地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェの認知科学 (4) ~逆だよバカ~

 

前回の記事から

れてしまう行為であり、そうであるがゆえに当然自然と最も自分の中で大きな位置を占めるようになってくるものである。つまり、習慣の力について述べている。思考行為がコトの始めからそれ自体として尊い最高のものであるのではなくて、ただ(本人の意志と無関係に自動的勝手に)最も繰り返され最も慣れ親しまれ最も頻出するものだから、この上なくチカラあるもののように思えてくるのである。即物的な習慣というのが先に有って価値付けとはその後であるというこの(被)規定関係。この逆ではない。

感情もまたそういうものである。1879年7~8月の断片:

サヨナラ 昨日の自分(Team K II)

サヨナラ 昨日の自分(Team K II)

  • SKE48
  • 発売日: 2014/07/30
  • メディア: MP3 ダウンロード

Die Größe oder Kleinheit der menschlichen Kraft entscheidend bei der Constitution seiner Empfindung. Er wird erst böse und wild, wenn Mächte, die der seinen ähnlich oder unter ihm sind, ihm gegenüber treten. Gegen Gewitter ist er ohne Vorwurf.

Das Unrecht der Fürsten erträgt man leichter. Am schlimmsten ist der Nachbar daran. Wo der Mensch sich nicht unterwirft, da wird er selber Tyrann.

(Nietzsche, 1879,42[5])

 

(感情や感覚というのは自分がどれだけ強いか弱いかというので決まる。自分より弱いか同等の奴が来たら→感情として怒りが出て来てやったろという気になる。この順の逆ではない。自分より目に見えて強い奴が来たら→強気な感情が出て来なくなる。この順の逆ではない。縁もゆかりもない上層権力や不可避の自然猛威にカチンと来ることなどないし出来ない。一方腕力なり立場なり階級なり住所なりが近い奴となら必ず熾烈に争うことになり上か下かを決することになる。)

これは、この記事でも見た外的物的要素が内的心的要素を規定するのであって逆ではないという議論の1つでもある。感情というのは自分と相手との力関係という物的で非内在的で非内面的なものが決める。言うなれば状況や環境がもっぱら感情を作るのであって、或る感情自由決定主体がまず先に居て物事に対処するというのでは決してない。こちらの匙加減のつもりのものは相手との力関係・相手という存在に作られていたものなのである。

そしてここで他人との関係つまり人間関係対人場面のほうが規定してくる側なのであって感情側にイニシアチブがあるのではないと述べているかのようである点に注意。この記事でも確認しているが、ニーチェの本当に面白いところは、(これまでに間違われて来たように)孤高の哲人や孤独者的超人を中二病に礼賛することでは全くなくてむしろこれらが皮肉や揶揄かと思えるほど人間の社会性というものを議論の当然前提に据えているということである。

つまり他人との関係がまず合ってそれから個人の内面が規定される、少なくとも内面と思われているものは圧倒的に社会的影響>>>自分の裁量で作られるということになって来る。これは心当たりことだろう。例えば何かを良いと思っているのは、それをぜひ推進したく企図しているのは、それにこそ取り組んでいきたいよと考えているのは、それが気になって居ても勃ってもイラレなくフォトショあるのは、それに自分は大いに価値を見出しているのだと自分は推すよと自負しているのは、それは、果たして、自分が自分で自分によって自分の自分による自分のうるさいボケ、自分1人で見出した良いものなのだろうか。と言うと、実はそんなこと全然ない。それがそんなに良いように思えるのは、どこかで誰かもそれのことに言及していたからである。他の誰か・他の人間・自分以外の者・僕以外の誰か

僕以外の誰か

僕以外の誰か

  • NMB48
  • 発売日: 2017/07/04
  • メディア: MP3 ダウンロード

がそれに触れていたから、だから、それを評価する気になったのであり評価する上で応援もらったのであり評価のインセンティブを得たのである。実は他人がいたのである、気いつかん内にか知ってか知らいでか。つまり価値判断という自分ちゃんの自分の中の自分の宝のように思っているものも、全然そういうものではないのであろう。他人が言ってたから。他人が噛んでいるのである。自分1人決めのつもりでも(なくても)、実は他人と決めているのである

他人と言うと1880年に次の断片がある:

Für einen einzigen Menschen wäre die Realität der Welt ohne Wahrscheinlichkeit. Aber für zwei Menschen wird sie wahrscheinlich. Der andere Mensch ist nämlich eine Einbildung von uns, ganz unser „Wille“, ganz unsere „Vorstellung“: und wir sind wieder dasselbe in ihm. Aber weil wir wissen daß er sich über uns täuschen muß und daß wir eine Realität sind trotz dem Phantom, das er von uns im Kopf trägt, schließen wir daß auch er eine Realität ist trotz unserer Einbildung über ihn: kurz daß es Realitäten außer uns giebt.

