まずモノを持ってしまうのだ。まずブツを買ってしまい所有してしまう。そしておそるおそるこうかなああかなとブツを使用して行って、そのモノで出来ることを色々試してみて、徐々にだんだんと、やること・やりたいこと・方向・習慣が決まっていって形作られていって、それからしまいには計画やビジョンの輪郭が定まっていく。(この時点で《やりたいこと》は有るっちゃ有るようになっているが、それがあたかも初めから有ったかのように思うのは錯覚である。こういう後知恵バイアスを免れられないから、大多数の人間が、何をしたいかをまず明確にしましょうとホザくのである、自分だって判ってなかったクセに。)人類はこうしてやってきたんだぞ。だからこそ、何を措いてもまず一旦はPCを持ってしまいたいのだ。そして買うのであるからそうである以上そのスペックはどうしたらいいんだ?となる。そうして質問する。が、このような人類の普通をすら回答者は知らない考えないのアホだから、マズ何ガシタイデスカをえんえん繰り返す。何に使うか決める→いざ使ってみるではない。使ってみると→何に使うかが見えてくるだ。反対にせえ。

(ただ親切にももうちょっと解説してあげると、こういった質問者回答者のすれ違いがなぜ性懲りもなく日々起きるのかというと、質問者が自分のことしか見えていないからである。こいつ自身には、自分の来歴も自分の部屋も懐具合も趣味も習慣も自分の顔も全部見えている。自分イメージが出来上がっている。そうして、自分が何をしたいものなのだろうかのおおっっっまかな見当が実は付いている。そういうパースペクティブでいる。ところが、質問する段には、言葉足らず舌足らずにも、〇〇なのれすか^q^とだけ喋る。一方回答側はこいつのことなんか0.1ミリも何も知らない、何なら人間かどうかすらも知らないのだから、晴空に発砲して何かに当てて下さいと言われているに等しい状態に置かれる。それで、質問者のビジョン通りには答えられないということになる。つまり、どちらも自分のパースペクティブの中に閉じ篭もっていて一歩も外に出れていないのであり、厚さ5mのコンクリ壁ごしに物言い合っている2軒の癲狂院同士の会話なのである。まあ全人類の会話がこんなんなんだがな!画面越しとかいう問題でもないんだがな。)

アウトプットの問題だが、いま、勉強でも学習でも暗記でも練習でも鍛錬でも陶冶でも訓練でもレッスンでも何でもいいから、自分に技能や知識を入力するのをインプットとすると、これがまずあって而していつの日にか成果を発表、というのが素朴に信じられている物事の順だが、反対だボケ!!!正しい順序をおたらくに叩きこまさせていただかせていただきます。アウトプットが先だ。すべて、アウトプット前提だ。そうだなタマゴニワトリだな。いずれにせよ、何がしかのインプットが最初にある事はそうである。発表・発信・表現・表出というのは無からの湧出ではなくて刺激に対する反応なのだから、最初にどこかで1つまみのインプットを得る必要は有る。しかし刺激を得さえしたら、自分も発信したいと思わなければならない。ミラーニューロンか何か知らんが他人のやるのを見たらよーし自分も!となる。こうならないならもうお前はアウトプットに一生縁がないと思え。そうしてお前のインプットも一生自閉状態だ。精神的オナニー。シコっとけ。で、とにかく自分なりの表現をしたくなり、表現してみる。世に問うてみる。そこで、自省したり周囲の評価を見たりして、表現にもっと欲しいものを考える。そんなフィードバックをする。そうしたら、当然、表現に足りていなかった物を求めてインプットが始まる、インプット時期があらざるを得なくなる。これは必然的不可避的にそうなることである。アウトプットと言っても、池沼書きこみ・便所落書き・痴呆トピじゃなくて、いっぱしの何ものか、成果を万人の前で問うたりたくなる何かを念頭に置いてるなら、そのためにということで、自っ然ごく自然と、必要な物の探索が始まるのである。それなりのアウトプットをする人間ならインプットなど自動的に、相当なアウトプットをしていきたい人間なら十全豊富なインプットなど自動的にし出す。要に迫られて、手段として必要悪として己の肥やしとして知識が・技能が・次のレベルが・資金が・環境が必要になる。溜め込んで・準備して・かき集めて・砲撃に向けて陣地に運んでいく必要がインプットを駆り立てる。これが、人間における入力と出力の本来の順序である。ただ、世には、エサ待つヒナよろしく社会が供給するモノに口を開けているだけの人種というのが有って、例えば読書などでは還元や発露表出など何も考えずひたすら知識を溜め込むだけの便秘人間が有る。知識を何億何十億と裏庭貯金して箪笥貯蓄してひとりほくそ笑んでるバカ、知識の腐敗発酵ガスでぱんぱんに膨張してるバカ、この、ありうる中で最も醜悪な倒錯に自閉している無意味無益人間のことなんかが一部で流布すると、ただでさえ基本的にはすべてを転倒させている人類にあっては、十分十全な入力段階を経てそれから初めて公表発表という錯誤イメージが定着しやすくなってしまうだろう。

すなわち「まず表現者たれ」と言える。もともと表現するものに完璧など無い。100%になってから提出できる仕事など無い。存在したこともない。今のカタチがどうであれ、まだ納得できない完成度であれ、リハが間に合わせであれ、バグがまだ3500残ってるのであれ、二日酔いが残ってるのであれ、とにもかくにも納品してしまうしかない、舞台に上がってしまうしかない、公表してしまうしかない。とりあえずぶつけてみるしかないのである。そこで足りていない気に食わなかったものを補完するために、後になってから必要な学習と練習に立ち返るのである。そういうフィードバックの繰り返し。それでも、完全になる日など来ない。し、来なくていい。完成など無いし要らない。すべての本を読んでから書こうとした者など居ないし金輪際いなくていい。ということで、学習というのも行動の後に来るものである。まず外に出して、満足できん点が有るなとしゃーなくインプットし直す。学習し終えて出陣するのではない。そんなん終わりなんか無い。(しかも「後」にもそないコダワれない。行動後よりも行動中にこそ学習しているケースだって有る。もともと刺激/反応も刺激=反応の間違いというか一面であって、知覚とはイコール行動でしかないものであり行動の中に反省と認識が有る。)もし、それの何が必要なのか分からないものを詰めこまれる義務教育学童のようなインプットをしているのなら、それも、発想が逆だからやってしまっているのである。そうじゃない。反対にせえ。一抹の刺激に反応してまずは動いてみるのである。そしたら学習や反省、認識や熟考、考察や閃きなど後からわんさと湧いてきよる。