地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (12)

 

前回の記事から

Verschlechterung der Menschen dadurch entstanden ist, daß man das Ideal der Selbstlosigkeit aufstellte, also den Egoismus böse hieß und als böse empfinden ließ!! — dadurch daß man den Willen des Menschen frei hieß und ihm die volle Verantwortlichkeit zuschob somit die Verantwortlichkeit für alles Egoistische — „Böse genannte“ — d.h. Naturnothwendige seines Wesens: so machte man ihm einen schlechten Ruf und ein schlechtes Gewissen: — dadurch daß man einen heiligen Gott über den Menschen dachte und damit allem Handeln das böse Wesen eindrückte, und zwar je feiner und edler ein Mensch empfand? — Das Nachlassen dieser furchtbaren Glaubenssätze und das Nachlassen im Zwängen und Erzwingen des Glaubens überhaupt hat die Barbarei verscheucht! — Freilich: eine noch frühere Barbarei, eine gröbere konnte nur durch jene „heilsamen“ Wahnartikel verscheucht werden!

(Nietzsche, 1881,11[332])

 

花と散れ!(チームK Ver.)

花と散れ!(チームK Ver.)

  • AKB48
  • 発売日: 2014/04/01
  • メディア: MP3 ダウンロード

(伝来の人間認識は人間をちゃんと利するものであるというカン違いがあって、利するのだから従ってだから故に守られてきたのだとまで妄念されているが、ふざけんのもたいがいにせえよ。俺が人類史上初めてそんな勘違いをぶっ壊してやろう。かかってこい。ええか、この妄念が妄念であり莫大な損害をもたらしてきた最悪に有害な殺人級妄念だと気が付いたのは、この俺だけだ。伝来の人間認識では、ヒトには自分やエゴというものが確かにアリアリと有ってただただここから行動するのだと、妄念する。皆が確固たるエゴと我執を確固決然と意識的に行使するのだから、これさえ禁じたらええねんと、そう妄念する、且つそう妄念することを一般的にしてしまう。ヒトは1個の自由な個人なり!ということにされてしまい、何をしても、環境要因を一切無視され、すべてその者の内的必然性でしたことにされてしまう。10すれば10の自分に10の責任を負うことになる、7~8ぐらいが特別状況なり生育環境なり等であっても、そんなん考慮されない。「自由」「意志」ってのはそういう意味のものだからな。それは悪いものであり除くべきものなのである。人は己の自由と意志でもって己のエゴを満たすのであり、こんな悪は外面的も内面的にも禁圧しなければならない。いやヒトがすることはすべからくエゴにして悪ということにまでなり、その対比対象になるような上級神聖存在までコネ繰り出される。人間サイドの理や正などは理想の一種にすぎない。そんな妄念で、やってきた。人を見たらどろぼうと思えということだ。いま考えたらとんでもない野蛮な人間観であって、当然、こんな認識を払拭することにこそ、いやしてきた事にこそ、脱野蛮・啓蒙・知性の道があった。(ちなみにだが、では以上の妄念がなぜ発生したのかと言うと、原始時代(というヒトの思考と行動の9999%を作った時代)にはこの悪癖が都合がよかったからである。)

はじめに宣言してある箇所に見る通り、当時の科学などでこのようなことが盛んに言われていたとかニーチェが科学の知を取り入れている^q^だとかいうこと、そんな単純なことではないようで、そういうことは或る程度はそうなのだろうが、テキスト上に限って見れば、これから書くことは自分のオリジナル見解だからなと(「das ist meine That」と太字化までして)明言している。

こういう文章を見ると、明治大正の延長でしかないこんにちのニーチェ受容のアホどもなら、道徳に対する懐疑ダーウワーギャーとウレシがりホザき出すのだが、明らかに、そんなクソしょうもない内容ではない。そんなしょうもない内容を、出版されてる訳書から吹き込まれていてはならないからな。

言っていることは、確固たる個「人」が自由に1個の意志でふるまう全責任存在である(+エゴにしかふるまわない)という認識は野蛮で退行的で原始的で非科学的なのであるということである。それが「キリスト教」「道徳」の「主体」的「個人」がウンタラがウンタラでウンタラーホザいとっても、何も分らんし、何もおもろない。そんな駄弁は今後二度と禁止。

ここでも、「個」「人」というフィクション、「人間」という名の虚妄、「人」という名の事実誤認を突っついているのである。それは、悪魔で、ヒトという動物の認知構造の考究である。「人」が人に「人」という1塊を見てそれ以外を見ないのが認知のエラーであり歴史的にはびこった病癖であるという議論をしているのである。

また、最後の文に見る通り、ここでもまた認知エラーの発生について述べている。帰属の基本的エラー的な認知欠陥もまた、原始時代産なのである。原始サル社会ムラ社会でヒトが存続していくためには、そのためだけには、確かにこの誤謬はとても有利に働いた。しかし現代では、なんも有利でないし、正しくないし、有ってもいいものでもない。

法整備や社会運営のために「個人」というものを仮構するのならするしかないししとったらええのだが、それをバラけたものとして多面的に環境との/への延長として見なければならない。言うまでもなく、法的にはそういうことは重々認識されている(情状酌量)。しかし社会心理学や環境系環世界系の認識はまだ一般的であるとは到底到底言えないだろう。まだまだ、野蛮時代だろう。表象を見ても実生活を見ても、特定の「人」「この」「人」!というものを全身全霊信じこれにシガミついているのだからどいつもこいつも。

 

さて現代科学的な見方をしている以上の断片、もちろん背景には(当時の)科学の知見があるのだが、ここでニーチ

次回の記事に続く

 

予約したクリスマス

予約したクリスマス

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード