地上最強のブログ

しばいてくぞ

似ているは同じではない~ニーチェ~

 

前回の記事から

 

SKE48 47都道府県全国ツアー~機は熟した。全国へ行こう!~」の新潟公演(2018年2月10日、新潟テルサ神曲揃いの神公演だ。1億字ぐらい言うことがあるが、自分の思い入れで言うと、超々々神曲奇跡は間に合わない市野成美など本当に印象的でドストライクだが、その他にも各曲について色々言いたいがそれを措いて、セットリスト17番の焦燥がこの僕をだめにするが最大一番の神ステージだ。この曲、曲の良さはもう一言も言うまでもないことだが、そして(どのグループのどんな楽曲でもそうだが)曲が良すぎたらそれ相当のパフォーマンスでないと映像にそんなに感銘もしないのだが、それでもともかく一体どんなパフォーマンスなのか観たいものではあって、それにはMVが不出来だからなおさらライブが観れんものかと思うものなのだが、そんな渇を癒すのがこの新潟公演でのステージだ。曲調にぴったり合ったザ・セピア色、文字通り焦げたような色合いの退廃の薄明の壇上、熱く悩ましいダンス(チームKIIの迫力)、まさに懊悩、サビまでの1人1フレーズが最高も最高、最後の1フレーズが古畑奈和というのにはもうブラボー!!!!!!!もの、出演者のチームKIIの8人全員みんな完璧な表情にパフォーマンス、中でも自分は日高優月北野瑠華が特に…

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ョンだということを認識してしまい、刻一刻ちがうものになっているということが理解できてしまい、個体なはずの自分自身がまた無数の小個体で構成されているということも知解できてしまう。その刻一刻の「刻」を細かくしていくとだんだん実在性度が上がっていくが、上がっていくだけにすぎず、実在に出会うことはあくまで無い。無限小の刹那、この一瞬も同じでないぐらいに全てが流転変化している真世界の中の一瞬、一瞬の一瞬、しかしそれはそれだけのものにすぎない。さて、ここまでに、集団というバカフィクションと、個的存在という小ましフィクションと、刹那中の刹那というまあ何とかイケるフィクションの3虚偽を見たが、どれも、娯楽対象にすぎない。)

本シリーズのテーマの「人間」という単位への論駁である。「人間」という生物種が居ることになっているのは、先の引用文で見たのと同じ根拠、「種」というものが居ると錯覚してしまうのと同型の錯覚に因るところである。特定の似たような個体が多数観察されそうでもねえ個体が滅多に観察されず、そうして、「人間」という共有される何かが存在していると誤推論される。そして科学はこれを確定的に定立してしまっているのだが、それと同時に、今までに無造作に有るとされてきた外界がこの生物の生存上の方便であり虚構であることもはっきりと記述してきたと言う。つまり科学は「人間」という虚構を無造作に前提し研究対象にしているのだが、旧来の無造作前提は明確にそのフィクション性を暴いている。このように、科学というものの「功罪」的な「限界」的なものを正確に描写している。時間空間物体から果てはそもそも大きさというもの(Groß- und Kleingefühl)までが実在ではなくてヒトの環境受容様式だとは明らかにし、かつ「人間」というフィクションは自明前提していざるを得ない。それが科学だと、述べている。

後半に当たる文章では、平均的個体(Uniformität der Empfindung, Normalgeschmack)と逸脱(Idiosyncrasie)との拮抗関係を論じているが、「種」が虚構なのなら個の傾向を進めていく(idiosyncrasisch[ ], Individualisirung)と「人間」フィクションから実在に近付いていくといくのかというと、そうでもない。繰り返すが、「種」が居るという判断は、似たようなものを多数観察した上での誤推論である。似ているというのは似ているというだけのことにすぎず、そこから「同」じ何かが居るという話までは実は飛躍しかない。

Das Ähnliche ist kein Grad des Gleichen: sondern etwas vom Gleichen völlig Verschiedenes.

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(Nietzsche, 1881,11[166])

 

(「似」は「同」の親戚ではないからな。両者はまったくの別物だぞ。)

と言っているように、「似」ているものがいくら得られようとそれはそれだけのことにすぎず、そこからは、何かと「同」じ何かが存在しているという事には永遠に至らない。前者はただの観察内容。後者は純然たる虚無。似ているは同じではない。小熊倫実と浅井裕華、向田茉夏福岡聖菜朝長美桜坂本愛玲菜、黒見明香と後藤楽々が似ていても、もちろん別人である。よって「同」じ個体たちという意味での「人間」というモノは、どだいフィクションでしかありえない。では個体たちはフィクションではないのかと言うと、いやキメ細やかフィクションなのである。事象を「人」「〇民」にまとめるのが大ざっぱな虚構なら、それより小さな単位に事象をまとめるのは小ざっぱな虚構である。程度差問題にすぎない。その「個」人だってもっと細かく分かれる。分離脳でも体内細菌でも何でもいいが人体は分割可能だしもともと多数生物から構成されているものだ。また意識で言えば19:28の時の意識内容と20:21の時の意識内容は違うのだからその分若干は「違」う自分だし〇年スパン〇十年スパンで見たら自分など複数の別人だ。つまり「個」と言い出してもその「個」もどこまでも分けれる。それもまた程度問題の線上のどこかに位置する点にすぎない。では最終分割地点までいけば実在が出てくるのかと言うと、いやもちろん程度差問題の圏域を出ない。最小刹那は最も実在に近付いてはいるだろうが、近付くことは着くことではない。「似」ていけばやがて「同」じになるのではないのと同様。だから「人間」だろうと自分だろうと自分が輝く瞬間の生だろうと、全部フィクションであり錯覚の虚構である。現実はいかなる自分も何も「何」もそれも「それ」もこれも無い、すべてがすべてとただ違い合うだけの絶対差異の唯変化の流転でしかないのだから。

といったニーチェの世界「観」だが、それではこの人にとって時間とはどのようなものだろうかと言うと、例えば次のようなものがある:

Dem wirklichen Verlaufe der Dinge muß auch eine wirkliche Zeit entsprechen, ganz abgesehn von dem Gefühle langer kurzer Zeiträume, wie sie erkennende Wesen haben. Wahrscheinlich ist die wirkliche Zeit unsäglich viel langsamer als wir Menschen die Zeit empfinden: wir nehmen so wenig wahr, obschon auch für uns ein Tag sehr lang erscheint, gegen denselben Tag im Gefühl eines Insekts. Aber unser Blutumlauf könnte in Wahrheit die Dauer eines Erd- und Sonnenlaufs haben. — Sodann empfinden wir uns wahrscheinlich als viel zu groß und haben darin unsere Überschätzung, daß wir ein zu großes Maaß in den Raum hineinempfinden. Es ist möglich, daß alles viel kleiner ist. Also die wirkliche Welt kleiner, aber viel langsamer bewegt,

次回の記事に続く

 

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