(Nietzsche, 1880,2[10])

 

(独りの認知では外界の実在性が保証されなくても複数間では保証される。実は、保証のために必要となり造り出され仮設定されるのが他人なのである(もちろん他人からしたらこちらもそう)。ただ仮設定物とは言ってもこれに対して正誤判断を下さされたりしていく中で最終結局は仮想現実でもないことを認めざるを得なくなるものだから、結局お互い、実在人間承認せざるを得なくなり、そうなら外界も実在せざるを得なくなってしまう。)

世界実在の前提・根本・原則に、他の人間の存在を据えている。他人が有って外界が有るという順序が正であって、自分→世界→共有他者という意識発生発展順序じゃないよということである。その他人が都合で作った架空現実(ganz unser „Wille“, ganz unsere „Vorstellung“)かも知れないかどうなのか云々なのは仕方ないとしてもまず、最初に必要なものではあるのである。他人が実在保証されるから世界が実在保証される、人間が互いを非幽霊承認するから外界環境事物も非表象承認せざるを得なくなる。このように他人との関わりという社会性を重要視か最重要視しているのがこの人の思想なのである。

さて上掲断片に戻るが、内容に関していろいろ考えればよいが、いま不図次のようなことも考えてもいいことに気が付く。例えば、温厚な人は温厚なのだろうか?もしかしたら、なかなか怒らない人はなかなか怒りを表現に出さない人の間違いであって怒りの沸点は全人類まったく等しかったりするのかもしれない。仮説の想像だが、存外はずれてもいないかも知れない。「感情の起伏」などと言うもの、内部での差異ではまったくなくて、表現するかしないかの差異なのかも知れない。(それは目の前にひとが居ても居なくても余りカンケーないことだろうが、しかし居るか居ないかが決定的であることもまたたいがいあるだろう。)

願いごとの持ち腐れ

願いごとの持ち腐れ

  • AKB48
  • 発売日: 2017/05/31
  • メディア: MP3 ダウンロード

思いこんでいることと現実が逆であるという指摘、ニーチェの十八番である。1878年の断片:

Das was erst herkömmlich ist, wird nicht nur mit Pietät, sondern auch mit Vernunft und Gründen nachträglich überhäuft und gleichsam durchsickert. So sieht zuletzt eine Sache sehr vernünftig aus (vieles an ihr ist zurechtgeschoben und verschönt). Dies täuscht über ihre Herkunft.

(Nietzsche, 1878,30[69])

 

(ただそうしてきただけのもの・伝わってきただけの慣習にすぎないものがアホみたいに尊ばれるものだが、いや更にそれどころか、それが有ることそれを我々が施行継承していることは斯く斯くのゆえにもっともなことであり至当なことであり天命なのであると屁理屈小理屈の根拠や説明を与えられてしまいさえする(そんなことをすると基盤確固とするのではなくて逆に基盤ぐらぐらになるのだが)。こうしてそのたっだの慣習物・ただやってるだけのことが、いかにも有るべきもの・もっとも至極なもの・なければならないしならなかったものに見えてくることになる。こうしてこいつの来歴が詐称される。よかったな。)

つまり、有(或)るものは有るべくして有るのではなくてただ何となく気い付いたら有っただけであり気い付いたらみんなやってただけなのに、そうだというのに、このヒトという説明動物は、ちょっとでも目についたものには説明を与えずにはいられないから、アホみたいにベラベラ喋ってくさり、それはその理由と根拠のゆえに有ったのであり行われているのであるという祭儀を愚行しないと気が済まないのである。

これは上に述べた、自分がなぜそうしているのかを分かっていないバカと重なる問題だが、さらに、まったく理由も意味もないものに理由や意味や中身や由緒や「歴史」を求めようとする病気、無いものを無いと放っておけない気違い、無いことこそ普遍ということを認められない病状、そういう無恐怖症という大問題、そういうヒト認知最大の疾患のことでもある。つまり由緒や歴史や続柄や根拠や「必然」といったものは、作話なのである。そういうものだからそうしているのではなくて、そうしているものを元よりそういうものだと後付け説明しているだけなのである。逆ではない。これが人間だ。

 

この時期(1878年)の、若干毛色の違う次の断片の凄さが分かるだろうか:

Wir brauchen unsere Feinde noch gar nicht zu lieben, wir brauchen es nur zu glauben, dass wir sie lieben — das ist die Feinheit des Christenthums, und erklärt seinen populären Erfolg. Selbst glauben ist nicht recht nöthig, es aber recht oft sagen und bekennen.

(Nietzsche, 1878,29[22])

 

キリスト教で敵ヲ愛スルというがこれは別にできなくてもいいのであって愛していると思えれたらそれでよいのである。それが分かっているのがキリスト教成功の秘訣だ。しかもさらに先があって、思えていなくてすらいいのである…。敵ヲ愛スルと言いまくりさえすれば、それでいいのである。それで十分に効果があるから。)

非常な成功を収めた組織や活動や教義がその原理としその根本としている行動や原則、これは、そのものそのままに出来ている必要は別になくて、構成員各自が出来ていると確信していれば十分である。まずこのことは分かる。教義原理の根本にコミットしてもらうことまでは出来なくてもいいから少なくともそのフリは出来ていてちょうだい、そう出来ていると思っていることで当座をしのげればいいです、洗礼受けてくれればそれでいいです、普及活動に務めてく

次回の記事に続く

 

空扉

空扉

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2019/10/01
  • メディア: MP3 ダウンロード