地上最強のブログ

しばいてくぞ

2億倍の世界・闘

 

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だからこそ飽くまで言葉は大したものでない。使用者もろとも著しくアホであり伝達用具にすぎないと悟ってもたほうがええ。それが言葉。ショボいビット数の言葉vs本当は受容しているン万~ン億ビットの外界。ほら星空がこのつま先の向こうに広がる。

ただ逆から見れば言葉とはどんな体験時点にも割り込んできている観がある。いつでも何か言葉が心中にあるようにも覚えている。そして、意識(=言葉)が及ばないと一般に思われている所にも意識が及んでいる。ソフィーの世界のアルベルトがぬかしていることは大嘘で、青春のあんな体験こんなドキドキの時にも、けっこう意識がさかしら冷静に観察しているものである。ということで、所詮意識なんて無力だから意識に捉われないようになろうなどとは実は速断できないはずだ。完全な道徳が永遠にほど遠いからこそそこに向かって永遠に努力するのが実践理性なら、永遠に多すぎる情報量のしかしなるべく極力多くにまで意識を行き渡らす、100ビットも超える1秒を目指すというような、

12秒

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そういう方向がまた有るだろう。そのために必要なのは、覚醒剤ではない。そうではなくて、バイアスと蒙昧と信念とでアタマぼけーっとしてないで てめえのオツムで物事に立ち向かうこと、てめえの分類区別とてめえの分節の照明で世界を照らすこと(claire et distincte)である。そういうのを「啓蒙」と言う。光をもたらすこと。ライトブリンガー。(なお言っておくがこの世界と隣宇宙100兆個の全歴史において最も何よりも存在しなくいい存在のクズの中のくずの中の屑が、喫煙覚醒剤である。)

人間が今知っていることやこれまでに考えてきたことが本当にそれだけしかありえないものだったのだろうか、人類の知は極度に偏っているのではないのだろうか、考えられて来なかったし見向きもされていない途方もない量の知の可能性があるのではないだろうかということを問いつづけていた人物として、ニーチェが居る。なぜ人間とは異常に偏向するものなのかを問題にし続け、その解明のために「パースペクティブ」などの概念装置を案出していた。20世紀の特に後半の特に社会心理学などの(数千点に及ぶ)実証研究が明かした数々のバイアス・ヒューリスティック・錯誤・心理効果などに関してニーチェが既に述べまくっていたのだが、こういった思想者としてニーチェが理解されることは普通ない。例えばどんなのかと言うと、それはもうありとあらゆる所で述べていて、よほど自己確信で歪んだ読者でもない限り「そういえばあの文言は認知関係の話に見えるな」と思い当たるフシがいくらでもあるだろうから、例示して検討しても仕方がないことではあるのだが、それでも一応例示するとすると、たとえば、テキットー何の気なしにたまたまクリックした文章にこうある:

Die erfinderische Kraft, welche Kategorien erdichtet hat, arbeitete im Dienst des Bedürfnisses, nämlich von Sicherheit, von schneller Verständlichkeit auf Grund von Zeichen und Klängen, von Abkürzungsmitteln: – es handelt sich nicht um metaphysische Wahrheiten bei »Substanz«, »Subjekt«, »Objekt«, »Sein«, »Werden«. – Die Mächtigen sind es, welche die Namen der Dinge zum Gesetz gemacht haben, und unter den Mächtigen sind es die größten Abstraktions-Künstler, die die Kategorien geschaffen haben.
(思想で使う分類とは要するにただの語彙である。「実体」だの「主観」だの「主体」だの「客体」だの「対象」だの「存在」だの「生成」だのというのは、別に真理に触れようとして使ってるのではなくて、こういう語を使ったら単にハナシが早いから使ってるのである。こんなんただの記号な。ただの方便。歴史で最初のほうにおった連中が名辞を案出したその後で、抽象化業者がこういう「実体」等の簡便分類を作ったのである。)

これは、情報処理関係の本や記号理論の本から引用してきたのではない。西洋を没落させたりニヒリズム憂国したりして、ゴテゴテ言語お住まいの思想家連中や病床で熟々した酔漢文人らに熱愛されて来てしまったあのニーチェが書いている文章である。見事な、代表性ヒューリスティックの解説になっている。「[18]80年代の遺稿」の513番(1886/87, 6[11], KSA 12.237)だ。ランダムに当たっただけですぐにこんなものが見つかる。確率から言って、いかにこういうことを生涯書き散らしていたか、いかにこういう事こそがこの人の主関心だったかが、見当付くだろう。いや別に、誰でも目にしてる有名な作品に当たってもいいぞ。何の気なしに『人間的、あまりに人間的』第1巻第2部68番を見ると、正の結果を得た者は良いものだったのだ、負の結果を得た者は悪いものだったのだと判断する後知恵バイアスのことが書いてあり、その際に行動前の意図が歪曲改変されることもあるぞと記憶錯誤のことも言っている。同じく『人間的、あまりに人間的』第1巻第9部559番に、教科書から抜いて来たかのような帰属の基本的エラーが述べられている。また、ふと『曙光』第1書86番をクリックすると、ジェームズ=ランゲ説を想わせるような知見を述べている。無作為に開いた『悦ばしき知識』第4書296番が、ラベリング効果ハロー効果のことを言っているようにしか見えないし、これらの負の側面として社会的通念を疑う者が抑圧され抹殺される様子を描いている。盲滅法に『善悪の彼岸』第4部125番に当たってみたら、希望的観測に基づく勝手な他者イメージのことが書いてある。さらに、現代の経済学の話につながる「Post hoc ergo propter hoc」という誤認知を述べている『曙光』第2書121番から、はたまた『偶像の黄昏』「四つの大〔きな〕誤謬」から、色んな所で因果関係の錯誤について述べている。認知研究とニーチェの関係は欧米ではほぼ常識であり、こんなんこんなんこんなんこんなんこんなんこんなん等なんっぼでも参照先が有る。日本での理解だとせいぜい「無意識」に注目していたとかいう程度だろうが、無意識など当時誰もが注目していたのだし、昔から誰でも考えていた。アホ喜ばせの「神は死んだ」もだいぶ前から言われてた事だし、「永劫(遠)回帰」なども独特な発想ではない。我々はニーチェが時代と他人にしゃべらされている事ばかりに注目し、この人が独自に考えていたことをほとんど何も知らない。いや、読んでても、都合よくゴテゴテと思想化して、自分のニーチェ像に併合させて、読んでしまう。将にこの人の問題意識が裏書きするだろうように、我々はその人物に期待しているものしかその人物に見ないのであり、もしかしてこんな事も言おうとしているのじゃないのか、実はこんなことを言いたかったのではないのだろうかとは、滅多に考えない。それを研究者という人種がよくやっていると思い出すかもしれないが、いや、大してやってない。既存の理解を多少塗り替えたり、既製の理解に整合させようと四苦八苦して結局権威に媚びている、というのがせいぜいだ。例えば「あらゆる価値の価値転換」などというのも、こうやって大げさな日本語にするものだから猶更大げさな歴史思想に見えてしまうが、一旦ひっくり返したら色んな新しいものが見えてくるんじゃないかと言っているだろう。

新しい世界

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こういう事を言うと、なるほどそしたら、君が今述べているニーチェ思想と、世間でよく知られている「超人」や「力への意志」等とが、一体どのように並ぶことになるのかね、どのような折り合いがつくことになるのかね、とホザかれる人士がいらっしゃるだろう。だから!!!!!! そう言ってくる態度がいま問題なのである。なぜお前は1人の人が言った様々なことをその人の中でぜんぶ両立させようとするのか、なぜ首尾一貫や整合性をヒステリックに強請るのか、なぜ与えられる諸々の断片をそのままに受け取ることが出来ないのか、なぜそれを一定の〇〇像や体系的理解(という、お前が描く餅)に併合させないと気が済まないのか、なぜ1人の人を求めるのか、なぜ原因と結果の(お前原作・お前演出の)ストーリーをでっち上げるのか、そこをいっぺん問うてみろやアホンダラと今は言っているのである。全体的理解だけが知の在り方なのか、お前はそれを考えたことがあるか?それに何十年間も無反省に盲従して来た自分のおかしさがそろそろ目に付かないのか?お前(と権威)に見えてる人物Xとその発言Yがあり、他の見方から見えているそれが有る、以上それで終わりハイサイナラ、

