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しばいてくぞ

ニーチェ、1888年春 (5)

世界はどこまで青空なのか?(Type-C)(DVD付)

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前回の記事から

könnte unter diesen Embryonal-Zuständen der Überzeugung nicht auch die Lüge sein?…

sie bedarf oft eines Personen-Wechsels (— erst im Sohne wird Überzeugung, was im Vater noch Tendenz war —)

Was macht es, daß ein Lügner uns einen Irrthum für eine Wahrheit verkauft? Seine „praktische Vernunft“ (— sein Vortheil, populärer geredet)

Was macht es, daß man zwischen verschiedenen Möglichkeiten sich entscheidet? Seine praktische Vernunft, sein Vortheil…

Was macht es, daß man zwischen verschiedenen Hypothesen so und so wählt? Der Vortheil.

Welcher Unterschied bleibt zwischen einem Überzeugten und einem Belogenen? Keiner, wenn er gut belogen ist.

Was macht es, was alle Philosophen bestimmt, ihre Überzeugungen für Wahrheiten zu halten? Ihr Vortheil, ihre „praktische Vernunft“

Die Fiktion, die Nützlichkeit, die Vermuthung, die Wahrscheinlichkeit, die Gewißheit, die Überzeugung — eine Geschichte des inneren Pathos, an dessen Anfang die Lüge, deren Gott steht…

„Ich will etwas für wahr halten“: ist das der Instinkt der Wahrheit oder nicht gerade ein anderer, der es sehr wenig streng nimmt mit der Wahrheit, aber den Vortheil kennt, den der Glaube mit sich bringt?…

Gesetzt, man hat einen Vortheil davon, sich selbst zu belügen, worin unterscheidet sich das Pathos der Selbst-Belogenheit vom Pathos der Überzeugung?…

Ist im Glauben, wie <ihn> das Christenthum versteht, die Klugheit oder die Wahrheit zur Herrschaft gebracht? Der Beweis der Kraft (d.h. der Vortheile, welche ein Glaube mit sich bringt), oder der — — —

Und was Märtyrer macht, ist das der Instinkt der Wahrheit, oder nicht umgekehrt eine Lücke der inneren Organisation, der Mangel eines solchen Instinkts? Wir betrachten Märtyrer als eine niedrigere Species: eine Überzeugung zu beweisen, hat gar keinen Sinn; sondern es gilt zu beweisen, daß man ein Recht hat, so überzeugt zu sein… Die Überzeugung ist ein Einwand, ein Fragezeichen, ein défi, man hat zu beweisen, daß man nicht nur überzeugt ist — daß man nicht nur Narr ist…

der Tod am Kreuze beweist keine Wahrheit, nur eine Überzeugung, nur eine Idiosynkrasie (— sehr populärer Irrthum: den Muth zu seiner Überzeugung haben —? aber den Muth zum Angriff auf seine Überzeugung haben!!!

(Nietzsche, 1888,14[159])

 

