地上最強のブログ

しばいてくぞ

おまえの思ってるのはニーチェではない (5)

 

前回の記事から

とである。人間が純正社会動物で他者依存動物で他人共存動物であること、現代断固はっきりするようになっている知見をはっきりと理解しているニーチェ思想に、孤高の山上賢者や思想の絶境仙人のようなものを勝手にイメージし期待するのはやめにしたいものだ。

お前がニーチェと思っていた(る)ものは、ニーチェでも何でもない。

ちなみに1881年代に戻ると、ニーチェ認知科学として知られている記憶論が1つ見つかるが、これがどれほど現代科学的な考察であるか、どれほどお前らのニーチェ思想とカケ離れた文章であるかを見てみろ(1881年春~秋の断片):

期待していない自分

期待していない自分

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Unser Gedächtniß beruht auf dem Gleichsehen und Gleichnehmen: also auf dem Ungenausehen; es ist ursprünglich von der größten Grobheit und sieht fast alles gleich an. — Daß unsere Vorstellungen als auslösende Reize wirken, kommt daher, daß wir viele Vorstellungen immer als das Gleiche vorstellen und empfinden, also auf dem groben Gedächtniß, welches gleichsieht, und der Phantasie, welche aus Faulheit gleich dichtet, was in Wahrheit verschieden ist. — Die Bewegung des Fußes als Vorstellung ist von der darauf folgenden Bewegung höchst verschieden!

(Nietzsche, 1881,11[138])

 

(記憶というのがどんな作業をしているのかと言うと、受け取った種々雑多な外界情報を均一の平らにナラしてしまって原型を潰してしまうというものである。だからゆうたら物をまともに見ないということが記憶ということである。心というのはこういう仕組みが大好きなのである。内心の思いやイメージがそれなりの存在感を持つには、色々なものというものであるわけにいかず、前のや後のと同じもの同一のものと思えるものでないといけない。そんな定型のおんなじものであるときに心の中のものは存在感を持てる。記憶から/が取り出すものというのは粗雑に均されて同じものに見えてしまうものたちであり、同じもののように虚構されてしまったものたちである。記憶システムがコ〇してしまう様々な情報や心中イメージやといったものは、本当は、とりとめなく色々なものであり他と異なりまくっているものなのである。現に、例えば歩いているところなんかを思い描くと、毎回同じ脚の動きや手の振りや云々というものとしてイメージしてしまうだろうが、いや、現実では、今の1歩と次の1歩はとんでもなくまったく別のモノなのである。)

というのは、まずは記憶システムの解説であってそれ以外に勝手に文系チックに色を付けて日本ニーチェ語に訳してはならない文章であるが、とはいえ、そこまで即物的一貫なものでもないこともあって、ここには、同一性という暴力を批判しているスジもうかがえなくもない。

言うまでもなく、そしてこれはさすがに広く知られている通り、ニーチェは《相対主義》の人である。それがどれだけかと言うと、どんな価値でもどんな善悪でもどんな知でもどんな世界でもありえたという宇宙論規模のものである。まずこういう実感があって、而してそれから(逆ではない)、キリスト教という特定の一宗教がそんなに絶対なものではないという《批判》をし出すのである。それは、アホたちがカン違いしてしまっているようにキリスト教を間違ったものだと言いたい(何という幼稚な願望だ)からそうしているのでは全くない。絶対と公称しているから、相対化したのである。特にキリスト教に詳しい(牧師家だ)から、これを俎上にのぼしたのである。儒教イスラム教の専門家だったならこれらの宗教で道徳系譜論を書いていただろう。ただキリスト教をモデルケースにしているにすぎない。その際に特にキリスト教の戦略を極めて特殊なものとして描いているが、それは当たり前で、あらゆる宗教が極めて特殊なのであり特殊な戦略を駆使しているのである。ただそれらには特に詳しくはなかっただけである。キリスト教ユダヤ人の特異性について詳述しているのは、それを熟知していたから・身近にあったからというだけに過ぎない。

ということで、くれぐれも言っておくが、

お前らの勝手な願望をニーチェになすりつけるのはやめような。

そしてそうしてきた歴史とそうしている現状をええ加減反省しような。

 

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さて年代を戻った分下ってみよう。1884年代の断片群から、特に狙いすまして選び抜いたわけでもなくふと拾っただけの文章(1884年の断片):

Zur Psychologie.

