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しばいてくぞ

結果がすべて(Shut up and)

講義には講義ノートがある。はじめからそれを見してくれたらええのにというもんだ。簡単なメモに基づくだけ或いはまったく即興で講じているのならまだしも、書いてきたものを読み上げているのなら … ではなくて、どんな形で喋ったにせよ、要するにはその内容を字にして配布か出版してくれたらいいのである。音声と文書じゃ情報効率に差がありすぎる。人間はすぐ人の声を聴きたがるが、例えばここここここで書いたように会話というのが情報授受行為としては極めてお粗末であり接触や交感以外の役割がないと思ったほうがいいように、講義・講演・演説・スピーチ・講習・説明会・朝礼・会議・叱責・「発表」といった如何なる伝達手段も、音声というチンタラとろ臭い非効率媒体によるクソ手段だと知った認めたほうが、いや見切ったほうがいい。この世には、ラジオとかいう、いとも原始的なること縄文人貝塚ほとりで聞いてそうなうんこメディアが有って、動画サイトmp3の時代に尚しつこくはびこってくさっているが、この極非効率伝達媒体の手段もまた、感情的な側面での役割しか果たさない(それに関してはむしろ悪評に包まれた高効率、プロパガンダ。星空放送局なめんな!)。そして感情に効いてくるものだから、物事を声というものから聞くと、なにか魂とも言わんばかりのえもいわれぬ実体が得られるかのような錯覚ができる。声の場は一期一会^q^。そう、コトはまさに感情的なのである。内容や意味というものの乗せ物としては音声はうってつけのモノでは到底ない。世の大多数の音声コンテンツが無用廃用である。コピペ怖い話ゆっくりというクズ。こう言ったところで、知の世界にはさして不都合が無い。情報は情報である。お声で聞かせていただくまでもない。紙だろうがディスプレイだろうがどこに書いてても字は字だ。お前のクソ御高著で拝読させさせていだたきます必要ない。その現れて来てこちらに受容されるところの現象というのがすべてである。過程など、効率的なら何でもいい。

命題:それが、効果あるものとして(wirksam)、こちらに効いてくる働き(wirken)というものを有している(wirklich)ときにのみそれはリアルである(Wirklichkeit)。リアルなものとは、現れ出てて効き目(Wirksamkeit)を以ってこちらに作用してくる-しているモノ(Werk)である。それが「本当には」どのようなものなのか、どのようなもので元来なければならない(とお前が願っている)ものであるのか、「真(実)」には何であってもらわないと困るものなのか、それが現出するまでの過程で裏方がどんな裏面ある裏作業をしていたのか、等は、全部が全部、この上なくクソどうでもいい。或る意味では、見えないものは存在していない。現象の裏面など、その「歴史」など、無い。要らない。

[…] mit der wahren Welt haben wir auch die scheinbare abgeschafft!

(Nietzsche, Götzen-Dämmerung, Wie die „wahre Welt“ endlich zur Fabel wurde)

つまり、いま現れていないものの裏への下衆の勘繰りをすべて一切やめろ。わからないなら、この記事にも論拠を書いているから読め。そして、いま見えてはいない世界中のことが1つでも沢山見えるように極力チャンネル開いた生き方をせよ。と言うことになる。

よく音楽評論レコード評論で生の演奏と録音の区別をする。目の前で実際に演奏しているのを聴くのが最上等の鑑賞で、録音とはそれの次善の必要悪であってその中でさらにデジタル良悪録音とステレオ良悪録音とモノラル良悪録音等の階級制度が存する。「本当は」生演奏を聴くに如くはない、録音とは演奏イデアの影であって決してナマの感動には及ばない。G着。とのことだ。こういう笑止千万の世迷言を、録音技術普及以来評論人が書き散らしてきて、思考停止トーシロー烏合がオウム返ししてきた。

まず、演奏の惨めな写しが録音であると、その演奏を聴いた上で言ってるのなら、ただの自慢である。自分の中から外に出ず、他者にいっさい伝わらない、複数の人間を使ったひとりごと純然無意味。次に、その演奏が偲ばれるという追想をしているのなら、やはりお前の中の事柄。純然無意味。しゃべんなバカ。次に、その演奏を聴いた者としてその録音について一家言申せるというのなら、お前の聴覚体験はお前の外には出ないのだから、何も伝えていないに等しい。純然無意味。

