地上最強のブログ

しばいてくぞ

君はニーチェ物理学を見たか ~Pathosとしての世界~

 

前回の記事から

好きになれただけで幸せだ(せとまいく)

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てこそ力学にとってなんぼのもんである。この世界はこのようになっている。こういった意志とか力とかいう目に見えないものを見えるにするためにコネ繰り出されたアイデアが、「運動」というものである。ここに誤謬の歴史を見る。運動というと、動いている何かブツ、そんな有りもしない物が前提されてしまう。そういうものとして、ただ小さいだけの物体たる「原子」なり「原子」の概念なりいったものも有るが、つまりは、動いている働いているブツがデッチ上げられてしまう。実際そういうのが有るように見えるのだし有るかのように喋るのだから、それはそうなってしまうものではある。スル者と・サレル者と・スルと・スルがスルものと、実際そんな風にしゃべるものである。こんなものはすべて言葉の上の存在物である。だから、物が有ってそれがどないどない運動してという語り方をしている以上、力学や物理学といった科学にしても、こういう誤謬を免れていない。確かにふつーにものを考えるには物体等の運動単位を仮構しないとどうしようもないのはそれは勿論だが、それはそれだけのことにすぎない。そんなんが有るというわけではない。しかもそれをどっから持ってきたのかと言うと、〇〇スル私や自我というもの、そういう運動単位からである。こういうのは事実ではなくて古来からの信仰箇条である。これがまず有ったから、運動するところの「物」というのが思いつかれた。そして現代では運動主体の自我などええ加減使い物にならなくなってきた。それでも「物」が動く機械たる世界ってな見方をしていたいから、運動+運動原子というフィクションでやっていこうという条約を締結するのである。運動については、感覚的にやってる日常言語のままに、運動原子については、心が物事を経験するそのままに、コネ繰り出す。そう、こいつらは感覚器官と心理過程からから引っ張ってきたフィクションである。そういう、物体たちの機械運動というような世界というのは、運動を捉える感覚が日常的に接している世界である。この中でやり繰りしていくには(もとい、やり繰りという事が成り立ってしまうからこそ虚構世界なのだが)、動くモノという単位が必要で、それが物を動かす物だの原子だのということになって、動かす-動かされる関係が(まさに「私」や「自我」のように)定数化されて、やがて、単位があるのだから数(すう)というものも発生する。スル主体とスル内容と作用とその基体と次々に概念が分離蒸留されていく。それは見たり触ったりするものである。働きとは運動だと飛躍してしまい、運動が有るからには動くブツが不可欠である。動くブツが有ってそれが1,2,3…n個(数)、という虚構体系。ここでしか心を考えることができず、ここでしか物を見ることができない。これらはどうあっても虚構である。実際に存在しているのは、ただただ湧き出してくる一定量のチカラ、これと他との拮抗、というものである。如何なる実体も単位もブツも何もない。量同士の拮抗と働き合いが有るのみである。いやもっとだ。自分が「力への意志」という時には、いかなる「有」るものも言っていない。いかなる有るように「成る」も、無い。無いように成るもない。事実は唯一だ:何かを受けたところに湧く念とも言うべきもの、情念的で受動的な心的…としか言えない…が有る、これだけ。成るも働くも念に関するものなのである。こんな話には機械的世界論はとんと耳を貸さない。ただただ、言語と感覚が作る錯覚に基づいて展開していくだけで、チカラというものに一切触れることがない。)

ずっと ずっと

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たまに聞くニーチェの「Pathos」というのも、こういうものであるようだ。物が有って運動していて「私」がそれを動かしたり云々という日常の見え方が感官と言語による錯覚だと言い、宇宙の実相はそんな物々したものではなくて、或る「量」(を成す「力」というのもまた実体化しないようにと原文では注意している)が他の量と刻一刻せめぎあいシノギを削るものものしい情念的なパワー空間なのであると言う。

つまり、日常のふつーの平凡のごく当たり前の局面がすべて念力念動「気」的なものの遣り取りなのであって、夢想バカ空想バカにもオカルトサイコなパワーなど思い付く必要ないのである。そんなゴミくそ与太話などせずともすでに物体たち自然物たちの砂を噛むようなつまらない日常が実は是念動と意力の場なのである。日常が力学的物理学的に閉じ込められた退屈な場という思いが錯覚と無知によるものなのであって、空想パワーにすがりつく幼稚アホはすでにもう持っているものをわざわざ余計に夢想しているのである。そう、物理学的世界という無知愚衆の錯覚(もまた知的な層からトップダウンで植え付けられたさかしら知識なのだが)が誤りなのであって、空想の産物の念力入り乱れる光景が物理世界の実相なのである。もちろん空想されているされてきたモノとはモトより全く異なる。

あえて興味を引く言い方をすれば、こうなる。もちろん、物理的力的事実や法則は言うまでもなく絶対なものである。ただ、その打ち立てるものはどこまでもその時代その時代その場その場の仮説的仮定であり、パラダイムが変わり法則条項が変わり、人体の可能最高記録が更新される。絶対に確かではあっても揺るがない絶対なものではなく、それは何故かというと、物理学力学も現在暫定最強というだけの結局は1の任意の見え方見え位置=「光学」=パースペクティブ(に拠るもの)に過ぎないからである。