1. Jedes „ethische“ Gefühl, das uns zum Bewußtsein kommt, wird vereinfacht, je mehr es bewußt wird d.h. es nähert sich dem Begriff an. An sich ist es vielfach, ein Zusammenklingen vieler Töne.

2. Die „innere“ Welt ist unfaßbarer als die äußere: das Miterklingen vieler Obertöne läßt sich durch die Musik deutlich machen, die ein Abbild giebt.

3. Damit in einer mechanischen Weltordnung etwas gewußt werden kann, muß ein Perspectiv-Apparat da sein, der 1) ein gewisses Stillestehen 2) ein Vereinfachen 3) ein Auswählen und Weglassen möglich macht. Das Organische ist eine Vorrichtung, an welcher sich Bewußtsein entwickeln kann, weil es selber zu seiner Erhaltung dieselben Vorbedingungen nöthig hat.

4. Die innere Welt muß in Schein verwandelt werden, um bewußt zu werden: viele Erregungen als Einheit empfunden usw. Vermöge welcher Kraft hören wir einen Akkord als Einheit und noch dazu die Art des Instrumentklanges, seine Stärke, sein Verhältniß zum Eben-Gehörten usw.?? Die ähnliche Kraft bringt jedes Bild des Auges zusammen.

5. Unsere fortwährende Einübung von Formen, erfindend, vermehrend, wiederholend: Formen des Sehens, Hörens und Tastens.

6. Alle diese Formen, welche wir sehen, hören, fühlen usw. sind nicht vorhanden in der Außenwelt, welche wir mathematisch-mechanisch feststellen.

7. Meine Vermuthung, daß alle Eigenschaften des Organischen selber uns deshalb aus mechanischen Gründen unableitbar sind, weil wir selber erst antimechanische Vorgänge hineingesehen haben: wir haben das Unableitbare erst hineingelegt.

8. Vorsicht, das sehr Complicirte nicht als etwas Neues zu behandeln.

(Nietzsche, 1884,25[336])

 

(今日の心理科学。イイワルイの感情が単純にイイワルイであることなどない。はっきりしていればいるほど、イイワルイの感じは実は情緒ではなくて理屈屁理屈である。実際、イイとかワルイとかいうのは、とてつもなく複雑に色んなものが組み合わさった感情なのである。内面というのは外界よりも判りやすく明白なのではない。数々の倍音から成っている複雑物である。事物を認識できるのは、特定の認識しかできない認識マシンであるからであり、やっていることは、静止画作成・画素数圧縮・編集と削除、である。そうして毎度世界から決まりきったものが切り取られるのだが、これが有機生命のすることであり、意識はこういう所にしか宿れない。内面という所には無数の諸興奮状態があるのだが、ぜんぶが1つ物に単純化されて意識される。内面で鳴っている各楽器の各和音の各部分が全部、捨象され単純化され、1個の音としてだけ聴こえるようになってしまう。こういうのは、視覚情報の脳内処理と同じことである。いや聴覚情報も触覚情報も同じことで、決まりきった形態に加工されて量を調整されて増産されて意識されるのみである。味にも音にも色にも形があり、形を捉え形に生きるのだが、こういう誰もよく知る様々な形というものたち、物理学的に捉えた外界には金輪際まったく存在していないからな。物理学的物々的に言えば、生体というのは不可知そのものである。人間には非科学的な世界しか受け容れられない。人類は非科学から出発したのである。だからちなみに、どれほど驚異的なものに出会っても、それは今さら驚異的に思えただけのものなのであって、元々世界は驚異的に複雑不可知なのである。)