また、【演奏>録音】一般論を述べているのなら、それで何が述べれているのだろうか。右辺があくまで左辺よりも劣っていることを自覚しながら録音を聴きなさいと言いたいのなら、「劣っている」「劣化コピー」「偽物の音」「これは私のテンポではないと思いながら聴いて、それで、何がたのしいのか?お前自身は?そしてそうであったとして、じゃあどうやって録音以外の方法でニキシュなりパハマンなりランドフスカなりクライスラーなりを聴いたらいいと言うのか?存命者でも一緒だ。例えばVakhtang Machavarianiショスタコーヴィチを聴きたかったらわざわざ海外旅行するのか?ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場管弦楽団(2004年11月4日/ロンドン)チャイコフスキー交響曲第6番

チャイコフスキー:交響曲第6番

チャイコフスキー:交響曲第6番

という、この曲の歴史をひっくり返して音楽の歴史もひっくり返しそうな空前絶後の怪物を会場で聴かなかった者がどうやってこれを体験できる?録音のおかげで体験できこそすれ、これは劣化コピーと念じながら聴くことにはならんぞ。他に、天地開闢・宇宙創世・雲河絶峰何を言っても届かない、音楽を超えた音楽であるクナッパーツブッシュウィーン・フィル(1962年12月16日)シューマン交響曲第4番

という、世界遺産登録したぐらいなら評価にもなっていないような、5000京年後まで届く宇宙財産を、録音以外の何が保存するのだ?

演奏に足を運んでもらいたいという言い分もあるだろう。クラシック界の収益存命見込んでるなら見当外れだが、まあじゃあ運ぼう。しかしそうしたから、だから特別どうだと言うのだ?その演奏を聴いたら、それ聴きましたのその1回で、終わりだ。体験終了。過去の中、二度と取り出せない。こうしているのと、録音聴いているのとで、経験の身分がどう違うっていうんだ?生憎幸い、生演奏と優秀録音とで音響の違いが判るような超越的感性もといプラセボを持ち合わせていないので、実にどうでもいい話だ。体験は体験である。何で体験しようが、会場席上だろうがPC前だろうが、いっしょだ。有限の人生の中のその唯一回の体験こっきりで、終わりだ。その体験の質(をお前は何の基準で決めてるつもりだ?)に比してもっと良い「他」も「次」も無い。「ランク」も「スペック」も無い。その体験以外にその体験は無い、中身が何だろうと。あのな、コンサートなんかそんなしょっちゅう行けないだろう。魔法瓶に入れて持って帰ることもできんだろ。録音かて、50分~60分~70分~80分~9000分の曲に頻繁には付き合えんだろう。無限ではない人生が有り、その中に有限回数の聴体験が有る、ことはそれだけだ。そこに真実や「もっとイイもの」を求めるなバカ。

(ところで、クラシックは斜陽とダダこねてる許光俊その他の中で鈴木という毛色の違うのが居て、

クラシック批評こてんぱん

クラシック批評こてんぱん

など、言語表現というものを考える上で一般的に参考になる名著である。)

いや「もっとイイもの」を求めるんだよ!と言いたいのだろう。体験回数が有限だからこそ聴くモノが少しでも良(よ)い(「良い」は「いい」とは読まない)ものでなけれでばならないと言うのだろう。その良(よ)い・悪いがもう怪しすぎるのだが、それでも付き合ったろう。お前が言うもっと良(よ)いもの。それは、もっともっと良いものよりは、落ちるんだろう?もっともっともっと……良いものよりはさらに落ちる。分かるわな。「もっと」良いもの追求は、無限の進行を前提している。比較とはこういうものだ。お前は自分が死なないと仮定して物を言っている。ことに気づいてもいないようだが。いいか、経験の質に差別などない。その時々一回一回がベストで、その一回で全てが終わりだ。他とのつながり、他と比して、など、無い。「今」に平身低頭させるモノとしてなら(としてでない話はしてない)、可能性など、存在しない。そんなものは純粋経験の夾雑物である。レコード 考古学遺物を聴こうが、CD 骨董品を聴こうが、つべで聴こうが、演奏会に居合わせようが、その体験はその体験きりだ。なおもっかい聴きたないなら、再現性は録音媒体が無限に上だ、一期一会は再現されないからな。