Bye Bye Bye

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と何故そう言えないのか。ニーチェならそう言うだろうな。見方Zからは、「超人」など要らないしどうでもいい。また、人物Xにも発言Aはそれはそれだけのものであり、発言Bはそれはそれだけのものである。研究が整合的体系を構築することなのなら、発言A・発言A'・発言a・発言a'…等の、人物Xの1モジュール内での体系を追求すればそれでよいではないか。その他には何を言ってようが知らんでいい、自分の分節照明が照らす限りでその思想を見る、自分が料理してやるのだ、〇〇先生?老害が何をホザいてるか知ったこっちゃあるか、という態度でも別にいいだろが。ゆっとくがな、断片とだけ付き合え。どんな人物にも、捨て曲がある。その人物に埋没するな。数々の人物から気に入ったものだけを集めてきて自分だけのパッチワークを作ればいい。人物などを対象とするな。研究主題名に人物名があるそこのバカ、恥じろ。「リルケやってます」「カントです」、しばくぞ。(1人の著者がいろんな事を言うのは、そもそも1人の中で別に体系的整合的にでなくいろんな事が思いつかれてしまうものだからであると同時に、また、後世含めいろんな読み手になるべく沢山の自分を伝えようとしているからでもある。そういう野心でも、いろんな事を書く。この記事で触れたように、1冊の本、その文章の山は、書き手側が可能最多数の読者を想定しているという諸都合の多層レイヤー、そういういイジきたない下心に因ってその分量になっているのだが、1人の著者もかかる多層レイヤーによって著述しているのである。到底ぜんぶに付き合ったらんでええ。)

もっと分かりやすく言おう。洋画のメイキング映像てのは何故か俳優がキャラやストーリの説明をし出すものだがそんなんお前に聞いとらんわボケお前しか喋れんこと喋らんと意味ないやろボケと思うのだが、それはともかく、映画テレビ問わずメイキング映像や予告編や宣伝映像で、時に顔のドアップを伴いながら(伴わないものもなんぼでも有る)煽情的な一言や意味が気になる一言を言う1秒前後の1コマというのが有る。それをこいつが何で言ってるのかが分からないままに見せられる乱暴なやり口であり、文脈から切り離された発言の一人歩きである。問題だ。ところが、記憶というものからしてがこのようなものであることに思い至ろう。フラッシュバックするその人の姿形や動作(すぐ「顔」と言うが「顔」はあまりフラッシュバックしないぞ)や何らかの発言やといったもの、これも、元々あった文脈から切り離されて、その印象だけが強く残り、日常ときどき思い返される。風景も光景もぜんぶ一緒。つまり記憶しているものとは意味連関や帰属先から切り離された断片である。ちなみに、世の中に有るすべての自伝・回顧録・半生記・回想等のすべてが、あますところなく全部、嘘でたらめであるそんなに覚えてるワケがない。【〇〇年前の・或る日の・その翌日の・こと】なんて前後脈略を何年後までも保持することなど人間には不可能である。しかも人間は記憶をとんでもなく作る。しかもしかも、記憶は細部ほど覚えていないはずなのだから、叙述が具体的で細かいほど、それは作ったものであると言える。自叙伝とはすべからくビンヤミン・ヴィルコミルスキー著だと諦めといたほうがいい。記憶とは断片、でもなく断片の印象・夢である。そこにつながりが有ることもなく、有るならそれはお前が作ったのである、お前の都合に合わせて。口承されたモノ書かれたモノに限らず、自分個人が想起する過去や記憶というのが、そもそものそもそもからして、元の居場所と所有者から遊離した断片、とその諸断片を継ぎはぎした都合の良(よ)いお話なのである。さて、上記映像手法のように、特にドキュメンタリーやインタビューものがそうだが放映内容の「編集」も問題である。そのことには論が山ほどあり今新しく述べれる有用な知見も無い。言ったことが元の意図と違うように取られてしまう等々。その問題はよーく知られている。一方、映画のモンタージュなどは、こういった必要悪と違って、創造方法そのものである。取材した現実は、作ってしまってはいかんだろうが、映画は是ただ創るものである。そして記憶もこういったものである。過去にあったことは、今与えている通りの意味であったのであって欲しいものだが、いや、まず改竄している。過去は、並べ替え、勝手に創作シーンを挟み、元の意味からいびつに分離し、徹底的に編集して、今の解釈の色を塗ってしまう。映画ほど意識的創造的にでなく、テレビほど商業的政治的にでなく。人間の記憶とは、どんなものであれ、「インディアンの「幽霊の戦い」」の話を使った実験から出た結果が示すもの以外のものではないのである。(そしてこの実験がまた、これを紹介する奴によって、何を示した実験なのかが異なってしまっている。どこまでも人間が「作る」者であることが分かる。未知のことを自分の既知に「置き換える傾向」を明らかにした実験と言う者があれば、記憶の「再構成」の実験という者があり、かと思えば、「系列的再生法と継時的再生法」の実験だと書く者があり、知恵遅れ平常運転のウロ覚えバカは「社会通念」変容の実験「だと思います」。他に、アイヌ版のを掲載しているページもある。)

