地上最強のブログ

しばいてくぞ

「なんとなく」は常に悪い

 

もうさんざん確認してきたことだが20世紀後半以降の認知科学の水準に思索だけで達していた人物と見る以外に意味がないと言えるニーチェ、その膨大な断片文章を見ていると、例えば

Wir schätzen die Dinge nach der Mühe ab, die das Herstellen oder Fangen derselben uns gemacht hat. Daher „Werth“. Dies wird auf die Wahrheit übertragen und giebt lächerliche Resultate.

(Nietzsche, 1879,40[17])

 

(どれだけの量の値打ちが有るかということを、それを始める時や やり続ける間に【どれだけの量の労を払ったか】という主観的な思い入れで決めてしまうものである。もちろん客観的な算定ではありえない。こんな思い入れから実際のコトに当たるから、大損をこいたり大失態を犯したりするのである。)

Dreamin’ girls

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といった考察がなんっぼでも見つかるものであるが、見ての通り、現代に於いて「コミットメント」なり「一貫性〇〇」なり「コンコルド効果」(「埋没費用効果」)なり「コントラフリーローディング効果」なり或いは「熟慮の悪魔」なりとして解明されているヒトの認知欠陥を完全に理解している。つまり、ソレに漕ぎ着けるまでに何がどのぐらいかかったか、これまでにどれだけ時間を費やしてきたか、どれぐらいの労力を割いた(気がする)か、どれだけ考えた上にやったか、などといった自分のコダワリ自分の思い出自分の苦労から物事の値を決めてしまう欠陥思考。こういうのは自分の個人的な事情であって物や事それ自体に備わる何かではないのだが、それがどうしてもオツムで分からない。ここまでこれだけやってきたのだから、ソコに入れるまでにこれだけ手間かかったのだから、あれだけのことをさせられたのだから、もうこれだけのモノを投じてきたのだから、という自分一身の事情を物事に投映してしまう。今までが何だったのかにコダワってしまう。今までにソレがXならばそれが¬Xや卍に変わることを認容できない。そういう費やしたものというのは(まさに「埋没費用」と言っているように)本当は顧慮してはならない項目なのだが、心情的にどうしょうもない。物事に関わる・関わっていた自分という世界の一隅世界の一偏りのスミッコから物事という第3物を見てしまい万事を測ってしまう。あくまで自分サイドの自分都合にすぎないはずのことが、自分という余計なファクターが入ってきてしまう。自分はこれまでにこういう風にしてきたのだから、もともとこういう者なのだから、と、本当はあっても仕方ない(し、多く事実でもないことに基付く)一貫性をつらぬこうとしてしまう。当然他人に関しても物や事に関しても、ソコまで一貫する自分とソコから一貫しないといけない自分の存在を要求する。自分というチンカスにして稀代のバケモノを、何が何でも制止できない。始めた動きを止めることができないという信じ難い無能な動物。

(自分が文章を書くときもそうである。こんだけの事を書いてしまったというのはなっかなか思い切って消せない。それどころか、もう全体の中では場違いになってしまっているような段落をさえ残してしまったりすることしばしばだ。しばいぬではない。しばけんだ。そう考えると、ユーチューバー当然含め映像制作というのは大したもんだと言える。ばっさりカットするということをし続けているのだから。)

なぜそれに固執しているのか、なぜそれがそんなにいいと思うのか、と言うか、そんなにイイとただなんとなく感じるのか。それをお前はついぞ考えてみない。そこにマトモな根拠があるのか、そもそも根拠自体が有るのか、言われて問われて、答えれない。ならまだしも、ああ有るともさとどうでもいい作話を脳の活動のままにブラーブラー垂れ流すだろう、どーせな。おまえの価値判断は、お前の価値は、すべからく、「ただなんとなく」である。ただなんとなく、コンダケヤッタンデスカラ…。

自分を棚卸し出来て在庫整理できる人と、こうしてお前は差が出来てしまう。

「なんとなく」はすべて何もかも悪い。例えば、漫然と好いてる奴がアホなのと同様 漫然と嫌ってる奴もボンクラ未満のヒトモドキである。嫌い反感し非難するのなら、好くのと同様、てめえの肌と鼻と脳髄で感じ取り・てめえのオツムで考え・てめえの根拠を持ち・てめえのコトバで・絶対の自覚を以って物を言え。

例えば、たばこが「くさい」から嫌いなんですとなんとなくホザいてるだけのバカが湧くが、こいつなど、   喫煙者   排煙人という公害源と同等に人畜有害なカスのゴミだ。じゃあ臭わんかったらええんか!!!におわんかったら、そばで呼出煙をゲロってくさりやがってもそれをお前は許すんか。違うだろ。喫煙(者!!!)が公害で有害で国賊なのは、煙を出すからだ、ケムリというもの自体が悪いからだ、「くさい」もクソもないわクソのボケ。くさいわボケ。だから、臭いだの健康被害だの何をクリアし(たとし)ても、たばこはこの世の終わりまで断じて悪い。もはや、植物としてのタバコの存在すら悪いのでもなく、タバコ産業すらも悪いのではない。ヒトがたばこの煙を吐き出すことだけそれ自体のみが比較も考慮もなく絶対悪なのである。

タバコを嫌い反感し非難するのなら、これぐらいのことを言ってみろ。ここぐらいまでのことをてめえのオツムで考えた末に言ってみせれろ、そんな志操を持ってみせれろ。そうでなく「くさいからサ~やだ~」と低学年低級児未満の「なんとなく」ぼんやりの印象語をダベるしか出来んなら、黙っとけボケ。

