地上最強のブログ

しばいてくぞ

我々は「人間」なのか (2)

Unter das Thier hinab. — Wenn der Mensch vor Lachen wiehert, übertrifft er alle Thiere durch seine Gemeinheit.

(Nietzsche, Menschliches, Allzumenschliches I, IX/553)

 

(バカ笑いしてる人間は、動物よりもバカそうである。

ニーチェ

 

前回の記事から

り現実。生体個体がまず何かしら自己産出的にかなんか「考え」て、自己展開かなんかのための対象を見出して、而してこれに「作用」する、などというトップダウン構造妄想など、もう終わってる。そんなん証明もできないし、何なら必要もない。

例えば棒なら、棒がまず使用をアフォードして来る。視認できる目を当アフォードに合わせる(目が無かったら、当アフォードに応じない。以上終わり)。把持できる手を当アフォードに合わせる(手が無かったら、当アフォードに応じない。以上終わり)。振り回せる肩を当アフォードに合わせる(そういう肩が無かったら、振り回しはしない。以上終わり)。棒をヒトがあんなふうこんなふうに使う(使えれる)のは、ヒト側の解剖的都合に加えて、棒サイドの性状に因っている

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ヒト以外なら、棒に、ヒトがしない応対をすることもあろう。それは、ヒトなら思い付くことも考えることも出来ない応対かも知れない。それが低度か高度かは、さんざん言ったように、ヒト側からの一方的主張にすぎない。それどころか、ヒトは棒物体には応えれるが、応えれないものもある。例えば紫外線や赤外線や超音波。水中からの酸素取り込めよアフォードには応えれないし、飛べないから空中からの滑空アフォードにも応えれない。他にもまだまだ有るかも知れない。しかし有っても、ろくすっぽ意識も知覚も出来ない。今の5例のモノとそのアフォードに答える動物とはなんとか見つかっているが、見つかってないアフォード元も見つかってないアフォーダンスももっと無数膨大にあるだろう。人類というアホはそんな膨大の中のせんまい一隅でこそこそやってるに過ぎんのである。そのくせ、事物のニュアンスの無数の襞にまで分け入ってるとかなんとか、詩人だか印象派だかども(といったまたせんまいオツムの大したことない連中)やそのアホファンどもが思い込んだりしてたり、それだけならまだしも、見つかってない可能性もろとも全部地上からおじゃんにしてしまうような兵器だけは造ったりはしよる。アホかボケアホ。そう、このアホには、自分がアフォード対応できているものばかりしか知ることができない。また、自分がやってるアフォード対応とは別様の対応も、想像できない。つくづく、人間というのは万物に対応していると思い上がって来たが、その万物は自分が対応できている限りでの万物に過ぎなかったのである。自分の得意な・自分にできる・自分がモノにしてる事柄や事物がひたすら目に留まり話題にできるだけだという単純所有効果が、ここでも働いているようだ。(ついでに、そんな愚を言い表す文言だけは、胃の中の蛙だとか何とか、御っ大層に作りよるが、てめえ自身がその好例も好例である。自分除外バイアスの奴隷でしかないな。)

よしアフォーダンス理論を牽強付会しよう。生体が、環境に合わす。逆ではない。いま仮にこの合わし方が知能の段階だとする。棒からキーボードから諸概念から楽音から代数からペンからハンドルから建物構造から組織構造から官僚構造から……。これに、生体が、合わせているだけ。そうすると、知能なるものが、生体の内的本質に左右されているものでも、生体側の「生得的」特質から発露流出する何かでもないことになる。つまり、どんな生体でも、環境いかんでは、いろんな振る舞いをし、「知能ある」ように・「高い知能がある」ように見えるふるまいをするのである。応対する対象物によっては、昆虫やロボットが高度な「知能」に基づいているかのような振る舞いをする。もちろん、類人猿も。カケスも。ナナフシも。環境によっては、そうなる見える。ついでに、悲しんでるように見える、社会を築いているように見える、知性あるとしか思えないように見える環境調律行動も有るだろう。となると、動物たちの「知能」も「感情」も「社会性」も、つまりは環境(との遣り取り)がもっぱら作っていたものだったのかもしれない。

ということは、人間もだ。人間のあの活動この行動その情動も、「発見」だか「発明」だかいうくだらねえ何かも、しょせん環境からのアフォードに答えてただけのものだと言えてしまうようなのである(言えるとは言ってない)。そこに、陶酔するほどに高度な自意識は、果たして有るか?要るか?

つまりこうなる:おい人間とかいうボケよ、お前は、本当に「考え」とんのか?

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しかも、お前は自分がしている以外の仕方で考えれ(て)るのか?できないなら、自分がしている以外の仕方で「考え」ている者たちについて黙れや。

それから、その考えるいうの、お前の自慢になる特技じゃないよ。すべてを無視してざっくり言うと、知能や創造力といったアタマデッカチなものがヒトの最高価値と認定されているのも、歴史的偶然だ。昔はそれじゃなかった。もっと「動物的」闘争心だったり、「動物的」集産性だったり、「動物的」服従だったり、してた。近代の心的主体万歳風潮という単なる風潮でヒトのアタマ方面が賛美されてるに過ぎない。

かと言って今までに歴史的にヒト美徳とされてきた特性が本当にそうなのかどうかの生理学的・解剖学的・神経学的があったわけではなかった。しかし現代には有る。どうやらこの種はアタマ動物じゃねえと分かってきている。

ところで、管見の限りでは、アフォーダンスの観点が動物新発見現代科学に取り入れられている気配が無いアフォーダンスから考えると、知能の定義そのものが見直される。動物が実は人間のように賢いとも、いやそもそも「賢い」とも、言えなくなる。そう見える叡知的行動が、対環境的応対行動で、環境に依存しているもので、内部からではなく外部からの所産だったようだ。

かと言ってもちろん人間が動物のように《賢くない》かったのだ話に反対弁護をすることにはならない。まったく逆で、「賢」さというものが妄念されてきたようなものではなかったのだから、この妄念からしたら言わばニセモノだったのだから、動物をサゲても(サゲるとは言ってないし)我々が復権するワケではない。そうではなく、失権したり解体したりするのが知能等の「能力」のほうだというハナシである。別に知能に限らず芸術でも言語でも社会システムでも情緒反応でもいい。すべてブツ操作ブツ使用だが、それはブツ対応であり、すべてがブツ依存である。生体側の絶対的非相対的プロパティの所産でも証左でもない。また、どのように対応しても、それだけのことに過ぎない。そして、自分がやっている対応以外は、どうしても、ようわからん。自分以外は見えようがなく分かりようがなく自分以外は基準にしようがない。だったら黙ってしまえばいいのだが、上述のように人間は問題にする動物である。このクセがあるから黙れない。しかも因果的にはこのクセが先にあって黙らないのではない。

おそらく先に有るのは人間が他生物を搾取したくてたまらん動物ということだろう。まず、搾取がある。まず事実が有る。しかし人は黙れない。物事について何を喋ってもそれは喋りにすぎずどこまでいっても物事自体には当たらないということを容易に忘れ、何かを喋れてると思い為し、理由をつけることが出来ていると思い込む。そもそも、理由というものが存在すると信じている。これは作話というしょう害に近い。動物が劣っているから→搾取するに値するから→搾取する(「している」の誤り)というのは因果の誤謬ですらない無駄口駄弁にすぎないのだが、このリーズニングが正当だと信じ込んでしまう。しょう害であり病気そのものである。

そう言えば、愚鈍な受け付けなどが、よく下手くそな理由付けをやる。受け付けや窓口というのは自分らの組織や操業や規範のことをよく知っているわけでも何かの専門家なのでもなくてそこに座ってるしか出来んのだからそこに居るだけなのであって上手く対応できんならさっさと係りの者につなぐとか自分にはわからないとか降参したらいいのに、多くが、抗議興奮する客に対し、〇〇は斯く斯くだからこうこうなのでと必死に説明し出す。受けて立ち出す。組織を背負い出す。バイト風情受け付け風情テレオペ風情がだ。さっさと上に回せばいいのに妙にガンバり出すのである。認知が麻痺してしまっているのであり麻痺しやすい人種なのだから仕方はないが、そのコネ繰り出す理由付け、実情に合ってもないただの小理屈、何とか弁を立てようとする必死努力、などを今思い出そう。認知が麻痺してるときのしょう害、作話の一種である。(こんなんなる原因として、1つには、客に一生懸命なりすぎてるてのが有る。ようさん並ぶとテンパるレジといっしょだ。客なんてのはもっと突き放したらいいのである。一所懸命かかずらおうとするからアタマ加熱して頓馬な対応してしもて余計怒らすのである。故障機械よろしくマニュアル復唱し出して、さっき言ったことをえんえん復唱し出すのも、むしろ相手を突き放せてないからそうなるのである。一所に懸命のバカになっとる。そして、客というか正確には状況。頓馬というのは状況に埋没頭しすぎてしまっとるのである。俯瞰で見たら、こいつにはこんな応対したらええんやろこの客はようするにこんなこと求めとんねやろと判ることになり、相手の気の済む対応ができるはずである。少なくとも状況に埋め込まれているよりは。)