可能性ということで言っておくが、今よりもっとイイものがあるという羨望や悲観やへりくだりなら、誰でもする。こっちの「可能性」にはすぐ飛びつく。一方、今の自分が固執している物の見方や自分に吹き込まれる世間の言説とは違うものがあるのではないのかという可能性、こっちは誰もとんと考えない。逆だバカ。価値は、今がその時々が最善唯一にして全て、他の可能性なぞ無い。在り方は、むしろ今と違うものを刻々日々考えろ。逆と言えば、本記事の話題に関して、次のことも言っておかねばならない。芸術は大衆的なものほど劣悪で思想は明確に伝えるのが大事と信じ込まれているが、逆だよバカ。芸術や文化やエンタメこそ、これ見よがしに「わかりやすい」ものほど高級である。《マイナー》はただの孤高ゴッコだ。底の浅い見え透いた児戯だ。然るに、ワカリやすくて・可視的で・表現的で・大味で・露骨で・メリハリ効いてて・エンタメ性充実している表現(つまり、晦渋で・予兆的で・微妙で・巧妙で・趣味的で・洒脱で・印象的で・「おしつけ」()がましくなくて・幽玄で・超俗的で・メッセージ色濃厚で・コダワリ抜いているような高踏的表現とは正反対の芸風)の中で卓越できるのが、芸術に於ける卓越だ。一方、文章に「わかりやすさ」を要求する「わかりやすい」〇チガイの勘違い民主主義の時代だが、文章は別に意地でもわかりやすくあらなくても、全然いい。考え抜いた末にとか、固有の論理を表現するためにとかで、どうしても馴染みない独特なスタイルに寄ってしまう、もっとも至極にして何のムリもない事ではないか。

しかしもちろん【演奏>録音】論で言いたいことは優劣問題だろう。で聞くが、何が「優」で何が「劣」だと言うのだ?こっちには立証責任が無いがそれでもこっちが定義してやるとすると、自分に「優」ならそう、自分に「劣」ならそう、それがすべて、となる。いま劣悪な戦前録音がある。始終ザーザーノイズ、金管音割れ、すっげ未「分離」。ところが、小綺麗で起伏ゼロの廉価ロイヤルフィルと違って、妙に腹に来るものが有る。先日行った演奏会よりも、有る。いわば博物館展示物なのだがしかし一定の感銘が有った。としよう。だったらそれでいいのである。自分に効いた(wirken)のならそれは効いたのである。自分に効かないなら、他人にばっか利いてるなら、何であろうと、存在もしてなくていいクズだ。劣悪録音であるがゆえにの感銘なら、それはそれで感銘であってしまうのである。実演を聴いたにもかかわらずウンコなのなら、それは生演奏であってもウンコなのである。だから「一定の感銘」は、ノイズも込みでのものである。SACDの質感も込みだ。ボックスで買ったのならその物量感も、感銘だ。ひたすら一般的なことが書いてある中身ゼロのくそブックレットの厚みも、そういった何もかもが、体験なのである。さらに、演奏会なら、《本来》の演奏《そのもの》を聴覚体験しに行くのだが、ゆめゆめそれだけのことではなく、ホールの建築も、フロントの絨毯も、暗い客席からの眺望も、隣の奴と肘置き取り合った思い出も、前席の頭ふってるおばはんをしばたいたことも、フライングブラボーを寝技に持ち込んでシメたのも、そもそもアホ丸出しの「ブラボー」を止めろ低能ども、ぜんぶ込み込みで、体験である。コトは決して物理的音質といったブロードマン41/42野な問題ではないのである、サワキちゃん。

