地上最強のブログ

しばいてくぞ

それでも哲学やりますか

Feinde der Wahrheit. — Ueberzeugungen sind gefährlichere Feinde der Wahrheit, als Lügen.

(Nietzsche, Menschliches, Allzumenschliches I, IX/483)

 

(おまえは何かを確信していた時、嘘をつくよりも嘘をついていた。

ニーチェ

 

哲学がどんなものなのかについて一家言あると言えば有る。しかしそれをさっさと言わないで本論まで迂回することになる。そういう著述のスタイルはクソ不愉快なものであるが、自分が嫌いなことをやってしまうものである。

この記事に書いたように人間には人間がすることのみが不快でありうる。この記事で醜悪不快な身体現象を話題にしたが、事は一事が万事であって何に於いて考えてもいい。し、何に於いても考えろ。もういちいち例示したらんといかんなら例えば音でもいいが、考えてみよう、雷が鳴り響こうと、篠突く雨が屋根を打とうが(と書いたのが「篠田麻里子」に見えたら煩悩である)、濁流が怒号をまき散らそうと、波濤が岩礁に叩き付こうと、台風直撃中の山中泊疾風が樹冠を揺さぶろう(トラックじゃんじゃんの幹線道路沿い並みに波状大音響に見舞われる)と、いやもう例え間近で瀑布が轟いている所であっても、別にうるさくて寝れないということがないだろう。「うるさい」ということがハッキリありえて不快ということがありうるのは、人間の出す音だけである。「神経」「にさわる」音というのは人間が出す音だけでしかありえない(と言ったのに対して、自然界にも不快な音あるよと極端例稀少例を挙げてきて反論モドキするのは止めろよ)。いくらニワトリが叫ぼうが犬が鳴き散らそうが有蹄類の大群(見たこともないが)が地を轟かそうが、「うるさ」くて「不快」でイヤな音にはついぞなりえず、一方かたや、どこまで音量を絞っても、他人が出すテレビラジオイヤホン音漏れその他の人工音ときたら悪即滅殺モノに不快である。同様に、火山噴火よりもクソ原付のほうが常に「うるさ」く、至近距離のアブラゼミよりも中距離の咳払いのほうが必ず「うるさ」く、EF5竜巻よりも大型居酒屋のほうが絶対的に「うるさ」い。で、こう考えてくると、上記記事にも書いたが、自分が属する種というのは自分に不快でありうる奴らの集合であるということが言える。反対方向のことを言ってもいい。自分と同じ者らというのは是嫌悪しうるものであり、自分と同じでない者らは是嫌悪しようがないものであり、すなわち嫌悪とはこのようなもの、同族に専ら向かう感情である、といった風に。しかし何故このようなのだろうか。自然が出す音というのは一種仕方がない。それは、知覚レベル上どこまで達しようと、あくまでそういうものなのであり、何をどうしても如何ともしがたいものである。という諦念にアタマを振り絞った無理や努力が無い。極く極く自然に生じてくる諦めであり、考えるまでもないことである。そういう根源的諦めが、自然物に対しては有る。何とかしてくれる相手ではなく、何とかするとか差し控えておくとかいう気が起きる相手ではなく、この相手に「気」などない。一方「同じ」人間たちに関しては別で、こいつらの迷惑行為は意志や悪「気」に因るものでもあるし、それが不快の元であるという認識がある/ありうる上での行為であるし、やめとくことも出来るしやめておいて別に死ぬわけでもないのに止めやがらない行為でありよって悪意の産物である。つまり意図性がありうるところに不快を感じうる。で、意図というのはまず自分に有ることである。これを他「人」にも見ている。まず自分に有るというものがどうやらこいつに有るようだと見えるところの他者、こいつが、自分と種にして族である。逆に言っても同じで、自分と同じと認識する者に自分のプロパティ(いまなら意図や意志性)を認めるのであり、許容閾を超えている行動にこのプロパティを見るから、それが不快で許し難くなるのである。おまえがやんなや!!!という訳である。

で今したい話(も特にこれと言って有るわけではない)はこの話ではぜんぜんなくてこの話はこれ以上掘り下げる気も展開する気も細部に渡って検討する気もなくて、別にもう打ち切るのであるが、それにしても、こんなことを述べていると、おそらく「哲学」「的」に見えるのだろう。「的」なだけではあるが、とにかく何故そう見えるかと言うと、具体例から原理原則を立てていこうとしているからである。少ない文言で表せる少ない数しかない原理、これで可能的すべてを説明してやりたいというそういった原理をコネ繰り出そうとする論展開、まずこれが哲学っぽいだろう。

ところでお前と全人類とほぼ全生物が最終的これのみと欲しがっているものがあるが、何なのか分かるだろうか?金も財貨も銀も銅もメダルも家も国も議席も名望も株も大根も言葉も魔王ジョロキアもいっしょ、何を欲しがっても最終最後究極ドンづまりはどいつもこいつもコレが欲しいのであるという1点、この1点を原理に四海空海森羅万象の無限無数のホシイ・シタイ・ヤリタイ・タイことやもの(きっしょい現代思想がきっしょくも「欲望」とか呼んでるやつ)が派生しているだけであり何をしてもしたがってもほしがっても意志しても争ってもサバ折ってもサバ読んでも要するの要するにはこれが目当てなのであるという一個のもの、それは、