(実際はそうではないことをそうだと偽ることと、実際にそうであることをそうだと信じることとはもちろん違うのだろう。虚偽と確信、違いすぎてコマるぐらいなんだろう。とはいえ、確信し切っている奴のほうが騙されてる者よりもはるかにタチが悪いという話も聞いたことがあるな。どうなんだろうかな。いま【信じる】というものを考えてみるが、信じるようになるまでにも前段階があるものだがこれすらも相当タチが悪い、いや確信後よりもタチが悪いものだ言っておきたい。そう、事柄をもうこれ以外本当のことなどありえないと確信しきるその時点までには結構な前段階が有って、その間にはそうなんやろかないやちゃうんちゃうやろかいな等々とフラフラフラフラするもので信・不信の振れ幅があり迷いが有るものだが、この段階では未だAはAなり!と思い至ってはない。あくまで非確信状態。それが結構な期間あるわけなのだから、時には虚偽や歪曲が紛れこむことだってある訳だ。確信されるものも内容によっては年スパンを要するものだってあって次世代目でようやく確信が固まるという事だってありうるわけなのだし。さてかように何かがそうであると固まるまでには、真偽のほどは措いていろいろな情報が入ってくる。その中での1つが本当らしくてリアリティがあってメリット十分に見えるだろう。元は色々あった可能性の中で特定の1つだけがてめのオツム上はリアルでお得なものと見えるだろう。元々はいろいろ考えていたのに1つのもの辿り着いてしまってそれが自分にはいいのだということになるだろう。で、この道程で出来あがった者が騙されているとかいないとか言うことに意味があるだろうか。ガッツリ思い込んでいることとガッツリ騙されていることに違いがあるだろうか。チで?!これは知性ある者に於いても同じことだろう。こいつらがやっていることはAはAなりと喧伝しているだけのことだ、自分の信じるがままに。もう一度言うとコレガコウデアルと思い固まるまでにはプロセスがあって、作業仮説を立てるなり推量をめぐらすなり完全に証明できるなりといった、情念パワーに満ちた逡巡疑念苦悩の時間を経るのだが、このプロセスだってその始めには、まちがっているように到底思えないしかし実はまちがったものが結局は有ったのである、そう言いたい。うむなるほど、コレガコウデアルとは是非とも思ってしまいたいものだ。安心できるな。しかしその時本当にものをゼッタイ確かに知ろうとしているのだろうか。それとも心底ではナメてくさってんのじゃないのだろうか。思いこんどきゃトクだわいなまあ考え詰め考え抜いたワケではねーがな、とナメてくさってんのじゃないのだろうか。そうなのだろう。そう、騙されときゃええわいなということなのだから、何が本当かなんて実は考え抜く気などないのだから、本当のことを目指しているつもりのお前は嘘を目指しているだけなのである。確「信」と言えば宗教だがここでも本当のことを追求しているのかどうかは怪しいもので、むしろ、本当真実のところはともかく信じとけばどないどないという話だろう。そうだから、真理のためなら命も惜しくないという手合いなど、いや真理のために!などと思っているのじゃなくてそんなん思う能力も無いような奴なのである。こいつらは決して高級なのではない。自分はこう思っている!!とガンバってホザかれてもだからどうしたというものだ。むしろやりたいことは確信の主張ではなくて確信権の主張だろ。いいか、確信していることがあったらそこで何かがおかしいと思わないかんのだぞ。確信してる確証してるハッキリしてる白黒ついてる、それは、アホのおつむだ。そうであっていいわけがないだろが。真理のために殺されさえした特に著名な人物であっても別に真理とかかわっていたのではなくて特定の確信に憑かれる特定の病気に罹患していたのである。よく聞けおのれら、確信するのは度胸じゃないぞ。確信をぶっ壊すのが度胸なんだよボケカス。)

読んでの通りで捕捉することもないのだが、いっこ言うとくと、確信の道のなぜ始めっから嘘があって最終的に嘘にしかならないのか何故そう決めつけているのかと思うだろうが、最後に明らかになるように、非確信反確信確信破壊にしかWahrheitが無いという前提でものを言っていたのである。懐疑主義だの脱構築的だの言いたければ言うたらいいが、そういうのが何かを目指しているものであるならば(文系お花畑の有象無象どもの論述に見るように、非常に目指しているよな色んなお花畑をよ)、結局たもとを分かつことになる。こちらは何も目指していないのだから。確信病を丹念に記述しているだけなのだから。そんなのに思想的期待重荷を負わせるのはやめよう。

次に、この記事で見た『悦ばしき知識』断章上の、原因を人間に設定する認知エラーについて述べた文章を見てみたい:

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Wo es eine gewisse Einheit in der Gruppirung giebt, hat man immer den Geist als Ursache dieser Coordination gesetzt: wozu jeder Grund fehlt. Warum sollte die Idee eines complexen Factums eine der Bedingungen dieses Factums sein? oder warum müßte einem complexen Factum die Vorstellung davon präcediren? —

Wir werden uns hüten, die Zweckmäßigkeit durch den Geist zu erklären: es fehlt jeder Grund, dem Geiste die Eigenthümlichkeit zu organisiren und zu systematisiren zuzuschreiben.

Das Nervensystem hat ein viel ausgedehnteres Reich: die Bewußtseinswelt ist hinzugefügt. Im Gesammtprozeß der Adaptation und Systematisation spielt es keine Rolle.

Nichts ist fehlerhafter als aus psychischen und physischen Phänomenen die zwei Gesichter die zwei Offenbarungen einer und derselben Substanz zu machen. Damit erklärt man nichts: der Begriff „Substanz“ ist vollkommen unbrauchbar, wenn man erklären will.

