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しばいてくぞ

極端が物事をだめにする

焦燥がこの僕をだめにする(Team K?)

焦燥がこの僕をだめにする

  • SKE48
  • 発売日: 2015/08/12
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

という題でありつつ、実害たる実害がある極端バカについてはこの記事この記事で述べており、本記事ではむしろ「それって極端やからそうなることやったんや…」と思わせる解明をしている。だから、いまのリンク先と違って本記事では実害たる実害がある極端バカの話はしないのだが、といいつつ、折角だからちょっとだけしておく。図書館等の公共貸し出しの書籍に書き込み線引きをする人間のクズが居るが、公共施設がこれに対策を講じていることは無い。本当に、無い。つまり、線引きや書き込みという程度ではこういつらは動かないのである。一方、「本が泣いています」というのがある(ググれ)。これは破損や切り取りといったガチの犯罪行為を問題にしている。ガチの犯罪になってからやっと愁訴し出す極端バカが図書館なのである。あのな、書き込み・線引きの時点ですでに十二分に損壊罪なんだよバカ。なぜお前らはそうやって極端なケースしか知覚できないのだバカ。おい図書館等の公共施設、お前らは、本物の破損というレアな事例ばっかりを話題にして、多数の本にされてる損壊である書きこみを無視することになってるんだ。何故そんなことも分らんのだ!!少数の極端な悪ばかりを目立って取り上げていると、大多数の非極端な悪が免除されてしまう。あと、騒音のこと。ここでも、訴訟モノの大騒音の話を声高にする極端バカのせいで、軽微でも十分苦痛になるような騒音被害が看過されてしまうのだが、しかしながら、騒音に関しては、例外的に、目立って取り上げなければならない極端な悪が有る。選挙カーという街宣車がスピーカーから絶叫する大騒音、明白な加害行為のことだ。選挙カーという犯罪車両が空爆して来る大汚濁音は、飛行場近辺並みを上回る最悪質の暴虐であるが、まったく問題にされず、看過され、認容され、何ならおそらく促進されてすらいる。しかも、音の内容が機械音よりも醜い。それは、なんぼ文化なんだろうとおよそ広告というものがすべて買ってください金つかってくださいと連呼絶叫しているだけであるのと同類、いやそれ未満であるである。選挙カーの公害音声は、当選させてくれと嘆願絶叫しているだけのナントカ乞食として、最悪臭に醜い汚物反吐物であり、宇宙に存在してはならないゲロ音声である。あれは言葉ではない。

 

さて、ものごとはほどほどにという愚もあれば、逆に、行きすぎてまいよるというのもある。後者は、或る一定程度のところが最大限の成果を出すポイントなはずであって極端地点に行くと逆に効果が減じるというような事象に於ける愚である。以下、例を出すがどれもただの例であってこの記事はその例の話はしていない(言ってることわかるか?)。他にも例を後で出すがそれらも同様。

で、例。学校の「社会」で共産主義の項目のとき、画一配分体制だとサボる人(・ガンバっても報われん人)が出てくるし実際社会主義国家で出てきているらしい(のかどうか知らんが)のにどうしてこんな思想が出来たのか先が読めんかったのか云々という疑問が出ることがあったかもしれない。そんな社会以前に、そもそも自由競争下だろうが(何なら独裁体制下だろうが)何だろうが、ヤル気ない奴・上にあがれん奴・高収入者や社会保障受給者を嫉妬するしかノウがないヒトモドキなど幾らでも湧くのだし、そうでなくても、協働状態では無意図無作為な社会的手抜き行動が生じる(リンゲルマン効果)のだし、等々と、当該疑問学童に与えれる説明が何ぼでもあるが、そういった中で、後の社会主義国家の綱領になっていくものである限りでの共産主義思想(以外の共産主義思想は措く)が出て来たところのその土壌というものを知りなさいという説明があるだろう。マルクス主義とその周辺1億兆kmの如何なる文献も文章も1文字も読んだことないし永久に興味ないから空想で書くが、学童が疑問に思うような社会が成功確実とされて、その像が、学童が疑問に思うような様で自信満々に打ち出されたのは、当時社会から何から色んなものを生物的進化プロセスをたどるものと見ていて、現今社会から当該主義思想が描く社会状態へと我々が移行するのが決まっている・我々が勝利せざるをえない・個々人の意思と無関係に社会がそう進んでいるし今までにいたのだしこれからもいるのであるという考え方が・思想の傾向風潮枠組みが有ったからである。つまり、提唱者-支持者たちは報酬同じだとサボる人云々を想像できていなかったのではもちろんなくて(そもそもマルクス経済学は現象《労働》の分析者・理解者であるしマルクス-レーニン-チュチェ-その他思想は「社会」の授業で教わる内容ではない)、或る決まった形の思考パターンに従って思想彫朔をしていただけなのである。(なお一定の思考パターン・時代の様式型に従うこと自体には何も責めが無い。それは人類史普遍の事である。)