また、例えばそのノイズだかモザイクだかが掛かった旧盤のリマスターが出たとして、それがもっとイイかったとしたら、それはそれだけのことである。出る前に他界してたなら、それだけのことだ。「本来」「もっとよかった」「はずの」モノなど、お前には存在しない。と言うか翻って、その録音の元である歴史上世界のどこかの演奏行為も、宇宙のどこにも存在していないそんなものがどうしたボケという以外に、何が言える?ムラヴィンスキーの実演?録音が何も伝えない?少なくともお前の錯誤想起がお前の「脳内()」で鳴っているよりかは客体的に私の前で鳴っているCD音声という実演の惨めな写しに、私は一定のモノを得ている。お前はかつて得た(のだろう)。以上終わり。すべて、だからどうした次元の域を出ない。評論人がその域を出たことがないからだ。なぜか?てめえのオツムで物を考えたことがないからだ。てめえのオツムで考えてたなら、とっくに、誰も見たことないオルタナティブが出ている筈だ。

さすがにリンク貼るのが無駄なぐらい溢れかえっている話としてオーディオ趣味をおちょくる話が有るが、こいつらは、おちょくってるつもりのオーディオ追求者と同じ穴のムジナである。連中は、音を求めているのであって、音楽を求めてはいない。その関心は、機械から出る音の音質だ。それが、世間が定める「優」「劣」基準に照らしてどこにランクインするのか、という点数稼ぎゲームに熱中しているだけだ。そこから何の体験がもたらされるのかという本来の目的であったものが抜け落ちている。バカはすぐ目的を忘れる。よし、体験しているとしよう。お前は再生装置Xを鳴らし、聴く。しかしそれは、世間と、世間代弁機械のお前が決める所の「優」「劣」基準からしたら、Yには劣る。そしてYを買ってもこれはY-IIには劣る。ad infinitum。こうしてお前は、劣るものを体験していると思いながら体験している。せざるをえないのである。たのしいか?来週器材が届くのなら、その届くまではお前は、その器材>今の器材という境遇によって、「ランク」下の体験に甘んじるのである。おい、たのしいか?音質を追求している方(これに集団リンチを加えているネットのヒトモドキどもも同列)、「より良い音」を考えている時点で、今のあんたは「ヨリ悪い」音を聴いているのである。しかもそこで良い悪いのは、しょせん「音」だ。

では音楽を求めよう。音楽も定義しておくと、少なくとも聴くほうとしては、聴覚情報を主として何を体験させてもらえるかが音楽だ。それがすべて。それの価格は聞いてない。それの世評は聞いてない。体験は体験だ。その体験が自分に最上等なら、何で聴いても最上等だ。世間基準などカンケーない。音追求人がン百千万ン億を費やしている間に、ダイソーフルトヴェングラーに森羅万象を聴いてもいいだろう。正規盤+10億円ラジカセでそうしても、いいだろう。900兆円コンポでもそうできないなら、なんてこたない。オケ来日公演のS席3,2000円に座っても、大した体験でなかったなら、無駄金だ。つき詰めて言えば、映画のほうの「ショーシャンクの空に」の主人公が懲罰房の中で頭の中で音楽を聴いていたと言うが、これが、音楽の体験である。中島敦名人伝だな。真影流幻突、YAIBA闘刃、刃牙道無刀。もちろん、貧乏肯定論ではない。もうイヤホンでいいわとは言ってない。イヤホンから音ダダ漏れの人間のクズを放っといていいとは言ってない。再生音質も演奏も文化であり、ぜひ存在し続けてくれたらいいもんだ。カネがあったら追求したらいい。そうしたらそうしたで新しいモノが開けるだろう。そしてそうしたところでそれはそうであるというだけのものだ。そこまでの自分がマチガっていた・「下」だったわけではない。どこにも、優劣など無い。これは所詮録音なんだ現実の模造品なんだと悲観することもない。評論人とその物真似バカに騙されるな。伝説の東京文化会館ライブ?失われたウィーンフィルの昔日?要らん。CDのほうがいい、「今」の「私」には。SPLPなどカラス除けの用にも具さぬ。誰にでもわかるように、無いものは無い。1000兆円1000恒河沙円支払えても、巨匠時代にタイムスリップはできない。有るものは有る。2000年代初頭でも地球の裏側からCD取り寄せるしか聴く方法がなかった音源が、2010年代にはつべで聴き放題だ。つべはクラシック用サイトだ間違うな。それが世間にどう取られるか?クソにで食わせとけ。

