地上最強のブログ

しばいてくぞ

誰も言わんこと (3)

Der Irrthum beim Gelobtwerden besteht darin, daß der, welcher gelobt wird, dem Worte des Lobenden seinen Begriff dieses Wortes unterlegt und nicht den des Lobenden, — den er ja zumeist gar nicht kennen kann. Gewöhnlich aber ist der Begriff im Kopfe des Lobenden etwas viel Geringeres Matteres Ärmeres als im Kopfe des Gelobten: so daß der letztere sich oft genug sehr verdrießen müßte zu wissen, was eigentlich an ihm und seinem Werke gelobt worden ist.

(Nietzsche, 1881,12[218])

 

(他人をええように言っても誤解しか生まれない。誉められたほうは誉め言葉をてめえの期待値でしか理解できない。言ったほうにその気がまったくなかったことを聞いてしまいよる。誉めたほうはテキトーの空世辞をダベっただけなのだが、聞いたほうは美辞賛辞と取ってしまう。相手がどんだけいい加減に喋ってるかを知ってないほうがしあわせだな。

ニーチェ

 

前回の記事から

000%におる。人間というのはモーションを始めるとそれにブレーキをかけるのを異常に嫌がるもので、一旦移動し出したら、どれだけアホ丸出しのそろりそろりになっても意地の意固地でその移動を続けようとする。一旦ピタっと止まってしまえばいいということが、アホのオツムには、ついぞ断固、わからないのである。… かくして、たった1ナノマイクロミクロン考えたら分かることをアホたちは一生考えず、互いに迷惑を掛け合い、その迷惑に諦念するほどまで感覚が鈍磨する。こうして、ふつーの街中が、よく見たらどうも前時代の過密都市の悲惨な下町のありさま、いや、特集組まれる地獄の収監施設のようなありさまですらあるのだが、アホはそういう生活空間が大好きなのである。

 

慣習になっているからどれだけアホらしくてもやらざるを得ず言わざるを得ない愚行愚言というのがあって、それは、論者ヅラして何個も本出してる思考停止諸氏やこれに脳を漬けこまれてしまって定型おんなじことしか考えることも想像することもできなくなっている痴呆ヒトモドキが飛びつくような話題、そんなクソしょーもない話題に限ったことではない。店員のマニュアル対応とかいう100000兆回ぐらい繰り返されてきた話など、もういい。繰り返すしかノウがないヒトモドキはもうしゃべるな。そうじゃなくて、例えばニュースで《犯行の動機》を云々する。《〇〇が気に入らなかった》《肩がぶつかった》(ぶつかるほうが物理的に難しいわボケ)《金銭トラブルで》《言ったの言わないの》と、幼稚園児が幼稚園児の行為を説明するような「説明」をキャスターが記者がして

How come ?

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したり顔、それを聞いて読んで公衆がしたり顔、みんな事態が分かった気になって事情が理解される(!)。これ、本気でやってるのなら、重度の手遅れのバカのアホの知能終わりであり、いっそ人類終わりである。もちろん、そんなワケがないだろ。理由や原因なんてのは「むしゃくしゃ」と全く同様にストーリーが必要な連中が間に合わせでこしらえたひとまずの納得用文言にすぎない。「つかみあい」になったのなら、片方が何を言ったかだけが原因になっているワケがなくて、そこに至るまでの双方と双方周辺とその周辺とその周辺の個々の使用語彙・個々の態度・個々の目つき・個々の風采・個々の駆け引き・個々の思惑・個々のその時までの経過から調子から機嫌からありとあらゆるもの、いやその他にも胃腸内容物から外気温から室内空気から気圧配置からチョウの羽ばたきから諸々一切合切が関わっている。そしてそんなことはよくよく分かっている。だから裁判審理では当事者に関して事件当時の会話なんてものだけじゃなくて色々さかのぼって求職状況から教育内容から成育家庭や果ては遺伝素性から何から何まですべて問題にし調べ論じ考案材料にするのである。だから、《~と言われた》ことが原因で…云々をしゃべっている報道というのは中身の全くない発言をしているのであり、こういった報道を真に受けてそこで原因とされて読まれているものに日常で本気になって用心し出したら、もうアホの中のアホの、滑稽と道化を極め尽くした純粋うんこ製造機である。いやそればかりか、ニュースの言うことを真に受けてしまって、《そんなこと言われたぐらいでね~キレちゃうなんてね~》信じられな~いと本気のマブで思い言い出したとしたら、もうアホでもバカでもすらない、思考麻痺も思考死滅も通り越した真実真正のヒト未満の何かであり、服を着た原始人というより人の皮をかぶった別生物である(75億人ほど居ますが)。