見果てぬ夢〈6〉魂が呼ぶ荒野 (1979年)

見果てぬ夢〈6〉魂が呼ぶ荒野 (1979年)

が、そうすると、別の問題が見えてくる(と言って、勿論、巷間バカの1つ覚えが繰り返している(し何の生産性もない)マルクス系思想批判をするのでは全くないし、巷間アホの1つ覚えでアホが繰り返しているカス文章を繰り返す気が一切ないから、今後、ダーウィニズム批判もやらないし、当然フロイト批判もやらないし、その他その他の、思いつかれる限りの あのバカの繰り返し・このバカの繰り返しを、一切やらない。ここでバカどもに次ぐ、他の誰かの尻馬に乗っかって集団リンチに加わってお前はなにが楽しいのだ?もちろん、後述の行動主義も非難するつもりが全く無い)。いま、一定方向進化を必然的にたどる存在が有るのは分かった。それが有ることには、しよう。しかし、なぜ「社会」もそうでないといかんのだ?生物がいるのは分かった。だがなぜすべてが有機的-進化論的になって個人が「細胞」になるのだ?或るプロセスを必然的にたどるという事象が観察されたのなら、「その事象に関してはそう・が他は知らん」でなぜ留まっていられないのか?観察できるのは豆や虫だろう。社会集団史をまるごと観察したメトセラが居たか?いやもっと言おう。或るプロセスを必然的にたどるという事象すらも、観察した限りでそうであるかも知れないだろ。なぜ、自分の観察した限りのこの事象においてはそうだが他は知らんと言えないのだ?何なら、生物進化は実は真実本当にはただただランダムで場当たりで偶然偶発かも知れないだろ?そこに法則や傾向を創作するのは観察者の  主観  都合にすぎない。適者が生存したかに見えるのは、生存しているのだからそれは「適」した者なのだろうと後知恵バイアスで「判断」しただけだろう。事象の観察からめいめいの  主観  確証バイアスがめいめいの捉え方をする、その違いがあるだけだろ。はいはい、確かに、「帰納」というものが、有る。個々の観察にとどまっている訳には行かない。しかしそれを何故、よりによってすべてに(または他の事象に)、拡張するのだ?必然プロセス云々が通じる(らしい)領域内ではそれは整合性高く魅力的な説明たりうるだろう。目的論的見方を設定して意味がある範囲領域領土は、それはそれで、勿論必ず有る。しかしそれは、或る特定のポイントでこそ最大限の成果を上げるのではないのか。そこから極端に進んでもたらその見方は輝きを効力を失うのではないのか?なぜ、そう考えてみなかった?なぜ、【今わかっているだけのことにすべてを説明させる】病にかかってしまうのだ?… ということである。(なお、確証バイアスが科学をする以上、いかなる「帰納」も、実は、最初に思い込みありきの偽装した演繹にすぎない。)生物に「進化」が有るらしいという観察と、「進」化を見たいという確証バイアス(=その社会・その時代が課す思考型)は分かった。それはそこまででもよかったものだ。それで、なぜいかなる社会も(そして生まれてから死ぬまでの個人も!)或る「完成」状態・理想・「10年後の自分」に向かって「前」「進」して行っていることになるのだ?そういったストーリー、いや物語-歴史((hi)story)というものが人間が勝手に夢想する妄念虚妄妄想に過ぎないのに。よって「歴史」など存在しないのに。

