地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェと脳 (2)

 

前回の記事から

するものであり、その時に有るのは今「感覚」とされているものと寸分違わぬものであって何らかの物理過程が感覚と捉えられているというわけではない。感覚というのは理論的に把握されるものである。記憶やスキームのようなものは大脳のプロセスの1つである。)

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最後に何でこんなこと言うのかこの人に似つかわしくないような一見意味不明なことを述べているが、大筋は4年前の断片と同じことである。感じるということが最終究極のポイント。この意味不目な発言も、同じ1877年春~夏の別の断片を見ると、何を言っているのかが分からないでもないくなる:

Bewusstes Empfinden ist Empfindung der Empfindung, ebenso bewusstes Urtheilen enthält das Urtheil dass geurtheilt wird. Der Intellect ohne diese Verdoppelung ist uns unbekannt, natürlich. Aber wir können seine Thätigkeit, als die viel reichere, aufzeigen. (Es ergiebt sich, dass „Empfindung“ in dem ersten Stadium empfindungslos ist. Erst der Verdoppelung kommt der Name zu. Bei der Verdoppelung ist das Gedächtniss wirksam.) Fühlen ohne dass es durch das Gehirn gegangen ist: was ist das? — Lust und Schmerz reichen nur so weit als es Gehirn giebt.

(Nietzsche, 1877,22[113])

 

(ああいまこういう感覚だなとメタ的に意識することがある。感覚の感覚。同じく、ああいまこういう思考回路がめぐってるなとメタ的に意識することがある。考えてると考える。こういうメタ感覚メタ思考が知的生命体の必須条件である。しかしこいつの本当に持っているものは実はこんなものではない。ちなみに、感覚の瞬間には感覚は感覚ではないだろう。それを意識した時、つまり記憶というものが絡んできたときに初めてそれは感覚になる。脳に生じない感覚とは感覚だろうか。痛覚や快感覚は100パーセント脳内過程である。)

上であれほどまで感覚を原初的真実と定義しておきながら、その身分がだいぶ下がっている。原初的で根源的なら、意識の出番など要らないはずだ。意識されようがされなかろうが感じるはずだ。ところがここでは感覚とはアタマで考えられ捉えられ把握されたもの、言ってよければ一種の認知だとされているようである。(しかも認知生体(der Intellect)の認知能力はこんなもんじゃないぞと言いたげな1文を置いている。)そして、上掲文で、脳に依存しない感覚というものを声高に述べていたかと思うと、今度は、脳内過程を経ないで感ジルということは無いぞと述べている(ようなものである)。

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飛んで1883年冬~1884年このような断片(Nietzsche, 1883,24[10])を書いている。←リンク先記事に引用しているから見てくれ。引用符を使って誰かの言ってることを引用しているような体裁なので書き手自身の立場がどうなのかがはっきりせんのだが、心脳問題を粗雑に片づけないでちゃんと悩んでいるらしいことは伝わる。引用符に入れている「Die Kraftempfindung kann auch nicht aus Bewegung hervorgehen. Empfindung überhaupt kann nicht aus Bewegung hervorgehen」などという文言は自分の書いていたこと(上引用)そのものであり、それに対する形の末尾の「Oh der Übereilung!〔もっとちゃんと考えろ〕」というのは、結局何を言わんとしているのだろうか。

1884年夏~秋の断片に曰く:

Das Nervensystem und das Gehirn ist ein Leitungssystem und ein Centralisationsapparat zahlloser Individual-Geister von verschiedenem Range. Das Ich-Geistige selber ist mit der Zelle schon gegeben.

Vor der Zelle giebt es keine Ich-Geistigkeit, wohl aber entspricht allem Gesetzmäßigen d.h. dem Relationscharakter alles Geschehens nur ein Denkvorgang (Gedächtniß und Schluß)

(Nietzsche, 1884,26[36])

 

(神経系と大脳、これが集中化中枢となって、全身に行き渡っている多層化した無数の自我と心を一点に統御する。精神というのは絶対のものではないどころかカラダのすみずみに無数に分布しているものなのである。細胞1個が1自我だと言える。細胞が誕生して初めて自我とかいうなんか精神的なものが生じる(その中で記憶や推論という認知部分を担当してる連中が接することのできる外界は、区画整理されきった偏った外界にすぎない)。)

物質的器官を特にサゲる述べ方はしていない。また、器官という単なる物質と一線を画する不変な実体、などというトーンも特に見られない。これは言うなれば脳について一言コメントしているだけの文章で、主に主張していることは、自我なり心なりというものが1つこっきりの実体でなくて無数に有るということ、階層化した構造(von verschiedenem Range)のもとに分布していることなのであるが、とはいえ、それを1点に束ねる脳などという言い方(Leitungs-, Centralisations-)から、この器官の重要さがしっかり認識され明言されているようでもある。あってもなくてもいい単なる感覚器官などというような言い方をしていた1873年とは論調が違っている。

よく、脳が特別な思考器官なのではなくて全身の思考を束ねるだけの統御交換中枢だとか言うもので、卑近で卑俗で不潔な例で言うと 例

次回の記事に続く