それは喋るために喋っているだけのことで、理由の付けようがないところに理由を付けようとする病癖で、いやむしろ、理由とは存在しないのであるのに人間が理由を付けようと必死になる動物だそれが時には病気にも昂じるようだと認識させるものである。かくも作話とは有用で示唆的で普遍的な概念なのだが、帰属の基本的エラーがそうであるように狭い分野に閉じ込められている不遇な概念である。是非幅広く応用したいものだ。人間が喋るとき それは作話である。

ここまで言っても人間の知能への信仰とそれがイイモノなんだという信念にしがみつかさせていただきたい阿呆もいらっしゃらさせていただきますだろう。それもまた、無下に責める気はない。ムリもないことだからだ。人間は自分の「賢」さにコダワる病癖があるからだ。思い出せ、お前が会ったどんな奴でも、自分の知識や賢さに関しては一歩も譲ろうとしなかっただろ。これは学校勉強的な方面的なモノが弱い連中にむしろ顕著に観察される。この、頭悪いの烙印が押されやすい(烙印に過ぎず、その「頭」は頭脳の1側面にすぎないのだが)方面で程度の低かった連中ほど、知ッテル知ッテナイにムキになる。この層の人種の会話聞いたことあるやろ。そこでは、いかに相手より自分がオツムが上であるかを相手とみんなに分からせよう示しきかそうと(余裕装いながら)死に物狂いになっており、こいつらは滑稽さではこの人種をはるかに凌ぐ。どうも、バカ系の人でも、いやバカ系の連中ほど、自分が人よりバカでなく人が自分よりバカであることを確証しようと無我夢中の半死半生になるのである。それももっともで、人間がデフォルトで自分のオツムに確証したい動物だからであって、このことに、程度の低い人ほど無自覚だからだ。だから、程度の高い人ほどこの競争に必死にならない。しかし、内心では誰しもが自分が世界で一番クレバーでスマートで物知りだと思いたがっている。そんな動物である人間が、知能にガンコこだわっても、そら無理からぬことである。チーン。

よって、次の者に応答しておいてやってもいい。

うむ、《しかし人間は飽くまでかくも複雑で大規模なことをやってるの!現実を見て!》とお前はネバるかもしれない。よろしい、こっちも倦まず説いてやろう:

  1. それは人間がそうと判断した複雑大規模にすぎない。他生物は他生物サイドとしてはありえへんような驚異的複雑大規模なことをやっているのかも知れない。それは、人間には、人間に閉じこもっている限り、そして閉じこもっているのを止めれないから、永遠に見えない。
  2. また複雑大規模が何かの卓越であること、そもそも「何か」であることも、人間が勝手にそう思っているだけのことで、事柄としてそうであるワケではない。複雑大規模とは別種のスゴいもの驚異的なものが有るかも知れず、しかもそれもまた、人間には知覚できず判定できず想像もできない。隣の別宇宙のことを語ろうとするな。
  3. さらに、いかに人類社会が築いているものが複雑大規模で超絶ネットワーク網で一生かかっても一生が何十個あっても勉強しきれんもんだとしても、それは全体として出てきている結果がそうなのであって、個々人はあくまで大したことしとらん。ヒト個々体の出力や業績や達成や到達は、立派でも他個体と(究極的には)誤差程度にすぎず、立派でなくても誤差程度にすぎない。誰しも、多かれ少なかれの特技持ちうんこ製造機に過ぎない。自分1人がやっていることは、純粋出力値換算上は、大したものではない。そういのが寄り集まって現代の驚異の世界=社会が驚異の様相を呈することになっている。だからこれは「創発」の一種にすぎない。そんなん鉱物でもやっとる。人間は、ただ単に、(もう上で前提根底から反論したのだから取り上げる意味がない)超複雑超大規模の社会や文化、これを創発するような(あんま自分でも分かってない)「能力」に「秀で」ている、この創発をばっちし導けるような各人分業専門特化力が格段すぐれている、というだけである。そして、創発力があんま自分でも分かってなくて、いろんな事や万事をこそ出来ないように個別特殊化していくことが肝要なのなら、お前個人がどんどんすんごくなくなっていくことがヒト全体としてはすんごくなっていくことなのである。そんなにも、個人は大したもんじゃねえ。そのオツムの中など大したものでない。
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