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しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (11)

 

前回の記事から

怖には根拠が無いということがそこそこは認識されているだろう。)その意味で、これが人間だと思って接している人間という意味では、人間などというものはフィクションにすぎず、そんなもの存在しない。「人」「が」「人」「と」;そんなん全部ウソの偽りの錯覚の誤認識にすぎない。「人」や個人は、原始時代向けの擬制にすぎない。「人」なんて単位単一物は存在しない、そんなものに必死でかじりつくな。おそらく、「人種」が存在しないよりももっと強い意味で「人間」など存在しない。前者が知識上バイアス上のエラー乃至イデオロギーなら、後者は感覚や肌身レベルのエラー乃至集団幻視だろうが、ゆうて誤りは所詮誤りにすぎない。

こんな話なら、面白いだろう。大思想家様「ニーチェ」としてアホどもとお前の頭の中にある男が日本語で(だぞ)ブラーブラーやってる糞ジャルゴンよりも、お前らの「哲学」「思想」ジャルゴミュニケーションとその中で抹殺もとい虐殺された本物ニーチェの残骸のあわれな寝言よりも、ずっと遥かに、面白いだろう。

ってかな、だからな、何度も言うがな、ニーチェはおもしろいんねんて。このブログ以外のいかなる何処でも全く知られていず言われていない意味でな。

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どれだけ面白いかというと、もちろん認知心理学社会心理学の発言が面白いのだが、その中には、次のような文章がある:

Wir sind milder und menschlicher! Alle Milde und Menschlichkeit aber besteht darin, daß wir den Umständen viel zurechnen und nicht mehr Alles der Person! und daß wir den Egoismus vielfach gelten lassen und ihn nicht als das Böse und Verwerfliche an sich mehr betrachten (wie er in der Gemeinde geachtet wurde). Also: im Nachlassen unseres Glaubens an die absolute Verantwortlichkeit der Person und unseres Glaubens an die Verwerflichkeit des Individuellen besteht unser Fortschritt aus der Barbarei!

(Nietzsche, 1881,11[331])

 

(寛容だの博愛だの言うてくれるが、どういうものなのかお前らは分かってるのか。どういう時が寛容で人を許せている時か、それは、その人が状況に依ってそうしたのだと認識することであり、その人の行為やその人となりをその人の内面に帰属させすぎない時、である。たとえ一見身勝手な迷惑行為と見えることをしていても、その人が内面や性根が腐っているからだと早計するわけにはいかない。違反や犯罪があったら、ひとえにそれをした奴が「悪」いと決めて終わってないだろうか。「その」「人」自身が本当に悪で身勝手だと本当に言えるのだろうか。そんな認識は、原始的な閉鎖社会で慣用だったものだ。しかし、そんな、すべてを自分の内面的根拠からする人など居るわけが無い。誰にも事情があり状況があり致し方なき何かがある。こういったことが理解できること、コトをその「人」に帰属させないこと、ここにこそ啓蒙の道がある。)

引用している原文の「日本語」「訳」(だとして)、○くそ学芸文庫なり臼水社なりの日本語「ニーチェ」(だとして)で当原文を読んでいたとしたら、何が分かっただろうか。「エゴイズム」だの「人格」だの「信仰」だの「進歩」だのちんぽだの意味不明漢語を読まされて何か読んだ気になって終わってただけだろう。

見ての通り、これは帰属の基本的エラーについて述べた文章である。根本的な帰属の誤りという認知エラーの宿業、人類の不幸の源にして大工の源さんである心理機構について述べている。その因業ぶりについてはこの記事この記事で見ている。他に『人間的、あまりに人間的』第1巻第9部559番でも述べていると確認したことがあるが、今見ている文章のほうが分かりやすい。

他人が遅刻したら他人のせい、自分がしたら事情のせいだ。人がちゃんと働かんのは怠惰のせい、自分は待遇のせい。そういうエラー。他人に関しては、確固たる個「人」としての「人」格を勝手に仮構し、何をしてもしでかしてもその「人」がしたこと・その人が悪いこと・その人が責めを負うこと、そう決めつけてしまう。自分と同様にまた他人にも状況によってサセラレテイルという可能性があるのではないのかということを考えない。そういう風な認知狭窄・認知エラー、そういう風な、他人という名の「人」間(が存在している)というフィクション・勘違い・無知・蒙昧。そこを指摘しそこをよくよく考えたところにニーチェの「道徳」論だか系譜だかの出発点がある、知らんしどうでもいいが。

行為であれ行動であれ「性格」であれ、所有者に一体化したプロパティだと妄念してしまう誤りを指摘し、(且つ、所有「者」などが存在しているという誤りを指摘し、)環境や状況というものとの関係をしっかり認識していた点で、やはりニーチェは21世紀認知科学的である。いま、よい・卓越した・優れた行動やパフォーマンスが実は環境との相互協働で造られるものであって知性「体」に内在するものではないという知見がアフォーダンス理論という卓見であるならば、反対に、悪論や攻撃論や犯罪論も、個「人」の内的場所に要因を求めるのではなくて、生活や脳のような物的基盤や、行為時点での心理状態や周囲の状況といった環境というものを考察に含めなければならない。「ならない」と言うか、個「人」信仰から脱していない考察などでは人間について一切なにも分からない。そんなものは無駄でしかない。「あの人ってさあ」:その駄弁のすべてが、ただただ無駄だったのである。

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当然、直後の文章(Nietzsche, 1881,11[332])も、このようなものとして読まなければ、何の得るものもなく、読んだ気になるだけで終わる。くれぐれも、辞書引いたら出てきた「語義」などというカスやクズに機械翻訳して読んだりしないように。ドイツ語が読めるなら、一旦自分で読んでみろ。

Ihr sagt: „gewisse Glaubenssätze sind der Menschheit heilsam, folglich müssen sie geglaubt werden“ (so hat jede Gemeinde geurtheilt). Aber das ist meine That, zum ersten Male die Gegenrechnung gefordert zu haben! — also gefragt zu haben: welches unsägliche Elend, welche

次回の記事に続く