地上最強のブログ

しばいてくぞ

日記ブログ、始めました (2)

フルーツ・スノウ

フルーツ・スノウ

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

前回の記事から

安生寝床に就いたり、パコパコに出掛ける。その書いてることのソースを少しでも思い出す努力して少しでも出典たどって少しでも知のネットーワクに貢献したらいいのに、おまえは、めんどくさがるんだな。だからお前は文章を書けないだよ。書くことが出てこないんだよ舌が足りないんだよ。そうして今日も、ツイッターでやれと言われるべき短文を書いている。お前は、聞いてもらいたいのかサボりたいのかどっちだ。

さて上々々記リンク先記事で問題にしているように、ついつい物事にレッテルを貼ってしまう。例えば事物IがあるとそれにICというレッテルを貼り、人物IICが居るとその人はIIACなんだと決めてかかってしまい、出来事IIAにはIIABしか結果しないといった定型思考に陥り、IIBという偏狭な定型人生になってしまう。自分のほうが。レッテルを貼られた相手よりも貼ってるほうが人生貧しくなる(何を以って貧しいとか貧困とか言うのかは、多くを語られることはできないだろう)。そうして、例えば職場や校内で何かができない者が居ると、その1つの何かが出来ないだけで、出来ない人という印象を持ってしまい、なんだか万事に無能な者のように思えてしまう。どんな【できない】も常に【今・その件に関しては・この状況下では・できない】といっためっさ限定されたものであるのに、見るほうがレッテル人なら、【できない】しか知覚できないのである。

これは日常とてもよく遭遇する体験で、例えば自分と話すときはどちらかというと朴訥気味でもあるような人が上役的役人的なおそれ多い誰かと話をする時に背筋も堂々と鮮やかに話してしまうアラびっくりなどということなど、あったかも知れない。なくてもいい、似たような例や、似てなくても自分に思い当たる例を思い浮かべてもらったらいい。そうやって読んでくれ。

たしかに或る作業に鈍くさい人が他のどの作業でも鈍くて拙くてましてや会話などまっぴら苦手、ということも多いにある。ただそれなども、自分は鈍くさいものでありそうとして見られるものであるという自分で自分に押し付けている・押し付けさせられてきた自分ステレオタイプに制限されてそうなっているのだということもあるだろう。自分で自分に作ってしまう自分型、個別ステレオタイプ脅威stereotype threat)と言えよう。これは、目立ったものだと幼少期とかから形成されているはずのものなので、これを抱えていると、こやつは《生まれつき》デキナイ遅イ駄目ナ奴ナンダなあと誤って判断されやすくなってしまう。また一方で、成人後なんかに入った社会集団内において、さまざまな外圧により、そこまで深刻内部浸蝕的にとまでは言わないまでも思い込みで出来てしまっているという無能力も、またなんぼでも有る。

そしてたとえ万事にわたり無能であっても、何か1つか数点のことに長じている場合もありうる。それを人に見せる場面がまったく無いだけかもしれない。実はゲーマーかも知れない、いかにも妄想されそうな話だ。いやいや、何モデキナイはずのXさんが突如パガニーニを弾きだしたりするかも知れない。何が起きるかは分からないわな。何が起きるかは分からず、人の中に何が入っているかはお前には決してわからないのであり、最後まで可能性に開かれておいたほうがいいのである。そして、本当に世に有るすべての分野や行動に何もできないらしい人でも、一生触れる機会がなかっただけの行為Pに関して実は天才だったのかも知れない。そう、事実上そうなっているだけのことからすべてのか多くの可能性を推論することは、誰にも永久にできない。

いま有るものから他の有るものを推論できるだけであって、いま無いものの有は、推論も想像もできない。認知とはこのように不均衡なものである。認知は無に弱いいま見えていない・考えにないものにとことん弱く、そこに考えが及ぶことがとんでもなく無い

そこらを行く人の中に何があるかは、いま目の前に見ていない=眼前に有りはしない限りは、どのようにしても、知ることができない。それだけならまだしも、この人はどんなことを出来る人なのか分からないだとか、或いはど

次回の記事に続く

 

アボガドじゃね?し…

アボガドじゃね~し…

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード