地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (5)

 

前回の記事から

どなく形あるものは全ていずれ滅する。しかし、モノにせんという感情、モノにしたい我の感覚のほうは、是不滅であり真である。所有は仮初めで錯覚、所有欲は不滅。そして今後は宿業な我というのにコダワるのをやめていこう。自分でなく、事物を見よう。事物やシステムを理解していこう。我か非我ではない。一本調子をやめよ。世界の実相は無限に多様なのであり、今までに人類に見えていたものと全てがコレのみとお前と人間が信じていたものは事物のごく一部にすぎないのである。「自分」も「他人」も等しく誤り。他「人」でなく事物の認識、こっちにシフトせえ。自分と相手などという「人」など存在していない。こんな幻想錯覚にかかずらってて得られるものなどない。自分や我ゆうとってもええがそれも全く別の意味で言うんや。もう「人間」がどないしてどないでという話し方をええ加減やめるんや。人やのうて物や。

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「人」というものを一旦完全に撤廃してしまったほうがいい。今こそ向かうのは事物であり、人なんてレベルのしょっぼいものなんぞ相手にしてないで、もっと巨大なシステムに通じなければならない。こっちこそ我が物にするのだ。欲しがるならこっちを欲しがれ。そういう風にシフトしてって何がどうなるかを心配している場合ではない。我と汝とそして世界♡という見方をぜんぶやめてまわなあかんのである。教育に顧慮して言うなら、欲望や競争や承認などというクソしょうもないものを排除して行かなあかんことになる。人でなく物を見るようにし、それも物をどうにかするのでなく物にどうにかされるようになっていくこと、そんな道を拓くしかない。極力視野を広く持ってバイアスを除いて事物システムをものにしていくこと。そうするとどうなるか。人間のほうが事物のためのものになるのである。人が物を描くのではなくて物が人に描かれるのである。物の要求に人が従うのであって逆ではない。我々が仕える側だ。そういうものとして人間は誕生したんだ。人類史上最も大事なことは事物を描くということである。上下関係まちがえんな。)

人が物を描くのではなくて物が人に描かれる。人が物に対して主であるのではなくて、物側のほうがどんだけ上だったかを認識していかなければならない。「人」錯覚から目を覚まして物の広大な世界を認識していかなければならない。これは、人間よりも物体や宇宙のほうがずっと広く大きい等のしょうもないことをぬかしているのではなくて、人間の使命が、(自分も含めて)宇宙中の諸システムを映す鏡になること、巨大な連関を、ヨリ高画質8K画質800000K画質の240000fps240000Hzの3D4D4億Dで映す装置にならなあかんことであると述べているのであろう。

いかにも断片らしいのか「自我」「所有(欲)」「物」というトピックがそれぞれどう関係するのか全然わからず不明瞭で不適切な文章ではあるのだが、言わんとしていることの面白さは十二分に分かるものではある。そのおもしろい主張の1つが、これはこうだと決まりきった画一的な見方をやめろというものである。お決まりお定まりの、こうとさえ考えておけばオッケーという思考停止思考をシバいている。

例えば次の文章などがそう:

キュン(TYPE-B)

キュン(TYPE-B)

Wir kennen a) die Motive der Handlung nicht; b) wir kennen die Handlung, die wir thun, nicht; c) wir wissen nicht, was daraus wird. Aber wir glauben von allen dreien das Gegentheil: das vermeintliche Motiv, die vermeintliche Handlung und die vermeintlichen Folgen gehören in die uns bekannte Geschichte des Menschen, sie wirken aber auch auf seine unbekannte Geschichte ein, als die jedesmalige Summe von drei Irrthümern.

In jedem Falle giebt es nicht Eine Handlung, die zu thun ist, sondern so viele als es Ideale des vollkommenen Menschen giebt. Nützlich, verderblich — ist kein „An-sich“; die Ideale sind Dichtungen auf mehr oder weniger geringe Kenntniß des Menschen. — Ich leugne die absolute Sittlichkeit, weil ich ein absolutes Ziel des Menschen nicht kenne. Man muß den gesunden Zustand kennen, um den krankhaften zu erkennen — aber Gesundheit selber ist eine Vorstellung, die nach dem Vorhandenen sich in uns erzeugt. Spencer p. 302. „Übergangszustände durchdrungen von dem auf Nichtanpassung beruhenden Elend“: sagt Spencer — und doch könnte gerade dies Elend das Nützlichste sein!

(Nietzsche, 1881,11[37])

 

(何かをした時する時、何故そうしたのかするのかを、誰も知らない。何をしているのかも、知らない。したらどうなるのかも、誰にも分からない。というのに、全部、知った気でいる。自分が何故そうするのかを知った気でいて、何をしているのかを知った気でいて、それがどうなるのかを分かっているつもりでいる。アホすぎ。史上それを判った人類は居ない。行為の本当の姿は、永遠に隠されている。永遠に隠れたまま人類を牛耳り続ける。自分を分かっているつもりの人類は阿呆の道化にすぎない。何をしても、他のしたことと同じものであることは無い。あの行為と同じに見えるその行為は、同じではない。「同」じ2つの手ヲ上ゲルは無い。人間類型の数だけ行為の種類がある。イイ行いワルイ行いのいい悪いはフィクションに過ぎない。したことすることにそんなしょっぼいレッテルしか貼れないのは、ものを知らんからである。お前はお前と他人のことをろくすっぽ知っていない。何をしたら正しいのかは誰にも分からない;人類が何をしたいのかが誰にも分からないのだから。正常を知らないと異常も知れないとは言うが、正常というのからしてが、ヒトの足りないオツムの中でどうにか捏ねくり上がったフィクションやレ

次回の記事に続く