さて、自分なりに捉えよという話だったが、そうしているだけでもいかんものである。へえー〇〇てそんな人だったんだーそんなこと言ってたんだーと鼻ほじポケーっと聞いてんじゃなくて、いや、そんなことなら自分だって考えてたよとか、こんな哲学なら自分だって展開しているよとか、自分だってハンパないもん貯めこんできてるよ見したるよと、そんな風に出て、てめえの自分を見せるようにならんといかん。いいか、自分をこそ出してみろ

こんなことを書いてくると、啓発系の《自分が主人公^q^》とかいう話と混同されてしまうかも知れないが、そういうものではない。よくあるよな、《自分を大切に^q^》だか《今しか生きられない^q^》だか《10年後の私^q^》だか《未来への手紙^q^》だかイッてるトンでるシャブ中まがいの文言がな。今は、「肯定」する方法じゃなくて、シラける方法について述べている。

言葉=記号の問題が、何かを見えるようにはするぶん他のものを見えなくすること、可能性を締め出してしまうこと、現代思想系の気持ちの悪い言葉遣いをすれば「隠蔽」すること、それから、言葉=記号が貼り付いてるもんばっかに関して、また言葉=記号に勝手に対応させられてる意味に盲従隷従して、どいつもこいつもおんなじことばっかり喋ってくさるようになるということ、こいつに安住してしもてなーも考えんようになること、などを見た。斯く、記号とは、同一性という、400万億年以上流行ってる疾病の根源でもある。氏とは名であり、族とは名である。自分とは名を継いだ「子」である。家系は名が担う。名が所属させ、名が「居場所」を与え、名がアイデンティティ()を保証する。名が、名誉とかいうクソゴミを成す。私とは、そういう名である。同一性病には自分病が併発する。主体病・主役病・主人公病が併発する。自分が同じ自分・本当の自分・実現した自己でないといかんと乱心して、それを「探す旅」に出る。あのな、それで、トクすることあんのか?お前が同一であってトクするのは司法と当局だけだぞ。自分なんぞ、便所に流したらどうだ。

ところで、見えないという問題がどれだけ悪質かつ極大の損害を成すかは、強調してもし足りないし、誰もかれも認識してもしてもしてもしてもし足りない。記号の問題をまったく離れるが、例を挙げておこう。この記事で触れたが、20世紀という余りにいろんなことがありすぎた時代のなお終盤になってあのルワンダなどというものが有ったのだが、これの問題点として有名なのも、世界に見えてなかったということである、日本からも当然。無視されていたのである。隣人が農具で(!)、1日1万人のペースで(リンク切れ用予備予備予備)殺されている間、この地上にそんなことが進行している間、見えない者からは、こんなもの存在してもいなかったのである。人は、衝立1枚も隔てれば、隣家の家庭内暴力が見えも聞こえもしない。歴史は常にこうで、同じようにして、「コンゴ」も見えてなかった。見えるようにした人が尽力したから、見えるようなったのである(↓ 読めばわかる)

。なお「コンゴ自由国」という最悪の史実について、この記事でも書いたことを再度言っておこう。この史実が日本で知られるようになると、特にウェブ上だが、アホどもは何をし出すのかというと、所有者レオポルド2世という人物に人身攻撃するのである、そして誰もかれも、それしかしないのである。↑ の著作がレオポルド2世個人の問題ではまったくないことを説いているのだが、アホは本を読まんのだろう(日本人の高識字率は教養と何のカンケーあんだろな)。巨大な事象だ。国家全体・国際全体・世界経済全体が絡んでいる。レオポルドはコンゴに来たこともない。収奪してた欧米人が悪鬼羅刹だった訳でもない。アホにはこれが判らない。他人がやることを繰り返す。

さて記号の特徴として、「恣意的」と言う。あの降ってくるブツ(の観念)に/ame/や/regen/という記号が張り付いているのは言語の気まぐれ、ただの偶然、意味や必然性が別に無いということ、それが「恣意的」ということの意味である。なるほど、朱莉・朱・亜香里・朱里が/akari/なのも、石塚・佐藤・須田・福田なのも、ただの偶然である。そう、降ってくる水滴群現象を表示する記号が「雨」であるのは、恣意的なのだ。(と言っても、【対象に何の記号が結合するか】というのが恣意的ランダム非必然なのであって、【記号から使用者が一定非ランダムの対象表象を得てしまう】ことは、また別の問題である。この記事の冒頭に書いてるが、気に入られしょっちゅう登場する語というのは音がカッケーからでもある。音が心地良(よ)いからでもある(「良い」は「いい」とは読まない)。例は挙げないが。音韻が好ましくないと対象も好ましくないのである。例は挙げないが。とにかく、/ame/はどうしてもベトベトした感じがする。恣意的とは言え中立的ではない。こういう、音声と使用者の心理学というべきものが、なんとも耕しようがない領野だから仕方がないのだが、絶望的に未発達である。音声の響きが記号使用者に与えている影響が安心できる低度のものではないはずなのだが。)その「雨」と「傘」の結合も、恣意的なのだ。恣意的でデタラメな結合に騙されて、傘をさしたら何か意味のあることをしていると錯覚できるのである。世間が恣意的に作った観念結合に騙されて、日曜・ダカラ・休ム、12時・ダカラ・メシ食ウ、朝・ダカラ・メシ食ウ、メシガアル・カラ・食ウ、働イテル・カラ・偉イ(労働の定義棚上げすんなボケ)、白人・ダカラ・偉イ、広告収入・ダカラ・偉クナイ、生活保護・ダカラ・文句ツケル(妬ましい)。何個かの観念結合をインプットされた、脊髄反射を繰り返す毎日の、言葉の本来の意味でのヒトモドキ。本を読めば、世間が決めたとおおおおおりにしか読めない。名札「主人公」が貼り付いてる人物を「中心に」して読むことしかできない。その名札も恣意的に貼り付いたのでない保証があるか?ないなら、どうせだし、主人公など恣意的に自分で決めたらいいやろ。何ならコロコロ変えい。ってかそんなもん居なくてもいい。文学なんて気に入った断片部分だけ取っとけ。クラシックなんてくそ長いもんつきあわんでええ。つべから落としてWavePadでカットしてまえ。映画なんて8倍速で見ろ。事物に、他人が決めた付き合い方をするな。「みんな」が登る槍穂高に登るなバカ。或いは、同じアルプス銀座からでいいから、誰も通り過ぎるだけの風景に立ち止まれ。同じに見えるものも実は異なっている。 (ところでソシュールの「恣意的」とは記号使用でなくて世界分節の恣意性のことだ誤解なきようにと