もっかい言うが、例に過ぎない。例だから自分でこそ思い付け。思いつけるように補助で例示するに過ぎないからな。「極端に走るバカ」。昔テレビで谷崎潤一郎が言っていたが女側が身長勝っているのがエエと思う男側もある。しかしながらこれは、「身長勝っている」程度の差、この文言で述べている程度の差だ。いまこれを期待してエ〇タレスト・XVI〇EOS等々どこ行っても、勘違いしか見つからない:身長差30センチ(前後)というフリークショーしか見つからない!!! アホなのだろうか?しかしポルノはすべて、極端に走るという意味で、アホである。アノ行為を映像にするのは分かった。それ自体は、分かった。が、なぜそこで留まれない?ふっっつーのアノ行為を映像にしたらいいのであって、アノ行為の一部であるに過ぎない性器接合をひたすら撮って映せと誰が言った?なぜお前たちは極端に走る超正常刺激には官能は無い。リアリティが一切なく故に一切使い物にならない演技と体位の映像を作ってる連中には、普段日常の内容に近い内容こそが官能性最大限で従ってウケて人気博して儲けになるのだということが、知解できない。ただし、かと言って、局部映像が皆無の嘘で塗り固めた韓国映画ポルノがいいのではなくてこちらも十分悪質である。

(ポルノが必ず解剖実習化してしまう要因は他にもある。観念病がそれだ。アノ行為イコール性器接合という観念しかアタマに無いから、この部分を映しさえすれば、それも顕微鏡的に物理的物質的抽象的に絵ヅラにしさえすれば、何か性を描いた気になるのである。実際はアノ行為は「行為」の周縁の室内室外環境物品調度の全体から参与物体人体全員全部とそれらすべてを含む前後の状況や心境関係その他等のコンテクストから成る経験の全体性以外の何でもないのだが、この経験事実に少しでも僅かでも近付く気が全くなく、この全体の些少些細な・むしろみじめな一部に過ぎない接合しか、撮れないないのである。これが観念病。もちろんこれもただの例(だし、極めてしょうもない例だがSEOのため)であって、他に無数のケースが有る。例えば体重。体重計の数字(の減少)という観念に憑りつかれて、この数字、この観念しか見えなくなる。現実実際の成果であるはずの体形も健康も美容も見えなくなる。体重含め身長(つまり骨長)・身体各部位の周囲長・皮下脂肪量・皮膚の肌理と基本色と光沢とその他の組成・各骨格の寸法と組み合わせの仔細・各筋の付着傾向に分布傾向等・これら全体が作り出すプロポーション・知覚し鑑賞する側としての当該社会集団が共有している一定の感性等々が作り出している総合的「カラダ」という全体性、つまるところごく普通の現実ありのままの体、というものが、一切全く全然見えなくなるのである。そしてバカが今日も「痩せる」についてホザく。これが観念病。物事に対する単なるイメージや《こんなもの》という思い込み・漠たる観念、《こんなんなのだろう》という漠然無考えのイメージしかない状態。何か1つの思いこみからしか行動できない無能。アタマが観念でいっぱいのアタマでっかち状態。これが観念病。他に、「衛生」もほとんどが観念である。キレイと感じる(だけの)ものと汚いと感じる(だけの)ものとの区別は、化学的にはまずナンセンスである。前文明的状態と現代の化学合成品まみれと、分子-生体レベルで見ればどちらが「不衛生」で「有害」だろうか。観念病、いくらでも見つかる。東南アジアでは交通機関の内部を冷庫にする(特に長距離・長時間移動するものほど室温をバカ下げなければならない)。外気の快適を作り出すためのエアコンというものの機能を忘却して、暑さという観念しか見えていなくなっているからこうなる。暑イノダメ・暑イノ消スという観念しか頭にない。暑さ∨¬暑さという抽象図式しか頭に無い。結果、現実の快不快が何も見えていなくなる。「not暑さ」デアレバアルホドイイノダロウ。そして日本土人は初冬の京阪電車内で冷房を付ける(または熱中症を出すトラブルから死に物狂いで逃げる)。車内環境とは、気温から湿度・天気・風力・風向・風量・雲の量・車内人口・暦の感覚・被服状態等々が作り出している総合的「空気」という全体性、つまるところごく普通の現実ありのままの経験、である。ところが、空気のごく一部を成すに過ぎない気温の数字をエアコン付けるか否かの基準にするのである。極端に走る。これが観念病。もっと言うとこれはクソメトニミー病の因でもある。例えば糞メトニミー「アルコール」を例に取ると、飲酒の経験は祝宴事象の小世界全体、全物品と全会話と全飲食の全体であるのだが、その中の何か一部ではあったらしい所の飲料のたかが一成分があたかも……… といった具合。)

