地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (8)

 

前回の記事から

分に無いもの》がではない。自分がぜんぜん持ってもなく縁もゆかりもないものに関しては、ただただ我知らず関せずになるだけである。自分に無いもの無関係なものに憧れるのではなくて、自分がちょっとしか関係させてもらえてないものをこそ欲しがるのである。)

というのを読んで、どの職業でも社会的立場でも実際にそこに就いてみたらそこなりの苦労があってイイことばかりでない云々の話、アホがすぐ「先生」と呼んでしまうあのウンコたちの中身たるやたかが知れてるという話なども思い出してもいいが、もちろんそんなしょうもない話をしてるのではなくて、何かを欲しいとか何かになりたいとか望むその欲求の機構メカニズムを明らかにしている。「selten」と何度も言っているように大事なのは希少性・少量性でもある。無いのなら、はじめっから全く欠落してるのなら、知ったこっちゃないだけのことであるのだが、中途半端にちょびちょび与えられるとか満足と程遠い量だけ持っているとかすると、非常に価値があり是が非でもありつきたいものに思えるようになってしまう。例えば、正味の「先生」を実際やっていると、世に「先生」と呼ばれているあの要職者この受賞者のほぼどれも糞カスの価値も無いチンケラだと判るのだが、中途半端に学のgの字ぐらいがあると、すんごいエラい雲の上の人に思えてしまう。仮に学が皆無なら、まずそうは思わない、というかそんなことを考えもしない。無いものについては想いようがない。ちょっとしかないものは是すんごく欲しい。あり余ってるな飽きてくる。そういうことだ。

上掲断片では片方から片方への一方通行が例示されているだけだが、反対ももちろんありうる。俗世の快をちょっと知ってる名誉職者が、本当はただ汚くて虚無的なだけの下流の遊びをやたらエエように言ってしまったりする(文人の色街)。多少ともエクササイズかじってる引きこもり気味のモヤシ君なら、肉体労働者はええ体になれる(わけがないだろバカ)とアホな勘違いをして羨ましがってくれよる。身を立てた富豪が長じてからも卑賤の身を装いたがる話(コスプレもとい道化道楽にすぎない)などさんざん描かれてきたこと周知の通り。

このように、欲とはいまちょっと有るものをもっと持ちたがる「所有」欲であって、無いだけのものを想う者などは居ない。人類ごときにそこまでの想像力は滅多にない。人は自分の関係していることしか見えず、自分の持っているものしか欲しがらない。つまり、結局自分しか見えない。結局、自分病。

結局、じゃあねしか言えない

結局、じゃあねしか言えない

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 と、若干毛色の異なる文章を見てみたが、飽きてもろてもあれやし、また他に毛色の違う文章を1つ見てみよう。

Tiefster Irrthum in der Beurtheilung der Menschen: wir schätzen sie ab nach ihren Wirkungen, mit dem Maaße effectus aequat causam. Aber der Mensch übt nur Reize auf andere Menschen aus, es kommt darauf <an>, was in anderen Menschen vorhanden ist, daß das Pulver explodirt oder daß der Reiz fast nichts ausmacht. Wer würde ein Streichholz darnach abschätzen, daß es in seiner Nachwirkung eine Stadt zerstörte! So machen wir es aber! Die Wirkungen beweisen, welche Elemente in den anderen Menschen der Zeit da waren: daß er einen Reiz ausübte: und mit welchen Mitteln und mit was für eigentlichen Absichten, muß man noch fragen! — Es ist Teleologie zu glauben, daß der Große eben den vorhandenen zur Explosion bereiten Elementen zur Zeit kommen muß. Wichtig ist jedenfalls, daß die anreizende Kraft eines Menschen nach seinem Tode übrig bleiben kann, durch seine Werke oder durch die Fabel, die von seinem Leben sich bildet: darauf sollen die denken, welche auf die Zeit keinenReiz“ üben.

Zuletzt: wir irren ebenso über die Dinge, weil wir sie nach den Wirkungen in uns beurtheilen: wie verschieden scheint uns Blau und Roth, und es handelt sich um etwas mehr oder weniger Länge des Nerven! Oder dieselben chemischen Bestandtheile so und so der Lage nach gestellt ergeben Verschiedenes, und wie empfinden wir diese Verschiedenheit! Wir messen alles nach der Explosion, die ein Reiz in uns hervorruft, als groß klein usw.