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残念少女

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確信である。この記事その他もろもろで書いた確証バイアスというのが人類最大の宿業であるように、人間とはそういう名前の全員確信病罹患患者なのである。さて確信とは何かの確信であるから、星の数と砂の数と鰐の数だけ確信されるものが有る。程度低いなら物欲金欲系遊興賭博だろう。それでは確信したいものの数が多すぎるが、程度が高いほど減っていく。学術人生が確信したいものとなると、数がかなり少なくなる。そこで確信したいものとは世界の原理だけだからであり、原理となると是さすがにそんなに多くはないからである。それでもまだ各種各様原理たちであるが、一の原理だけで済むものが有る、というか一のものしか確信したくなくここから宇宙のすべてを見渡したい説明したいという分野が有る。それが哲学である。そんじゃそれは何が確信したいのかと言うと、それは、確信を確信したいのである。そう、例えば『ベニスに死す』が憧憬自体に憧憬するのを描いているように、『パラノーマル・アクティビティ』が恐怖自体が恐怖であるという映画であるように、別に「ように」でも何でもなくてただ思い出したから書いただけなのだが、哲学とはこういうものなのである。すると確信病の最たるものなのかと言うと、そう思った浅はかで経験不足のお前は顔洗って目が飛び出して腕80本なって出直してこいというもので、知のヒネクれた有り方というもの、その逆説というものをナメたらあかんというもので、確信自体を確信したいレベルの意志になると、生半可な確信もどきのボケども、いっときの満足や射精や幸福や勝利や支配や交遊や恋愛や充実や証明や達成や承認や栗鼠や河馬や縞馬だとか、という名のいずれは滅する形あるものだとか、そんな諸々もろもろのウンコどもなど相手にせんのであり、翻って、こんな確信どもが空無で空虚で嘘だと分かりきっているのである。つまり確信とは確信ではないことまで分かっているのであり、とことん疑ってきた故に確信病のカスどもと一線を画しているのである。こういう境地が哲学である。だからそこで証したいのが時間だろうが自由だろうが不可分者だろうが世界霊だろうが現有の企投だろうが現役の亀頭だろうが、どんな名前が付いていようがどんな旗印の下でやってようが(と書いたのが「下尾みう」に見えたら煩悩である)、実は色々なことをやっているのではないのである。自分が取り組んでいるそのソレが必要な唯一のものでありこれで自分の確信は終わると言えるようなたった1つのことに実は取り組んでいるのである。そうでもねえ奴は、実は哲学者ではないのである。あれもアリこれもアリよりのアリよりもアリでアレせえへんかグヘヘヘヘでは、哲学などやっていないのである。実は自分の取り組んでいるこの1つのことがすべてのすべてである後はクソどもだよバ~カと思えていない奴は、看板だけ「哲学」者、モドキのモッチャンなのである。モックンチャンネル更新復活してくれ。