Das Bewußtsein, in zweiter Rolle, fast indifferent, überflüssig, bestimmt vielleicht zu verschwinden, und einem vollkommenen Automatismus Platz zu machen —

Wenn wir nur die inneren Phänomene beobachten, so sind wir vergleichbar den Taubstummen, die aus der Bewegung der Lippen die Worte errathen, die sie nicht hören. Wir schließen aus den Erscheinungen des inneren Sinns auf sichtbare und andere Phänomene, welche wir wahrnehmen würden, wenn unsere Beobachtungs-Mittel zureichend wären und welche man den Nervenstrom nennt.

(Nietzsche, 1888,14[144])

 

(ばらばらな対象が一定のまとまりたちに分化しつつ何かしらの定数を示せば、人間の心や魂みたいものが有ってそうなっていると勝手に妄信してきたものだが、ばかばかしいにも程がある。事象というのは複合的である。それだけでしまいだ。そこから引き出す一定の図式や観念などもそれだけのものにすぎない。それが事象を支配していることになどなる訳がない。まして事象よりも先に有るなどというワケがない。たしかに物事が進行して一定の状態になると、最初から目指すゴールに進んでいたかのように見えはする。が、そこに心のようなものがあるかに思うのは阿呆である。と言うか心や魂や精神といったものには、事象をまとめたり分化分業させたりする能力など別にない。精神とかいう意味不明なものが宿るのが大脳から末梢神経にかけてであるとするなら、こちらのほうがずっと広いのであって、それに対して意識などというものはオマケの付け足しにすぎない。環境に適応順応するという生体生存の一大作業にあって「精神」や意識がしている仕事など何も無い。いま相手している事象や出来事がただの物と見えて同時に心みたいなんがあるようにも見えるのはまあいいとしても、だからといって、1つの実体や基底が2つの面を示しているのだ双貌的なのだなどとホザいてみたところで、分かることなど何も無い。実体や基底や実質、こんなものは、ものを理解する上でクソの役にも立たない。クソのほうが役に立つ。もっかい言うが意識だの心だの精神だのというのは二義的副次的なのである。どうでもいい余計物なのであって、やがてこの世から消えゆく定めにある。来たるべきものは意識など無い機械たる人間だ、それがなおなお人間だとしての話だがな。自分の内面や内的過程を探るのはこれ読唇術にも似ている。形がなくて捉えれなくて何でもない内面というものを捉えるには形ないこともないナニカになんとか喩えるしかないものだが、そう喩えたナニカも現時点の人類水準では知解不能の意味不明なものにすぎず、今のところはそれを仮に活動電位とすることにしている。)

今までの訳の通り内容に一貫性がそんなにかたいがいない文章をむりやりまとまりあるものにしているが、とにかくこういうことが書いてある。そしてここでのまとまりは、事象はあってもその裏の精神や心など無い、原始信仰の呪術観念をやめろボケ、ということであり、生体と神経はあってもそこに有るらしい意識など無いに近い風前の灯火であるということ、物事に心など見るな、そしておまえ自身にも心など見るなバカ、ということである。無いものは無いと言えよう

……といったように、表面的に読んだだけでは言えることになるが、よくよく読むと、この断片は、特に第1段落がドえらい事を言っているようで、つまり、

ヒト認知最大の宿業と言うべきパターン認識

この、一切すべての諸悪と諸不幸と諸誤謬の根源たる生体認知特性を指摘しているようである。これは、「テキサスの名射手の誤謬」「アポフェニア」「パレイドリア」「クラスター錯覚」などとしても解明されてきた認知、本来そこに何も無いはずの事象の複数・集合に一定のまとまり(と特に〈意味〉を含有するまとまり)を認知してしまうという、ヒトはおろか全生存機構に不可欠なのであろうところのしかし誤謬でしかない認知のことである。「ターン認識」でググるとAIとの絡みでの話題がヒットするのは、ヒトがこの轍を機械にも踏ませようとしていること、ヒトがこの認知こそヒト知能の最大の特徴の1つと考えていることの証左なのかも知れない、知らんが。

 

スマイル神隠し(てんとうむChu !)

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