地上最強のブログ

しばいてくぞ

ニーチェからすれば「人間」など存在しない (10)

 

前回の記事から

もそも流転でしかないこの世界に「何」かを同定し認識すること、する意識が自分を意識すること、そういった把握や定めや止めや映しや並べや比べといったこと、こういったプロセスが、流転という無限の世界からのたかだか1つの選択にすぎない、無限に対する1つの認識方法にすぎないのである。これが絶対化してしまったのは成り行きの偶然にすぎず、したがって絶対なのではない。自分や自己や同一と相違といった究極のものも究極ではまったく無く有機生命の気まぐれにすぎない。自分があってそれが何かをスルという図式、それに基づく全人類史上思考パターン、そんなものと全く異なった図式も識も思いも十分ありえたのである。つまり哲学的に究極なはずの公理公準定理前提を、ぜんぜんそんなもんではないよと批評している。そこまでの域に達している文章だ。

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このようにニーチェの文章を読めなければ、辞典逐語訳クソゴミ文をなんぼにらめっこしとっても、全くの無駄である。主観ガー同化ガー自己ガー同一性ガーガーとなんぼ意味不明のゴミ念仏を量産して読書しとっても無駄である。そんな哲学ゴッコで哲学気分に浸りたいだけのアホ出版とアホ教員とアホ学生とアホ読者は要りません。

上掲文におなじみのLust und Unlust問題が出てきているが、これもやれ快とは!苦とは!的なお経念仏語に翻訳していても何も分からない。例えば次の文章:

Jede Lust und Unlust ist jetzt bei uns ein höchst complicirtes Ergebniß, so plötzlich es auftritt; die ganze Erfahrung und eine Unsumme von Werthschätzungen und Irrthümern derselben steckt darin. Das Maaß des Schmerzes steht nicht im Verhältniß zur Gefährlichkeit; unsere Einsicht widerspricht. Ebenso ist das Maaß der Lust nicht im Verhältniß zu unserer jetzigen Erkenntniß — wohl aber zur „Erkenntniß“ der primitivsten und längsten Vorperiode von Mensch- und Thierheit. Wir stehen unter dem Gesetze der Vergangenheit d.h. ihrer Annahmen und Werthschätzungen.

(Nietzsche, 1881,11[334])

 

(外界から受容したものがヨイかワルイか、そんな快苦の知覚などはゼロかイチかの単純極まりない瞬間的なことだと思うだろうが、実はまったくそうではない。瞬間的というなら瞬間的に、キモチイイなり痛イなりいうときには無数の思考をし判断をしている。それは途轍もなくアタマで考えたものでありサカシラで屁理屈にまみれたものなのである。痛いというのは単純な知覚ではなく、現実にほとんど対応していない。痛み6なら6なりのキッツい現実6が有るのでは全くない。反対に心地ヨイ場合にも、心地よさにキッチリ対応している現実をキッチリ認識しているわけではなんらない。少なくとも現代社会には対応していない。何がそれだけ痛いか何がそれだけ快かというのは、人類が人類の99%を過ごしていた原始時代に出来た認識であり、この時に日常接していたものにもっぱら対応しており、この時の生活に調律されている。人間は現代に生きてなどいなくて原始時代に生きているのである。ヒトの感覚システムは原始時代に適合した状態から一歩も出ていない。)

を、このように判りやすい日本語で考えないで、やれ「経験の総体」ガー「価値判断」ガー「誤謬」ガー「危険性との比において」ガー「過去の法則に」ガーガー云々いったバ漢語にしていても、文章が述べているトンデモなく面白い話がなんも見えて来ない。じゃあここでは何が面白いのスゴいのか。

ヒトは原始時代に生きている・認知はサバンナ生活ジャングル生活に調律されているということはよく言うことであるが、そのことをキッチリ認識していただけでもスゴいのに、判断や認知という高度なものだけではなくて痛いやめてほしいとかええなあとかもっと~とかいう原初的なはずの感覚も原始時代向けに調節されたものをずっと引きずっていると述べている点が面白い。

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正しく言うと、快苦というのは瞬間的で秒的なものだから、ついつい、熱いだとかうるさいだとかいう知覚なり物体運動知覚なりといった単純瞬間的感覚等と同じく単純でスナオなものだと思えてしまうものだが、実はそういうものではなくて、(短時間以内にとは言え、)これは痛いということにしておこうかこれはエエということにしておこうかと無数の比較衡量をした結果、アタマデッカチな推論判断をした結果出てきているものなのである、と述べている。それは原初的な感覚ではなくて屁理屈小理屈の思考なのである。少なくとも何がエエか悪イかを考査し決議しているのである。そしてその判断基準が、原始時代の生活のときの環境に有ったものである。

その例の一部はここにも述べているが、他にの話で言うと、よく言う話では、甘味が快なのは、糖分が貴重だった原始時代の真である。現代では甘味が快なのはむしろ誤りであり甘味物は悪である。現代ではそうなった。しかし甘いのが旨いというLust判断は、変えれない。原始時代から一歩も出れない。また、今リンク貼った記事で述べていることにも関わるが、現代コワいものは、それをコワがっていれば生存上好都合だった原始暗黒時代にコワがられていたものであり、現代にそれをコワがるのは錯覚にすぎず無知蒙昧にすぎない。冷暗所は冷暗所でしかない。他なんでもいいが、出血などもそうだろう。ちょっとでも血が出ればUnlust以外の何でもない。しかし血液(量)の正しい知識からしたら、大抵の出血はコワがるようなものでも何でもない。特に切実な問題で言うと、人に対する恐怖などがそうだ。まず腕力的な場面では、その恐怖には、ほぼまったく、正しい根拠がない。どういうことかというと、この記事この記事で述べておいた。また上下関係的な場面では、その畏れは、社会猿ならではの1人よがり1人フィクションであり、サル社会集団生活時代に抱くのが好都合だった(が今は別にそうでもない)感情にすぎず、誤推論にすぎない。誰がエラいかれがコワいという判断は、すべて、誤った知識と誤った推定と誤った自己認識に基づく誤った推論なのである。それが瞬間的すぎて誰にも誤りだと感知できないだけで。(ただし、「勇気」とかの話をする時には、恐

次回の記事に続く