今見ている1888年の断片群からもう1個見ておこう

Wenn das innerste Wesen des Seins Wille zur Macht ist, wenn Lust alles Wachsthum der Macht, Unlust alles Gefühl, nicht widerstehen und Herr werden zu können, ist: dürfen wir dann nicht Lust und Unlust als Cardinal-Thatsachen ansetzen? Ist Wille möglich ohne diese beiden Oscillationen des Ja und des Nein? Aber wer fühlt Lust?… Aber wer will Macht?… Absurde Frage: wenn das Wesen selbst Machtwille und folglich Lust- und Unlust-fühlen ist. Trotzdem: es bedarf der Gegensätze, der Widerstände, also, relativ, der übergreifenden Einheiten… Lokalisirt - - -

 

wenn A auf B wirkt, so ist A erst lokalisirt getrennt von B

(Nietzsche, 1888,14[80])

 

(宇宙の真の実相が【増大の方向に向かっていく力の定量】というものであるのだが、この力というものから快不快も完全に説明がつくかもしれない。つまり、というのは是すなわち力が増大方向に向かう事その事態のことである。不快がその逆で他のものに勝てないという事態のことである。つまり勝ち負けや闘いというハナシになってくる。そしてここでコトの中核部に辿り着く。今チカラというのが~セントスルという意欲する何かだと見ているのだが、そういう意味でチカラとは勝ちと負けの間の振幅であることになる。なお、宇宙万物存在全部から動作主体なり感覚主体なりを抜き取った議論をしているのだから、快不快という力の感じと言ってしかしそれを誰かが感じるワケではない。そんな誰かなど居ない。力の感じが力の感じを感じて快不快だったりする、それだけのことである。存在というのはコレコレの物ではなくて「意」志的なものなのであるのだから。そしてそういう所に、不条理にもというべきか、斯かる力の意志に対抗してぶつかってくる他の力意志がどうしても出現することになる。互いの陣地を張ることになる。こうして、おのがじしが自分をハミ出して互いに他に貫入し合うことになる。2つのものの間に関係が成り立つということは2つのものがそもそも異なっているもの・他同士のものということでしかまずはありえない。)

先に見たように日常見て聞いて触って一生やってく日常、来て見て触って富士通のお店、というのは、日常感覚が捉えているものとは違って、力vs.力vs.力vs.力vs.…の押しては寄せてはまた引く、波なき波涛にして潮騒である。そしてその力というのが無色透明な純粋運動ではさらさらなく、そんなまさしく(凋落し低俗化した)「機械論」でものを見ることは断じてしない。そういった力たちはすべからく快とか不快すなわちイイとかワルイとかいう情的なもので同時にある。ひたすら勝ったり負けたりするものであり、留飲下がったり悔し涙飲んだりするものである。その意味で存在万物が念であり、《何となく》《特に他意なく》《純粋客観的に》有る有など無い。そちらのほうが嘘の世界である。こういった闘争原理主義ともいうべきものがニーチェ哲学(Metaphysik)…ではなくて本当の/に面白いニーチェ学つまりニーチェ自然学(Physik)である。

人間の認知構造もこういった自然学の前提で捉えることになる。1888年の断片群から(Nietzsche, 1888,14[122]):

Zur Erkenntnisstheorie: bloß empirisch:

Es giebt weder „Geist“, noch Vernunft, noch Denken, noch Bewußtsein, noch Seele, noch Wille, noch Wahrheit: alles Fiktionen, die unbrauchbar sind. Es handelt sich nicht um „Subjekt und Objekt“ sondern um eine bestimmte Thierart, welche nur unter einer gewissen relativen Richtigkeit, vor allem Regelmäßigkeit ihrer Wahrnehmungen (so daß sie Erfahrung capitalisiren kann) gedeiht…

Die Erkenntniß arbeitet als Werkzeug der Macht. So liegt es auf der Hand, daß sie wächst mit jedem Mehr von Macht…

Sinn der „Erkenntniß“: hier ist, wie bei „gut“ oder „schön“, der Begriff streng und eng anthropocentrisch und biologisch zu nehmen. Damit eine bestimmte Art sich erhält — und wächst in ihrer Macht —, muß sie in ihrer Conception der Realität so viel Berechenbares und Gleichbleibendes erfassen, daß darauf hin ein Schema ihres Verhaltens construirt werden kann. Die Nützlichkeit der Erhaltung, nicht irgend ein abstrakttheoretisches Bedürfniß, nicht betrogen zu werden, steht als Motiv hinter der Entwicklung der Erkenntnißorgane… sie entwickeln sich so, daß ihre Beobachtung genügt, uns zu erhalten. Anders: das Maß des Erkennenwollens hängt ab von dem Maß des Wachsens des Willens zur Macht der Art: eine Art ergreift so viel Realität, um über sie Herr zu werden, um sie in Dienst zu nehmen.

der mechanistische Begriff der Bewegung ist bereits eine Übersetzung des Original-Vorgangs in die Zeichensprache von Auge und Getast.

der Begriff „Atom“ die Unterscheidung zwischen einem „Sitz der treibenden Kraft und ihr selber“ ist eine Zeichensprache aus unserer logisch-psychischen Welt her.

Es steht nicht in unserem Belieben, unser Ausdrucksmittel zu verändern: es ist möglich, zu begreifen, in wiefern es bloße Semiotik ist.

次回の記事に続く

 

微笑みの瞬間(7秒後、君が好きになる。)

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