地上最強のブログ

しばいてくぞ

めんどくさい自分病患者たちへ (4)

 

前回の記事から

ず、脚をパンプさせる強度つまり全力で漕いで登っている。これを5セット以上ほどやることで、無酸素では得られない疲労とあと発汗なんかが得られ …… とはいえ、有酸素はしょせんアホがすることなので、これ以上論じて紙面を汚すことはやめておく。

 

(そう言えば上で不図「鍛錬」と書いたが、これは体造りの本意ではない。この際いい機会だから言っておくが、身体造形なりボディメイクなりボディビルなりのための無酸素レジスタンスワークアウトを、考えもせず「トレーニング」と呼んだり、無造作に「鍛える」「鍛えてる」と言ったりするアホが大変な迷惑である。特にこの世界に無縁の無知の連中が無造作にホザきよる。あのなよう聞け、我々は「鍛」えているのでは全くない。そんな、何か「強」くするような、何かに備えるような、何かに「使える」ようにするような積りで、そんな汚くて不潔で不純な目的でワークアウトをしているのではない。勘違いするな。我々は造っているのであって、「鍛えている」のではない。おいボケ、言葉に気を付けろよボケ。いまどきのご時世、「肉体()」の強さなど何の必要もないこの時代に、そしてそんなもの無酸素ウエイト挙上トレから得られるものではないこともなーも知らないままに、「体を」「鍛え」るなどと考えもなくデタラメにホザくなよ。他にウエイト挙上等に関して「強い」とか何とかホザいてるアホもまったく同様だ。

後記:上記【H I T+直後の激有酸素】で寝れる疲労が得れてたのはこれをやった時間帯だけの問題だった。後日15時前

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後にこれをやって(しかもそれまでの2回よりも強度の有酸素)結局夜中全然寝れない症になってた。

結論:やはり有酸素運動に取り柄はない。存在しなくていいクズ運動である。

 

片方が話していて片方が相槌側という時などに後者がまあ聞いている風にしていながら表情がなくなっておりしかし時に我が意を得たりと目を輝かせる(目が輝くわけないだろバカ、電灯でも入れてんのか)、そんな場面があるのを思い出してほしいのだが、場面があるといういうより会話してる場面のほぼすべてがこんな風になっていることに気付きたい。ものごと幻想を持ってはならないもので、なんぼ一所懸命話とってそれを相手が聞いて知覚して受容しているとこちらが思いたかっても事実のほうはそうでもないもので、こちらの話というのは相手は大方は聞いていないのである。もちろん聞いてはいるが「聞いている」にお前が期待している意味で聞いているのではない。いいか、「聞いている」というのは殆どの場合「聞き流している」または「我慢している」なのである。そうやって相手は「話を聞いている」のである。苦行しとんねん。そんな中で自分にも関心のあるフレーズやワードが飛び出ると思わず反応してまうのが上記目輝き時である。これを「カクテルパーティー効果」と言う(日本では存在もしない場面を例にしたキショい名称だが、まあ我慢しとこう)。そう、誰しも、他人の話なんて、別に聞きたくないのである。それなのにそれがこの世で成立してしまっているのは、会話たる会話、情報なり情感なりの等価交換としての理念的「会話」が成立できていることを意味しているのではない。今までに5億回以上言ってきたが、ほとんどの会話というのはヒトザルがグルーミングをやっているのである。ラポートだとかレポートだとか分類する以前のことであり、そんな分類もべつに不要なのである、すんごい幼稚なラポートトークしか存在してないのだから。ただ会話によって非言語的・前言語的・反言語的・前知性的・反知性的な原初段階的情緒のつながりを毛づくろい式に確認しているのである。使ってる言葉や話題などどうでもいいのである。を言えているか・を話せれたか・を認識できているかなど、どうでもいいのである。むしろ、話している相手がであるか、と会話できたか、会話によってどのような者と仲よくなれれたかということに専ら関心がある。そういう、クラスメイトカースト査定的な、サル山の位置確認し合い的な、言語や知でも何でもない生活上の力関係や感情のためになされるのが、ヒトの会話なのである。だからほとんどの会話で話が平気で飛ぶし情報価の優先順位など何ら優先されていない。冷静に聞いとったら、どこの誰でも、何ともクソくだらない中身ゼロの会話しかしていないのである、お気付きのように。だからもちろん、客体が主体で主役で主関心であるかのような会

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話や自称「対話」であっても「情報」「交換」らしき会話であっても、事柄が純粋に行き来することなど、無い。むしろそういったくだらない会話でないときにこそくだらない権力争いに専心し出す。事柄主体らしき会話であっても、いやそういうものこそ、わしこそがわしこそがという肩肘張り合いなのでありマウンティングとディスプレイの場なのである。それもそのはず、繰り返すが、人間には、他人が話している・他人が主である・他人が他人であることが、どうにもひたすら苦痛なのであり、我慢事なのであって、そんな苦痛の種である眼前で喋ってる奴が、自分にも馴染みある・自分に近しいこと・自分の知ること・自分のキョーミ持ってること、つまり自分に関すること・自分のことを言った瞬間つまり自分が自分であり他人でなくて済んでる瞬間というのは、そらウレシいに決まっている。目も輝くわいなというものである。このように、他人と接している交わっている時にでもその他人というのを求めることを実はしないのであって、ただただ自分を確保することに汲々するのである。お前何がしたいねんというものだが、しかしそれはそういうものなのである。そんな病気の患者が人類なのである。相手の話を聞いているのじゃなくて相手の漏らした私に反応している、それが会話。どんだけ無駄で愚かな行為か、今日も一つわかったな。(ハナシを少しでも分かりやすくするためになるべく例示するが、例えば、話している2人の間に妙な事が起きるものでつ

次回の記事に続く