別の例。委細ggrksだが「行動主義」心理学というのが有る。その成立に関する時代背景上の精確な同定は措くとして、要するに、心の中などというワケわからん曖昧なものを「研究」しててもラチがあかん、外に現れている行動・ふるまい・言動・挙措を記述してのみ心理が解明できる、と前提して確立して支配的だった20世紀の心理学である。で、いま、行動主義の言イタイコト、その主張の気持ちは分かるはずだ。そして言イタイコトだけを聞くと、機械論や還元主義と同系である。心の中をなんぼ観しても形のある何かが把持できて記述できるものでないし、そんなものはゆうたらそいつの一人よがり証言だ、客観的に「心理」を記述するには部からの観察しかないではないか、という気持ちは、是イヤというほど分かる。そいつの内面だの情だの知ったこっちゃない、そんなあやふやフワフワなものは相手にせんと。人間などそういう名前の自動機械だと。すべてがアトムの配置配列だと。確かにこう言いたくなる気持ちは分かる。ただ、それを、なぜ、振る舞いの記述が有効でもあるというところで止めておけれない?人間は要するに機械と見たらいいところもあると言うに留めておけれない?構成素レベルでの記述が上位の構造を説明する上で有効なこともあると考えるに止めておけれない?すべてが機械的物々的じゃい!と極端に推し進めたから、しかも推し進めたにも関わらず、結局、後世に数々の修正論が噴出しているではないか。しかもこういった20世紀後半からのヨリ洗練された科学にあっても、行動主義手法・機械論着眼・還元主義捉え方自体はどこまでも有効である。そらそうだ、事象の記述と法則の樹立が科学の方法なのだから、それを一途に心掛けている機械論的なものが有効でないワケがない。何も間違ってはいない。世界がある程度アホみたいな自動機械で人間がアホみたいなパターン機械であることに、そないゆうほど間違いはない。…と言っているポイント、この地点なら、こういう見方は最も高い効果を有しているはずなのである。ところが、万物に拡張してしまった。動物学に堕した。「ボックス」に堕ちた。そして、「人間」を解く筈が、動物実験という本物の「悪魔の飽食に手を貸しもした(ただし、動物実験の本丸は医学と医療界である。なお、動物実験ですら人類蛮行の序章にすぎず、本編は「畜産業」である。)。

罪なきものの虐殺―動物実験全廃論

罪なきものの虐殺―動物実験全廃論

  • 作者: ハンスリューシュ,Hans Ruesch,荒木敏彦,戸田清
  • 出版社/メーカー: 新泉社
  • 発売日: 2002/05
動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

  • 作者: ピーターシンガー,Peter Singer,戸田清
  • 出版社/メーカー: 人文書院
  • 発売日: 2011/05/20

旧世紀にカラめておまけで言っとくと、(興味ないが、)空間と時間を絶対化して露も疑わなかったから、観測事実や、(クソカケラも興味ないが)「宇宙」の何かが説明できず、20世紀に相対化することになる。これも、時間空間座標系に位置付ければ説明出来るものが多々ある、とだけやってるその限りなら、至極もっともなのだろう。知らんが。しかし理論(前提)としては極端安直だった。4次元・座標、ハイ終わり!森羅万象これ!なワケがないのである。だから、あるべきは、世界の数学化という偏向より、世界の数学性という見方だったのだろう。

それにしてもなぜ極端に持って行かず止めておけないのだろうか。哲学はそういうことをしてナンボだから問題ないように思えるが、いや、大概冷静さを欠いている。観照的生活・諦念があるししたいのは分かるが、なんでそれが理想でありうるだろうか。人間は参加参与行動活動をあくまでしたいものだ。なぜ、どっちもあるとしておけないのか。奴隷労働に胡坐かくにせよ晴耕雨読に隠居するにせよ、それお前がほんまに求めてる生き方なんか?

