地上最強のブログ

しばいてくぞ

文系バカたちからニーチェを救出しよう

 

前回の記事から

強がり時計

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Die Forderung einer adäquaten Ausdrucksweise ist unsinnig: es liegt im Wesen einer Sprache, eines Ausdrucksmittels, eine bloße Relation auszudrücken… Der Begriff „Wahrheit“ ist widersinnig… das ganze Reich von „wahr“ „falsch“ bezieht sich nur auf Relationen zwischen Wesen, nicht auf das „An sich“… Unsinn: es giebt kein „Wesen an sich“, die Relationen constituiren erst Wesen, so wenig es eine „Erkenntniß an sich“ geben kann…

(Nietzsche, 1888,14[122])

 

人間の認識構造というものをブツに即して考えてみよう。人間には、自分が思っているのと違って、「精神」など無いし、考えるとか意識あるとか、他に知情意だとか痴情医だとか心だとか魂だとか、そんなものも無い。こんな虚構をデッチ上げて物が言えていた時代ではなくなっている。抽象的無難透明にスル知る見る考える「主」体が有ってその「対象」が有ってという構造など、この世のどこにも無い。では人間の認知は本来どうなっているのか、この動物が何をしているのかと言うと、定まった任意の一定方向や・自分の気に入る傾向や・自分の納得が納得できるモノを見つけてその中に断固閉じ籠もるということをしているのである。想定できる同一のことが起き続けるという中でのみ、見て聞いて触ってした経験たちを蓄財する。こういった構造をした認識というものの中で重要なものは飽くまで生存上の力関係である。認識とは勝つための武器道具である。いいだろうか、何かが〇〇デアルと知ることは、何かが好ましいだとか良いだとかいうこと(以上知情意)と同様、ひたすらヒト種に関することなのであり、生物学的問題である。現実に関して自分にワカること・自分に適合するもの・自分がすでに知っていて含んでいることという自分事を飽きもせずえんえん繰り返していって生長していって自分の構造が構造化されていくこと、これが認識というものの正体である。大脳や神経系がしたいことは生体の保存と生長増大なのであって、無色透明な真偽決裁感情だの中立公正な抽象思考など、どこにも存在していない。勝ち負けの上で使い物になるかならないかがコトの要諦のすべてだ。だから、もっと知りたいとか認識を深めたいとかいうのはもっと勝ちたいとかチカラが欲しいとかいう事に他ならないことになる。知るというのは勝ちを占めるということであり支配するということである。こういった認識認知の実相を知らずにぺらぺら喋っているのが幼稚な科学ごっこの純朴な見方である。純朴素朴に、見て触ってしている日常経験から物ノ運動という虚構を導出してきて、純朴素朴に、お前たちの小理屈さかしら原子運動乃至運動原子という虚構を導出してきているのである。こういうのは認知と言語に埋め込まれてたプログラムなのであって誰もここから逃れられない。すべては言語や心理構造の都合のモンダイである。世界そのもののナマの事実や世界そのもののそのままの姿を描くことなど出来ないしありえないからそんなん夢見るだけ無駄である。事物の真偽というものも考えるだけ無駄である。ヒトという特定の生物種にとっての真としておきたいもの偽としておきたいものがあるだけである。と言って「ある」という訳にも本当はいかず、有るものなどというものも無い。《事物が認知に〇〇〇〇》の「に」だけが有ると思ったほうがいい。だから、事物を認識するということもそれだけで有ることなどない。そういうふうに言葉の上で・名詞として独立した単位になっているだけのもののように現実上のものも独立した単位になっているなどど勘違いしてはならない。)

ポニーテールとシュシュ

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相対主義や非存在論が極まっていると考えられる1888年には見るべき断片がごろっごろしている。つまりはキリがないことになるから、あと数点引用するに留める。1888春~夏の断片群に移ると、たとえば次のようなものがある:

Alles Furchtbare in Dienst nehmen, einzeln, versuchsweise, schrittweise — so will es die Aufgabe der Cultur. Aber bis sie stark genug dazu ist, muß sie es bekämpfen, mäßigen, verschleiern, unter Umständen verfluchen und vernichten. Überall, wo eine Cultur ihr Böses ansetzt, bringt sie damit ein Furchtverhältniß zum Ausdruck: ihre Schwäche verräth sich. An sich ist alles Gute ein dienstbar gemachtes Böse von Ehedem.

(Nietzsche, 1888,16[4])

 

(文明や文化の進歩というのは、と言うか何でそういうものが有るのかと言うと、これは、人間が、コワイものや得体の知れないものを使い物になるようにしようとする営みである。そうするには複雑高度に発展した状態でないとできないが、そこまでの間には、自然の中にある得体の知れない怖いものというのは、なだめすかして・誤魔化して・抹殺して・悪者に仕立てて、そうやって、屈服させるしかないものであった。こういう歴史を歩んできたことに因り、社会にとって恐怖心につながるものはすべからく「悪」いものであると断定する習慣が身に付いてしまった。つまり怖がる時には弱がっているのであり、何かが悪いものと判断するときには弱さを晒しているのである。(現時点で良(よ)いもの・イイものとされているものは良(よ)いもの・イイものにされただけのものである。始めからよかったものなど、無い。悪いものがイイものに作り替えられてきたのである。))

Dies giebt einen Maaßstab ab: je furchtbarer und größer die Leidenschaften sind, die eine Zeit, ein Volk, ein Einzelner sich gestatten kann, weil er sie als Mittel zu gebrauchen weiß, um so höher steht seine Cultur. Umgekehrt: je mittelmäßiger, schwächer, unterwürfiger und feiger — tugendhafter — ein Mensch ist, um so weiter wird er das Reich des Bösen ansetzen. Der niedrigste Mensch muß das Reich des Bösen (das heißt des ihm Verbotenen und Feindlichen) überall sehn. —

(Nietzsche, 1888,16[5])

 

(或る時代の傾向なり、個人や文化がどの程度のものかというのを測る上で、その社会でどれだけの変転や激動が体験されたか、それらが如何ほど積極的に社会の糧とされたか、というのを見るとよい。ということは、個人がショボくて低級で卑屈なままだと、つまりモラルや良識に敏感なままだと、その社会では、原始社会に引き続き、悪しきものとか邪悪なものとか悪の枢軸とか隣国の脅威とかいうホザき続けることになる。ワルイモノというのは人間が勝手に見るもの感じるものであるが、それは、能力が無いほど・物を知らないほどそうしてしまうのである。)

悪というのが、程度の低い人間が必要としこれでもって世界を認識したがるもの・こういう人間に内在するものと捉えられている。こういうものは、原始人的認識段階から遠くなく、例えば「信頼社会」の信頼に欠如しているものと言える。どう考えても、一種の認知欠陥である。

恐怖対象を排除し異質なものを既知の自同とアイデンティティに併合する行動型、こういったことについて発言しているのだが、すぐに社会思想的な制度考察的な支配権力論的なゴテゴテの文系漢字語議論に押し込めてしまわないで、そんな風にニーチェを定式化平板化してしょうもなくしてしまわないで、まず人間動物の行動学的行動パターン考察として読んだほうがいい。

また、言葉の端々がどうしても怯懦者や書斎者や青白者を蔑視しているように見えなくもなく、ついつい《強者》をたたえた《人生哲学》的なものとカン違いされてしまい、犯罪や暴力や戦争や喧嘩を実行できるかこれに走るしかノウのない層やこれにわくわくするアホたちに賛歌を送る人と間違われてしまうのだが、大間違いのド曲解である。別に戦闘力やDQN力や破滅力やアナーキー力のことで強い弱いとか言っているのでは全くない。そうではなくて、人類なら・人間なら・世間なら・「みんな」なら皆やるような思考を全部やめてみろ払拭してみろ転覆してみろそれに耐えれるかと述べているのである。人間の認識構造をやめれるかと、つまりは人間やめれるかというぐらいのことを問題にしているのである。そうと思っていること信じていることの全部が間違っていたと知って捨てて去れるかと問うているのである。それぐらいのことが試されているのである。チンケに「行動」に走るとか肉体的な何やかやで何やかややってみるとかいう幼稚な手合いには何も分からない。

1888年7~8月に移ると、後世の受容と解釈と研究、いや別にそれだけに留まらず後世の知というもの一般の大きな傾向や目標や旗印や合言葉をコキ下ろすような文言が見つかる:

Zu: der Wille zur Wahrheit

1. Satz. Die leichtere Denkweise siegt über die schwierigere — als Dogma: simplex sigillum veri. — Dico: daß die Deutlichkeit etwas für Wahrheit ausweisen soll, ist eine vollkommene Kinderei…

2. Satz. Die Lehre vom Sein, vom Ding, von lauter festen Einheiten ist hundert Mal leichter als die Lehre vom Werden, von der Entwicklung

3. Satz. Die Logik war als Erleichterung gemeint: als Ausdrucksmittel, — nicht als Wahrheit… Später wirkte sie als Wahrheit…

(Nietzsche, 1888,18[13])

次回の記事に続く

 

ぐにゃっと曲がった

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