地上最強のブログ

しばいてくぞ

それ意味ないから

広辞苑によると」から書き出すアホ、本を出すな。

キーワード(たいてい名詞だが、言語の主役は名詞ではない)の系譜系統を念入りに探り出す奴、その語を日常どう使ってるかをつらつらつらつら例挙する奴、どいつでもいいが、本ってのは、こいつらのこういう書き出し方をしなければならないものでは、全然ない。こいつら、自分の言葉に自信が無かったり、自分のほうが言葉を使ったるんだぞという意気込みや責任感が無かったり、他の売文業者がやってることに付和雷同しないと不安だったりしてるだけだ(そういうヘタレの安易人間こそいちばん言葉を発してはならんのだが)。語というのは使うたびに意味がちょっとずつ微妙に違っていくものであって、そうやって使用ごとに生まれていく差異によって半創造をして行きながら語っていってこそなんぼなのだが、差異とかニュアンス千変万化とか絶えざる壊構築とか、それから意味というのが固定し得ないということ、こういったことが判ってない奴が、語というのを標本剥製化してしまいよる。当然クソおもろない本を書きよる。『広辞苑』『大辞林』に書いてある?だから何だというんだバカ。定義てのは裏切られるためにあるんだ。脱皮できないヘビはどうたら。脱建築できない文章人は、死んでる。

分かったら、辞典()だとか語源だとか白川静だとか、ページの無駄でしかない意味のないくだりを書くのを二度とヤメろ。そういったな、ただの語彙登録帳や先祖や共同体において当該語句がどんな様子かなんてのはな、お前自身が紡がんといかんおまえ自身の語りとはな、何のカンケーもないんだバカ。おぼえとけ!!!

リスクにあなたは騙される (数理を愉しむ)

リスクにあなたは騙される (数理を愉しむ)

  • 作者: ダン・ガードナー,田淵健太
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2014/07/24
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  • 無意味撲滅作業のお手本集

ということで、意味のないアホでマヌケな慣行をしばいて行く。この記事の続きに当たる。続きだからもうひたすら思いつくままに列挙するだけだが、何度も言うように例は例でしかないから、その例の中そのものにコダワってる積りは無いし、こだわるな。本記事が記す例をあくまで参考程度にして自分自身で《たしかにこんなことも》《そういえばアレも》と思いついていけ。

天気予報に腹を立てるアホがある。というかそうでない奴のほうがいないだろう。おい、悪いのは、降った雨だろが!!!天気に於いて問題なのは、天気である。それがどうなるかに関して予測を述べる人間や機関は、天気ではない。降ってくる雨ではない。とどろく雷ではない。曇る空ではない。降りしきる雪ではない。照り付ける日射しではn(日焼けしたくないとかいうカマ臭いヘタレは相手にしてない。)こんなこと、どこまで思考力ゼロでも、分かることだ。では何故アホがいるだらけなのか?雨は殴れないから?そんな程度のことしか思いつかん奴、今まで何をしてきたんだ。それも多少はあるが、ちがう。天気を離れてもいい。レースを予想してそれを述べた者、食べ物の味を想像して述べた者でも、結果が違ってたら、恨まれる。いいだろうか、述べるとか言うとかいうことは、述べるとか言うとかいうだけの事にすぎない。喋るだけなら何の労力もいらない。描くだけなら何でも無責任に描ける。マンガがそうだ(が実際現実上生身の世界では、太い腕スゴい体というのは極めて得難いものである)。いかなるものであっても、言葉というのは、たっだの言葉にすぎん。飛び込まないかん現実に責任を持つのは、お前だ。有るのは、現実だ。降ってくる水だ。ところが、ところがしかし、言葉にベチャベチャ甘えるのである。《ってゆってたじゃん》《晴れるって言ってたのに》《たしかに君はあの時〇〇〇と言ったよね》《言葉が人をドウタラ》と言霊礼拝の呪術の世界に現代人が生きていることが、まず問題。予測・述べること・述べ・「ことば」・《言う》・《言ったこと》・《口にする》等々々を、それはそんなもの、リアル現実はまた別、と割り切れない。言葉をバカに出来ないのである。この呆れるしかない甘え根性があるから、天気予報を恨むのである。予報というただの言表が何か実質中身のある実体だとカン違いするのである。ついでに言っとくと、近年ネット等で言葉が下落していると嘆いているアホがいる(のだろう)が、いや、便所落書きの乳幼児たちは、嘆いている言葉教のアホたちと全く同様に、言葉にアリアリと力を感じているのである。言葉が好きで好きで好きでタマラないのである。言霊信仰の中に生きてるから、書き込みで「傷つけ」(キんモ!!)合えるのである。何か書けばシッカリ影響が伝わることが分かっているのである。「言葉の乱れ」「口の利き方」とホザくアホも、ホザかれてるアホも、言葉ごときに力を持たせてこんなものに反応できるというオメデタさ、その点で、同じ穴のムジナなのである。だが知っとけ、言葉には、意味がない