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次に1885年代に目を移すと、例えば次の断片が見つかる(1885年6~7月)。

Der Gedanke ist in der Gestalt, in welcher er kommt, ein vieldeutiges Zeichen, welches der Auslegung, genauer, einer willkürlichen Einengung und Begränzung bedarf, bis er endlich eindeutig wird. Er taucht in mir auf — woher? wodurch? das weiß ich nicht. Er kommt, unabhängig von meinem Willen, gewöhnlich umringt und verdunkelt durch ein Gedräng von Gefühlen, Begehrungen, Abneigungen, auch von andern Gedanken, oft genug von einem „Wollen“ oder „Fühlen“ kaum zu unterscheiden. Man zieht ihn aus diesem Gedränge, reinigt ihn, stellt ihn auf seine Füße, man sieht, wie er dasteht, wie er geht, Alles in einem erstaunlichen presto und doch ganz ohne das Gefühl der Eile: wer das Alles thut, — ich weiß es nicht und bin sicherlich mehr Zuschauer dabei als Urheber dieses Vorgangs. Man sitzt dann über ihn zu Gericht, man fragt: „was bedeutet er? was darf er bedeuten? hat er Recht oder Unrecht?“ — man ruft andere Gedanken zu Hülfe, man vergleicht ihn. Denken erweist sieh dergestalt beinahe als eine Art Übung und Akt der Gerechtigkeit, bei dem es einen Richter, eine Gegen-Partei, auch sogar ein Zeugenverhör giebt, dem ich ein wenig zuhören darf — freilich nur ein wenig: das Meiste, so scheint es, entgeht mir. — Daß jeder Gedanke zuerst vieldeutig und schwimmend kommt und an sich nur als Anlaß zum Versuch der Interpretation oder zur willkürlichen Festsetzung, daß bei allem Denken eine Vielheit von Personen betheiligt scheint —: dies ist nicht gar zu leicht zu beobachten, wir sind im Grunde umgekehrt geschult, nämlich beim Denken nicht an’s Denken zu denken. Der Ursprung des Gedankens bleibt verborgen; die Wahrscheinlichkeit dafür ist groß, daß er nur das Symptom eines viel umfänglicheren Zustandes ist; darin daß gerade er kommt und kein anderer, daß er gerade mit dieser größeren oder minderen Helligkeit kommt, mitunter sicher und befehlerisch, mitunter schwach und einer Stütze bedürftig, im Ganzen immer aufregend, fragend — für das Bewußtsein wirkt nämlich jeder Gedanke wie ein Stimulans —: in dem allen drückt sich irgend etwas von unserem Gesammtzustande in Zeichen aus. — Ebenso steht es mit jedem Gefühle, es bedeutet nicht an sich etwas: es wird, wenn es kommt, von uns erst interpretirt und oft wie seltsam interpretirt! Man denke doch an die uns fast „unbewußte“ Noth der Eingeweide, an die Blutdruck-Spannungen im Unterleibe, an die krankhaften Zustände des nervus sympathicus —: und wie Vieles giebt es, wovon wir kaum durch das sensorium commune einen Schimmer von Bewußtsein haben! — Nur der anatomisch Unterrichtete räth bei solchen ungewissen Unlust-Gefühlen auf die rechte Gattung und Gegend der Ursachen; alle Anderen aber, im Ganzen also fast alle Menschen, so lange es Menschen giebt, suchen bei solcher Art von Schmerzen keine physische, sondern eine psychische und moralische Erklärung und schieben den thatsächlichen Verstimmungen des Leibes eine falsche Begründung unter, indem sie im Umkreise ihrer unangenehmen Erfahrungen und Befürchtungen einen Grund herausholen, sich dermaßen schlecht zu befinden. Auf der Folter bekennt sich fast Jedermann schuldig; bei dem Schmerz, dessen physische Ursache man nicht weiß, fragt sich der Gefolterte so lange und so inquisitorisch selbst, bis er sich oder Andere schuldig findet: — wie es zum Beispiel der Puritaner that, welcher den einer unvernünftigen Lebensweise anhaftenden Spleen sich gewohnheitsmäßig moralisch auslegte, nämlich als Biß seines eigenen Gewissens. —

