地上最強のブログ

しばいてくぞ

取り出したらあかん

抱きしめちゃいけない

抱きしめちゃいけない

  • AKB48
  • 発売日: 2013/12/11
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

Die Lage, in der die Menschen sich befinden, zur Natur und zu Menschen, macht ihre Eigenschaften — es ist wie bei den Atomen.

(Nietzsche, 1881,11[204])

 

(何がデキルか・何を持っているか・何デアルか・何なのか、それは、全環境と全人類の間のどこの位置にお前が居るかによって決まる。物体と同じことだ。

ニーチェ

 

何かイイものや人があった時、それはソレやその人がその時属しているその中でこそイイものなのであって、そこから取り出してしまったらよさが無くなる。ということが往々にしてある。イイ物や人はイイのだからそりゃそれ自体としてイイのだろう、特にその物やその人がいいのだろう、もちろんその物やその人を別個独立にそれだけで捉えたら・機能させたら・与えられたらそりゃよさは猶更増すはずであろう、とバカは勘違いしてしまう。そしてそうではないことを一生理解しない。

誰でもすぐ思い付く安易な例で言うと、人のいわゆる能力だろう。その人が卓越しているのはその分野でだから、一歩別の分野に出れば・専門外に置かれれば・或いは俗世の人混みに紛れればデクノボーとなる、そんな誰でも分かり切ったことから、他に、その人が手腕を発揮し輝いて見えていたのはその組織のその部署にいてその業務をしていたからであってこれらから一歩ズラせば何とも失望させてくれるものである、こんな話まで、大方認識されている。

これは道具論や機関論な話であり、つまり道具がすぐれているのがその機構その全体のその位置においてであって歯車(陳腐な比喩だからネジとかのほうがいいが)がその場所だから噛み合い機能するのだというそのようにすぐれた人の優秀さも機構依存的で場所依存的で全体依存的で文脈的なものであるという、そんな話。

こういったことを論じる気はない。現在広く認識されていることであり、自分もその広い共通認識から聞きかじってきた話であるから、以下に下のほうからしていく話のように自分の体験や実感から独自に汲み出した話ではないからである。広く認識されているということでつまりその話題の本もぎょうさんあるということで、何を挙げてもいいだろうが、自分が感心はしなかった本には言及する気がないから、例えばこんな本などを挙げておこう:

ただこの本は面白いというだけのものであって特に有用なものを見出せる内容をしていないが、一方論点が離れるとはいえ

天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則

など、役に立って役に立って仕方がない極良書である。バカ読者バカ評者が勘違いしているように1万時間の話がメインなのではなくて、非常に意味と内容のある環境決定論・境遇決定論・状況依存論がメインであり読むべき部分である。結局然るべきとこに生まれ然るべき場におり然るべきモノを与えられてこそ活躍者になるとか、文化的背景が大勢の乗客の生死を左右するほど決定的もとい致命的であるとか、目の覚める内容てんこ盛り。

それにしても、これの他に、例えばここでアフィ貼った天才を考察する―「生まれか育ちか」論の嘘と本当』(9784152093226)なり、この記事でアフィ貼った『超一流になるのは才能か努力か?』(9784163904955)なり読めば分かるように、能力や才能や素質について人類がまともな考察に達している時代である。その昔人類は、個人独りがゲーニウスな霊によって自存自律的に自己の卓越を成していくのであるとか、特定の個人独りの中にその人のよさすごさが詰まっているのであるとか、「聖人」だとか「君主」だとか、それはまあ幼稚で低級で頭の悪いタワゴト夢想妄念を妄信していたものである。そんな悪夢のクソ時代が終わって21世紀になって、ほんっとよかった。過去とは誤りなり。そんなクソには何の用もない。(ちなみに優れた(とされている)知能も同様である。ここここでアフィ貼ったアフォーダンス論の本(ダンスの本ではない)などを読めばよく分かるが、知能とは特定の場に置かれてそこでのみ発揮される機能にすぎない。そういうものが実体としてポンと存在しているわけではない。)

 

さて人の能力なり組織内での人物の仕事なりといった陳腐な話題はいいとして、そのソレだけをそこから取り出したら台無しになってしまうという事柄は、実は、イイと思われるもの万事万有にわたって言えることである。もうありとしあらっゆることに言えることだから例示しているとキリがなく、だいぶ絞って例示することにする。