そしてもちろん、音楽は音楽だ。てめえが聴け。てめえにとってのものとして聴け。世評に聴かしてもらうな。「音質」に聴かしてもらうな。世評が絶賛しようが、てめえに響かないなら、クズだ(ありすぎて困る中のごく一例として、ショパン)。てめえに響くなら、世間が蔑もうが、ほっとけ。もちろんこんな事は誰にもわかっていない。誰にも分かってるのなら、てめえのオツム働かせてるのなら、世の評論評言言論レビュー感想コメントは、今のようには全くなっていない。個々人の見聞きするものしてきたもの経験情景信条方針の集積は、単純計算で言っても、細胞の数ほどには相違している。単純計算で言っても、人類全体の感性の相違は、千差万別ではなくて、阿僧祇那由他別でないとおかしい。てめえらがてめえのオツムで生きてたのなら、今頃、想像を絶しに絶しに絶しに絶しに絶しに絶する多種多様な意見が咲き乱れていることになる。そうなってない通り、今日もお前は、世間の洗脳の中で生きてる。

このように、これが本当・こっちが本物・こちら純正でござい・本来本筋からしたら邪道・メインからしたらマイナー・「不人気」・《やっぱりオリメン》という世間がやってる嘘/本当ゲームに乗せられてるから、一生まわりとクソ同じクソ低能でしかいられないのである。嘘も本当も無い。自分に現象してきた現象がすべてだ。

情報は情報だという話に戻るが、情報の乗せ物の言語のことを述べておく。ここまでに貼ってきたリンク先記事でさんざん述べてきて例示もしてきた表現者という個体群のことだが、この人らにはあんま喋らさんほうがいい。主ジャンル以外の「オピニオン」を求めんほうがいい大したことは言えんとかいうどうでもいい話じゃなくて、本人が制作した当の作品について意見言わすと失望させてきよるという問題。映画制作者側が当の映画にどういった意図をこめたのかを話すと、ほんまにこいつが作ったんかと思わせるような低レベルなことを言う。自著についてインタビュー求めると、その読み方だけはしたくないわと思わせる浅薄皮相な見解を吐く。メイキング映像で出演者が何とも素っ頓狂な想いを語ることしばしば。表現者というのは自分自身が自分の作品を理解してないのじゃないのかとすら思えてくる。

何故こうなるのかと言うと、1つには、特に喋ることの専門者ではないからだ。と言うと不正確で、情報の精確な言語化の専門者ではないからだ(喋ることの専門者はただ喋る能力に長けているのであって言語描写力に長けているのではない)。そう、情報を可能な限り克明に描述できている文章を精確に紡ぎ出せるというような専門者が、そんなにいない。これが中々わからない。この記事の終盤に書いているが、目撃証言というのは、人間の徹底的にバイアスがかった認知能力からすると、事実の写しには程遠いのだが、輪をかけて悪いことに、全人類の990%が事実忠実な言語化の専門者でないし、その(自主)訓練だけでも試みたことがない。誰でも言葉を喋ってて、いくらでも喋れる。それによって、我こそ彼こそ母語のエキスパートだと、勘違いしてしまう。見た通りに喋れると思い込んでおり、自分の思ってることはそのまま言葉にできると思い込んでいる。

そうすると誰が言語化の専門者なのかと言うと、なるべく事況を精確に写した伝わりやすい言い方をしようと普段から心掛けている人、そういう意識がある人ということになる。傾向としてはどうしても学術文章の執筆に従事している人ということになる。確かに、例えばよりによって言語の研究者が

統語計算ならびに意味解釈の必須要素である文タイプ・発話効力関連句(force phrase: ForceP)と定性関連句(finite phrase: FinP)の二種類の機能投射が, 生起が随意的な話題化関連句(topic phrase: TopP)と焦点化関連句(focus phrase: FocP)の二種類の談話関連投射を挟み込む形で節境界位置に現れると想定されるカートグラフィ補文標識句(complementizer phrase: CP)分析について, 前者二種を, 近年のミニマリスト統語派生理論における統語計算の基本単位であるフェイズと想定することは理論的に妥当である.本論では, このような統語派生分析をフェイズカートグラフィCP分析と称し, その分析のもとで, 英語の節境界位置に複数の談話関連要素が出現する多重談話関連要素移動(multiple discourse-related movement: MDM) について考察する.具体的な移動要素は,話題化要素,焦点化要素, そしてWh疑問文におけるWh疑問詞である.本分析は, 節境界位置に移動した談話関連要素の語順に関する文法的事実を捉えることができる.(出典:田中公介「英語の多重談話関連要素移動について」(Journal of UOEH、40 巻 (2018) 3 号、243頁))

などというトンデモ日本語を書いてみたり、駆使するもの言葉のみでただもう言葉有るのみという哲学であっても、その研究者となると、

そこでは終に、有それ自身をその自性に向って性起として観入(Einblick)する極に於いて、思索の事とする事柄としては「有は性起の内に消失する」(ZS22)と言われ、有が自身の自性を現起する在処(Ortschaft)は開け(Lichtung)とされる。(竹内享「ハイデッガーに於ける真性の問題(続)」(哲学論叢 (1977), 4、45頁))

などと目も当てられない日本語に心酔してしまうのである(哲学自体の文章はこの記事この記事で例を確認。また哲学の研究者が書きそうな日本語をこの記事で語彙だけから例示している)が、そうではあるものの、概して、知的領域に居る人なら想起や描写に慎重だしその陥穽悪癖を心得てもいる。

こういった人たちでも、日常の何気ないやりとりでは簡単に《常人》に戻る。ところで、日常的発話は、これはもう到底到底内容のあるもの・内容の写像になっているものではない。ここで書いたことだが、発話とは心中がそのまま形を成すものではまったくなくて、一種の発言リストから自動的に飛び出てくるものである。そうして、一定の閾以下ならただの気晴らしトーク、一定の閾前後なら本当に言いたいことをグルグル巡ってるだけの延々婉曲会話、一定の閾以上ならただ口ゲンカで勝ちたいだけ、という実情で運ばれ、会話は、その内容と言葉尻とがまったく即応しない。自分の発言がこんな頽落物にならないように意識持てる人がどれだけ腐心して発信しても、成果はたかが知れている。音声による言表は一回的で即興的で非構成的だから、字にするよりは、何をどうしようとも、描述力に乏しく情報密度が低い。これが音声言表だ。そんなことをさせたりなんかしたら、表現者など、自作品について的外れなことを喋って当然である。

ところで言葉の達人というと、文人や弁人や詩人を思い浮かべるかもしれない。まず詩人というのは、特定のルールに応じて文を組み立てるゲームに長じている連中であって、事実の描写に努めているのではない。描写に努めるとしてもせいぜい内面心情のであり、しかもこれもまた、技法やアヤ、修辞やトポスといった約束にがんじがらめになった上でのことだ。つまり言語による描写の達人である訳ではない。心地よい言葉群の製造職人であるにすぎない。また「弁論家」なり演説名人なりもあるが、これも、社会的時代的諸々の条件に制約されたフォーマットの中で動きつつ即興も織り交ぜるという連中であって、しかも目的が特定の感情と行動の誘発であり描出や記述descriptionBeschreibung)ではない。アジテーションは知の営為ではない。

では制約なく自由に言葉をつづれる思想者や小説家はどうなのかと言うと、これも怪しい。例えばついつい対句にしてしまうが、そこでは概念や論述支柱や問題定立のほうも対になっているのだろうか。3対7対になっていないだろうか。記述の熱意よりも表現法でアタマがいっぱいになっていてそっちに走って行ってばかりではないだろうか。なぜ「流麗」であろうとする。なぜ堅固な構造を有したがる。伝わりゃなんでもええねん。なぜその比喩が必要だった。なぜ … しかし美文名文とはすべてそういうものだ。ひたすら見栄を切っているのである。しかも、それがまた仕方のないものでもある。自分で物語を作ったらキャラの発言や行動がなぜかこっち側創造側の思いどおり意志どおりに行かず自分から勝手に動き出し話し出しよるというのを経験するものだが、そんなことはいいとして、文体というのも自分で自分の全神経を行き渡らせて采配できるものではなく、書いていると相当程度勝手自動的に文章が出て来てしまうものである。「自動筆記」というのはこういった日常普通の現象を盛って盛って膨らました嘘乙である(本当にやってしまったのならただの脳機能しょう害だ)。或いはこう言おう:自動筆記含めオカルト超常現象「霊」うんたらが心の髄からの低能愚能の人非人向けのゴミクズ話題である一方、自動筆記と言うとこれは日常的事実を語っている。古典時代(いつやねん)の「偉大」な書き手たちが、表現とはその内容に即応した形態を「必然的」に取るものなのですとか何とかアホみたいなゴテゴテ語で証言するものだが、その大半がアホみたいな戯言だとしても、表現の自動的発出については是適格に感知していたようだと言える。

ここから、表現者が自作についてなんとも愚劣な言葉しか吐けないことの原因がもう1個わかる。表現者には自分の表現を意のまま手中になど出来ないのであり制御できないのである。それは自分の中から自分以外の何かがやってくさりやがることなのである。であるがゆえに、表現された作物とそれを表現した人間とを別と見るしかやはりない。上に貼ってきた来たリンク先記事でさんざん言ってきたように。

例えば、怪物と闘ったこともないくせに、怪物と化したこともないくせに、深淵を覗いたこともない分際で、深淵から見返されたこともない分際で、中二病で引用して来る落書きバカがうじゃうじゃ居るが、この箴言のように書き手の実体験ありきと言える文章でも、文章となって書き手を離れて読者に現れたなら、元の書き手にとって「元は」どういう意味どういう思い出だったかはもうどうでもよくなる。自分の側で、徹底的に憎み(内心ででも)闘った相手がいたら自分もこれに似てきたりほぼまんまコイツになってしまうのであるという体験を経てそこを心当たりにこの箴言に付き合えば、それでいい。表現は表現者を離れる、何なら始めから離れてる。表現した奴に話を聞いてもしょうがない。作品は作品として現れているものがすべてである。現象は現象である。現れがすべてだ。それの出身地を尋ねても仕方ない。

なお、類例が他に何点もあるにはあるのだが、中でも『X-ファイル』シーズン3/エピソード14「グロテスク」が、このニーチェ箴言の特に前半を見事に可視化しているものである。そのことは、ここなりここなりここなりここなり、どこなとで述べられていることなのだが、いま特筆大書しておきたいのは、「グロテスク」で怪物になってしまう人物を演じているのが、「ロボコップ」のクラレンス・ボディッカー役だったカートウッド・スミスだということである。前世紀のバイオレンス映画では登場する悪役全員が稀代のサイコパスにして殺人狂なのだが、そんなこヴィランたちの中でも、クラレンス・ボディッカーの不気味さ残忍さサイコぶりと来たら、一頭地を抜いていた。テレビで放送してた時、マーフィー惨殺シーンやED-209初登場時制御不能シーンを観た時、身の毛もよだつショックで震え上がり、よだれを垂らしてもんどり打って放射能を吐いただろうが、当作品のエグさの大半が、クラレンス・ボディッカーという、容姿がおっさんで中身が容赦なきテロマシンという独特なキャラの強烈な印象に依るものであるだろう。もしかしたら、映画が生んだ究極の怪物アントン・シガー(Anton Chigurh)と並ぶほどの存在感かも知れない。本記事の役目はこれを書いたことによって果たされたから、他の部分は読まなくていいです。

