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ニーチェの認知科学 (3) ~認知の系譜学~

声がかすれるくらい(紅組)

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前回の記事から

のから順番に見て行こう。この記事で見た断片(1883,24[16])の直後の断片に曰く:

Bei der Entstehung der Organismen denkt er sich zugegen: was ist bei diesem Vorgange mit Augen und Getast wahrzunehmen gewesen? Was ist in Zahlen zu bringen? Welche Regeln zeigen sich in den Bewegungen? Also: der Mensch will alles Geschehen sich als ein Geschehen für Auge und Getast zurechtlegen, folglich als Bewegungen: und will Formeln finden die ungeheure Masse dieser Erfahrungen zu vereinfachen. Reduktion alles Geschehens auf den Sinnenmenschen und Mathematiker.

Es handelt sich um ein Inventarium der menschlichen Erfahrungen: gesetzt, daß der Mensch, oder vielmehr das menschliche Auge und Begriffsvermögen, der ewige Zeuge aller Dinge gewesen sei.

(Nietzsche, 1883,24[17])

 

(ヒトも種としての大部分の時間を過ごした時代には自然界に直接身を置いて接していたもので、視覚と触覚にナマに入ってくる情報に接しており、そんな中で事物を数量化したり事象の規則性を探したりしていたというのがあって、それがあったから、今もだが、人間というのは、事象や出来事を主に見るもの触れるものとして捉えてしまうようになっている。見るもの触れるものというのはつまりは動くものであり、これを主に知覚していると、外界との取り組みがイコール運動との取り組み(+数えられるものとの取り組み)に尽きるということになってくる。ここで刻一刻知覚される無数の運動情報に規則性を見出す上で、視覚内容・触覚内容・数という単純で有限なモノに情報を切り詰めるのである。人間の認知を知るには原始時代にどう生きてきたかを知るに限る。それはそういった特定の歴史に収まるだけの特定の生物種のモノであるのにすぎないのであって、それが判れば、ヒト限定の視覚や認知能力に全宇宙の何かを反映する身分などあると言えるだろうかというものである。)

外界認知に関してニーチェが注目するのが特に視覚と触覚であり、認知の発生を特にこの感覚に求めている。そのことだけでも興味深いだろうが、音楽体験に特に心を寄せているこの人が最重要視しているのが聴覚であることが確かであることも考え合わせるとなおさら興味深いものになる。まあそんなことはどうでもいい(「ニーチェ」「芸術」「ワーグナー」…しゃべるなバカ)として、人類が視覚偏向猿であること、視覚と情報処理が近似しているのが触覚であることなどを精確に押さえている。どこでこんなことを知ったのだろうか?ニーチェと「生理学」ウンヌンだのニーチェの「科学」ウンタラードウダーコウダーだのえんえんホザいているだけの役立たずどもは一切参考にならないのだが、誰か研究せえや。

サンダルじゃできない恋(アンダーガールズ)

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Der Glaube an „Affekte“. Affekte sind eine Construktion des Intellekts, eine Erdichtung von Ursachen, die es nicht giebt. Alle körperlichen Gemeingefühle, die wir nicht verstehen, werden intellektuell ausgedeutet, d.h. ein Grund gesucht, um sich so oder so zu fühlen, in Personen, Erlebnissen usw. also etwas Nachtheiliges Gefährliches Fremdes wird gesetzt als wäre es die Ursache unserer Verstimmung: thatsächlich wird es zu der Verstimmung hinzugesucht, um der Denkbarkeit unseres Zustandes willen. — Häufige Blutzuströmungen zum Gehirn mit dem Gefühl des Erstickens werden als Zorn interpretirt: die Personen und Sachen, die uns zum Zorn reizen, sind Auslösungen für den physiologischen Zustand. — Nachträglich, in langer Gewöhnung, sind gewisse Vorgänge und Gemeingefühle sich so regelmäßig verbunden, daß der Anblick gewisser Vorgänge jenen Zustand des Gemeingefühls hervorbringt und speziell irgend jene Blutstauung, Samenerregung usw. mit sich bringt: also durch die Nachbarschaft: „der Affekt wird erregt“ sagen wir dann.

In „Lust, und „Unlust“ stecken bereits Urtheile: die Reize werden unterschieden, ob sie dem Machtgefühl förderlich sind oder nicht.