知情意を分けてどれかに一元化しても仕方がない。分かれてはいずそもそも一体であり都度都度時々の知・情・意局面が有るのみという様をなぜ見れないのか。どんな情動にも知識理屈が絡みこんでいるし、どんなヌース最高知性も日常的しがらみ・些事の情緒感情に片足全身浸かっているものだし、何も知らない意志など無いし、方向針路や目的方向のない情感や思考など無い。真・善・美も同様。唯物・唯心・唯〇のどれもこれも、みな同様。やりすぎ。極端。言イタイコトハワカルと言えるような時点で止めておけば、最大の効果を上げているはずだった。相当な数の事象が事象側でなく心側のパターンへと合致しているという観察は、そらそうだろう。心「の中」の成り行きに世界のほうが合わせているかのような幾つかのもの事どもが確かに有るというの、それは分かった。だからってそれでなぜ全宇宙が観念化されんといかん事になるのだ?なぜ人生プロセス全体が「識」の深化プロセス以外であって他ではないことになるのか、何故「識」だけ探求していればいいことになるのか。そんなんやってるから精密実証科学が誕生せんねやろ!!この手のアホというのが極端に走ってる光景、枚挙にいとまが無い。経験と大脳生理過程に対応が見られる(有るとは言ってない)なら、そこまで言って終わりなのである。ところが、一旦こういう話が流出すると、世界は「脳」だー心身問題だーマトッリクスだー水槽の脳だーと、すぐ極端の果てに突っ走る。少しでも人間からの自立性・自動性を備えたものが造られると、ロボットの反乱だーワーギャーと妄念を膨らませる。「情報」の「処理」をするただの道具が造られると、心とはプロセッサだギャーギャーと騒ぎ立てる。分子運動と天体運動に法則性が見つかると、(どっちも絵にすると球体だし、)「ミクロコスモス」wwだーワーヤッターと嬉しがる。ヒトに似た動物の観察記録が集まると、サルとヒトの違いとはーワーウオーと紛々紛糾する。グラセフやfatalityの絵がリアルになると、殺人事件増加だーワータイヘンダーとバカ騒ぎする(暴力的ゲーム・残酷ゲームと犯罪発生との因果関係は、肯定的な研究(2005)と否定的な統計(2007)と否定的な実際(2011)と否定的な研究(2019)、等々と賛否両論であるが、合州国では銃が容易に手に入り他の国ではそうではないという物質的温床=犯罪のインフラの問題が有り、合州国の低能論陣の頭にはこの問題がまるで無い。悪質らしいゲームがもちろん潤沢に手に入るしプレイされている日本では20世紀から近年にかけて凶悪犯罪・少年犯罪が減る一方である。 

戦前の少年犯罪

戦前の少年犯罪

  • 作者: 管賀江留郎
  • 出版社/メーカー: 築地書館
  • 発売日: 2007/10/30

。)あと2万個ぐらい例を思いつくだろうし、是非思いつけ。これらはすべて、てめえのアタマの中でアタマでっかちに観念の極端に走ったバカから出て来る言説にすぎない。言説と言わず行動となると、魔女狩り赤狩り創価狩り・在日狩り・カースト・部落・焚書坑儒奴隷貿易・収容所・春が沈黙するような衛生キチ〇イ等々々々々々々の愚行史。ここでは、人ノ性トハとか、Why We Hateとか、killer apeとか、爬虫類脳とか、群衆行動とか、そんな大げさなことを唱えて論じてせんでいいのである。極端に走るバカとバカたちが有る。それだけのことだ。(「脳」などの身体の一部に注目してこれの役割を誇張するバカについてさらにこの記事を参照。

社会も何かにつけて極端。絆というのは確かに有り、人間は人間とつながっていたいのはそれはそうなのだが、一体なぜそこから、一緒に住むとこまで進まないといかんのだ。情愛が有ったらそれがなぜ家族形成にまで進まなければならないと勝手に決めつけられるのだ。また、社会復帰につなげる気のある人には一定の意義のある社会保障も、基準と書類さえ満たせば誰でも受給できるから、そんな極端に走るから、世論に不満が募ることになる。極端な戦後補償、極端な不平等条約を課すから、ナントカが台頭することになる。教会や国体が有ってそれが尊いのは分かったから、なぜそれが全世界を支配しないかんのだ。等々。