例えば歌声がええなと思ったところでじゃあその人をソロで聴いたらもっといいのかと言うとそんなことはないこの記事などでもやってしまっているミスだが、これはふっつーにカンちがいの思い違いである。その歌声のよさは大勢の中から聴こえてきてこそよかったものなのであってそれだけを別個に取り出して聴いてもそんなに感銘がないものである。しかしバカはこれがどうしても分からないものだから、そのソロで実際聴いてみて実はそこまで感銘していない自分に気付きもせずああやっぱええなあと勘違いし続ける。なおもちろんソロで聴いてエエものもあるがそのよさの質感は実は大勢の中から聴こえていたときのよさの質感と著しく異なっている。バカはそれも知覚しないが。

例えば交響曲(や協奏曲などのオケ演奏)の中ではオーボエやホルンやチェロやハープなどがハっとするようなパートを奏でることがあるが、これはこれだけのもの、これらの楽器がこんなハっとするほどいいのは大オケ演奏の中だけでのもの、交響の中でたまに鳴るからいいものなのだ、ということなども、どうしても分からない。こういったオケ中でこそ極めて効果的に鳴る楽器をそれだけで取り出した器楽曲、どうにも思ってたような感銘が無いのがほとんどだろう。交響の中から聴こえてた時にはなんぼよくても、その楽器が始終鳴ってほとんどのパートで音を出してくれたら、あの時のあの感銘がぜんぜん起きてこないのである。よく考えろ。虚心坦懐に思い出せ。すでに心当たりある者ならその必要もなく思い出すだけでいい。器楽曲って、そんなもんだったろ。

この「たまに」というのも重要だ。イイものはたまに接するからいいのであって、《イイのであるから接すれば接するほどいいのだろう!そうに決まってるさ!》などということにはならないものである。例えば北南中央アルプス(でもいいし海外のジャングルでもいいし中央アジア山系でもいいし各種エコツーリズムでも何でもいい)を3~7泊ぐらいで登山して散策して逍遥するとそらもう大感銘なものでこれらの自然環境が好きになること請け合い間違いなしだが、しかし好きが嵩じてこれらの自然環境下に実際に住んでしまう・長期間滞在する・つまり山小屋バイトなんかしてしまう、そんな風にすると、おそらく、遊びの連泊で来てただけのときの感銘など到底得られないくなるだろう。というのは、訪問客として来ていれば無関係だった暮らし上・経営上の現地の本物の苦労があるから云々というハナシでは別になくて、いやそうじゃなくて、そもそも大自然訪問の感銘のほとんどが、極短期間の・通り過ぎの・とどまらない滞在だから、そうだから、そこからこそ効果が出ていて、そうして感銘しているのであり、ゆえに、長期間本格的に滞留してしまったら、刹那滞在独自の強い感銘など得られるはずがないこと必定となるからである。こういった事に関しては異論紛々でいやいややはり本格的に暮らしたら最高によかったよといくらでも言い返してくるだろうが、今は、本当真実マジの嘘偽りない気持ちを論じているのである。そうか?実際に山中なり村落なり浜辺なり田舎なりに暮らしてみて、お手軽トリップで訪れたときの嘘いつわりない感動、或いは写真だけで見てただけのときの理想的なだけの感動、それが、本当の本当にあったか?ごく少数の者ならそうかも知れない。しかし大方は、本当にそうしていて本当によかったのだろうか、本当に?

そうだろうな、自分がイザえいやと取った行動、これが期待してたモノをそんなにもたらさない時には、それを如実に感じてしまいながらしかし認めたくないという時には、認知的不協和と闘って何とかかんとか自分が最大限納得でき(なくもなさそうと自分に言い聞かせれはす)る言い訳をコネ繰り出すものである。自分の今の心の状態を直視できる場合などほとんど無い。実際の行動の結果のほとんどが、思ってたのと違ってたり、あれ?こんなはずじゃ…だったりする。そのあれ?を無意識下…でもなく結構たいがい意識しながら、ガンバって健気にも、抑圧する。やっぱこれはええんだよ、自分は納得してるんだよ、ここまでに相当コストがかかってんだから、実はイマイチだったなんて認めたくないよ……お前の心で起きていることはこういうものである。

