地上最強のブログ

しばいてくぞ

そのぐらい区別しろ

喫煙人問題の最終的解決まであと何百年かかるのか知れたもんでないが、それはともかく、タバコの問題は健康の問題ではない。分かりやすい言い方から先にしとくと、健康に害があるからだからダメという路線で行ってると、健康に悪くないならじゃあいいのかという陥穽が待ってるのみ。

(もちろん定言命令(法)的な話を念頭に置いてる。つまり、【~ナラ(バ)...シヨウ】を廃した行為論。(法律とか規定とかで)悪いとされているのでなければ何をしてもいいのか、「可愛」想でなければ、身内でなければ、「哺乳類」 (←きっしょい名称

女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?

女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?

  • 作者: ロンダ・シービンガー,小川眞里子,財部香枝
  • 出版社/メーカー: 工作舎
  • 発売日: 1996/10/20

でなければ、助けるに価しなければ、助けなくていいのか(道徳論・同情論・共同体構造・種差別)。それにこれら「されている」「価」するをどうやって決定判定できるのか、決めてその内容の絶対当否を神以外がどうやって判断できるのか。… ここで延々決着つかないから(あっち風に言うと《理性には行為の是非をアプリオリには判断できないから》)、行為が、「定言」的に=カテゴリー的に=何ヲシタライイノカの形が1個1個決まったものとして(理性から)「命令」されるしかない。これが「実践理性」の肝。これの問題は、発想がピュアだという事ではない。問題は、ドウスベキカが個人範囲を出にくいということである。だからこれと対立的な(と見られるのだろうが厳格施行方針という点では非対立的・親和的な)行為論が我こそ実践的・実用的・現実的なりと言えてしまうし、社会レベルでは実際にそうである。

実践の倫理

実践の倫理

ちなみに善悪行為に理由を付けるとバカみたいになるが、行為に理由を付けている奴がバカそのものであること、日常見る通り。

  • 《怒られるから》―怒られんかったらするんか。
  • 《朝っぱらか》―朝じゃなかったらいいんか!
  • 《虫の居所が悪かったから》―居所が良かってたら注意してんかったんか!!
  • 《その日は自分もいあわせていて》―いあわせてない時から動き出してろバカ。
  • 《もう我慢できなくて》―我慢できてる限りは悪を甘受するんだな。その閾はお前のサジ加減てわけだ。フザけんな。
  • 《親の悪口だけは》―じゃあ親以外への悪口はぜんぶ黙って聞けよ。
  • 《夜中だったし》―次は「朝だったし」、その次は「日曜だったし」か。
  • 《おめでたい日なんだから》―その日が何の日かは行為とはカンケーない。
  • 《気分が悪くなる》―それはお前の問題。お前の気分の良し悪しで世界の中の行為の当否を決めるな。大事な人が死んで《キツかった》のはお前の内面。死んだ当人はつらくも悲しくもないおい葬式文化!!!葬礼の一切合財が、お前ら生きてる人間の慰みのためにやっとることだ!!死者「のため」だとか二枚舌使うなボケ!!悲しいのはおまえだ!!!死人は悲しまんぞ!!!
  • 《今日で最後なんだし》―最後ではないならさせてもらえないワケだ。
  • 《人としてどうかと》―何としてとかは道徳にはカンケーない。ヒトでなかったら非道が可になるとお前は言いたいのか。ホミニンは?よし、サイボーグなろうぜ!
  • 《見て見ぬふりはできず》―ふりができることならお前はその悪を看過するんだな。報道されないなら他国での数十万人ジェノサイドなんかおまえには見えず聞こえず言わザルだもんな。嗚呼20世紀。
  • 《そこまでにしとけよ》―どこまでとはカンケーない。良い悪いに設定限度など無い(しかもその設定を決めるのがお前ときたもんだ)。
  • 《いたたまれなくなって》―お前は、お前の感情に触れないならいかなる悪も許容されると述べているのである。

といった具合。人類とはアホなんですか?)