この記事この記事で書いたことだが、スポーツする上で・喧嘩ツヨくなるつもりで等でウエイトトレーニングするのをやめろ。トレ(つまり器材を用いたワークアウト)には、「鍛える」効果は全くない。二度と「鍛える」等々ぬかしてくれるな。であるからして、何よりも、スポーツや喧嘩自体をやれ。「鍛える」なんて意味のない遠回りをするな。当該事柄自体をやれ。... このことに関して、「脳トレ」や「頭の体操」という、呆れ果てる気もなくなるぐらい呆れ果てるしか他ない、アホのバカのマヌケの無意味のクズのドン底絶頂のシロモノが有る(と言うのに専門家の支持も得られるっちゃ得られるが、専門家の意見なぞなくても「脳トレ」がアホ極まる仕儀だとはてめえのオツムで考えたら判ることだ)。あのな、思考機能を維持したいなら、その思考の対象そのものにとっとと向かえ。ナゾナゾやパズルといったゴッコ遊びに精を出してるんじゃなくて、お前が脳だの思考だのの機能の維持向上を必要とする当該事柄自体にさっさと取り組め。それが計算なのなら、計算をしろ。モノ作りなのなら、とっとと作れ。カクシャクと喋りたいのなら、喋れ。自信を持ちたいのなら自信を持て。しっかりしたいのならしっかりしろ。若くありたいのなら若くあれ。ゆうて「啓発」産業「脳トレ」産業にカモられてる時点でお前は若くないがな。同様に、ビジネスに必要な頭の回転がほしいなら、ビジネス自体をやれ。小理屈集めるような遠回りをするな。リーダーシップに必要な柔軟さがほしいなら、さっさとリーダー業やれ。あのな、心理学実験や多湖が考えたクソしょうもないナゾナゾを解いて、それでニューロン活性化ガーとか、お前本気で信じてるのか?クロスワードパズルが「頭」を「柔らかく」する?(もっかい聞く、「アタマ」は「柔らか」かったり「硬」かったりするのか?それ本気で言ってるのか?)それこそ、頭ダイジョーブか?お前は何がしたいんだ?ボケ予防?数学や論理学やったほうが8億倍マシだ。岩波文庫を読め。思考力や脳力などいくらでも維持向上できる。ただゆうとくがな、甘えきったアームチェア人間は、足腰どころかアタマが弱るのも止めれないぞ。(ちなみに日本なら安楽無運動の比喩はアームチェアじゃなくてコタツだな。食物の比喩に「パン」を使うな!!!コメだろが!!)

朝起きて「顔を洗う」というバ慣習がある。(「朝起き」るのも相当なバ慣習だがそれは措いて、)顔を洗うことには、何の意味もない。目は別に覚めない。いやいや、お前のプラセボは聞いとらん。実際、覚めない。コーヒーよりも効かん。ところで人体でいちばん風雨風化に晒したくないし曝したらいかんはずの人体部分が顔の表皮なのだが、これに限って24時間さらさせられるから、せめて少しでも劣化から守ろう。したがって、皮脂という表皮保護膜を取ろうとするな。そして何よりも、おいそこの昔ながらの顔の洗い方、水ばちゃばちゃつけるだけのやつ、お前は顔の油を手のひらに擦り付けとんねん!!!その油をタオルになすり付けとんねん!!!!顔から大事な脂をこそぎ取った上にそれをそこら中の物に擦りつけるバカ、「顔を洗う」バカ、マジで、思考力ゼロなんですか?

独り暮らしで たっっった1人でごはんを食べるだけなのに、配膳というか、見栄えさせようとしたり、盛り付けたりしたりするという、まったく意味のないことをするバカがいる。物事に見栄えや雰囲気を求めるのは、自分以外の人間が見ててこそ意味がある(現代思想かなんかのゲロヘドクソ気持ち悪い言い方をすると、そういうのは、「他者」の「まなざし(キモ!!!)」にさらされてこそ意味がある)。ところが、自分が「気分」がいいのを求める奴があるのである。こういうバカは「気分」が大好きだ。それには、中身がない。実質がない。意味がない。このへんはバカの宝庫だぞ。見てみよう:

