地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェの宇苗論

 

前回の記事から

aber unendlich reicher an Bewegungen als wir ahnen.

(Nietzsche, 1881,11[184])

 

ノーカン

ノーカン

AKB48

  • 発売日: 2013/12/11
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(実際の時間と感じる時間とは別である。事物側の時間そのものという時間が存在していて、伸び縮みする感覚時間とは明らかに別物である。もしヒトが事物の時間を感じたとしたら、ゆっくりすぎて、流れているように感じれないだろう。ヒトにも丸一日はしっかり「長い」ものだが、虫になって同じ一日を感じるのに比べたら、あっという間のものだろう。そんなにせかせかした時間の中に住んでいるヒトだが、しかし例えば循環器系などは天体の公転なみの周期をしている。そこから考えると今度はヒトの時間サイズが過大になる。それに従って空間サイズも大きくなりすぎる、天体サイズだ。実際はどうなのかは分からない。本当の空間は今見えているのよりも途轍もなく小さいのかも知れない。しかもそれでいて今感じられているのとは比べ物にならないほど緩慢なのかもしれない。しかもしかもなおそれでいて今感じられているよりはるかに膨大な物体運動を含んでいるのかも知れない。)

取り留めなくああでもこうでも言っており、本当の時間と時間の感覚の区別が成り立っていない(「Sodann empfinden」以下から別に時間感覚の話でもありうる)などの難点もいくらでもあるが、そうは言っても、話としておもしろいものでもあるだろう。もともと哲学的に堅固な基礎と証明の上に構築していくという人ではなくて、自分にこうとしか思えんということをこうだとたたき出すという書き手なのだから、こういった文章でなんも問題ない。

ここで何を言っているのかを考える上で参考になるのが、今見ている断片群の次の時期の1881年の断片群の中の1つだろう:

Jedes Ding an jedem Dinge meßbar: aber außerhalb der Dinge giebt es kein Maaß: weshalb an sich jede Größe unendlich groß und unendlich klein ist.

Dagegen giebt es vielleicht eine Zeiteinheit, welche fest ist. Die Kräfte brauchen bestimmte Zeiten, um bestimmte Qualitäten zu werden.

(Nietzsche, 1881,12[160])

 

(尺度自体というものは存在せず、何を何で計ってもよく、人を星で計っても象で計ってもいいし高層建築を山脈で計っても何をしてもいいのだが、これは要するにいかなる物も無限に大きく無限に小さいということである。空間的なことがかようである一方で時間は別だと思う。時間はこれが時間というものがあるはずだ。何かが何かデアル間の時間というものが有る。無いわけにいかない。)

後半の文章が上々掲断片と同じく絶対時間が有るはずだという話、一方前半が空間の話で、空間に関しては絶対なものが無いと見ている。書いてあることは定規というものが無いということであり、それは翻って(ふつうの意味での)サイズというものが存在しないということでもあるだろう。そしてそれは、物には芋宙「空間」的な容器が無いということでもあるだろう。有ったら、この絶対的な容れ物=字苗に対してこれこれの大きさということが言えてしまえるのだから。

こういう話に関係してくる「永遠回帰」の話は本人の想いとアホ読者のアホ受容とはうらはらに自分にはクソおもしろくないから一切触れないが、触れなくて上掲断片の話だけを聞いていても十分に面白いだろう。宇猫は無く時間だけが茫々と永遠に有るという、永遠の猫。

ちなみにこの時期の断片群にはかなり面白い内容のものが少なくなく、他の記事でアイキャッチ引用してあるが、他にも何点か検討してもいいだろうが、今は次の短文だけを挙げておく

Giebt es denn in der ganzen Welt jetzt einen Menschen, der so wie ich am Meere sitzt und —

(Nietzsche, 1881,12[113])

 

(この世の中で自分のように考えている人間、自分のように見えている人間は他に居ない。自分のようにこうして海辺に座っ、)

