地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など過剰一般化にすぎない

 

前回の記事から

Es ist ein falscher Gesichtspunkt: um die Gattung zu erhalten, werden unzählige Exemplare geopfert. Ein solches „Um“ giebt es nicht! Ebenso giebt es keine Gattung, sondern lauter verschiedene Einzelwesen! Also giebt es auch keine Opferung, Verschwendung! Also auch keine Unvernunft dabei! — Die Natur will nicht die „Gattung erhalten“! Thatsächlich erhalten sich viele ähnliche Wesen, mit ähnlichen Existenzbedingungen leichter als abnorme Wesen.

(Nietzsche, 1881,11[178])

 

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(種の保存のために個体が犠牲云々などと言い出す奴がかならず出てくるが、そんな事実はどこにも無いからな。そんな「ために」は「ために」の文法まちがいだ。ってかそもそも「種」など無い。存在しているのは個々体だけだ。当然それの「犠牲」も何も無い。一体どんだけ理不尽に生き物がわんさか死のうが、それは「理不尽」なのではない。自然界で種が保存されることなど無い。では何が起きているのかと言うと、自然界では、無数の個々体のうち、平均を行く個体たちほど存続しやすく、平均から外れていて類似個体の少ない例外的個体たちほど存続しにくくなっている、そういう個体生存傾向が存在しているだけだ。)

つまり、逸脱体が目立たなく種の典型個体が圧倒的に目立てば、あたかも何らかの「種」が存在しそれが「保存」されているかのような印象を与える。その「種」らしくないものが見えにくく、如何にもその「種」らしいものばかりが観察されれば、そこに「種」というものが有るかのように錯覚してしまいはする。しかし、だからと言って、起きていることはこれだけなのであって、特定の個体たちが存続しやすく別の特定の個体たちがそうでもねえというだけのことであって、これでもってして即ち種というものが実在しているなどということは、誰にも言えないのである。そう、「種」が有るというのは錯覚もとい認知の行き過ぎなのであり、言うなれば、「過剰な一般化」(overgeneralization)なり「早まった一般化」「軽率な概括」(hasty generalization)なりといったものに近い認知エラーであるとも言える。

つまりここでもやはりニーチェが現代認知科学的なことを述べている。この人が生物や「種」や「生」や「ダーウィニズム」やなんやかやについて発言していることは知られているが、それは、アホたちがすぐ期待するような、博物学的というのかどうにも文系科学的で思想科学的な似非知性の態度によるのではなくて、事象を全か無か個か種かと抽象図式から見るのでなく傾向と統計と確率から見るという20世紀後半以降(なのだろう。知らん!!!!)的な科学の態度によっているのである。

さて話の当否はさて措き(と言って措きっぱにするんだが)、種と言えばヒト種、本シリーズでずっと見てきている「人間」という単位の否定だが、これに関した次の断片を見ておこう。

Im Grunde ist die Wissenschaft darauf aus, festzustellen, wie der Menschnicht das Individuum — zu allen Dingen und zu sich selber empfindet, also die Idiosyncrasie Einzelner und Gruppen auszuscheiden und das beharrende Verhältniß festzustellen. Nicht die Wahrheit, sondern der Mensch wird erkannt und zwar innerhalb aller Zeiten, wo er existirt. D.h. ein Phantom wird construirt, fortwährend arbeiten alle daran, um das zu finden, worüber man übereinstimmen muß, weil es zum Wesen des Menschen gehört. Dabei lernte man, daß Unzähliges nicht wesenhaft war, wie man lange glaubte, und daß mit der Feststellung des Wesenhaften nichts für die Realität beweisen sei als daß die Existenz des Menschen bis jetzt vom Glauben an diese „Realität“ abgehangen hat (wie Körper Dauer der Substanz usw.) Die Wissenschaft setzt also den Prozeß nur fort, der das Wesen der Gattung constituirt hat, den Glauben an gewisse Dinge endemisch zu machen und den Nichtglaubenden auszuscheiden und absterben zu lassen. Die erreichte Ähnlichkeit der Empfindung (über den Raum, oder das Zeitgefühl oder das Groß- und Kleingefühl) ist eine Existenzbedingung der Gattung geworden, aber mit der Wahrheit hat es nichts zu thun. Der „Verrückte“, die Idiosyncrasie beweisen nicht die Unwahrheit einer Vorstellung, sondern deren Abnormität; es läßt sich mit ihr nicht für eine Masse leben. Es ist der Masseninstinkt, der auch in der Erkenntniß waltet: ihre Existenzbedingungen will sie immer besser erkennen, um immer länger zu leben. Uniformität der Empfindung, ehemals durch Gesellschaft Religion erstrebt, wird jetzt durch die Wissenschaft erstrebt: der Normalgeschmack an allen Dingen festgestellt, die Erkenntniß, ruhend auf dem Glauben an das Beharrende, steht im Dienst der gröberen Formen des Beharrens (Masse Volk Menschheit) und will die feineren Formen, den idiosyncrasischen Geschmack ausscheiden und tödten — sie arbeitet gegen die Individualisirung, den Geschmack, der nur für Einen Lebensbedingung ist. — Die Gattung ist der gröbere Irrthum, das Individuum der feinere Irrthum, es kommt später. Es kämpft für seine Existenz, für seinen neuen Geschmack, für seine relativ einzige Stellung zu allen Dingen — es hält diese für besser als den Allgemeingeschmack und verachtet ihn. Es will herrschen. Aber da entdeckt es, daß es selber etwas Wandelndes ist und einen wechselnden Geschmack hat, mit seiner Feinheit geräth es hinter das Geheimniß, daß es kein Individuum giebt, daß im kleinsten Augenblick es etwas Anderes ist als im nächsten und daß seine Existenzbedingungen die einer Unzahl Individuen sind: der unendlich kleine Augenblick ist die höhere Realität und Wahrheit, ein Blitzbild aus dem ewigen Flusse. So lernt es: wie alle genießende Erkenntniß auf dem groben Irrthum der Gattung, den feineren Irrthümern des Individuums, und dem feinsten Irrthum des schöpferischen Augenblicks beruht. 

(Nietzsche, 1881,11[156])

 

(科学が観察するのは「人間」のふるまい、種としてのヒトの外界知覚・自己知覚であって、個々のヒトについて何かを言うわけではない。個々の個体の個々の逸脱を捨象して、集団全体の一定の傾向を定式化する。そこでは事実についてではなくてひたすら人間について何かが分かるだけだ、それも生命史上ヒトが居た期間だけ限定。だから科学とはフィクション制作作業なのであって、コトが何デアルかの追求ではなくて、コトが何であったら気が済むか、何が「人間」だとしておくべきなのかの合意取り付け合議をやっているにすぎない。それで明らかになったことと言えば、「人間」を科学的に定義する上ではこれまでの定義のどれもが不適切だということ、人間にとって世界とは人間にとっての世界でしかないということ、物体だの時間だの物質だの言う「現実」を虚構していないと生きていけない奴らが人間だということである。してみると、科学がしていることは、ヒト猿がしてきたことの延長、虚構し仮構するということだということになる。特定の仮構物を実在だと思い込むようにし、フィクションの外部を抹殺してしまうことだ。ヒト個々体が「同じ」種として時間空間物体を共有している1つの種だ云々ゆうのは、ヒトが存続していくために不可欠な、しかしひたすらフィクションたるところのフィクションであり、現実とは一切まったく関

Dear my teacher(チームA Ver.)

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係がない。フィクションに参加できない個体が集団からいかに逸脱しようと、それは逸脱しているというだけのことであって、何か間違ったことやしてはいけないことをしているのではない。集団と折り合わないというだけのことだ。こういったことでも、大勢多勢の量塊がハバを利かせているだけのことであって、何が真で何が偽かが客観的に証明されたりなどしているわけではない。生物集団の認識能力は生存し存続するために何が都合がいいかということだけをただ嗅ぎ分ける。個々の構成員が何を共有したらいいのかを共同体や宗教や決めていたのなら、現代ではそれを科学が決めている。何が「ふつう」で何がジョーシキかをだ。自分たちの世界が永続すると認知に刻印している集団、こいつらが用があるのは全体的傾向であり大体のところであり大まかなものである。そういうのが、「人」だの「国民」だの「人類」だのといったものだ。こんな大づかみで物事を理解したくはないと思えば、たちまち村八分に遭い殺処分されるのみである。少しでも自分のみで・自分らしく・自分だけであろうとする傾向は殺されなければならないのである。個人とは病気であり集団の敵なのである。そしてどちらも傾向にすぎない。集団か個人か、しかしどちらも実在はしないフィクションだ。種が粗雑なフィクションなら、個は手の込んだフィクション。個にとっても集団は敵であり、そうだから、自分にしかなく自分のためにだけなるもの、自分の居場所を追求するしかないことになる。そうやって上に立とうとするのだが、ところが、現実では、そんな個というのは個たる個でなく不変ではなく不変のものを持つこともない。集団というバカよりは多少カシコいぶんだけ、そもそも自分自身がフィクシ

次回の記事に続く