上記リンク先記事に書いたように、銃「声」や雷「鳴」自体には何も無い。ただの音。これらに何かを本気で知覚するのは、穴居原始人だけにしてくれ。それは呪術の世界。ただの音に実質や中身を知覚するのは、シャーマンや巫女や迷信や祝詞やお祓いや「血液型」性格や星座運勢や「占い」とかいう世界に生きている土人未開人の感覚である。つまり、「未開人」よりはるかに未開人である現代文明都市人のこと(「お供え物」という食品ロスが大好きな野蛮人のことだ)。いいか、中身があるように見える聞こえるだけのものはそれだけのものにすぎないと認識するのが、お前らの呪術の洞穴から出てくる方法である。洞穴の看板に迷妄暗愚蒙昧と書いてあるのを読め(ちなみに宣言するが、啓蒙主義とは、20世紀アホ思想がカンちがいしているのと違って、まだ始まってもいないぐらい、人間に届いていない)。恐怖を感じているもののほぼすべてが、感じているだけ。「霊」は「見える」だけ。霊が「見える」んです!あなた、「見える」人なの?… そう、まさしく見えるだけ

想像はあくまで想像
実物の仔犬にも劣るシロモノよ

たしかに、この世に存在する・してきたありとあらゆる怪談・怖い話・本当にあった・ 恐怖の・身の毛もよだつ等々々々が、まずもって、遭遇してるアホたちの狂騒バカさわぎという観を呈している。古典からゆったろか。『ドラキュラ』が、存在しない吸血鬼をめぐる「集団ヒステリー」を描いた物語だという読みがある。

ドラキュラ

ドラキュラ

  • 作者: ブラムストーカー,Bram Stoker,新妻昭彦,丹治愛
  • 出版社/メーカー: 水声社
  • 発売日: 2000/04/01
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  • の451頁

亡霊幽霊心霊怪談奇談怪物のすべてが錯覚・譫妄・商売だということは措くとして、ソレが居ても居てもいなくても、いずれにせよ、見られて聞かれるだけのものということ、これを今確認している。そこから害までは、受容者の誇大被害妄想妄念のバカ大騒ぎが媒介せざるをえない。こういうのが恐怖の対象。それは、コワいだけ。お前の・物としての身直接物理的に作用してくる(wirken)ことは、無い。しかるに、この世界で実質が有り中身が有りリアルである(wirklich)ものは、物理的にブツとして自分の体というブツにナニかしてくるもの、これだけである。だから、コワいものとは、総じてすべてが、煎じ詰めれば、そう感知されているだけのものにすぎない。恐喝も恫喝も、爆音も示威も、軍歌も吶喊も、ガラ悪いのも暴力「的」なのも、言うなれば、雰囲気を出しているだけのものに過ぎない。(一方、中身や実質や作用しかないぐらいこの上なく物理的実質作用が有るところの真の暴威や暴力、例えば疫病や粛清などは、ものすごく静かに進行する。ルック・オブ・サイレンス。)

このように、人間が犯すアホ無意味に於いては、事柄自体に向かわないという愚行が目立っている。上記リンク先記事に書いた辞表や電話なども含めて、人類がすぐ犯したがるバカ八つ当たり病というのが考えられる。ここでも結局気分が済むにすぎない。こういうのは、社会現象だってそうである。「打ちこわし」なり暴動なりラッダイトなりを見よ。アホたちが手を出したのは、物にすぎない。(象徴行動がどうたら社会的意味合いがどうたらとかいう話はしてない。)ブツを壊して、建物を大破壊して、さぞ派手な見ものだったのだろう。すんごい音が出たのだろう。壊したーやったったー何か気分が晴れたーてなもんだったんだろう。… アホすぎる。たんっっっなる示威に過ぎない。「気分」の自慰にすぎない。お前らが向かわなあかんのは為政者だろ!!喧嘩相手は人間だろう!!動かぬ抵抗せぬをなんぼ壊して何の自慢になるアホども!!しかしアホたちは、を壊したら、何かした気になった。もちろん、為政者や権力自体には歯が立たないから、何か気分が済むことをしたかったからだ。機械壊しただけ無駄な損害である。(象徴行動がどうたら社会的意味合いがどうたらとかいう話はしてない。)しかし有り体に言えば、気分を済ましたいだけなら、済ませんでもええやろが。圧制者に勝てないなら、立ち向かえないなら、自分の無力を呪え。物に当たるな。