たばこが健康に害なしと証明されたとしても、喫煙がこの世から消えなければならないことに一点の揺るぎもない。煙自体が汚いから。… でもない。だからそう考えるな。そうするとたちまち「じゃあ煙が汚くなければ」になるだろ。違う。喫煙は、そもそも煙を出すからしてならないのである。なぜか。煙が、物に付着するものだから、である。… 仮にそれが無毒無害で・万人が認めるいい香りで・滋養効果たっぷりで・かく醒剤よりもパーなれて・戦争がなくなって・すべての苦しみが無くなって・7500億人が浄土と楽園に入ってニルヴァーナな乱交と一体化の神秘に … なものであったとしても、あかん。物や体に付着すること自体が、そして付着物のなかでは大変広範囲に・速やかに・効率的に・あっちゃこっちゃ誰彼なし無差別に付着していきよるから、だから、ダメ。よって、分煙というのは何の解決でもない本当は喫煙する奴は頭全体にビニール袋をかぶって吸うぐらいなことをして初めて許されるのだが、いや、たとえこうしたとしても、ぜんぜん許されない。タバコの煙が付着汚染した物品が存在するということ自体が、喫煙者がけむりを吐くということ自体が、あってはならない事なのでる。「喫」煙ではなくて「排」煙が問題。タバコの煙に《何》が含まれるどうこうという問題ではない。たばこに《何》が伴うのであろうと伴わないのであろうとカンケーない。喫煙行為が喫煙行為であることによって、喫煙人が喫煙人であることによって、これらは、議論の余地なく、害悪であり汚辱であり汚物であり汚染なのである。定言的に。そう、《喫煙=悪》とはKategorieなのである。(したがって、排煙以外のあらゆる種類の煙草に文句ない。もともと煙に文句つけてる訳ではないのだから。しかし喫以外のタバコだと今度は唾吐きよるがな。そうすると、吸い・嗅ぎ・噛み問わず、結局、たばことは、低級人種の嗜好であるようだ。)

さて、このように言うと、「しかしケムリなんて言うなら地球上のいたるところで煙が立っているではないですか」とホザいて来るであろう。… あのな、お前らのはな、出さんで済むケムリだろうが!!!!!!!! ... そう、別に出さなくても誰も困らない煙を、他のけむり類と違って身近・密着・日常の生活環境のあらゆる物品にナスり付けてるから、そうであるからがゆえに、喫煙は、喫煙のみは、存在しなくていいしてはならない撒煙行為なのである。つまり喫煙者のやっていることは、〇んこを体や壁や服にナスり付けるオゾマシイ行為と同じ行為、いやそれよりももっと世界一大規模な、そして世界一必要でない、しかも世界一生活空間に密着してやっている所の、弄便なのである。喫煙者は糞便を吸って糞便をそこらじゅうに塗りたくっているのである。ここで更に、物に付着するというのが何故いかんのか(それが仮にほぼ無味無臭なら ←それは「煙」ではない)とホザく手合いが湧くだろうが、回答するまでもない自明事ながら回答しよう。これは騒音と似た問題で、物や人に付着するということが広義の干渉であり侵害であるから、だから、いかんのである。わかったか!!!! ということで、煙テロの時点で、喫煙は、アウト。終わり。Quod Erat Dedicendum!!!! … 本当はここから進んではならない。この時点で、喫煙が消滅しなければならない理由として完璧である。ただ、次に、この煙が、特に付着なんてしてくさると、それはそれは汚くて・茶色くて・きたなくて・黒くて・キタナくて・臭くて・刺激臭で・臭くて・不快臭で・臭くて・汚くて・不衛生で・汚いとしよう。つまりタバコの煙がヤニ等から出来ているとしよう。すると、根拠の力が増す。そんなけむりウンコをまきちらして塗りたくっているなんて、それが喫煙者なのか、何という汚染源だ、許し難し!ということ。しかし、しかししかしながら、悪魔で第1段階根拠が有ってまずそうであって而してその根拠の「力が増す」というのがこの第2段階である。ここは真の根拠段階ではない。で、次の段階で、たばこが健康に云々談に進んでもいいだろう。ところで、いかなる明証性・いかなる実証データを持ってきても、タバコ吸っても肺ガンならんし健康利益があると妄信したい+確言してもらいたい喫煙者の脳に届く言葉は、無い。人は自分のやっていることをイイように言う自分の確信を弁護するためにしか物事を知覚・認識することができない(できない奴には)。それでも将来いつの日にかこの第3段階でこちらに理があると実証論証確証されたとしたならば、さらに廃絶論拠の「力が増す」ことになる。しかし、あくまで、ただそれだけのこと。ここは、こだわるポイントではない。(なお、茶化して書いているが、現在この第3段階が立証され尽くしているから、実際は、喫煙=害悪=即刻なくせ論が圧倒的優位である。しかしこれは所詮「論」であって、喫煙人がこの世から無くなりはしないであろう。理由:①企業利益+税収、