自分はゴタブンにもれず20代前後の数年間に なんか分かった気に(だけ)なってニーチェに「はま」り翻訳『ツァラトゥストラ』のアホ日本語に酔ったり岩波文庫の『この人を見よ』をウレシがって自分の身に引き合わせる的なことしてマーラー3番聴いてたりコッパズかしい稚児の児戯未満の勘違いをやっていて、やがて15年ぐらいまったく離れてぜんぜん読まなくなるのだが、多少はモノや世間が判り出した中年期にKindle端末買ってからその断片を読み始めて本当に何を言っているのかが分かってきたものである。上掲文で言っていることも、多感な青年というアホの迷惑者のウンコをウレシがらせる青年チックなロマン吐露に関わるものなんかでは全くない。上掲文のようなものは結局次のようなことが見えている自分ということを言っているのであろう(以下、1881年春~秋の断片群より): 

Ich bin immer erstaunt, ins Freie tretend zu denken, mit welcher herrlichen Bestimmtheit alles auf uns wirkt, der Wald so und der Berg so und daß gar kein Wirrwarr und Versehen und Zögern in uns ist, in Bezug auf alle Empfindungen. Und doch muß die allergrößte Unsicherheit und etwas Chaotisches dagewesen sein, erst in ungeheuren Zeitstrecken ist das Alles so fest vererbt; Menschen, die wesentlich anders empfanden, über Raumentfernung, Licht und Farbe usw. sind bei Seite gedrängt worden und konnten sich schlecht fortpflanzen. Diese Art, anders zu empfinden, muß in langen Jahrtausenden als „die Verrücktheit“ empfunden und gemieden worden sein. Man verstand sich nicht mehr, man ließ die „Ausnahme“ bei Seite zu Grunde gehen. Eine ungeheure Grausamkeit seit Beginn alles Organischen hat existirt, alles ausscheidend, was „anders empfand“. — Die Wissenschaft ist vielleicht nur eine Fortsetzung dieses Ausscheidungsprozesses, sie ist völlig unmöglich, wenn sie nicht „den Normalmenschen“ als oberstes, mit allen Mitteln zu erhaltendes „Maaß“ anerkennt! — Wir leben in den Überresten der Empfindungen unserer Urahnen: gleichsam in Versteinerungen des Gefühls. Sie haben gedichtet und phantasirt — aber die Entscheidung, ob eine solche Dichtung und Phantasma leben bleiben durfte, war durch die Erfahrung gegeben, ob sich mit ihr leben lasse oder ob man mit ihr zu Grunde gehe. Irrthümer oder Wahrheiten — wenn nur Leben mit ihnen möglich war! Allmählich ist da ein undurchdringliches Netz entstanden! Darein verstrickt kommen wir ins Leben, und auch die Wissenschaft löst uns nicht heraus.

(Nietzsche, 1881,11[252])

 

涙のせいじゃない

涙のせいじゃない

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(この世界の見え方がかっちり決まっていて毎日毎日寸分違わないのに驚異の念を禁じえない。何を見ても聞いても触れても、日常の風景にしたって日常の物品にしたって、毎日毎日なんの変化も変哲もなく現れる。知覚には特にバグもなく不良セクタもなくレイテンシもない。だからといって最初からそうだったわけではない。人類は数百万年をかけて今の知覚様式を獲得したのである。始めの始めは世界とは無定形で、日常など無かった。空間認識や色彩知覚や視覚形式なんかが現生人類とは異なっているヒトの集団、そういうのは抹殺され、絶滅の道をたどっていた。現生ヒトの中にそういった異種の知覚様式を有するものが現れると「狂」気と分類され忌み嫌われてきた。そいつらは理解不能や存在とされ隔離され排除されてきた。社会集団の発達の歴史は始めから逸脱者の殺戮で血塗られていた。現在の科学もそういったことをしていると言える。科学も排除の営みである。ヒトの類型・典型的個体・標準や理想といったものをこさえないと、科学は成り立たない。ヒトの「標準」を保全することに血道を上げる営みである。現在のヒトの感覚や感情といったものは全て原始時代人の残滓であり化石である。原始人は世界を作ったのである。どのようなものを作るかは、どのようなものなら自分らの生存に都合がいいかに掛かっていた。どのような世界知覚でなら生きてけるか死なないかをさんざん試行錯誤していた。そこでは「真

次回の記事に続く