(Nietzsche, 1883,24[20])

 

(情動というものは存在しない。特定の状態になったときになぜそうなっているのかの犯人探しを意識や知能がやり出す、そうして造られたのが情動といった観念装置である。いま〇〇と感じているのはそれはこんな人が居たからだよそんな事があったからだよと日々刻々犯人探しをしてよるが、これは、体内で起きている無数の生体プロセスから湧き起こった(シロート理解不能の)特定状態を何とか説明しようとしているだけなのである。そんなことをしていると、例えば、何かしら不調な感じがすれば、それの原因と目したいもの(うまくできずよくわからない状況や物事)に原因役をひっかぶせるようになる。それは、自分の正体を分かろうとガンバってる愚かな意識がその不調感に勝手に関係付けただけのものであるにすぎない。いま、人や物が原因になって頭に血がのぼってしまって逼ぱくした感じになりました、それが「怒ってる」と勝手に解釈されてしまいます、というのを見てみよう。この「怒ってる」というのが何なのかと言うと、とにかく理解不能な特定状態(特定の生体プロセスによって起きる)が有ったとして、これに特定の人や物が付随しがち(なだけで原因になっているのではないのだが)だと、両者がいつしかセットになってしまい、その特定の人や物が「怒らせた」ということになってしまう、つまり「怒り」云々というのは事象観察・状態観察の間にデッチ上げられた不要な余計物なのである。情動と同様に快不快もまた理解不能身体状態を勝手に解釈したものである。ついでに言っておくと、情動や快不快を引き起こすモノやこれらのメカニズムをいくら考えあぐねて何か分かった気になったところで、それで身体動作に資するものが得られることなどない。)

推定マーマレード

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原文が著しく混乱した文章だが、この野郎の常なので、何とか意図を汲み取ることにするのだが、ようするに、人や物は居る・生体プロセスは有る→そこに情動を余計にプラスする必要は無いよ、そんなん存在しないよ、ということである。人も物も出来事も状態もぜんぶ言葉でないものだからヒト認知には把握しずらいので「怒り/ってる」などの言葉で「解釈」してしまう、と述べているようである。さすがにメモ断片なだけあって支離滅裂な上に最後段落に別の無関係の話題を持ってきていたりするのだが、それでも大いに聞くべきものがある。誰もがそれを巡って一喜一憂するところの喜怒哀楽というのはただの名前であり名札なのである。体内現象がすべてなのである。自分で自分の体内で起きていることやそれが起こしているものが何なのか分からず、何とか理解しようと努め、挙句、おそらく全然ちがっている状態たちも喜だとか怒だとか悲だとか憎だとかラベリングして、そうして勝手に踊らされているのである。もちろん、この数年後の「ジェームズ=ランゲ説」の先取り(と言うか正確にはシャクター・シンガー理論の情動二要因説の先取りである。

)でもあるが、もっと多くのことを語っている。それは本当に怒っているのか本当に悲しいのか本当に楽しいのか?その感覚は別様にも解釈できるのではないのか?解釈しないのもアリではないのか?なぜ自分を勝手に決めつける?

この時期(1883年冬~1884年)の断片群を見ているついでに次の文章も見ておこう。

Wir finden als das Stärkste und fortwährend Geübte auf allen Stufen des Lebens das Denken, in jedem Percipiren und scheinbaren Erleiden auch noch! Offenbar wird es dadurch am mächtigsten und anspruchsvollsten und auf die Dauer tyrannisirt es alle anderen Kräfte. Es wird endlich „die Leidenschaft an sich“.

(Nietzsche, 1883,24[23])

 

(人生で最もいやというほどやってしまい最も心を占めてしまうものは何かというと、考えるということである。何を感じようともどんな目に合っていようとも、かなの必ずに、考えるということをしている。それがゆえに、人生内のエネルギー定量の大部分が思考に傾注されることになる。最大の燃費を食う。最終的には、突き動かす情念そのものへと実体化してしまう。)

これは思考行為こそが最も尊く価値があると言っているのでは勿論ない。考えるという行為は、個人の内部でやる行為としては、日常のあらゆるどんな局面でも意地でもどうしてもこれでもかとやってしまう(stärkst und fortwährend geübt)行為であり、最も頻繁に繰り返され最も習慣化さ

次回の記事に続く