健康帝国ナチス (草思社文庫)

健康帝国ナチス (草思社文庫)

  • 作者: ロバート・N.プロクター,Robert N. Proctor,宮崎尊
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2015/08/04
ナチスの発明

ナチスの発明

  • 作者: 武田知弘
  • 出版社/メーカー: 彩図社
  • 発売日: 2011/09/20

そもそもポリティクスの事柄だから。②喫煙が消えてもすぐさま別の害毒付き嗜好行為が発生する、それが人類。)

しかもだ!!!! このポイントしか見えてない奴、それも嫌煙人口の99%だが、最悪の間違いを犯している。喫煙者のほうを、こいつらの側の利害を云々するという間違いだ。いいか、タバコの害とは、もっぱら周囲への害である。一方喫煙人本人は、自分からすすんで毒煙吸入を選択したのだから、主体性をもって自発的に被汚染を選んでいるのだから、その身に何が起ころうが、関知しようがない。喫煙人側の健康など、問題に成りようがないし、なってはいけないのである。そんな論でいくと、健康害してもええよという答えしか返ってこず、そうしてこいつらは相も変わらず平気の平然で害煙を吐き撒き散らし続けるんだろ。あのな、標的をまちがえるなよ。喫煙人に対して本来ありうべき唯一の言い分は、「お前は自分で選んでいるのだから好きなだけ各種病気・内臓口内ヤニ黒になればいいから、とにかく煙を吐くなよ」といったようなもの以外ではありえないのである。こいつらの利害じゃなくてこっちの利害!!!そう、問題は「喫」煙ではなくて「排」煙。《煙を吐く》《煙が出る》という構造仕組みをしているから、タバコはいかんのである。喫煙人自身の体なぞは、どうでもいい。喫糞人が「排」煙人であることが、害悪の根拠なのである。かりに喫便人がタバコをむしゃむしゃ食べるだけで火も付けないのなら、全くokである。食え食え!!好きなんだろ!!!... (そうなってきたら、例えば、「たばこ」というあの細筒を手指に挟んでそれを口に持っていく所作やポーズやこれにまつわる絵ヅラが、すべて何もかも、ダサくてアホ丸出しで、醜悪で醜くて、世にもキモすぎるという問題も、まあいいかということになってくる。お前がケムリを吐きさえしないなら、あとはどうでもいい。食っとけ。)

と考えてくれば、第4段階いや第10段階と言えるぐらい末梢的であるような、煙草の火が危ない云々の話は、喫煙撲滅が目的なら、してはいけない話ですらある。上述のように(不)健康云々の論でも陥穽のすぐ隣なのであって、火ガ危ナイ云々という撲滅論拠など、すでに陥穽上ですらある:「じゃあ仮に火が付かなかったとしたらそれでいいのか。いま仮に体温程度の「火」しか付かないタバコが有ったとして、しかし呼出煙副流煙量が数倍でその発ガン率が数十倍だったとしたら、お前は許すというのか」。ということになるだろ。分かったら二度とタバコの火の危ない云々話をするな。少なくとも、その話をするのは、諸々の撲滅根拠を挙げた上での最後の段階でだ。一番後回しだ。とはいえ覚えとけ:本来論拠と言えるものは原理主義しかないのである。(なお今の話は、《すぐ極端例を出してくるバカ》という問題とつながる。こういったバカは、ギャー!! 700~1500度の炎だ!火傷!アブナイ!という話にすぐ持ってく。アホは極端に走る。そうではない。こんな極端な話をしてても意味がない。悪いものというのは、極端に悪いから悪いのではないし、極端に悪い所がクローズアップされると他の悪いところが見えなくされるし、その極端な悪が無かったならじゃあいいのかということになってしまう。よって、一酸化炭素が危険という話も、してはいけない話である。一酸化炭素出さんかったらいいんか!従って、はつ癌性だから危険、でもない。それも未だ争っとるだろ。統計ではーガー発ガン性はーガーガーと喫煙人がファビョっとるだろ。なるほど、では、煙草が汚いものだからいかんのか。そうかも知れない。ヤニとタールが、服と髪と顔の肌と鼻と耳とモニターと新聞とペンケースと下着とタオルと車とティッシュと靴とスリッパと土産とコピー用紙と食事と皿とコップとハンカチと茶碗とヘッドホンと天井とポットと障子とタイルと換気扇と原稿用紙と敷居と指と手と口腔内と歯の裏と表と歯ぐきと口蓋と口蓋垂とベルトと鴨居とコートと上着とジャケットと壁と神輿と子供と照明と机とズボンと窓とキーボードと柱とシートと欄間と弁当と財布と布団と枕とリモコンと喪服と飼い犬と飼い猫とガラス窓と飼い爬虫類とインコと畳とスマホと食器とビルと看板とシーツと歩道橋とPCと銃身と壁紙とマウスと床とハンドルと肺胞……に付いて汚いから、かも知れない。のだろうか。いや、ちがう。こう言ったとしても、「汚くなかったらいいんか」、と、奴らは、喫エイリアンたちは、言ってくるだろう。そうではなくて、これらにただ煙が付くからだから呼出煙副流煙排出が悪いのである。本来論拠と言えるものは原理主義しかないのである。そしていいだろうか、程度の高い害が注目されていると、程度の低い害が看過免除されてしまうこうして世の中の無数の苦痛被害・迷惑行為が許されてしまい、我慢させられてしまう(しまっている)。重度の障害を起こさない限りのあらゆる騒音が許されてしまう(しまっている)。金銭被害なら、常に、万単位の話をしなければならないことになる。症状なら、のたうち回る程度のものでないと、話しては・報告しては・スレ立てしてはならないことになる。大洪水を起こす雨以外の悪天候以外には怒ってはいけないことになる。訴訟や捜査に至らないのならどんな誹謗・中傷・予告・邪推も書きこみしたい放題。嘔吐するほどでないなら何もマズくはない。法律にさえ触れないのならどんな醜物を晒してもいいしどんな迷惑行為をしてもいい。そうして、あくびしている人面という醜い阿呆ヅラをいくらでもさらしていいことになり、摂食音・イヤホン音漏れ等々の汚濁音をどれだけ垂れ流してもいいことになる。基準値に達しないなら何をしてもいい。行政を動かさないならどんな自然現象も災害ではない。深刻な鬱症なり神経症なりを起こさないなら、どんな失望・失敗・失業・失態・喪失・失言・失意・損失も、相手にされない。

失いたくないから

失いたくないから

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2014/04/07
  • メディア: MP3 ダウンロード

派遣会社の落ち度を語り合うのに、犯罪まがいの奴隷搾取体験談をしだすバカが湧く。飼い犬のやんちゃを語り合うには、狂犬病レベルの話しかしてはいけないことになる。静電気が困ったという語り合いでは、感電死しかけた話しかしてはいけないことになる。商法詐欺なら、全財産失った話しかしてはいけないことになり、停電なら、人生台無しになったケースしか話してはいけないことになる。こんな1億人に1人の少数ケースを聞かされてこっちとしてはクソの役にも立たん。それどころか、このようにして、真実本当に人生を蝕んで喰い殺してくる所の日常的で・軽微で・微弱で・低度で・軽度で・緩慢で・慢性的で・非緊急で・非致命的で・閾値下にとどまる被害と迷惑と苦痛のすべて全部を、許容させられ甘受させられることになる。極端な話をするバカがはびこる限りは、こうである。バカはすぐ極端な話をする。そうして情報の場が極端な事例症例だけで溢れかえる。本当は最低~中程度の苦痛が最大の苦痛なのに。) 

世にある喫煙嫌煙の話のすべて何もかも全部100%において、以上の観点が欠落している。まず問題となるのは「」煙ではなくて「」煙である。よく見ろ、あれは「煙者」なんていう生やさしいものではない。「喫」だとか、たしなんでるだとかいうモノではない。あれは「煙者」という明白な加害者にして汚染源なのである。灰皿があったら吸ってもいいのでは、まったくない。屋外ならいいのではない。こいつらの「屋外」は煙テロの意味しかない。よって、分煙などという姑息策では1ミリも解決しない。そうだ、毎年ン億円の医療費がかからなかったらいいのですらない。たばこ税収など、我々被害者からしたら知ったこっちゃない。時には、自分の部屋の中だけで吸ってるからいいだろうと思っている阿呆もあるが、こいつは、賃貸の部屋の壁から柱から天井から浴室から何からすみっずみまでヤニまみれにして、他の入居者に巨大な迷惑を加害する。ヤニまみれの商品を出品してくさる。借りてきた公共の本をヤニまみれにする。どんだけ隠れて吸おうとお前は物を汚しとるんだ!!お前らの喫煙による快なぞ知らん。快のために煙が認められるのなら快楽殺人だって認められる。...... というような本記事の論点からすると、例えば、何かの大発明で呼出煙副流煙を0.1ナノグラムも出さないタバコが作られたとしたら、そしたら、いくらでも吸いなさい!!! ということになる。その発明品の主流煙に発癌率8万倍+その他諸々の病因をオプションで附けてあげるよ。

 

という風にして、1つの話題に於いて様々な区別・レベル分け・階層化ができるしなければならないということを示した。これらは、言われてみたらそうだなと誰にでも分かるようなことだっただろう。しかながらところがだ!!以上のようなことすら、この程度の乳幼児レベル微生物レベルの話すら、したことない・できてなかった・考えたことなかったというのが、有象無象いくらでもいる。この程度の話の区別もできないのがいくらでもいる。これは、喫煙廃絶論の話ではない。それをサンプルにした、話の区別の話である。しかし話の区別が出来ない人には、このことも、理解できないかも知れない。今はそこを問題にしている。(区別しろという話だが、この記事中で体や脳に即してその話をしているのも参照。)

ということで、次のサンプル。ここに書いたことの続きだが、何らかのパフォーマンス・何らかの作品・実演・成果・テキスト・テxト・文章・歌唱・曲芸・舞台・競技・ステージ・上演・演奏・建築絵画彫刻・取引・弁論 …… 何でもナニでもいいから、例は別にどうでも何でもいいから、とにかく一般に《表現》というものがあって、そいで、この表現の出所がどうでもいいという話。歌ってる人の私事・作った人の事情・競ってる人のメンタル・制作した社の予算・書いた人の実際・撮った人の真意等々々々々は、その表現物と全く無関係ない、純粋クソにすぎない。その表現を享受・鑑賞・受容・消費・考察する上で、その表現ブツ・表現者の環境や私生活や「性格」や...といった総じて《裏》であるものは、考えてはならないし入ってきてはならないし口にしてはならないし、何なら存在してはならないのである(この程度のことぐらい分かってメディアに接しているのが人類の0.001%もいるかどうか怪しいものである)。

だから、例えば作者と作品が切り離せますか^q^云々といった池沼議論があるが、議論にすらならない自明事すら判っていないのである。当たり前すぎる。表現されているモノには、表現している「誰」は含まれていない!!!だから、表現ブツが人間であり表現する者本人であったとした場合にも、その舞台上ステージ上映像上のその表現物-者の《裏》である所の「対応」も学歴も好みも思想も「やらかした」も仲不仲も「最近」も何もかもすべて一切合財、その表現者-物とまったく何の関係も無いクソ情報未満のクソなのである。分かったら二度とこのテのバカ話をするな。

で、いまもう区別の話に入っている。表現の出所なり裏側なりがその表現に含まれるのなら、それは意味が有る(当たり前すぎてアホらしくなってきた)。いいだろうか。表現者の《顔》が作品に含まれるのなら、うp者の「年収」がコンテンツなのなら、作者の私事体験をモロに作中描いているのなら、選手の体格データや食事内容が競技に関係してきているのなら、作曲家の民族思想が曲に織り込まれてあるなら、スタッフとキャストの関係がクランクを主に左右していたなら、そうであるのなのなら、不要クソ情報であったはずのどの情報も、意味を持つ。表現内容にかかわっている限りでは。それがパフォーマンスに含まているのなら、意味を持つ。クソ未満の夾雑物であったもの、それも併せて《表現》である。ただ、しかし、それはすでに表現の内容であって表現物の内幕ではもうなくなっている。わかるか?

ということで、2つの区別が有る。まず、表現されている物、すなわち、受容側が受容する所の、世界に表(現)われているモノ、と、これの発信者、を、切り離せ、という区別が有る。(特にメディア受容・サブカルチャー領域では受容側が幼稚だからこの区別が出来ていず表現者を殺して表現物を殺していること、日夜世界中にして日常茶飯である。表現者が殺されるのは、区別行為ができない受容者のせいであって、〇〇砲・書きこみ・SNS、一言でジャーナリスティック行為、これが悪いのではない。生産者ではなくて購入する喫煙人が100%悪い如く、提供する側でなく選択する・受容する消費者側(現代思想の気持ち悪い糞うんこ言葉を使うと、消費者の「欲望」)が、100%悪いのである。)次に、作者ト作品切リ離セマスカ?!バカに応対して言っておくが、もちろん、表現内容に含まれるのならば、作者「その人」はおろか、そいつその周辺人物どもにまつわるあれこれの舞台裏、私事や過去や出身校や家系や前職や前科や等々といった本来うんこである要素も、無関係ではないくなる。それは当たり前だ。《表現》といってその範囲がどのぐらいか、何から何までが「表現」か、というのは、伸縮自在に決まってる。それをどうやって決めるのか(どっからどこまでがカフカか)という問題は措く。ただしかしだ。この含まれている本来クソ要素は、表現の一部であってしまったならば、もう裏側内幕ブツではない。表現の発信(がらみのもの)ではない。それはもう、「作者」ではない。つまり、顔があって日常があって「睡眠時間」があって下心があって生活があって「マネージャー」があって「年収」があって「スタッフ」があってする所の、具体日常的しがらみ的何らかのモノでは、ない。この世界のどこかの具体的「都合」「予算」「関係」「苦労」「ベッド」「軌跡」といった表現夾雑物の仲間では、もうない。区別しろ。

