地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェの二重過程理論(システム1とシステム2)(v)

 

前回の記事から

machen, das einmal Gethane, das sich bewährt hat, als das einzige Mittel zum Zweck glauben — das, im Grunde die grobe Intellektualität, hat Mensch und Thier erhalten. Unzählig oft sich so zu irren und am Fehlschluß leiden ist lange nicht so schädigend im Ganzen als die Skepsis und Unentschlossenheit und Vorsicht. Den Erfolg und den Mißerfolg als Beweise und Gegenbeweise gegen den Glauben betrachten ist menschlicher Grundzug: „was gelingt, dessen Gedanke ist wahr“. — Wie sicher steht in Folge dieses wüthenden gierigen Glaubens die Welt vor uns! Wie sicher führen wir alle Bewegungen aus! „Ich schlage“ — wie sicher empfindent man das! — Also die niedrige Intellektualität, das unwissenschaftliche Wesen ist Bedingung des Daseins, des Handelns, wir würden verhungern ohne dies, die Skepsis und die Vorsicht sind erst spät und immer nur selten erlaubt. Gewohnheit und unbedingter Glaube, daß es so sein muß wie es ist, ist Fundament alles Wachsthums und Starkwerdens. — Unsere ganze Weltbetrachtung ist so entstanden, daß sie durch den Erfolg bewiesen wurde, wir können mit ihr leben (Glaube an Außendinge, Freiheit des Wollens). Ebenso wird jede Sittlichkeit nur so bewiesen. — Da entsteht nun die große Gegenfrage: es kann wahrscheinlich unzählige Arten des Lebens geben und folglich auch des Vorstellens und Glaubens. Wenn wir alles Nothwendige in unserer jetzigen Denkweise feststellen, so haben wir nichts für das „Wahre an sich“ bewiesen, sondern nur „das Wahre für uns“ d.h. das Dasein-uns-Ermöglichende auf Grund der Erfahrung — und der Prozeß ist so alt, daß Umdenken unmöglich ist. Alles a priori gehört hierher.

(Nietzsche, 1881,11[286])

 

バイクとサイドカー(14カラット)

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(確信するとか思いこむとかいうのは最悪に最強なやつである。人間動物っちゅうのは思い込んで信じ込んでするのが大好きなものだが、それもゆえなきにはあらずして、確信という認知エラーは個体保存戦略に最適なのである。こいつらは少数の法則が大好きだ。何かあったらすぐ それはそういうものだとヨロコんで推断しよる。すぐ自分のポリシー(←死語)とかマイルールとか自分の生き方とかホザき出しよる。1回でも何かうまいこといったことがあったら、たまたまそうなっただけなのではないのかということなど忘却の彼方に置いて(彼方にどうやって置くねん、置けたら彼方ちゃうやん)来て、私はこうやって賢くやってきたのですとウレシがりよる。一般化大好きの一般化獣。こんな、知性でも何でもないもの、大づかみしか出来ない認知、こいつがあったからこそ、この種は存続してこれた。これで、よかったのである。どんなアホがどんな素っ頓狂に走ろうと何を愚考してくださいくさらさせさせていただこうと、そっちのほうがマシだった。考えたことを事実に照合して念入りにチェックし反省的に批判吟味し…などということをしていたら、野生下では、死あるのみなのである。自分が考えてたことが正しいものか否かをただに結果いかんから判断する動物だからこそ、生物として生き残ってこれたのである。結果オーライということがこいつの本当の本音だ。一度うまいこといったらその内容なんてどうでもいいから全力でそれをそうだと思い込んでしまうのである。こうしてしまえば、もう安心立命の境地というもので、一挙手一投足うれしいうれしい確信の安寧に浸れる。自分が居てその自分がコレコレをする♡、こんなにウレシい確信もないものだわな。←アホでしかないのだが、アホこそが、生きていくうえで役に立つのだから仕方がない。アホにもならんと手も伸ばせない。本当に手が伸びるのだろうかこれは手なのだろうか手を伸ばすことばかりしていていいのだろうかこれは手が伸びているという事態なのだろうかと考えていたら、物も取れない。シんでまいます。だから、批判的な考えや判断を停止したりするのは、歴史がだいぶ進んだ時代にようやくやってもいいことになったというようなモノなのである。今までにソウシテキタカラソウナノデアルという頑迷頑健の思考停止をしていたからこそ、ヒト種がここまで繁栄して来れたのである。今までがそうだった、今はとにかくそれをしていてそれしかできません、他の可能性は考えたくありません、こういう頑冥サルだからこそ、現在見るまでに大繁栄してこれたのであり、こんな頑冥こそが有機体の原動力なのである。ヒトの認知は、歪んでしかいない。人類全員例外なく、結果から判断することしかしようとしない。それが【何なのか】ということはなんも考えず、それが【どうなったのか】を事後に知って事後にしたり顔でもっともらしく説明てくさることしかしない。このボケ思考でいると、その他ボケ思考同様、とかく、社会でやっていくには、生きることには、都合がいい。… ということは、だ。そんな風でない生き物だって「人間」だって、有りえたわけだよな?宇宙の歴史がちょっと違ってたら?こんな認知をしてはいない知的生命体だって、有りえたわけだよな。そっから考えたらどういうことになるか。人間に見えてるのが世界なのか。人間が何をどれだけ分かってすべての情報を押さえてしても、それで分かるのは人間のオツムの中だけではないのか。しかもそれは、個体保存のための認知エラーに束縛されたものでしかあり続けないのではないのか。そんなエラーが除去できた状態など、想像することも出来ないのではないのか。認知病こそが「アプリオリ」なものなのではないのか。)

君について

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まさかとは思うが、この文章が、くよくよ考えていられない行動の主義と、テツガクにふけてああでもこうでもと談義している無用思考の人々といった例のアレ、アホがすぐウレシがる凡庸伝来の低俗な発想、そんなことを書いているものだとは思ってないだろな。勿論、そんなような、どこのどいつでもそこのお前でも思い付くようなクソくだらない話をしているのでは到底ない。

そうではなく、ヒトが未来永劫自事物や事実に即して考えることが出来ないという宇宙最大にしてお前最大の死刑宣告である。つまり今までに引用してきた文に見られたシステム2的なものへの顧慮もない。推断と誤断、これしか無いという論になってしまっている。

そうであるのもあって、システム1的なものとして描写している欠陥認知についても、原始時代的生存環境下でのみ優秀に機能するものと述べることはなく、これが文明史に入ってからもずっと最高に機能し続けていると述べている。システム1的なアタマの悪い確信病に突き進むことが、現代までの社会の発展や国防の完備といったあらゆる高度文明の歴史の原動力にもなっていると言っている(„alles Wachsthums und Starkwerdens“)。あくまで批判思考や高度な理論が現代高度文明を成り立たせているわけではないと述べている。このような認知形式と相反する認知形式が有るものだとはこういった文章では言っていたのだが、ここにはそういう話も無い。或いは、冒頭で言っているように、あくまで確信ということがテーマなのかも知れない、どのような思考形式を取ろうと、その根底か上にはドコまで行ってもあくまでどうしても、コレガコウだと決めつけてかにしてしまうという形式が有るという話をしているのかも知れない。システム1的なものだろうと2的なものだろうと、あくまで判断ということをしてしまう以上、性質の違いがあるだけであって大局的形而上的には誤謬なのかも知れない。とはいえ、文中で批判している結果から判断というような認知構造などは別にシステム2ですら陥るようなものではないはずだがな。まあ断片文章だし、こんなもんかもしれん。