では何故こんなにも一途に最終的確信を確信しないといかんのかと言うと、爾余の確信がどれも物足りんからである。其他の確信たちがなんぼ堅固だろうと金持ちだろうとモテモテだろうと引用回数()が多かろうが、いずれは消沈したり交替されたり修正されたり忘却されたり不足が見つかったりするものであって、ソウデモアリウルシ別デモアリウルものにすぎないからである。そんなものは全部あやふやなのである。実際哲学を「やっている」と確かに言える者の誰もが《哲学以外のあらゆるものに我慢がならん》という心境である。そうでなかったら、いや世の中には色んな知の分野があってだとか、哲学も色々な知識に支えられてだとか、そんようなことヌカして本気の本気で謙虚謙譲な姿勢でいたとしたら、そんな奴は哲学をやってはいないのである。上に書いたことを繰り返したのだが、もうこういったことは繰り返して言わんからな、肝に銘じとけ。さて何故かように何にも納得がいかんのかというと、そもそも納得というものが不得手だからである。それでいいと思えるとか・わかりましたと承れるとか・ああそういうことかと合点がいくとか・自分の中で解決しただとか・なるほどと落ち着けるだとかいうのが、苦手中の苦手なのである。哲学をやる素養は1個しかない。それは、高いIQではないし、「子供」であることではないし、幾何学の精神ではないし、其の他その他の流布しているクソほどでもないクソ素養どもではない。じゃ何かと云うと、頭が悪いことである。それ以外は要らん。ほんのちょっとした些細なふっつーの話でも、相手が言ってることが分からず、言いたいことが察せれず、言えていることが疑わしく、言おうとしていることが一度に何十個も見えてしまい、ジョーシキや定型のするするスンナリの思考ができない。何に向かっても、それがそうであること以外のそうでありうる億万の可能性がどうしても考えられてしまい、【〇〇にはXXするもの】という世間的ジョーシキ的一般的定型的なプロセスに付いていけない。およそ理解ということに辿り着かず、すぐ理解し理解し合ってスムーズ円滑に社会をやっている周囲の動物たちが自分と同じ人間に思えない。何事であれ何事であれ何事であれ、およそ滑らかに行くということがない。人生という走行における燃費が最大限に悪い。まずこういう素質基盤が・頭脳デフォルトが・思考スキームが必要である。こういう者であってみれば、納得できるモノなど有ろうはずがない。なにか物事や対象があると、それが本当にそうなのかその前提からハッキリしないと気が済まず、その前提に遡ることになり、その前提の前提にさかのぼることになり、その前提の前提の前提に逆上ることになり、と、前提の前提、原理の原理、納得のための納得、確信という確信をつかまないと気が済まないくなる。こういう感覚や生き方態度が肌身血流の五臓六腑にまで浸み付いた人でないと、哲学はできない。やってもモドキで終わる。よって、こういう人に加えられる安易な非難、《何でも疑うヘソ曲がりの社会不適合者》ウンヌンといったどんな非難も、「いやお前こそよくその程度の理解・その程度の納得・その程度の確信・その程度の人生で済んでいられるな。そんなに自分を騙して楽しいか。おまえカッコ悪いぞ」と言い返されて終わりである。こんな素養にとってみれば理解力とは敵以外の何でもない。哲学には、頭のよさが最大の邪魔である。のみこみの悪さ・話へのついていけなさ・千を聞いて一も分からん理解力のなさに於いてしか活動できない哲学にとって、他者や他なるものと摩擦なく滑らかに「やっていける」人種、一を聞いて十を知れる狡知や処世など、阻害因子でしかない。少しでも他人とうまくやっていけたり他人の言うことがスッと分ったりするのなら、お前には哲学できません。そう言えば、燃費のいい奴はカッコいいカラダになりません。この記事この記事に書いているがカラダをカッコいいように変えていくというのには実は1つの作業しか無い。それ以外は本当は要らん。それは骨格筋が「増」える(ひ喩的に言うと)ことであり、したがって、骨格筋がヨリ少なくて済むヨリ「燃費」のいい(ひ喩的に言うと)カラダほど、ガリガリで貧相で不細工でスタイル醜悪であり不格好体型である。自分は「燃費」「がいい」と得意になっているバカは、キモださい体をしており、健康でなく、つまりカッコ悪い。頭脳の燃費がいい奴らと同様、こいつらはカッコ悪いのである。

所詮譬ゆ表現なので「燃費」云々と言って正しいのかどうか知らんが、骨格筋が多くてヨリ沢山カロリーを要する(少なくとも要してきた)ほどヨリ体型がカッコいい傾向にある(と書いていることに対する枝葉末節のクソ反論は要らんからな。話の大筋が通ったらええねん。何回も言わさすなボケ)ように、活動や労力や消費が少なくてすんなり行くケースほど、面白くなく・魅力がなく・生産的でないものである。なぜ人類が様々なものを築き上げ思想の百花が繚乱し文化が豊穣に実り爛熟するのかと言うと、とどのつまりは生存がすんなりといかないからである。いま大風呂敷に言うと、100%スムーズに生きていたら生体は特別な何をもする必要がなく、純然たる摂食排泄機械になる。しかるに生体が一直線の栄養入力出力体なのではなかったり、環境に対抗的なことをしていたり、今までに無かったものを築き出したり、他との異差を示したり、能力を開発してみたり、何かを作ったり、総じて何か特別なこと・「生」というクソしょーもないものにプラスアルファたる何かをしようとすること、これらが全て、すんなりいかないことに因る。抵抗によってこそ電流が熱を生むのと同じだ。生きているのものは、抵抗に合うこと・うまくいかないこと・「考えさせられる」こと・工夫を要すること・迂回せざるをえないこと・抗戦しなければならないことによって、別なものになり新しいものになり、そもそも何かになる。そのように、例えば社会運営に於いてすんなりは行っていないところ、そういう抵抗に、制度や法や思想や体制や議論や国防や軍事や組織が発生するのであり、この社会内での人生運営に於いてすんなりは行っていない個人に、表現の熱が発生するのであり、そうして文化が産出されていくのである。熱発生の抵抗がちゃんと有るところ、生存というベルトコンベアが停滞するところ、事物の流れが滞留するところ、淀んでしまい詰まってしまいトラブってしまいヒートしてしまうところ、生が手詰まりを起こすところに、生産的な何かが生じる。これはもうひたすらそうである。スムーズに進んでいいことなんて、別に無いのである。手詰まりやしくじり、愚行や失敗を犯すために人生が有ると思ったほうがいいぐらいである。これらは必要悪でもなく端的に必要なのである、少なくとも人生が人生になるためには。人生でなく物生でいいのなら、スムーズに生きとけばええ。せいぜい燃費よく処しておけ。誰とも円滑にやっておけ。なるほど物としては立派な生だよな。物には悩みは無

次回の記事に続く