極端病が最も醜悪な症状を呈しているのが、異常へりくだり病である。これは高踏的にはポストモダンという、インポ集団が慰撫愛撫し合っているカマ思想であるが、低踏的低次元の病人を見ても話が同じだから、あえてゴッチャにする。脱中心化したいのは分かった。それがxxセントリズムへの反省を促すとか何とかやってる間には有効なモンがあるだろう。だが環境中心主義ってのは、【環世界まずありきで次に自分】といった、自己定位・自己理解の方向切り替えを促す見方である。誰が自我をへりくだらせろと言ったこのバカ!!そう、こいつらは、面非主体化に走るのである。中心やヒエラルキーというものを拒否したいのは分かるが、それで自分 も をこそ抜いてしまおうとする。あのな、ええか、どう見てもやな、無限にちっぽけな被造物の私、他者様たち・社会陛下・歴史殿様を前にしたあわれな犬の私、ああ影になってしまいたいわ、自分を消したい・「死にたい」…こんなものほどゲロヘドクソキモい感じ方は他に無いだろう。ゆうてこいつら口だけであって「感じ」てなどいないんだがな。そう、口だけ。この極端病は、(自分でそうと気付いていないだけに悪質きわまりない)嘘・虚言・デッチあげである。だれも自分が要らないなどと心底では皆目思っていない。全く反対に、生きてるどんな場面状況局面でも自分中心・自分ありき・自分ワールド視点でしか反応できない・経験できない・認識できない。ことを判ってもいる。そんな自分というのがどうも世界の中でそないに主張できんと感じてそこで「自信失」ってか何かしてヘタレの不能が昂じて「タヒにたい」にでもなるんだろ。それはお前が世界を支配したがってるからだ。だから無力感が簡単に裏返る。裏返って、世界に勝てないなら勝てない自分が居ないことにしようこれが解決だ!、となって、自我を消去しようの斉唱に走る。こういう幼稚な自分ちゃん愛好が、滅私だの「考える葦」だの「則天去私」だのホザきたがるのである。キモい奴らだけに、例のキモい「マゾ」と親類だ。人間とは環境を改変する(労働)生き物であるし、自分というのが他人や世界に変形・棄損・影響を加えてしまうのは否応ないことである。自分が実際実在してて・何がしかのチカラと存在感を持ってしまってて・自分が自分でしかなくて、他人と傷付け合っていて、だからってどうしょうもなくて、…ってことを素直に引き受けろバカ。それを表に出すのがコワい不能だから、「マゾ」宣言するのである。このあわれでみじめな私は世界様人間様に指1本触れません、このあわれな私を鞭打ってくださいませ、私が何をしてもそれは私の私の私の中で完結充足するミジメな私個人の内的個人的事柄です、世界様人間様には何もいたしませんご寛恕下さいませ、という理屈が、「マゾ」発言の骨子だ。自我が非我とどう折り合いをつけるか、言えることはせいぜいそこまでだ。自我による世界征服と同じ程度に「マゾ」も脱自分もぜーんぶアホ極端病であり、よって空虚な虚偽である。自我による世界征服が自分に素直な気持ちなだけマシだ。謙虚謙譲謙遜ほど悪質なものは無い。お前は支配したがり過ぎてる。(謙虚謙譲謙遜の文化の連中が他人を・門下を・弟子を・生徒を自分ワールドに馴致させる時の露骨なサディズムを思い出してみろ。日本礼儀文化の偽装した暴力性・そのサディズムに比べたら春琴抄や道徳系譜論の描く攻撃性のほうが千億倍素直でまっとうだ。)

