地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェの二重過程理論(システム1とシステム2)(iv)

抱きしめられたら

抱きしめられたら

AKB48

  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード

これもパフォーマンスをウェブ上で何個も見たが、一番強烈だったのは「SKE48 6期生 Zepp Nagoya 単独ライブ〜今までと、これから〜Supported by ゼロポジ」(2019年9月11日(水))のセットリスト06の北野瑠華竹内彩姫熊崎晴香のだ。他にも「NGT48 チームG「逆上がり」初日公演」(2018年7⽉1⽇(日))(リンク先予備)の時らしいセンター中井りか版もごっつイイ。歌自体は(自分が聴いた限りでは)後にも先にも河西智美以外はありえないが、

 

前回の記事から

ったということを示してしまう。後者、こやつらもまた、認知エラーや直感や御都合に従って闘っていたにすぎないことが判ってきた。ヒトの基本ボケに付こうがそれと闘おうが、どっちでも大差はなかった。何に対しても特に都合悪いものではなかった。どんだけ役に立つか立たんかの程度問題だけ。社会や世の中に悪となる致命的な考えも、タカガ知れたものだった。お遊びの一種、高等遊民の思想遊戯というようなバクチであるにすぎなかった。そんな所では、いやいやそういう訳にはいかんだろうという反省が必ず起こっていた。反省が、大脳に、徐々に徐々に、蓄積されていった。ボケとってはいかんではないか。目を覚まそうではないかと。何が本当に合っているのかを決したくなり、決したほうがよくなり、決したくてたまらなくなってきた。高次の認識に勤めるようになり、これを促進するようになり、これに給料出すようになり、人間たるものの当然の務めとなっていった。こうして、エラーや欲動から脱出したいというのが、かつての最弱状態を脱し、なんぼでもあり得る立派な欲求の1つとなる。そうして、それは合っているのか、それは止めとこうか、それはオカシいからな、それは認めれんからなと声高に言えるようになり、それまで普通だった意識生活に悪の烙印を押すようになり、知性が地位の階梯を登りつめ、やがて勝者として表彰され顕彰され、何も特殊なものではなく人間の特性そのものだと思われるようにまでなる。そしてついにヒト種保存のための一生体機能になってしまい、生体であるからには勿論伸長していくものであるから、ついにやがてそして、原始時代に染み付いた各種認知エラーと完全にタメを張るようにまでなる。こっちも、どっちも、要するにヒト種に都合のいいものなのである。どっこいどっこいである。認知には2つが棲み付く。どっちが勝つか負けるかということになってくる。この世紀の一戦の前には何もかもどうでもいい。人間の究極の目標が決まった。実験が、始まったのである。人類実験だ。システム2はシステム1の役目を果たしうるのかという史上最大の実験。これが、いま意地でも言っておかなければならないことだ。)

という文の中に見ようとしている二重過程理論には、巷間(と専門筋)に言う「システム1」が描かれていると言うことは出来ないのかもしれない(一方システム2のほうはこの人や同時代人が「理性」として描いていたモノがそれほどは疑問もなく重なるであろう)。それはヒューリスティックステレオタイプや連言錯誤といった認知のショートカット、単なる行動類型だ。一方ニーチェが述べているところでは、そういった限られたことに留まらず素朴な日常的意識上の物事の捉え方がすべて総じて原始人脳発祥の誤謬エラーなのである。フツーに物があって自分が居るという感覚が、錯覚なのである。

そしてそれならば、現代の科学がまさに明かしている事柄だ。それは狭い白衣のカガクの世界、どこかの〇〇界ではない。日常の意識(という人生と世界と宇宙のすべて)の虚偽を暴露するものである。そういうのが、社会心理学認知心理学が明らかにしたヒトの氷山下的無意識認知過程である。ヒューリスティック等やバイアス等や同調性等や記憶過程等に関する実験研究は、これまでの人間観を、どころかそもそも人間を根底から瓦解させるものである。従事者らがそう思っていないのなら、まあそういうこともあるだろう。そんなものだろう。どういった専門領域でも、従事者こそが自分のスゴさが分かっていないということなど、むしろありふれた事態だ。ちょっと違う例だが、翻訳書など見よ。おうおうにして、《この感銘深い本ほんまにこのボンクラが訳したんか?!》と言いたくなるような浅薄で凡庸なあとがきを書いとるだろう。

だから、現代心理学が伝統的全哲学に届きこれを裏書きしてやってるようなスゴいやつなのであり、ニーチェが語っていることはこの現代心理学の知見なのである。あくまで、そうなのである。したがってここで俎上にのぼしている形而上学も実証科学が取り組む相手である。

パターン認識が物体というものを発想させ・日常の物の分割可能の観察からの少数の法則的短絡思考がその構成素を思惟させる(dass es dauernde Dinge gebe, dass es gleiche Dinge gebe, dass es Dinge, Stoffe, Körper gebe)ものである。形而上学とその原理はヒトの認知システムの産物であり、今後は、相伝の秘儀でなく、実証研究のオープンソースに開かれていくものである。

こうして、この第110番は、日常の物知覚ないし知覚の恒常性というようなヒト認知特性のことを話している。これが、日常の意識つまり無意識的な作業意識の行動に親和的(に決まってるだろ)なものである以上、システム1的である。引用文章にあるように、この認知が先に有った。包括的で鷲掴みな話をするつもりだろうから認知そのものがすべてエラーだと言っているが、とにかく先住にして伝来の根本的エラーがこのシステム1的なものである。第110番の前に見た文章でそれがサバイバルに圧倒的に有効でよく機能すると言っていたが、それは、偏見や偏向を持って直感的に推断し即決し熟慮やモニターを後回しにするかおろそかにする「本能」(というニーチェの用語もこの話に関わるものだろう)的で無意識的なものだ。事「物」を固めてしまい思考をそれに合わせて固めてしまい固まった思考しかしなくなること、定型思考や図式思考といったもの、こういったものは、ステレオタイプと同じように、個人ではどうにも出来ない所に埋め込まれてしまい完全無意識に働く認知エラーである。それに対して反省が興りその反省への反省が興り優勢を占めるようになって来ているという歴史描写は、システム2的なものの描写である。

この文章のみならず至る所でさんざん言っている「Trieb」というのも、即断しようとするヒューリスティックの動作を想わせる。考えや反省と無関係に、その統率を受けず、何がどうなってもしてしまうこと、これに駆り立てる力というのは、連想や決め付けによって安心と恒常性を得ようとするシステム1的作動のことを指しているように見える。複数形で言って何個も見えているTriebとは、何種類もあるヒューリスティックのストックに通じるものではないだろうか。

ニーチェと言って「系譜学」とバカ1つ覚えしゃべって「道徳」ガーガーと意味不明ブラーブラーをやっているアホたちが自分で自分が何をしゃべっているのか判っているのかは判っていないが、発生論や系譜描写として本当に面白い文章は、こういったシステム1とシステム2の相克を描いたものだろう。

もう1個ぐらい見ておこう。

ハルジオンが咲く頃(Type-D)(DVD付)

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Ohne die ungeheure Sicherheit des Glaubens und Bereitwilligkeit des Glaubens wäre Mensch und Thier nicht lebensfähig. Auf Grund der kleinsten Induktion zu verallgemeinern, eine Regel für sein Verhalten

次回の記事に続く