気分(だけ)の問題、それは社会的儀式の何もかも全部だろう。だからもう例示する必要がないことなのだが、いっこだけ:葬式葬礼すべてを廃止しろ。まず、生態系上の問題生命倫理の観点から、死んだら肉骨粉になって土に撒かれろ。次に、葬式は死者のためのものではない。故人を弔ってはいない。弔われ悲しまれる死者こそ、知覚感覚ゼロであり、悲しむことも痛むことも悼むことも無い。むしろ、弔う・悼むという行為しか、無い。ひたすらもっぱら、生者側の問題である。悲しいのは遺族のお前らだ。死者は、「悲」しくはない。大脳が停止しとんねん!!遺族生者のエゴ、お前らのエゴだけが、葬式をやりたがる。少しでも死者側のためというのがあるのなら、さっさととっとと一刻も早く、遺体という栄養塊を土中微生物に与えろ。そうじゃないなら、二度と死者「のため」などと口にするな。お前のためだろうが。だから、盛り飯に箸を立てたらいい。敷居を踏んだらいい。呪術は要らない。

この記事で書いたことだが、否定というのは、何かをしている事ではない。否定とは、実体ある何かではない。そうではなく、何か存在してるものに対して、それこそ「させていただいて」いるような依存的寄生的(疑似)行為にすぎない。否定し中傷し非難しているアホは、相手のおかげ(様)で存在させていただいているだけの依存物/者なのである。だからその内実もヒネくれる。断固と否定されても、気にすんな。むしろ勝っとる。強い否定とは、否定よりも弱い。そもそも否定とは否定ではない。否定したい相手を内心ではうっすら認めているから、否定を口にし、書きこみ、画像貼り、話の本筋から逸れてまでして攻撃し、どこかしらに突破口がないかと躍起になり、《相手負けた自分勝った》のポーズを取れていると思い込もうと必死に物狂いになる。相手に価値が見えるから、悪しざまに言い、サゲて、嘲笑うのである。負けてる奴ほど笑う。弱者の抵抗手段が喜劇の誕生。笑えてない奴ほど笑う、そういう反対行動=イロニー。歪んだ・曲がった・醜い・負けてる奴から出てくる(きた)のがイロニー。否定とは、コトの始めから、惨めであり敗北なのである。認めまいとする意固地なのである。だから、強く、「かぶりをふって」、《ちがうよ!》ってなってる否定ほど、ちがってなどいないのである。認めてしまってる自分がいるのである。よって、まず否定には意味が無い。その否定よりもチカラが弱い強い否定には、もっと意味が無い

要望アンケートは大体意味がない。この世で一番答えが返ってきにくい質問は、何がしたいですかという質問である。抱負や希望を聞いた時ほどぽかんとされて手応えがないときもない。そして聞かれたほうこそ迷惑なのである。そんなん答えれるもんじゃないから。人間は自分が何をしたいのかということこそ最も分かってないものだから。一生の間「自分の正体がいまだにわからない」のである。自分・おのれ・自己などというものは、他人との共同作業で発掘していくしかないものである。将来の夢とかなりたいものとか今後の計画とか目標とかいうものは、社会が要請してくるから仕方なしにコネ繰り出してくるものなのである。自分の体が自分でわかってる訳ではない(わかってたら健康診断いらんだろが)ように、自分の心も自分では分かっていない。それも、例えば記憶したいものを思いのままに記憶できる(なら国家試験でも公認会計でも合格し放題)のではないから記憶とは自分の思いのままにならない自分-外のようなものという日常の実感は固より、或いは他に酩酊状態心神ウンタラ統合ドウタラ等といったどーでもいい話も含めてもいいが、ジブンのこころ、ジブンちゃんのそのナカこそ、当の自分には、他人のものであるが如くと言っていいほどに、分からないのである。消費者やユーザーが自分らのほうで(逆ではないぞ)何を観たいか受けたいかが明瞭明晰に判っていたとしたら、マーケティングも調査も制作の試行錯誤も売れ行きやヒットの成否も、なにもかも一切無くなるし必要なくなる。いいか、コミュケーションうんたらというのは、自分が何がしたいのか判っていないという相手と、さらに、そういうものである所の自分とを、相手にしなあかんものなのである。知っとけ。