(Nietzsche, 1881,11[263])

 

(本日は他人の判断というものに限って話すが、人を判断するのにその人の何があとあとどうなったかで判断するのは間違いだということを言っておく。結果ハ原因ニヒトシイの誤謬とでも言おうか。行為とは単なる行為だ。それだけのもの。それがどうなるかは完全に未知のままに互いに何かをし合うのみだ。その人に何が有ると言えるのか、それは、原時点のその人にしか見ることが出来ない。それは、スルかシナイかの2つだけだ。そう、原時点では、スルかシナイかの二択だけしかない、当然のことながらな。大火事の元になったマッチ1本は大火事を起こしたような超スンゴイ超A級マッチてことになるんか。いやそれは火が付いただけのことだ。こう言うたら分かるんだが、しかしこんな超判断をどこのどいつもしでかしてくれよる。スルという時点では、どこをどう探っても、ちっぽけなイチ行為がなされるにすぎない。そいつはソレをしたというだけのことだ。他人に一抹の何かをしただけのことだ。その・特にその時点でそいつの脳裏に何があったのかというと、大したことではない。大火事など想像もしてない。後世後日から見て或る決定的な人、こいつが決定的な瞬間にまさに立ち合いその時歴史が動いた!!!うがー!!… こんな思考判断は到底知性のすることではない。それは「歴史」とか目的論とかいう宗教信条だ。(という話は認識上のことであって、実際的には、ちっぽけでもええやなんて開き直ってんちゃうぞ。影響が有る者はあくまで有る。それなりの物を残した物はそれはそれで居る。それに引きかえテメエはなーもしてへんというそこのボンクラ、お前な、おまえははそれではあかんねんぞ。動け。)人の話はここまでで、物に関しても全く同様。物も、自分にとってどうか自分にどない影響し何を与えるかで判断してしまう。物Rと物Tの「違」いとうのは自分にとっての違いにすぎない。色の「違」いなど、見ているほうの視覚神経の都合で違わせられているだけだ。知覚し受容する生き物にとって異なり違っている2物も化学的には特に違いがないものだ。或いは、元は大したものではなかったちっぽけな反応がやがて自分の中で決定的なものになった、その時それを際立ったものとして捉えてしまう。こんなもんだ。)

コスモスの記憶

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行為とは単なる行為であり、それがどうなるものなのかは分からないし、どうなっても、それは、なったというだけの事であり後の顛末であり、なった時点限定のハナシであって、元の行為自体とは関係ないことである。元の行為がその「なった」ものに結実するまでには他の膨大な行為や邂逅や累積が加わらなければならないではないか。つまり、その顛末と齎されたもので以ってしてその原行為を測ったり判断したりすることは、判断しているのではなくて、その行為が何だったのかをならば知っていると述べているだけにすぎない。こんなものはトートロジー以下だ。

しかし、そうしてしまう。スルがシタになった時点で後ろ向きに(retrospective)そのスルを見てしまう。このように、行為の結果がぜんぶ出てから、都合よく事後になってから、あの行為は何だったのか・あの人はどういう者だったのかをしたり顔で評価してくさる性向を、一名、後知恵バイアスと言う。事後になってから、ソレはソウいうものだった・それはそうなるものだったのだ(+それはそのようなものであるのだ)と「判断」する、そんな判断でも何でもないことをしておきながら何か言った気になる、そんな認知エラーである。文中にもある例と別の例でいうと、蝶が羽ばたいて遠国で台風が起きてもその羽ばたき自体は別に特段凄い羽ばたきなのではない。この羽ばたきを台風から判断したらただのアホである。これぐらいなら分かる。しかし、分らんとこでは、このアホをみんな犯す。

そしてもっと広いアホとつながる、自分病とだ。物に対して見ているもの・お前に見えているものは、自分への影響というフィルターが常にかかっている。それが自分の中に後々何をもたらしたかの後知恵知識で、この物はこういうものであると考えてしまう。物サイドからしたら勝手な決め付けだ。後で何へとつながったか・後で何を齎したかという判断バイアスと、自分にとっての何になったか・自分には何を齎したかという判断バイアス。

もちろん後知恵バイアスというのは仕方ないものではある。知ることのできるものは過去方面のことでしかないのだから、判断ということをするには時間軸上後ろを振り返るより他にやりようがない。これは知や思考の論理的必然性である。しかしそうやって下した判断はバイアスにまみれたものであり、論理的にまちがっている。そして間違いようしかないのなら、コトは根源的だ。後知恵バイアスは根本的エラーなのである。

さてこんなことも言い出したことだし、「哲学」「的」な文章なども見てみよう。そう言えばこう書いて思い出したが、ニーチェは、哲学方面からは、哲学的たる哲学的な議論をしているとは言い難い人で、「純

次回の記事に続く

 

ハートの独占権

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