日本語は哲学する言語である

日本語は哲学する言語である

の137~139頁が述べているが、それも含めて何個かあるようだ(こいつは一生1文字も読まんからどーでもええが)。なおこの本は有名西洋哲学者をばっさばっさやってく小気味いい前々半がイケるし言語の定義なども諸手を挙げて賛成であるが、後半品詞分類以降は退屈でいらん(日本語学界に向けて書いてるものだから別に付き合わんでええ)し、「Wirklichkeit」の嘘語義を書き出すマヌケな箇所(287~288ページ)があって、編集者もろともマヌケ無知をさらしとる。伝統的に、日本語学関連の発言をする者は英語とフランス語しか知らずドイツ語と日本語を知らないから、さもありなんなのだが、根がもっと深くて、ニワカが外語の語彙を嬉しそうに引っ張って来るときには得てしてこのテの的外れをしてくさるのである。し、さらに、ドイツ語に対しては日本人はやたらとヘンな幻想を持ちたがる。「Umwälzung」に幻想持ってたマルコム・Xはご愛敬(The Autobiography Of MALCOLM X, As told to ALEX HALEY, New York: Ballantine Books, 1999(1973)(1964/65). S. 374)

この話は、経験の共有のジレンマとも言える問題につながる。いたく感動したその作品を人に伝えたいだろう。共有したいだろう。メールだSNSだ。語らいたいだろう。共に応援したいだろう。今夜この想いを到底1人胸中になどしておけない。という一方で、そうでもないだろう。自分が惚れこんだそのそれを、他の奴と共有するなんてまっぴらだろう。なんで他の奴も観てるのとすし詰めになって感動作を観なあかんねんな。きもいわな。悪趣味も甚だしいである。趣味というものは私秘的なものだ。自分の大事なそのそれを他の奴らに触らせてたまるものか。汚れるわい。… 一体どっちなのだろうか?どっちでもない、ジレンマなのである。だからジレンマの事実のまま解決を図るしかない。ところで事実と言えばもう1つ事実が有る。「同じ」モノを観ていながら別に同じではないという事実である。「同じ」モノを相手にしていても、あなた私とあいつとそいつと猩々とでは、「受け取り方」がまるで違う。隣の位置だと見え方が違う。それを感受するその瞬間までの全人生がその感受内容に関わる。もっと他要素を加味しよう。どんどんどんどん加味しよう。すると、すぐ傍のそいつが「同じ」それに対して別宇宙ほど別のとらえ方をしていることもありうるだろう。ありえないかも知れない。どうでもいい。認識論はやってない。同一の経験は、無い。お前だけのものは永遠にお前だけのものである。安んじで共有しよう。また、共通して応援支持もできる、共通してそれを「取り巻く」ことも出来る。そういう満足も確保できる。おお!ジレンマなぞ消えたぞ。同じに見えるものも実は異なっている

ということで、記号なぞ、伝達の用を為しさえすれば、あとはどうでもいい。言葉なぞ、知識伝えたら、あとはいらん。主役なぞ、こっちが面白がれる分だけ出たら、あとは引っ込め。自分なぞ、社会が要求強要してくる分だけ同一であったら、あとはどうでもええ。自己なぞ、議論に必要な分だけダシとったら、捨ててまえ。そんなもんな、「恣意的」やねん。

同一のものなんぞ、必要なぶんしか要らん。バラバラに生きろ。なんでもな、「mannigfaltig」やねん。

よく、神秘思想なりスピリチュアルな話題で、世界との失われた合一、悟性が分節する前の始原への還帰、大地な母胎への憧憬、主客未分化の統一的経験、すべてが和解した共同体的理想、さかしらな知性が介入しない原始性の歓び、といったものに人生の答えが求められる(Deine Zauber binden wieder, / Was die Mode streng getheilt,)ものだが、これって、逆だろう。世界は分節されてなさすぎるのであり、経験が寸断されてなさすぎるのであり、人々がバラバラであってなさすぎるのであり、認識が多様化多雑化してなさすぎるのであり、人間がマトリックスから分娩してなさすぎるのである。何事であれ「豊か」というのは、こっちのほう、分化の極致のほうに有るのじゃないだろうか。

 

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