地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェの二重過程理論(システム1とシステム2)(ii)

 

前回の記事から

110番を見る前に、簡潔にシステム1とシステム2の対比をくっきり描いた文章を見ておこう:

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Sonderbar: das worauf der Mensch am stolzesten ist, seine Selbstregulirung durch die Vernunft, wird ebenfalls von dem niedrigsten Organism geleistet, und besser, zuverlässiger! Das Handeln nach Zwecken ist aber thatsächlich nur der allergeringste Theil unserer Selbstregulirung: handelte die Menschheit wirklich nach ihrer Vernunft d.h. nach der Grundlage ihres Meinens und Wissens, so wäre sie längst zu Grunde gegangen. Die Vernunft ist ein langsam sich entwickelndes Hülfsorgan, was ungeheure Zeiten hindurch glücklicherweise wenig Kraft hat, den Menschen zu bestimmen, es arbeitet im Dienste der organischen Triebe, und emancipirt sich langsam zur Gleichberechtigung mit ihnen — so daß Vernunft (Meinung und Wissen) mit den Trieben kämpft, als ein eigener neuer Trieb — und spät, ganz spät zum Übergewicht.

(Nietzsche, 1881,11[243])

 

(人間は客観的に事物や対象をきちっきちっと捉えて冷静に吟味し分配していると思い込んでいるが、そんな仕事なんか、外側前頭前野的なんよりずっと原初的な部分でとっくに出来ていることである。しかもそっちのほうが立派に仕事しよる。人間は己を知り未来を知るという。だがそんなご自慢の認知機構などは生体機構のしょっぼい一部にすぎない。実際ヒト種が一度でも高度で抽象的な意識なぞに従っていたとしたら、とうに絶滅していたことだろうな。高度なほうの意識生活というのが今のように確立されたのはつい先頃のことだ。しかもこれは認知全体の単なるサポートにすぎない。こんなものがヒトの行動を采配していたらこの種は生き残れたものではない。数百万年間、こんなものに出番はなかったんだぞ、理性や知性にはな。あくまでこっちが情動や欲動等々の補助にすぎなかったのであってその逆ではないからな。低次にとどまりもすればかたや高次の思考もできるようになったのは ほんの最近のことだ。まして、低次という分類をして、刹那の快楽にしばられていず市民として♡良識もって生きなくちゃとか未来を設計していかなくちゃとか思えるようになったのは、ヒト全史の中のたった一瞬前のことに過ぎないからな。

見ての通りと言うしかない、現代認知科学の言葉そのものである。当時にこんなこと言っている人が他にいたのだろうか?もし居ない(というか今後見つからない)なら、こういう物言いこそがニーチェの独自性とか「ニーチェ哲学」(←はあ??)とか言わなければならないものである。それ以外のザ・ニーチェ発言!として知られているクソ文言のどれも、何の価値も取り上げる意味も無い。

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言う通り、高度思考形態がふつうになるまでは大変時間がかかった(„langsam“)のであり、それは、登場も遅ければ(„langsam“)この文字ヅラ通り低速(langsam)なのである …… まさにシステム2だ!!それは視野が広く遠謀的で周到なものである(ということが、「Zweck」という語でこの人が言おうとしていることだ)。しかしこれは、働きが遅い。これに頼ると、生体が環境下で生存する上では、ほとんど何の役にも立たず、致命的となるばかりである。成程このように言って、そうして、かかる理性の足を引っぱり災いをもたらす「人間」の「中」の「獣」ガーガー云々的なことを言って描いてウレシガる(もといそんな演技に酔った)中二著作者なら、そんなんなら、ごまんといる。ニーチェがそういった連中と決定的に異なる(のだろう、くわしくは知らん!)点は、人間の中の獣もとい原始人の役割と重要性をはっきり認識し、これがヒトという生物に 理性とは比べ物にならないほど役に立ってきたということをしっかり強調している点である。システム1をシステム1として認識しているのである。こっちのほうがずっと仕事ができる大先輩なのであり本当の主人なのである(中二とお前らバカたちはこの「主人」ということの意味を履き違えて吐き戻して脱ぎ腐らして酔っているのである、おぼえとけ。お前らのセックスアンドバイオレンスは救いようなく浅はかなんだよ ばーか。)

高度で理性的(それは計算(ratio)的で計画的なということだ)な意識生活がふつうになるまでは(„spät, ganz spät“)ヒト史は大部分が原始時代だった。ヒトは原始人としてヒトになったのであり、認知は原始時代に調律されているのであり、今でも一日の大半の意識生活を石器時代生活者として暮らしているのである。そしてそれが、ヒト生体がヒト生体のしての機能を発揮しているということであり、ちゃんと生きれているということであり、健康ということである。健康とは理性から見れば病気そのものなのであり、認知病とバイアスに浸りきること多く深いほど、そういう欠陥人間ほど、健康の定義に適うことになるのである。おもろいだろ。

まあとりあえずクダンの第110番断片のほうを読もか。

Ursprung der Erkenntniss. — Der Intellect hat ungeheure Zeitstrecken hindurch Nichts als Irrthümer erzeugt; einige davon ergaben sich als nützlich und arterhaltend: wer auf sie stiess, oder sie vererbt bekam, kämpfte seinen Kampf für sich und seinen Nachwuchs mit grösserem Glücke. Solche irrthümliche Glaubenssätze, die immer weiter vererbt und endlich fast zum menschlichen Art- und Grundbestand wurden, sind zum Beispiel diese: dass es dauernde Dinge gebe, dass es gleiche Dinge gebe, dass es Dinge, Stoffe, Körper gebe, dass ein Ding Das sei, als was es erscheine, dass unser Wollen frei sei, dass was für mich gut ist, auch an und für sich gut sei. Sehr spät erst traten die Leugner und Anzweifler solcher Sätze auf, — sehr spät erst trat die Wahrheit auf, als die unkräftigste Form der Erkenntniss. Es schien, dass man mit ihr nicht zu leben vermöge, unser Organismus war auf ihren Gegensatz eingerichtet; alle seine höheren Functionen, die Wahrnehmungen der Sinne und jede Art von Empfindung überhaupt, arbeiteten mit jenen uralt einverleibten Grundirrthümern. Mehr noch: jene Sätze wurden selbst innerhalb der Erkenntniss zu den Normen, nach denen man „wahr“ und „unwahr“ bemass — bis hinein in die entlegensten Gegenden der reinen Logik. Also: die Kraft der Erkenntnisse liegt nicht in ihrem Grade von Wahrheit, sondern in ihrem Alter, ihrer Einverleibtheit, ihrem Charakter als Lebensbedingung. Wo Leben und Erkennen in Widerspruch zu kommen schienen, ist nie ernstlich gekämpft worden; da galt Leugnung und Zweifel als Tollheit. Jene Ausnahme-Denker, wie die Eleaten, welche

次回の記事に続く