全く同様に、喫煙者も、↑リンク先に示しているようなぐらいの絶対テメエ言い分を以って究極のおのれとズンどこの責任を背負ってタバコを断固死んでも擁護し弁護し介護し豊後しちんこするのなら、これを吸って吐いてしてくさることに命懸けの意地と自負を持つ気なのなら、その言い分 おさおさ無視してしかるものではないだろう。もう何なら食っとけや。こいつらかてこのぐらいの気概で物を言うてくるなら、聞いたらんでもない。喫煙認めたらんでもないかもしれん。… ただし、そんな奴要るわけがないがな。「なんとなく」で喫煙してるのではないぞってな排煙人が居るワケがない。いま クソどうでもいいことを言うが、そしてこんなようなことを言わないと言い分を認めようとしないバカのアホしか居ないがな)にこのブログを読まれたくもないのだが、自分は路上喫煙者を注意している(路上どころか喫煙自体が最悪悪なのだからこんなんでは別に何にもなってないのだが)。そこにはリスクがある。毎回勇気が要る。心底コンジョー決めて声を掛けてる。一方排煙人どもにはそんなリスクも心労もこれっぽっちも無い。こいつらは、なんとなく火つけてりゃいいだけだ。そうして公害を巻き散らして数億人に迷惑をかけてればいいだけだ。──ほらな?彼我の差があるだろ!!!!!そういうことだ。わかったか。

他になんぼでも1億兆999999京個も例があるが、テキトーになんとなく思い付いたのをもう1個ぐらい挙げとくと、次のようなもの。フィットネス人口の10000%がなんとなく運動してるだけだろう。そんな運動ならやめとったほうがいい。いやせんとってくれ。確かに運動をしない奴とか否定してる奴がただの愚かな緩慢自殺者であるとはいえ、一方で「なんとなく」ジムに来る奴も愚かで迷惑だからだ。その理由として、根拠を調査したわけではないが、ここにも書いた。他にも書いた。過去記事読め。要するに、健康目的ないしボディメイク目的ならば(そしてそれ以外に筋トレが何らかの有意な効果を持つことは実はなく、本来あらゆるスポーツ従事者がジムを利用しなくてもよくて、かといってそれでジムが存亡の危機ではおかしくて単に現在のジム人口が少なすぎるだけのことだが)、フィットネスには筋肥大以外の目的と目標が一切存在しない(しようがない、リンク先記事読め)ということを知った上で・ちゃんと前提できた上でそれで運動に臨んでいて、ちゃんと目標に合致した運動をする、それ以外の何も認めないといま言っている。この意地ぐらいの水準の根性で以ってして運動に臨め、フィットネスを好け、ということだ。そうでない「なんとなく」は認めんということだ。

ワロタピーポー

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そしてだ!!!!!同じようにだ、「筋トレ」を否定しこれを嫌いこれに反感を持つのなら、テメエの全責任と全オツムでもってちゃんと全力で嫌えということだ。ボディメイクとしての無酸素ワークアウトを否定したい奴も、列島にだったらなんぼでもおる。時代オクレとんねんここは!!公言の場で公言してくれるようなのも稀にはおる。しかしながら、その意見をなんぼ聞きとうても、こいつらがホザくのは、常に決まって、やれ「何のため」だの「使」(?!)「えない」(??!!!)だの《不自然》だの《見せかけ》だの「役」(←?!)「に」「立たない」(←???)だの勃たないだの顔に出さないだのヘチマだの納豆だのホウレン草だの妙法蓮華経だの、どこのどいつも口にしててそこらじゅうで聞かれる 何の独自性も新しさもないクソ凡人語を口真似してるだけの中身ゼロ発言なのである。これらはもちろんまったく何の根拠にもなっていない。1秒考えたら分かることだ。つまるところこいつらは、所詮、自分でなく他人の(!)感性で感じているだけなのである。なんというヒトモドキのノウナシかということだが、事実こうなのである。なるほど、何かに用いるわけでも切実な理由があるわけでもないのにうんせうんせ「鍛え」(てるわけではまったくないのだが)てる人や事にどうにも反感を持ってしまうのなら、それでいいではないか。反感しとけよ。それはまず大事にしろよ。もちろん完全にお門違いな反感だが、とにもかくにも気持ちというものではある。まあ持っとけよ。しかし問題は、それを、テメエのお肌とおつむとお脳で、テメエのてめえで全身全霊もっててめえ自身の意見にしてくさらんかいボケということだ。

↑ はい、もうこんなことはどうでもいい。ええか、てめえのコトバを持て。それが出来ないなら喋るな。一般語でしゃべる限りお前には何の説得力もない。そしたらいずれお前も《すぐ消える奴》にすぎない。最初にあった・どこかで芽生えた・いつからか思い始めた・或る日ふと得たその気持ち言い分もやもや等、それがあったその事それ自体はそれでいいのに、バカは、これを、すぐさま、どこぞで聞いてきたふうな口、他人の言葉、言われてる言い方、流布してる定型句、どこでも聞ける中身ゼロ語でしゃべろうとしてしまうのである。

運動を否定するのなら・筋トレを嫌うのなら、ちゃんと自分の感性と自分の論理でそうしてくれ。ちゃんと怒れ。明確に鋭くシッカリ相手を見定めた上でブツけるつもりの怒りを持て。嫌うならちゃんと嫌え。ブツけるに値するまで自分の嫌悪感を高めてから出てこい。他人の感性で感じるな。他人語でしゃべんな。

自分を持ってないなら他人を非難するな。自分が他人を非難しろ。他人で他人を非難するな。他人の口でしゃべるな!!!!!!!!

何を言っても間違いではないが、どう生きたところでそれが宇宙最終審判の日にまで烙印押されるということはないが、しかし、自分を持ってないのだけは間違いであり、「なんとなく」だった分だけはお前の人生に価値は無い。

次回の記事に続く