(Nietzsche, 1885,38[1])

 

(物思うときには沢山の記号が浮かんでいるのだが、ぜんぶ、横暴にも多様性を殺されて単純物に切り詰められてしまうもので、結局この元々の多様物がナニであるのかは皆目わからない。ちなみにいま「横」と書いて思い出したけどよ、こんなブログもうどうでもいいからよ、それより横山結衣の話しようぜ 思いや考えというのは勝手に浮かんでくるものであるが、本来は感情や情緒といった他のものとごちゃごちゃになっている。と言うか浮かんでくる段階では知情意の区別も特にない。そこから一瞬にして《考え》や《思考》というのを蒸留してしまって独立物扱いしてしまう。そんな作業をしているのは、考えをしている本人ではない。考えている本人など思考蒸留工場の見学者にすぎず、何も分かってないボンクラにすぎない。こんな蒸留物であるが、待っている運命が法廷召喚と尋問であり、他の思考たちと比較考量されてあれこれ詮議され審議される。そう法廷での遣り取りに比すべきものが【考える】というプロセスなのであるが、ここでもまた、考えの当人ときたら、束の間出席の傍聴者にすぎない。いいだろうか。思いや考えというものは元は形態不明の住所不定であり素性判明者に加工されてしまう。加工-思考作業には法定よろしく複数多数の人が参加する。どこにも、単純で明快なものなど無いのであり無かったのである。しかしそれは誰もほとんど知らないし考えもしないことである。何故かというと、考えているときに何が起きているのかを考える習慣がまったく定着していないからである。さてとにかく何が起きて考えたり思ったりするようになるのかというのはドダイ不可知なのだが、ありえそうなこととして、心という大きなものの中になにか表示が必要な状態が有るときに浮上してくるものなのかもしれないというのがある。そうであるから、当然、いま特にコレを考えしまうのですということになり、コノ考えが出てきて出てきてしょうがないのですということになる。そのコレが、いま表示しないといけない心の状態を表示しようと誘発してくる。ちなみに言うと、思いとかだけじゃなくて、何かを感じるというときも、同じような話である。感じるというのも感じるものそのものを感じているのではなくて加工作業をやっている。これも、表示しなければならない状態の表示のためのものである。例えばいま臓器に何が起きているか、下半身の血圧がどうなっているか、交感神経がどうなっているか、こういったことは意識には見えず分からない(例えば「感覚の総体」を使っても見えず分からない)ものであるが、これらを表示するのが感情等なのである。自分の中でなにかがどないかなっているときにそれが正確にどこでどうなっていることなのかを知るのは素人にはつまりほぼ全人類には無理である。だからそうなっている時に人類というのは原因が体にあることを見ようとしないでハナシを心の問題にしてしまう!!体のどこかが快状態不快状態だったりしているというのに、これは「おこない」や「こころがまえ」が良い/悪いなのです…云々等々と思い込み出しホザき出す。もう異端審問で拷問される場面などそれそのものであり、カラダが痛いというだけのことなのに、心に「罪」があるのだーワーと妄信してしまいよるものである。清教徒などもそうで、生活習慣が間違っているからこそ出てきている不調を良心信心の問題にしてまいよるのである。)

有名著作でも出てくる身体論だが、それが、日本ニーチェ受容がヨロコビそうな大仰な「肉体」ど

次回の記事に続く

 

Parting shot

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