こういった報道上のお約束発言が慣習により言わされている発言であって(願わくば)大方の人がハイハイと思いながら接しているものであるが、アホらしさが気付かれていないマヌケ発言もたいがい有る。例えば研究を報告したり議論を提示したりする場での質疑応答時の挨拶文句。ここここやその他の記事でこづき回しておいたこういった連中、ほうぼうで言われていることだが特別理解力があるものではなくて、言論や知性を駆使するなら出来なければならないこと、相手の論理と心情の中へと相手の立場に即した上で没入していって相手の議論の核心・その言いたいことの本質に基づいた上での言葉を言い問い反応するということ、これが、ほぼ誰にも皆目できない。もしそのようにして物を言ってくれるのなら、そうするつもりで手を挙げているのなら、大歓迎である、けちょんけちょん(←キッショい言葉やな)にコキ下ろすものであったとしても。誰もがこれははっきりそう思っている。ただに反論が気に食わないのなら問題でありしかもそんな問題者など実はおらず、実は誰しも、的外れな反論、要するには自分の言わんとしていることを掴んではいない発言、結局は自分の知る何かに関して言いたいだけで自分のことを喋りたいだけのマヌケ質問者、にイラついているのである。さてしかし相手の本念本懐本質内部の内心に入っていくことは是叶わぬものであり、相手の土俵に即しきった・相手への・相手に対する形にちゃんとなっている物言いとは、どうしてなかなか出来るものではない。そうであるから、こういう質疑応答の場とはもう誰しもうんざりしているのである。不愉快の素なのである。それでも何かはしゃべっておきたいなら、どうするかと言うと、《発表者の功績と人徳はこれ誉れ高くも貴きものであり自分がごとき小輩が申すことなどお耳汚しでございますが》といったような挨拶文句(もちろん誇張して書いており、実際の文言はもっとふつうに気持ち悪い)を前置くのである。こんなバカ丸出しの下心見え見えの、波風を立てたくはありませんどうか立たないようにというてめえ勝手の祈祷しか見えないクソ挨拶など、誰しもシラケきっているのであるが、誰しもするのである。なぜかというと、本当にしなければならないことが出来ないから。話の本質を掴みその上で反応するということが出来ず、それでいて、ロクなこと喋れんなら黙ってたらいいということをアホは理解せずとにかく何かしゃべらないと気が済まないから、しかしそのまま喋ったら波風立つから、せめてもと、無内容のお祈り文句を前置くのである。できないけど→したいから→屁をこいとくのである。もちろん、しかし、できるようになることが先だ。話の本質を掴めるようになることが最優先事項だ。《おっしゃることは大変ごもっともで、よく調べられていて、私などこの方面のことは何も知りませんが…》←この部分がまったくもって余計なのである。中身のないスッカラカン発言をするなバカ。お前のクソ逃げ口上、お前のそのクソ「失礼のないように」との「配慮」(だとして)、お前がお前を心配しているという動機だけから出てきているそのクズ前置き挨拶、そんなものは要らん。そんなことはいちいち言わなくていいのである。

ただし、以上のようなシナリオで済んでいたらまだいいほうである。ムダ挨拶を置きたがる連中が相手の論の本質に入っていくことが出来ていないものであるのかどうかはどうも断定できない。そうやって真摯に報告や「発表」を聞いてはいないだけなのかも知れない。つまり、よくよく考えて相手に付き合うこと、相手の論理に即して相手を見ること、そも相手に付き合うということそのものを厭っているのかも知れない。ただめんどくさがっているだけなのかも知れない。能力無能力以前の問題で、ただの怠慢なのかもしれない。こちらだと日常の場面に類縁がいっぱいある。本当にしないといけないことはどうやら少々めんどくさい。だから程度を落としたことをやって気を済ます。目的は結局自分の気を済ますということだ。結局これ。語っている者としては、自分の言うことに真摯に付き合ってもらえるのが一番うれしい。それをめんどくさがって手を抜いてきている奴など、すぐ分かる。だからこの者には、めんどくさがって美辞麗句のクソ前置きでお茶を濁しているアホの胸中などお見通しである。なるほど、実に、バカバカしいにもほどがあるだろう。前置き美辞麗句がシラケられてて、しかも結局誰もそれに逃げるしか出来なくて、本質対本質という場面がついぞ実現しない。「おっしゃることはもっともだと存じます、しかし、」…言わなければならないことはそんなことではない。

ところで反論と言うと、それこそ論に反駁するような、手続きと体系のある物言いもあれば、ただ単に言い返すだけというものもある。前者を論駁や指摘や批判と呼んで低俗なほうを反論と言ってもいい。さて反論をしたがる奴というのがある。何か提案を言ってみたり自分の方法を紹介してみたりすると、すぐさま、なるほど君の言うことは分かる君はそうするのだろうそうすればいいよしかし私はそうは思わないし私にはそれはそぐわないのだよ等と言い返してくる。冷静に考えたら分かる、それ、言って何になるんだ? こちらは言ってみているだけなのだからそちらも聞いてみるだけ聞いてみてハイそれで終わりではない

ペラペラペラオ

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か。お前の中でこちらの言ったことがどのように響きどのように消化されたかの腹ん中をなんでこっちが見せられないかんのだ?お前の自己確認になんでこっちが付き合わされないかんのだ?冷静に考えたら分かる、ほとんどの言い返しは、まったくの不要であり不快感を惹起する役割しかない。それでも何でも一言キミトハチガウヨを言わないと気が済まないバカ、自分の気だけは済ましたいバカ、それでせっかく物言ってくれた相手がどう思うかを考えもしないバカ、というのが、必ずどこにでも湧く。このような、てめえの中で勝手に思ってりゃええだけのことをいちいち言わんと気が済まないという重度のバカ、波風立ててでも他人と自分の異差を確認したい「めんどくさい」迷惑者、なぜこんなのが湧くのだろうか。かたや、他人が何を言っていても余程以外は否定なんかしないという者が、居るには居るのである。この違いは何か。必竟、自信や自我の差異だろう。(そう言えば日本語には、例えば「愛」なんかと並んで、「自尊心」だとか「自己愛」だとかという、何を意味し指しているのかが全く意味不明な中身ゼロのゴミカス語彙があって、辞典と発言のムダだから、こういうクズ語彙を日本語から抹殺したほうがいい。)すぐ言い返しておきたがるバカというのは、相手の意見に弱いのであり、相手が意見することに弱いのであり、相手に意見というものが存在することに弱いのであり、相手ということ他人ということに弱いのである。もうおのれに異質な何事かがあればその内容を考えも検討もせずにアレルギー反応を起こし必死の懸命にバリアを張るのである。入ッテコナイデ・ボクヲ傷ツケナイデ・聞イタコトナイ話シナイデ・違ウ可能性ヲ提示シナイデ・知ラナイモノヲ見セナイデ・考エタコトモナイコトヲ考エサセナイデ…ということであるが、もちろん惨めで哀れな虚弱人種の退行人類であり、アフィ貼るまでも例示列挙するまでも全くなく、現在日本と現在世界で最も広範に最もしつこく同情と共感と賛美を集めつ

次回の記事に続く