で、気付いただろうか、着色詞が「文頭」(というアホ日本語を止めて「Vorfeld〔前域〕」という捉え方をしないかんよ)に来れないことに。前の前の記事の
- Das war vielleicht schön. (しかし良かったわ。)
だと、
* Vielleicht war das schön. (しかし良かったわ。)
が無理。
- Vielleicht wäre es schön. (良(よ)いんやろ。)
と(推定)副詞でいくしか無理。(なお「良い」は「よい」としか読まない。「いい」とは読まない)個々の着色詞の意味がなかなか画定しがたく故に着色詞捉え難しとはいえ、こやつらには確実にシンタックス上の特徴が有る。まず、前域に来れない。
次に、定動詞とその片割れ成分との間である「中域〔Mittelfeld〕」なら、まずどこにでも来れる。ではどこに来るとどういう意味を…いや着色をするのか、となると、これがまた画定し難いんだがな!!
例えば、読めば読むほど味が出てくる啓発書
Die Grammatik: Unentbehrlich fuer richtiges Deutsch
- 出版社/メーカー: Bibliograph. Instit. Gmbh
- 発売日: 2016/03/01
が着色詞に注目していて、第1364項(883頁)などに、
- … weil Kinder ja doch auf der Straße spielen
- … weil ja doch Kinder auf der Straße spielen
の1.だと一般化で「子供って道で遊ぶものだから」、2.だと個別的で「子供が道で遊んでいるから」、しかし2.は余り自然でない、と書いてある。2.だと着色詞が早めに出て注意を早めに引いてる→「ほらたった今」と着色している、ということであろうか。とにかく、ニュアンス的である。
さてこの点でも、只今参照しているHispanotecaの記述(前回記事参照)が明快に述べている:Rhemaの直前に着色詞が来ると。レーマ・展題というのは、文の中での新情報部分・述語述句述文つまり述部の部分、と了解していれば今は十分。そしてRhemaが(本動詞としての)定動詞だったら、勿論その直前には来れないから、文末に来る。この観点から上の2文を見ると、1.だと「道で遊ぶものだから」、2.だと「道で遊んでる子供がおるけど」というふうに強調を置いていることになるだろうか。大方の文法説明同様これも別の場面ではまた話が違ってしまうのだろうから、話半分に聞いて措く事にしておこう。とにかく、dochだと、
- 今泉佑唯 singt doch so eindrucksvoll.
- Ihr Abtreten bedauern wir doch.
- 欅坂46
- 発売日: 2017/07/19
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と異なった風にRhemaを着色していることになる。
着色詞次の特徴、何個も重ねて・組み合わせて(kombiniert)用いることが出来て(上のja doch)、それも結構な数を重ねれれて(例の „Kombinieren Sie doch nur ruhig auch mal Modalpartikeln!“ など。←見て思い出すが自己言及文てこんな風に使うとキモいな、お前らのブログのこと言うとんねんで、特にHTML系・CSS系)、重ねる順序が厳密に決まっている。こう見るとなおさら、まさしく日本語の文末表現そのものである。
- 言うたやろ(das habe ich dir doch gesagt)
- 言うたやろて(das habe ich dir ja doch gesagt)
- 言うたやろてな(das habe ich dir ja doch schon gesagt)
- * 言うたてなやろ(* das habe ich dir doch schon ja gesagt)
- * 言うたなてやろ(* das habe ich dir schon doch ja gesagt)
Das liegt doch wohl nur bloß an Ihren weisen, wunderbaren Anstalten?
