地上最強のブログ

しばいてくぞ

「なんとなく」がなにもかも悪い

 

前回の記事から

意見とはこういうものだ、少なくとも言論とはこういうものだ。なんとなくぼんやー!ぽんわー!とお前のお花畑ちんちらぽっぽ咲くままに糞印象語を吐き垂らすしか出来んのなら、永久に黙っとれというものだ。しかるに、およそ意見たる意見を言うとき、ほとんどの奴がこれだ。どこぞで聞いてきたようなことしか喋れない。聞いたふうな口しか聞けない。他人の1兆番煎じでしかないような、もうさんざん聞かされたところの、それを今さら聞かされて何になるんだとしか言えない凡庸ボケ用言葉しか吐けない。

 

君だけが秋めいていた

君だけが秋めいていた

  • AKB48
  • 発売日: 2015/08/26
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さてこんなことはどうでもいいとして次の話題に移るのだが、その前に注しておく(チューするのではない)が、上で言っているのは必竟気持ちの問題であって、これ以上その内実と論理的構造を探求しても仕方がない。そんなことをして文を連ねたら有意義なことを書けてると思いこんで空疎なテツガク風ゴミ長々文章でブログ等作ってるアホが居るものだ(それは堅固に論理的なのではなく基礎付けられているのでもない。そう見えるだけのことだ)。ええか、「なんとなく」ダメゼッタイというのは気持ちの問題であってこの言葉とちゃんと無縁かどうかを常時チェックするということでは全くない。わしゃなんとなくやっとんねんと言いたいのならなんぼでも言うたらええ。ただ、言動が、言・と・動・が、「なんとなく」なものであってしまっていないようにシッカリせえよということ、それだけのことにすぎない。同じように、自分を持てや云々いうのも、こんな言葉で比喩的に表現しているだけのキモチの問題を述べているだけだ。これが、他人や一般となにかしら違うことをしていたら即スナワチ事足れりと思っていたら、大間違いである。ただ単に普通の一般的な伝来のモノとチガウことをしていたらそれでいいのでは全くない。そんなんならアホがなんぼでもしてることであり、アホがすることである。

いかにも頭の悪い例を思い出したが、今回のコロナ禍の件でどっかのアホが「終息」を「収束」と字を間違えたら、爾余のアホどもがこぞって「収束」と間違い出す。これは、一般伝来の漢字表記に反旗を翻して自分の考え自分の思想で以ってこう誤記しているのではなくて、バカが「収束」となんとなく吐いて隣のバカがなんとなく「収束」ともらいゲロしているだけ、たったそれだけのことだ。そこに考えなど無い、自分など無い。こんなものは、飲み会「酸化」だとか〇〇を「嫁」だとかいった根ッ卜娯記スラソグに杉ないというのに、バ力という野はバ力の鏡となってくだ晒すもので、屋れ「収東」というのは凝れ来れこう胃う意昧でして矢れ今向「柊息」と鳴らんで2つ同じ讀みの表現がメディ了糖で餅いられて胃ますが云々などとゲ口り出す。ボケンダラ!!「収束」はただの字の間違いだ。それが残念ならが晋及し筑紫てしっまたら、阿高もそれが元々権莉がっあたものであるかのように、正しい表現の1つでっあたかのようにバカどもが後付け説明をしているだけだ。

字の間違いも分からんヒト未満の邸能が物を書くな。

次の例。言葉も知らないアホが「固定電話」を「固定念」などとホザき出したら、他のアホが、なーも考えないで、なんとなくこれにナラエし出し、コテーガイネンコテーガイネンコテーガイネンコテーガイネンとみっともないアホ丸出しをやり始める。たぶんこのゴミどもは、「ガイ」ネンが間違いなのを、これぞ武神流なのを、(それこそ)なんとなく分かっている。気付いてはいる。しかしこの間違いを堂々と侵すのが快感で、なんとなく楽しく、かつ平気なのである;みんながやってるから。間違いは間違い、逸脱は逸脱、反抗的は反抗的でも、それは、みんながやってることだから出来てしまってやりたくなることであるのに過ぎない。なんのことはない、みんなが渡ってる赤信号を渡ってるだけ、他人の尻馬に乗っかってるだけなのである(←むしろ馬尻だな)。悪魔で、自分の考究と自分の主義信条と自分のイズムと泉佐野市と和泉ナンバーと仲村和泉で以ってしてガイをネンしているのではない。アホはアホであるにすぎない。観念するしかないな。8期生は岡田美紅や野々垣美希も推しだな。

で その次の話題だが、ここまでであんまりクドく書いてきたことだしここでスッパリ別の話題にするが、人類はなんとなく知能というものが特別で自分たちの知能が特別だと思うことを止めれない。「高度な知能」、これがこれに向かって万物の歴史が向かっているはずの何かの何かだとなんとなく思えてしまうことを、わかってはいてもどうしても止めることが出来ない。確かに、クモ以外に糸を出せる生物がいないのと同様にヒト以外に思考をできる生物がいないということはもはや誰も言わない。他に一部の昆虫の幼虫も糸を出すのだし、ほぼ全部の生物が思考らしいことをしているのだから。しかし思考や知能が糸出しと同じ一部生物特化機能ということは、認めれるものだろうか。命題【ウマが速い】(ほんとはプロングホーンのほうが速い)と命題【ヒトが賢い】が同価等価だということをヒトは理解できるのだろうか。なぜ「賢い」は上等と感じてしまうのか。この話はこの記事で論じているからこの記事を読まない限りはこの段落と以下を読むのを禁止するが、とにかく、そうなのである。ヒト(とその周辺の種)「より」賢い賢くないだとかいうのは、犬「より」可愛い可愛くないだとか、クジラ「より」長く潜れる潜れないだとか、猩々「より」毛深い毛深くないだとかいう程度差と全く同様同質の程度差だとは認めれるのだろうか。「知能」の他にヒトには意識が有るというハナシもあるが、その機能は知能同様きわめてお粗末なものであり、特に情報処理機械が発達してしまうとそれが目に見えて顕著になってしまった;ヒトの知能と意識より遥かに上を行くものがなんぼでも存在してしまう、ってかヒト自身に作れてしまう。いやヒトの意識というのは明瞭という点が特別なのであってそれは地上にクマなくアマネく光なのであると言いたくなったなら、それは前々(々々々々)世紀ですでに時代遅れになっているかわいそうな勘違いである。この時点ですでにヒトの意識はものすごく暗くて狭いと定義されていた;神とかに比してな。つまりヒトの自慢の特性はダイナリーショーナリーで囲まれてしまうのであり、自慢でもない特性のほうがむしろ自慢特性よりもスンゴくて場合によっては宇宙一だったりする

それでも、知能は特別な項目特別なプロパティだと思えてしまう。何故なのだろうか。上記リンク先記事に書いているようにそれが自分のものだから自分に顕著なものだからという以外に、つまりそれは錯覚だという以外に説明のしようがあるのだろうか。あるなら聞きたい。いやこれだけの知能があるから生物史上一繁栄する種となったという言い分もあるだろう。確かにヒトたった1種の繁栄はさすがに類例ないものではある。これに対していや細菌やウイルスがとかいや恐竜が昆虫がとかホザくアホが湧きそうだが、それらは種ではない。細菌は「種」よりずーーっと上の「ドメイン」、ウイルスは生物でもなく、恐竜は「上目」とかその辺であり、昆虫も「綱」かなんかだ。これらのずっと下位が「種」だ。比較項を間違えんなバカ。「ヒト「」恐竜」じゃ「牛丼「」「店舗」」と同じぐらいアホなカテゴリー間違いだ。「と」の文法間違い!!!!と金すし!!!ええか、「ヒト」は、「綱」の下の「目」の下の「科」の下の「族」の下の「属」の下のぞくぞくした舌の、「種」だ。そのたった1コがここまで強大にチカラを持っているのである。これは驚きべきことだ!知能はすごい?!しかしこれもどんなもんだろうか。たった1種がすんごい広範囲を支配している例が他にあるんじゃないだろうか。生態系頂点的な種とかは?アムールトラなんかどう?これは「亜種」だが、まあヒトも亜種という話もある。じゃトラ種とヒト種を比べてもいい(クムガン山ではトラもヒトだ)。トラは、ヒトほどではないだけで、その環境下では、限られた中では、最上の種となっている。ではヒトも同様ではないのか。地球上という環境下で、その限られた中だけで生態系頂点なだけではないのか。やがて月やシリウスプリウスに移住し出しても話は大して変わらんだろう。宇宙のチリたることには変わりがない(特に、誰もが【どうせ死ぬ】のであってみればな)。ここで頂点に立つための道具が知能であるということ、つまり限られた特定の環境での最適のbehaviorが知能であるという理解、これを踏まえれば、知能はトラの牙や爪や体格と同価等価のものだと言うしかなくなる。

それでもなんとなく、知は宇宙の果てまで届くような気がする。

 

チャンスの順番

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  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
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