地上最強のブログ

しばいてくぞ

こんなことを言っているニーチェをお前は知らない

 

前回の記事から

んのである。なんぼその個人が傑出していても目立っていてもだ。自分ぐらい耳が悪いと HKT聴いとったら矢吹奈子松岡はなしかわからんし日向坂聴いとったら加藤史帆しかわからんしSTU聴いとったら藤原あずさや三島遥香しかわからんし乃木坂聴いとったら生田絵梨花しかわからんしチーム8聴いとったら横山結衣しかわからんしAKB聴いとったら高橋みなみしかわからんが、そんなこと言っとったらあかんのである。集団だから意味があるということを見よ。

だから当然どんな事象も集団と全体構造を見ないと何もわからず、教科書とテレビと漫画とアホがバカの1つ覚えで取り上げる特定「人物」にバカみたいにコダワり続けても何も得られないし何も得ていない。集団の一部としてこそ個人は威力を発揮するのであり、同じく、集団の中の1機能としてのみ特定のことを為すのであり成し遂げるのである(その「成し遂げ」も勿論その1個体がやっていることではない)。その「人」がその「人」だからそうだからどうのこうのああだこうだという語り方論じ方のすべて一切合切が見当外れの無駄口駄弁だったのだ。わかったら二度とこんな無駄口を吐くな、こんな無駄議論に付き合うな。

それはとにかく非常に面白く様々な問題の篭もった断片であろう。面子の話なんかも出てくるがマフィア的な復讐的なんを念頭に置いているのだろうが、恥を雪ぐようなどんな行為や文化に関しても言えることだろう。アメリカ南部のことでもいいし、そもそも日常的なことだ。集団の中でどう見られるか、他人にどう見られているかが個人の何よりの原動力でありその個人の意味そのものである。まったく実感にそぐうことこの上ないだろう。「ひとのため」の時こそ遠慮なく制限なく怒れる。自分一身のことよりも他人のことのほうがはるかに悲しく感じる。互酬性や大乗仏教を持ち出すまでもなく持ち出してもいいが利益や幸福とは他人と共有して・他人と一丸となってこそ強く持続的で普遍的であり、その点私益の快というのは非常に薄弱で短命で真実味に乏しい。「恥」というのは痛切なほど原初的であり生理的ですらあるほど根本的な感情だとは日常感じることだが、これがこうであるのも、他人の目に対しての心理・集団の中での心理こそがヒトの心理だからだ。

ハステとワステ

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そしてこの断片にも前掲断片同様《なかなか言ってくれる》な発言があって、人類は寿命が短すぎるという。どの人類社会も上手く調整されているとは到底言えないものであって、個々人の生命維持を失敗していると言っている。こんな見方からすれば超高齢社会でも全然大して高齢化が進んでいないことになるだろう。また、もっと高齢に達して当然と言うのなら、現在の高齢者の健康状態。特に体力など、適正なものではないのかも知れない。人間は還暦にも米寿に達すれば体力や機能の低下が進み100歳以上は非常な高齢で…という常識が実は間違っているのかも知れない。

ふつう「ニーチェ」と言ってこんなことを述べていた人と想起され理解されることなど無い。どんな著作家でも著作の隅のスミのほう、知られざる雑文などでは、コンナコト言ッテタンダ~というようは意外な耳目を引く発言をしている(本や章の冒頭のアイキャッチ引用(というかただの転載)をキメてドヤ顔のボケどもの引用でそういった文章が知られる)ものであるが、ニーチェはこれが途轍もなく多いと言っていいだろう(知らんがゲーテよりもずっと多いだろう)。そんなんを、今見ている時期の断片集から拾ってみよう。例えば次のようなもの。

Unsere Sinne zeigen uns nie ein Nebeneinander sondern stets ein Nacheinander. Der Raum und die menschlichen Gesetze des Raumes setzen die Realität von Bildern Formen Substanzen und deren Dauerhaftigkeit voraus, d.h. unser Raum gilt einer imaginären Welt. Vom Raum, der zum ewigen Fluß der Dinge gehört, wissen wir nichts.

(Nietzsche, 1881,11[155])

 

(【何かがあってから何かがある】というのは知覚できても、【何かAと何かBがある】というのを知覚することは出来ない。ヒトが知っている空間は本来の空間ではなく、「空間」の定義は実はまちがっている。ヒトの捉える空間では、物体が画像のように不動になっていて、そもそも「物体」などというものが有ってしまっていて、変化せず一定の持続をするモノがあって、そもそも持続というものが有ってしまっている。そんな物ワールド、こんなものは、この世のどこにも無い。実際は、変化しか存在せず、物や何かしら「それ」であるもの、何かデアルようなそんないかなるものも存在していないのだが、だからといってこっちの側の空間を知覚することはあり得ない。)

この断片の主題は、ニーチェのいつもの話題、およそ対象や物というものは、ふつうイメージされている形では存在していないという話である。

ただ、それとつながっているように見えない冒頭の1文が意味不明である。「Nebeneinander」も「Nacheinander」もニーチェの文章によく出てくるが、その内前者をヒトの感覚が捉えられないなどと述べているのはこの断片だけではなかろうか。おそらくこれは普段言っている「Nebeneinander」ではなくて、異なっている物たちの並存ことだろう。異なっているものAとBをそれぞれ別々の時間でなら捉えることが出来ても、目の前で捉えることは出来ないということ、つまり「異」をもろに「異」として目撃することは出来ないということだろう。だからヒトは「異」そのものは実は知覚することができず、「異」はヒトの認知には存在しないということになる。そこまで解釈すると、一応その後の文につながりはする。相当に無茶な主張ではあるが、とはいえヒト認知は無に弱いという話と合致する。

或いはまた、ショーペンハウアーの認知科学、ヒトが複数の情報を個別に・順次にしか処理できないという卓見を思い出す文言でもある。つまり「並列」が並列処理のことを言っていることにしてもいいかもしれない、少なくとも面白い。

次に、この人がこんなことを述べていたのか!と思わせるような意外な発言として、次の断片を挙げておこう:

次回の記事に続く

 

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