それがてめえに作用してきたその作用(Werk)とだけ付き合え。効果がすべてだ。《本当はもっと》《裏ではこんなこと》《去年よりは落ちる》「全盛期」www《これで〇〇さえ揃えば》《〇〇がもっと有能なら》《予算がちがうから》《本場では〇〇》《実演はこんなものでは》《本調子じゃなく》《作者の伝えたかったことは》《〇〇に篭めたメッセージ》、等々といったタワ言・中身ゼロ言葉・脊髄反射文句を一切聞くな。ってか喋るな。

さて声・音声・肉声というものは、いくら切々たるものであろうと(亦はそうであるがゆえに)、記述手段・伝達手段としては視覚手段に比すればチンケであるのだが、何故これに今だに重きが置かれているのかと言うと、これしか手段が無かった時代の名残りである、マジだ。書字の歴史をいまさらウンチク振り返らんでもよく分かっているだろうが読み書きが普及するのは歴史上ごく最近のことであり、ここ1年ぐらいのことである。最初の言語であるパンツァー語以来人類は800億年間音声だけで情報を伝え合っていた。だが現代は、獲物を見つけたことを知らせるために400マイル離れた仲間に叫び声を上げる時代ではない(ところで、マイルポンドフィートヤードを廃止しろ、元号よりも早急に)。囲炉裏でかまどを囲んで祖父兄つから民族創生詩が口承される時代ではない。教室に集まって講義を聞くのもいいが、つべにうpしてくれたらいい、倍速で聞く。むしろPDFで配布してくれたらいい。キャスターが報道を読み上げるのを聞き終わるまでの時間がムダだ。ニュースなど、ブログでやれ。それから909%のブログ、中身ゼロのゴミ短文、ツイッターでやれ!!!!

伝えるのに声はもう要らない。ユーチューバーはめんどくさがってないで、書いて発信せえ。静止画をつべに上げる人間のクズは二度とアップすんな。しゃべるというのは、兎にも角にも、書面による手段が極めて制限されていた時代、その前の4兆光年前の時代、しゃべるしか無かった時代の産物である。もっかい言う、人体の顔面部分に空いてる摂食用・即尺用の穴が音を出すというやり方でしか情報を伝達することが出来なかった、そういう苦肉棒の策が人声であり自称言語なのである。口が恥丘に空いてたら別にそこから会話したし、菊門から話せたら別にそうしたのである。

時代の物質的物理的制限(環境)が人間の行動や心理に加えてくる影響を決定してくる統制力というのをナメたらあかん。有名どころで、A国とB国の臓器提供同意者数がなぜ異なるのかという問題予備予備予備)の話がある。リンク先読めば色々分かるだろう。募金や献血をどんだけするかはどんだけ近くに受付があるかどうかに、思ってる以上にかかっている。健康や環境や生態系にどれだけ配慮できるかは、規制と予算に、思ってる以上にかかっている。暴力的ゲーム・残酷ゲームやバイオレンス描写メディアが犯罪増加に寄与する程度は、そこが阿呆な銃自由社会であるかないかに、思ってる以上にかかっている。つまり倫理や道徳はインフラの問題であることも多分にしてある。さて、自分の人生のコースを生まれのせいにして溜飲下げるクズがごまんと居る。遺伝や生まれとホザくなら、まず、これを読め:

天才を考察する―「生まれか育ちか」論の嘘と本当

天才を考察する―「生まれか育ちか」論の嘘と本当

  • 作者: デイヴィッドシェンク,David Shenk,中島由華
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2012/09/01

お前が無反省・無知識・無思考にくっちゃべってた事がどんだけ事実ですらない言い訳だったのかを知ればいい。そう、自分の人生の失敗に関しては、環境のせいにする。自分が成功したことに関しては、自分の手柄にする。他人なら、失敗は本人のせいで、成功は「恵まれた」境遇環境のおかげ。これが帰属の基本的エラー!!バカはすべてを逆にするから、元に戻しておくと、人々がなぜそうするのかというのは、環境に、物々的な制約に、今それしかないという条件に、思ってる以上にかかっている。お前が言い訳クズであり社会保障受給者や高収入者を妬んでいるのは、お前自身の心の問題に、思ってる以上にかかっている。

結果がすべてだ。

ブランコ

ブランコ

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2016/11/02
  • メディア: MP3 ダウンロード