(やってくれはったらどうなんでっしゃろかいなてなもんだす)
この組み合わせの規則を網羅した資料が見当たらないのだが、(着色詞自体がだが)大して研究が進んでいないのだろう、どうせ。ある程度網羅したものとして、studiger上の【不変化詞】のこのページのこの箇所とこのページのこの箇所が挙がる。
着色詞の特徴最後、コミュニケーションに着色するものだから、一度使って色が付けばもう使わない。
(しかし日本語だと、誰も知る通り、然に非ず。ここで日本語の文末表現とドイツ語の着色詞との一致が綻びる。元々両者が時空を隔てた同じ物だ奇跡だなどとは述べていない。着色詞を文末表現で、文末表現を着色詞で考えると互いの理解が深まるなという示唆に関する話をしておる。そしてもっと綻びる点、着色詞というのはまず任意であり、無くてもおかしくはない。一方日本語の、(未だにロクな名称も有していない)文末での色んな物の言い方、文末表現と呼んできたこれ、これは、絶対必須である。日本語たる日本語、天然本然本来完全な日本語の最たる特徴が、文末表現である。これが無い文は、日本語ではない。少なくとも、今書いてるような文語と割り切り尽くしてる文章ならいざ知らず、文末表現のない言い切り文句・断定口調、実生活でやると異常キチガ〇でしかない喋り方をわざわざ「」に入れて登場人物の台詞にしてまでいる近現代日本語文学作品は、すべて何もかも、世上どれだけ称賛されていようと、日本語でも何でもないものを日本語と騙っているクズである。そして、もちろん、このような異常口調を喋っている日本語のありとあらゆる映画・ドラマ・演劇・アニメ・漫画・コント・童話・宣伝映像・ドキュメンタリー・再現映像・アナウンス・解説・ナレーション等々々が、間違ったことをしている。ただ、ここでやっている間違ったことは、文末表現が欠落しているという事だけに全く留まらない。もっと大量の無数の間違ったことをしている。この記事とこのシリーズでそのごく一部を例示している。ちなみに、メディア上の日本語が最も気持ち悪かったのは90年代である。今だに人気が高いものを槍玉に上げておくと、「世にも奇妙な物語」など、その台詞のひたすらクソゲロ気持ち悪いこと この上ない。この90年代臭マックスのゴミ番組は、そもそも内容が、幼稚な発想・凡庸な筋・俗悪なラストの三重苦である。なお今は、「役割語」がどうのこうのとかいう話をしていない。クソきもい事をやめろという話をしている。この間違ったことが何なのかを述べる必要は無い。誰にも分かっている事だからだ。お前は次の瞬間言い返す、そのヘンな日本語がイイんだよと。が、これは、考えて言っている事ではない。確証バイアスで 正当化している 脊髄反射しているだけである。王様が裸だと言えてないだけである。なぜこんなことになるのかについてはこの記事下段で論究している。)
その点で 動詞副詞(Verbpartikeln)(すべてが間違った名称「分離」「前」「綴り」の間違いに関してここで他の問題と合わせて解説している)に似ているとコセリウが考えているとHispanotecaが述べている。着色詞によって一度意思疎通が出来上がれば、以降の文では使うことはない。実に、日本語の文末表現とよく似ているのである。~ノデスヨを何回も言うことはない。そういうのは一回 というか一旦言うと、十分。動詞副詞も同様で、方向性がいったんはっきりすると、もう使わない。
よって、例えば「auf den Boden」とどこに転んだかわかっていたら「* das Kind ist auf den Boden hingefallen」とは言わない。「auf den Boden」がなければ「hingefallen」と言う、というか、ないときに、方向性がはっきりしていないときに使うのが動詞副詞。よって、何らかの(方向指示的)規定語句とパラレルである。
他の例を見ると、A・シュニッツラー(Arthur Schnitzler, 1862–1931)のAndreas Thameyers letzter Briefに
Und bevor ich das Haus verlasse, werde ich hingehen und werde meine Frau und mein Kind auf die Stirne küssen, […]
とあるが これなど「[…], werde ich zu meiner Frau und meinem Kind ____gehen und werde sie auf die Stirne küssen, […]」ということだし、
Man ermesse es daraus, daß er tatsächlich wenige Wochen darauf verstorben ist. – Aber dies gehört nicht her.
とあるが これなど「[…], Aber dies gehört nicht zum jetzigen Thema ____.」ということである。