似た問題で、自分が元々の大元のそもそもの始めには何を求めていたのかを簡単に忘れる。例えば物語や表象や造型や演奏といったものに何を求めているのかというと、ざっくり言えば、カタルシスしかない。煎じ詰めれば感動ということになる。つまり己の感性に有効に作用しさえすれば表現者の力量や技能はもちろん社会的評価など、どうでもいい、いや、クソどうでもいいものなのである。ところが、評価や世評の言説を聞いているうちに、自分の本来もともと求めていた所のものを忘れる。xxがあたかも自分自身にとっての評価でもあるかのように錯覚錯誤し出す。(なお、「もちろん技術というものも表現のよしあしには…」云々といった留保や譲歩、というか媚びへつらいは、全くしなくていい。いま標的にしている風潮、つまり敵対相手のほうが大勢力すぎるのだから、抗戦側に論が偏りすぎているぐらいで丁度いいのである。これが「バランス」というものだ。おぼえとけ。)こうして、例えば「歌唱力」だとか「うまい」「へた」だとかいった、何よりもドクソくそどーでもいい話が、幅を利かせるようになる。こういったものは、ゆーたら、与えられた図式を特定時代・特定社会の中の特定評価体制が気に入るようにソツなく処理できるところの運動処理神経の特定傾向というものに過ぎない。こんな要素が鑑賞側に有効に作用するものの因となる保証など、何ら無い。何なら、「IQ」のようなアホ喜ばせのアホ「指標」よりも、「歌唱力」のほうがもっともっと、何も語らないし、何も意味しない。数字は何も語らない。xxはお前と何の関係もない。お前は「良」さに出会いたいのであって「実力」に出会いたいのではない。思い出せ。

このように、自分のもともとの想いや感性を歪曲して変形して醜形化してしまうのも、世間がホザいてる言葉や、評論がひとりよがってる言葉や、ネットが排泄している言葉に洗脳されてしまうからである。やはり、言葉に弱い、弱すぎるのである。表現に対する評価つまり言葉とは、言葉という空虚でクソ以下のクソゴミに過ぎないのだが、言霊崇拝の一般人は言葉様の奴隷だから、言葉陛下様がお筆先をたまわれば、よころびつつしんで拝領し、おそれかしこくも脳を洗うのである。実に「コワい」光景だ。カン違いしてはならない。ファシズムの言葉が有るのではなくて、言葉がファシズムなのである。つまり、あのファシズムとまったく同様、支持している大衆が。

c'est pas un film c'est une réalité.... une réalité... […] C'est très difficile pour moi de juger les gens et c'est très difficile pour les gens de ne pas me juger mais de m'accuser ... ouai un truc comme ça...〔出典予備
表現者にだって日常が有る。だからどうしろと言うんだ。〔中略〕表現者はとやかく言ったりはできない。ただ断罪されて殺されるだけだ。

意味がないシリーズ、他に、情報伝達の観点からすれば、会話というのが、まったく無駄で意味が無いところの、撤廃して差し支えない愚鈍行為である。この、面と向かって音声を発して言葉を交換するという行為は、おそろしく効率が悪い。一体、会話で1分当たりに出力できる情報量と、書いて読むところの文書でのそれとに、どれほど違いがあることか。もちろん会話では「経験」「体験」「ふれあい」「交感」「交歓」「交流」「ひととき」「情緒」「出会い」「かけがえのない」「一期一会」とか何とかいう意味での受容情報量が文書読解の数百~万倍かも知れない。いやだから、そうなのである。会話とは、言語が伝える情報を効率的に交換共有する場では全くない。ラポートトークもクソもない。会話とは、そのすべてが、グルーミングなのである。保証しとくが、たとえ学者の集まりであったとしても、1時間に本の1ページほども言語情報を交換しない。人間は会えば世間話しかしない。どんな知性レベルでも、クソどうでもいい話しかしない。とりとめもなく人名を列挙し合っている。他愛もなく乳児水準の感想語を嘔吐し合っている。しかるに、グルーミング以外の用向きの件、例えば事務連絡などなら、文書伝達で済む。空気に消える音よりもテキストファイルで残ってるほうがいい。次に、一定の論旨や論理が通っているような、筋道が立っているような事柄なら、うろ覚え(エラそうに「記憶」と言われる)と瞬発発話とアドリブが支配する会話などという状況下で発するものではない。読ませたほうがずっといい。面と向かって人と話していると、練られてない言葉、組み立てられてない段落、届きにくいニュアンス、ヒステリックな擬音、自分ワールドの中だけで了解納得できているが相手には何のことか分からん内容の連呼歓叫、こんなもんしか出て来ない。会話とは、すべてが刹那的で、脊髄反射的で、応答的で、その場その場の機知機転で、その場しのぎで、その場限りで、あやふやで、でたらめで、そんときだけどーにかなればいいというものであり、《ハナシしましょうよ》《いっぱい話したね》という満足だけが残るところの、ママゴトに過ぎない。「話」をしてるのは、毛づくろいやってるヒトモドキに過ぎない。

 

なお言葉と意味に関して本記事やブログ全体で言っていることに関してこれを参照:

言語存在論

言語存在論