マドンナの選択

マドンナの選択

  • AKB48
  • 発売日: 2015/12/09
  • メディア: MP3 ダウンロード

ということで、次のサンプル(というか例は自分で思いつけ。でないと意味がない。本記事のサンプル列挙は補助にすぎない)。よくある頭ガイイ・頭ガ悪イの話も、相当に頭が悪い。区別が無さすぎる。話の内容が未分化すぎる。ところが。誰でも知っている気付いている、ペーパー上の筆記試験を主とする得点獲得の成果と、実際実生活上の人間としての賢さがなんか全然ちがうか少なくともたいがい違うらしいことに(大方はそれも知覚してないんだろうな......)。そらそうだ。知能など、最少限に区別しても、世間というものがどのようになっているかの知(いわゆる常識)、頭ガイイように聞こえるためのどのような言語運用・言語行為をしているか(いわゆる能力)、頭ガイイように見えるためのどのような風貌をしてどのような立ち振る舞いを習得・維持できているか(生き方)、特定学習内容の記憶保持量測定のための「試験」で配分「点数」の何割を採点者に配分させるか(いわゆる「テストの点」・検定・入試・IQ()等)、他人の行動をどの程度(周囲と自分に)都合よく解釈できるか(人間知)、特定社会集団の今後の動向をどれぐらい読めるか(賢明さ)、自己所属社会集団の中でのどのような振る舞いが求められているかの察知(空気読む)、異質な観念をどの程度結合させられるか(発明・作曲・創作・創像・想造・「天才」・構-想像(Einbildung))、自分の知っていない・知れなさそうなことをどのぐらい認識し且つ枚挙できるか(叡知・人生)、(特に)人間が何をどの程度知れないかを画定できる(哲学)、何に関する知識をどのぐらいの定量記銘しているか(博物学・オタク)、人間がどれだけバカバカしいかをどれだけ精密に説明できるか(ストア)、世界がどれだけバカバカしいかをどれだけ巧みなメタファーで描述できるか(宗教)、世界がどれだけ分からないものであるかを記述するための記号を使用体系整合的に用いる(科学)、希少性がヨリ高い(=量産性がヨリ低い)物品を制作できる、と言うよりそういった制作に関する人的関係内で適切にふるまえる(芸術)、人間の本来の「知能」であるもの(技術・技能)、などに分類できる(し、こんな分類でも全然足りていない)。で、区別できないバカは、「賢い^q^」「アタマいい^p^」以外の・以上のことを何1つ言えず、認識できない。こうして、例えば、〇〇〇が狭量で頑迷で視野が狭くて話が通じなくて確信に凝り固まってて愚鈍そう(borniert・verstockt・verbohrt)等と言いたいところで、こう言わなければならない所で、何と、学力や学歴や偏差値がイイかワルイかの話を持ち出すのである!学校的「成績」と(非)賢明を混同できるのである!!

それではモーロス、バカをうまく分類したり、説明したりすることができないのもまた1つのバカだと言えるのではないだろうか。その通りですモーロス、それもまた、1つのバカだと言えるでしょう。それならば、モーロス、さらに私がこう言ったとしたら、どうだろうか。或る幾人かの賢い人があった場合に、それらすべての人をひとしく賢いと十把一絡げに呼ぶかわりに、それぞれの賢さを、例えば1匹1匹の蜂をそれぞれにふさわしい巣穴に戻すように、それぞれの在るべき所にうまく収めることができるかも知れないと。確かにモーロス、できることだと言わなければなりません。もし私がその作業をやりおおせることが出来たとしたら、君はなんと言うだろうかソクラテス