地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェ入門!!(読んどけ)

 

前回の記事から

 

(人間が考えを営むときの特徴として、明快な考えのほうが晦渋な考えよりも上であると決めつけるというのがあって、こんな他愛のない認識ゴッコに対して言っておくと、表現はわかりやすくないといけないとか、真なものは是わかりやすいものであるとか嬉しがるのはやめにしよう。アホらしすぎるぞ。例えば、モノが・有って・それが何かする式の、しゅごーじゅつごー式の、コレが・コレと・コレに・あれしてどない式の児戯おままごとから一歩も出れないそこのバカ、お前たちは、モノなど刻一刻変わっている=つまり存在しないという捉え方で世界の実相を捉えることなど永遠に出来んからな。じゃれとけアホども。そんなこと本当は分かっているから人類は「論理」というようなものを発明したのである。論理なぞは、シンドいほうの考え方から逃げるための方便の気休めである。それかせいぜい記述ということをするための単なる道具である。後世に真の徴表に成り上がっただけである。)

こういうことを言う人である。果たして「哲学」だの何だの、或いはトーシローのチンケな意気地を刺激してくれる滋養強壮剤、そういうものを求めれると期待できるような人だろうか。

ニーチェはお前たちの中二病をヨロコばせるために書いていたのではないぞ。その勘違いをええ加減にさらせよ。

考えるとか・こうだと決めるとか・分かってしまうとか・~だと理解するだとか・AがBであるだとか自分が自分であるだとかいうことそのものを放棄し拒絶し否定し、断罪しているのである。ニーチェに何かを見た瞬間何も見ていないのでありこの人から何かを得たのなら何も得ていないのである。確かに、少しでも品行方正な生き物なら到底受け容れれる思想ではないが、いやと言うかそもそも自分というものや生き方というものを求める人間だって全く付き合える思想ではないのである。これでも入門するか?これでもニーチェを読むか?少なくとも読んだ気になってくさるか?

人生の無駄遣い

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1888年9~10月の断片群から1つ拾ってみよう。

Randbemerkung zu einer niaserie anglaise. — „Was du nicht willst, daß dir die Leute thun, das thue ihnen auch nicht.“ Das gilt als Weisheit; das gilt als Klugheit; das gilt als Grund der Moral — als „güldener Spruch“. John Stuart Mill und wer nicht unter Engländern glaubt daran… Aber der Spruch hält nicht den leichtesten Angriff aus. Der Calcul „thue nichts, was dir selber nicht angethan werden soll“ verbietet Handlungen um ihrer schädlichen Folgen willen: der Hintergedanke ist, daß eine Handlung immer vergolten wird. Wie nun, wenn Jemand, mit dem „principe“ in der Hand, sagte „gerade solche Handlungen muß man thun, damit Andere uns nicht zuvorkommen — damit wir Andere außer Stand setzen, sie uns anzuthun?“ — Andrerseits: denken wir uns einen Corsen, dem seine Ehre die vendetta gebietet. Auch er wünscht keine Flintenkugel in den Leib: aber die Aussicht auf eine solche, die Wahrscheinlichkeit einer Kugel hält ihn nicht ab, seiner Ehre zu genügen… Und sind wir nicht in allen anständigen Handlungen eben absichtlich gleichgültig gegen das, was daraus für uns kommt? Eine Handlung zu vermeiden, die schädliche Folgen für uns hätte — das wäre ein Verbot für anständige Handlungen überhaupt…

Dagegen ist der Spruch werthvoll, weil er einen Typus Mensch verräth: es ist der Instinkt der Heerde, der sich mit ihm formulirt — man ist gleich, man nimmt sich gleich: wie ich dir, so du mir — Hier wird wirklich an eine Äquivalenz der Handlungen geglaubt, die, in allen realen Verhältnissen, einfach nicht vorkommt. Es kann nicht jede Handlung zurückgegeben werden: zwischen wirklichen „Individuen“ giebt es keine gleiche Handlung, folglich auch keine „Vergeltung“… Wenn ich etwas thue, so liegt mir der Gedanke vollkommen fern, daß überhaupt dergleichen irgend einem Menschen möglich sei: es gehört mir… Man kann mir Nichts zurückzahlen, man würde immer eine „andere“ Handlung gegen mich begehen —

(Nietzsche, 1888,22[1])

 

(以下、特定のバ慣習を念頭に置いて書いてみるが、よく、されたくないことは自分もしないようにと言う。どこぞの国民の金科玉条で、それはもう叡知の見本にして良心のカナメなようだが、本当にそんな意味のある言葉だろうか。「されたくないことは自分もしないように」、それは後々の結果のことを言っているのだが、つまりは、何かをするとそれのお返しが必ず起こると決め付けているところに因る。ところで、されたくないことをこっちが先にしないと相手に後れをとってこっちがされてしまうというような場合に、そんなときにまで「されたくないことは」云々をぬかしていられるのだろうか。他に例えばコルシカなどのように面子のためなら流血を厭わなわい国民性などを考えてみると、ヴェンデッタに走れば自分だって撃たれるぐらいのことはあろうにも、それでも面子が最優先だ。いや極端な例を出さなくても別にそもそも日常の範囲内でも後先顧みず仕掛けることなどいくらでもある。むしろ「されたくないことは」云々を言っていたら日常の行動にも支障をきたすのではないのか。まあただこうは言ってみたものの、「されたくないことは」云々というのは実は他の役に立つ金言で、つまりこの金言でもって描写できるような奴がいるものである。ようするに、もう何がなんでも何があってもお互いお互いお互い様のお互いワールドに生きて固執してる奴。自分が甲ならひとも甲でひとが乙なら自分も乙という信仰箇条にしがみついている奴。したことには同じことが返ってくると信じているバカ。返ってくるわけないだろバカ。そんなこと不可能でしかない。何故か。2つとして同じこと・同じ行為・同じものというのが無いからである。「返」ってくる「同」じものなど存在しようがないからである。自分が何をしようとも何であろうともどう考えていようとも、それが他人《にもまた》通じるとか他人《もまた》同じことを云々などとはゆめにも考えるなよ思うなよ。それは、お前だけのことにすぎない。何をしてもお前のことはお前限定なのである。他人にお前を期待するな。常にお前ワールドとまったくの別物が返ってくるだけだ。そう覚悟しとけ。)

High school days

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と述べている人の本に、お前はお前に関する何を見出すつもりなのか。こんな考えを述べている人、こんな考えに、何を期待しているつもりなのか。お前がニーチェに何を求めようとも、そんなものはニーチェでも何でもないのであることになるのである。↑ そう言うとるがなもっかい読めや。

ひるがえってこれはまさしく自分が自分に閉じ込められているというパースペクティブなりそういう自分を認識しろという相対論と同系統である。まったく違うものでしかない他人に自分につながる何かを見出すなら、見出したつもりなだけなのであって、それはつまり自分を見出しているのである。他人をダシにして結局自分と出会い自分を発見していや自分を再(々々々々々々)確認して自分をこの上なく慈しんで自分を愛でて抱いてしているのである、全人類が。それを裏面から言うと上の文章になるのである。お前ワールドに他人を呑み込むなよ調子こくなよと述べているのである。調子こいて安易に神ハ死ンダとかほざくなよ何も知らんクセにボケがということなのである。

こんなことを言ってくれる人に何を期待できると思ってる?呪文「超人」とか「永遠回帰」とか神の死とかを嬉しがる阿呆の愚昧はすでに述べた:この記事この記事この記事を読んどけ。

さてこの後に配置されている1888年8月~1889年1月初頭の断片群には今見るべきものが特に見

次回の記事に続く