この認知的不協和つまり【本当は分かってるのだが認めたくない】という哀れな葛藤状態だが、ナメとったらあかんでというもので、汎日常的で24時間起きている普遍現象である。何気に歩いているその道が、工事してるわクルマ多いわ景観悪いわであっても、いややっぱこの道がいいわと言いたくなる。通らなかった道のほうがイイのであったことを認めなくない。明らかにあらゆる点で旧機種を上回っている新機種の紹介動画を見て自分は本当は旧機種のほうがいいと思うよとホザき出すアホが湧くもので、別に機種に限らずあらゆる物品や購買においてこんなアホが湧くものだが、なぜ湧くのかと言うと、イイほうを持っていなくて買うカネもないからである;たったそれだけのことである。本当は自分が持っていないもののほうがイイとは感じてはいるのだがそれを認めたくはないものだから旧弊旧来の自分が持っているもののほうがいい(比較級文法の間違いでしかない)とホザきたくなるのである。こいつのイイワルイ判断・「やっぱり〇〇」判断は、単にてめえにそれだけしか無いからやっているだけの疑似判断なのである。(だから単純所有効果のちょうど正反対なのだが、同じ穴のムジナであり穴兄弟ではある。結局てめえの物とテメエの事と手前を自己確認しているだけ。)げに哀れな葛藤であるが、一瞬ふりかえれば誰にもわかる通り行住坐臥起きていることである。間違った商品や配偶者や職場や賃貸を選んでしまったことが分かった(そう、お前はアタマでは判ってるんだよ)とき、間違ったページをクリックしてしまったとき、確信していた捉え方が間違っていたと分かったとき、いややっぱり…と哀れでミジメな正当化に走り出す。腕1本動かすだけでもいいから何かしら何かのミスをすると、特にそれが自分のミスであるならば、端的にミスと判断するよりは、いやこのミスがあってよかったんだよ雨降って地固まるよ等と何かしらの言い訳口実抜け道を見つけようとする。

どんだけ哀れでミジメかと言うと、境遇を正当化し出すバカなどを見よう。例えばここでも言ったが、今の境遇に満足している人間など居ないのであり、現状現在時点に不満を持たないことなど誰にも出来ないのであり、これをカコつこと・不平をたれること・愚痴をコボすことが人間にはごく自然で当たり前で素直でまともなのである。これに対して愚痴断固ダメと禁圧したがり今の現状を受け容れてそこで何とか全力で♡自分を出し切って^q^やっていこうと張り切る前向きバカが湧くものだが、こいつらなど、結局、自分の入ってしまった境遇・自分が置かれてしまったその其処・自分が持ってしまったそのソレ・つまり自分というものが実はイイくないということを認めたくないだけなのである、アホな強情張っているだけなのである。必死だよこいつらは。必死だけに哀れだよ。失礼を承知で言うと、ゴ〇カンされ(どっちの性がとは言っていない)ながらもキモチいいから許せるわなどと自分大嘘つきをしたとする、そんなような哀れな正当化である。

と言うことまで言わざるを得ないのである。
そこまで認知的不協和が恐るべき強力なモノだからだ。現実にいま有ってしまっていることが有ってはいけないものである、これほどの苦痛はない。逃れるためには如何なる手段も口実も理屈も言葉も用いる。

さてそれはそうとして上述の【短い体験だからこそ感銘が強い】というのも面白いものである。ホラーでショッキングな知覚内容は短時間提示であるほど効き目がある、バケモンはスクリーンに秒未満現れるからこそコワイのであるということなど思い出せるだろう。バケモンがずーっと登場してたらだんだん強烈なコワ味が薄れてくる。大自然や田舎暮らしに何日何週何月もひたっていれば感興が薄れてくる。店頭で触ったえもいわれぬ機器は毎日使ってるとフツーになってくる(と言って店頭で商品に感心したことなどないし、家電店や本屋などだと買い物することもない。Amazon以外用ない)。その他高額な趣味や用品なども長期間知覚と使用にさらされると感興が薄れてくる、もちろんそこで(高コストなだけに)認知的不協和が起きるから、いやーやっぱり〇〇はサイコーだよといちいち自分に言い聞かせて感興(のミイラ)をいちいち明示明言する破目になってしまう。と言うかもう何でもそうだ。イイものは刹那的に接するからいいのである。お寺の桜はササっと見てしまうほど心に残る。イイ風景はぱっぱと目に飛び込んでくるだけの時が最も印象深い。観光先ではイイものはイイのだからそりゃなるべく長い時間鑑賞しているほうがいいだろう・おトクだろう・元とれるだろうとついつい思い込んでしまうが、事実はまったく逆である。こういうことは何故こうなるのかと言うと、やはり日常非日常の対立だろう。感興感銘感動は非日常にしかない。ところで非日常とは(ほとんど定義上)ヨリ短時間でしかありえない。それが延長されるほど日常化されてしまう。愉悦は短し嗚呼…ではなくて、短いからだからそれは愉悦なのである、話が逆なんだよバカ。

さてこのように述べてきたのは、この記事で述べた議論を再説したいからにも近い。ここで述べたように、人間というバカは、気になる対象があるとそれをピックアップしてしまってクローズアップしてしまってバカみたいに露出して曝露してしまうものであるが、これは阿呆で幼稚なカン違いによるものである。塩を入れて旨くなるからといってその塩だけを食べたいか?その料理をその塩だけで語るか?ちがうだろ。しかし、万事諸事にわたって人間というバカはこうしているのである。イイものなのだからもっとそれについて…イイものなのだから特にそれを…の「だから」は誤推論であり踏み出してはいけない一歩であり「だから」でも何でもない。いやイイもワルイもどっちでもなくどっちでもいい。何かが何かであるのは、その出会ったその其処に於いてそうなのであって、それを特にどないこないし出したら・それだけで接し出したら、もうオジャンになってしまう。すべて失われてしまう。

56th Single「サステナブル」<TypeA> 通常盤

サステナブル

  • AKB48
  • 発売日: 2019/09/18
  • メディア: CD

上に挙げた例の他に自分でどんどん思いついてもらいたいものだが、もう本当に何でもいい。例えば上で聴覚体験の話をしたから視覚体験の話でもいい。極端に言えば、何色が好きかという話はおそらく完全に無意味なのであろう。色はその置かれているその場でこそ質と意味を持つのであって、その色だけをそれとしてそれだけで取り出しても、かつてその場その文脈で見ていた時の質感は何ら得られないだろう。他の色たちとの配置の中で、何物体の色であったのかによって、その色はその色なのである。それだけを抽象的に取り出しても、何にもならん。

よく移住に際して自分の故郷の住環境や手回り品などを持って行きたがるアホがいるが、やはり、述べてきたような勘違いバカである。その愛着あるそれがイイのはお前の故郷のお前の家限定の話である。無理やりな入植・環境ごとの植民には力づくと失敗しかない。そう考えると海外で日本食たべたがるのも同列の阿呆である。郷に入ってはの話ではない。その国の普通食が科学的に考え抜かれたその国向け食事であるわけではないのだから、その国ではその国の食事をという話をしているのではない。そうではなくて、故郷でイイかったものは故郷でこそイイのであるということを言っている。湿度も空も匂いも植生も交通も違う国でまでイイ訳がない。

懐古厨のアホ全員も同列の勘違いだろう。レコード等骨董品がイイのはそれしかなかった時代のものだからイイのである。これらのほうがデジタル機器のものよりもイイ音だよ云々というお前の知覚の歪みは一人で勝手にやっててくれ。懐古厨の全員に告ぐ、お前は木簡や羊皮紙の本を読め。お前はレーザーディスクで映画見ろ。お前はフロッピーに保存しろ。とはいえ、これらの物品も、これらしか無かったその時間上時点では確かにイイものだった。それを今取り出してくるのは勘違いでしかない。時代に逆行してなんかエエコトした気になってる阿呆でしかない。

(もし以上のことを読んで内容が新奇すぎてついていけないと言うなら、どこでも誰でもがホザいてるクソ陳腐な例を挙げておこう:山中で食うからゴミレトルトカレーが旨いのであって、ふつうに食うとゴミにすぎない。)

さてこういったことに関して問題が、このことをほぼ全部の人類のオツムが、なっかなかワカラナイということである。このバカどもは、どうしても、どうのどうをどうしても、それを・ソノモノを・そのそやつを、ほじくりだしてきて・引っぱりコネくりだしてきて・アホ照明をアホ当てて・このこれこそがこれでございと注視してしまう。スゴい人があれば、スゴい人なんだから!天才なんだから!この人なんだから!と別個視特別視してしまう。ヒト個人個体にスゴさなど宿らないということが、どうしても分からない。こう考えれるんだからじゃあその考えで何もかもを説明してしまおうとする。イイ体験だったのからじゃあもっと長い時間もっとたっぷりと…とカン違いしてしまう。効き目があったんだからじゃあもっとじっくりと…と勘違いしてしまう。素敵なモノなのだから君だけを個室で…と勘違いしてしまう。旅先友達が帰国後長続きしない理由もここにあったりする(ここにしかないとは言ってない)。バカはどうしてもよさのよさたるゆえんが分からず、当の自分本人になんでそれがイイのかが分からず、間違ってピックアップしてしまった後の失望と感興低下も認められない。こうしてアホはマチガイ続ける。