さて異常極端病というのは娯楽表象の分野にも大量に有る。すぐ誰にでもわかる話をすると、高度な筋発達を遂げた人体という造型ジャンルでは現代のオリンピアンが至上無上のフォルムであり、人体美に関してはここが最大の効果を上げている地点であって、これ以上進んでも仕方がない・美に反比例して醜に走るだけであるのだが、ところが、高度な筋発達を遂げた人体というと表象が描くのは、常にいつでもどこでも、ご存知の通りのあの奇形である。これ元凶から命名してハルク病とも呼んでいいが、映画・漫画・舞台・アニメ・ドラマ・その他映像作品・小説・物語・悲劇・コメディ……の何を取ってもいいから、エンタメ表象の世界でこのハルク病が蔓延していないものが見つかるだろうかというものである。確かに大げさを描いてなんぼなのだろう。ところが、人間の感受に最も効果的に響くポイント・地点は、日常的知覚体験内容に近い地点である。カッコイイも・スッゲーも・デカいも・颯爽も・スマートも・クールも・ヒーローも・あざやかも・素敵も・ツヨいも・ヨワいも・悲哀も・闘争も・幸福も・骨肉も・惨事も・愛も・美も・人生も・意味も・ファッションも・車も・能力も・努力も・リングも・駆け引きも・頭脳も・勝ち負けも……等々々々々、何であっても何もかも、一旦極端に走ってしまうと、台無しになる。おもろくも何ともなくなるし、全然心を打って来なくなるし、迫ってくる物でなくなるし、印象に残らないものになる。然るに、何であっても何もかも、およそ知覚されるものは、日常的な閾を少々はみ出しているという程度の地点が、最も強力・持続的に感受性に訴えかける。だから、エイリアンの顔がまったく怖くなく、(非CG)チャッキーの顔が世にも怖いのである。およそ微妙ということ、味付け程度の逸脱、が受容者の心をつかむ上での(唯一の)カギである。それが、表象の発信者には、分からない。アホなのである。ただただ、デフォルメしたらそれでいいと思っている。で、受容者も、世間の慣行で長年感受鈍磨させられて、何かおかしいと心の奥底では思いながら、これがいいんだよと、今日も錯知覚する。

そうして、ここに書いてるが現代日本のありとあらゆる映画・ドラマ・演劇・アニメ・漫画・コント・宣伝映像・小説・エッセイ・ネット創作(ネットには創作しかない)・ラジオ・舞台・戯曲・詩・その他空想等々々々に於いて台詞というのが、その何もかもすべてが1個の例外もなく、日常の日本語とかけ離れたまったく違う宇宙人日本語になっているのも、今見てる表象領域の極端病だと診断できる。「役割語」なんてクズ説明じゃ何も説明できん。およそ、テレビつけても映画レンタルしてもつべ再生しても、創作上のセリフで、ゲロクソヘドものに気持ち悪くはないものがまったく存在しない。しかもこれをお前たちは十全十分に知覚している。いながら、その素直な印象を、コレハコウイウモノナンダと抑圧圧殺し、挙句の果てには、これがいいんだよと今日も錯知覚している。もう一度言う。お前たちが、カギカッコに入れてる・入れられてる、演者が喋ってる・喋らされてる、映像で流れている・流させられているあの科白この台詞そのセリフのすべて何もかもが、日本語ではないとしか言えない所の異常キ〇ガイ日本語である。なぜこんなんなってもたのか。そりゃ物語上の喋り方というのはある程度非日常的である。実際に小説のように文法的に長文を・映画のように淀みツカえドモりなく決め文句を、日常で口にしたら、ひたすらキモいか、何なら異常者である。だが、ある程度まではそうせんと、テキストにならん。まったく日常通り喋ってたら…言うまでもない。そう、ここまでは、分らんでもない。ある程度なら、日常逸脱もせんとしゃーない。ただし!!!現代日本語の表象では、異常極端にこれをやりすぎている。(背景に明治以来の欧米言語との対峙への従属を基にした創作言語というモンがあったりするのだが、措いても話になるから措く。)明らかに、ただの極端。物語上の口調というのは、日常を常に想起させながら・日常を常に映しながら・「あるある」に常に立ち返らせながら、物語の枠組みに収まるに都合のいいように、その程度まで、逸脱するのである。この《逸脱》しか見えない創作者たちバカ受容者たちが、逸脱さえしたらええのやろ、と、極端に走る。性器接合さえ映したらええんやろというポルノ根性とまったく同様に。これが、極端に走るバカだ。

会いたくて嫌になる

会いたくて嫌になる

  • HKT48 やっぱりみたらし団子
  • 発売日: 2018/05/02
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