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しばいてくぞ

ニーチェ対人間 (2)

のような存在

のような存在

  • 乃木坂46
  • 発売日: 2019/05/22
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前回の記事から

それがどんな分析かと言うと今までのニーチェ思想紹介記事でさんざん見てきているのだから過去記事見てくれ・それ以外のことでもとにかく過去記事を見てくれ更新とヒットページをチラ見するだけのクソ訪問者は来ないでくれ・そうでなくてもヒミツの日記ブログ♡なのだから誰も来ないでくれというものなのだが、そんなことはどうでもいいとしてちんちんが痒いのだが、それはともかく、

てめえを強いと感じるか弱いと感じるか・自分にどの程度チカラを知覚するかによって認知認識が決定されるのであって逆ではないという観点が重要である。

Wenn wir eine Handlung im Gefühle der Macht thun, so nennen wir sie moralisch und empfinden Freiheit des Willens. Handlungen im Gefühle der Ohnmacht gelten als unzurechnungsfähig. Also die begleitende Stimmung entscheidet, ob etwas in die moralische Sphäre gehört „gut oder böse“ ist. Darum dieses unaufhörliche Bemühen um Mittel, diesen Zustand herbeizuführen: es ist der menschliche!

„In Macht Böses thun ist mehr werth als in Ohnmacht Gutes thun“ d.h. das Gefühl der Macht wird höher geschätzt als irgend ein Nutzen und Ruf.

(Nietzsche, 1880,4[299])

 

(何かをする時に自分の中からのチカラを知覚したならば、それを良いとか悪いとか言うようになるのであり、善意や悪意ということが言えるようになるのである(一方、自分で何とかしたぞという感覚が得られないと、何という行為なのかが皆目わからんことになってしまう)。そういう感覚があるかどうかがまずあってそれから善悪価値判断が後づけの後手後手で発生するのである。だから誰もが行為に自力を感じたいのであり、行為を手中にしていたいのであり、行為を意識していたいのである、イイとかワルイとか言いたいから。この生物はこういったチカラ感覚→善悪小理屈という以外の順序でやっていくことが出来ない。そういう種の事情。そしてそうであるがゆえに、イシキある悪行のほうがイシキない善行よりもイイということにもなってくる。【ありありとチカラ感じながら為した】というほうが上等なのである。《結果》として何が出てくるかはどうでもいいのである。)

ニーチェの断片群には犯罪(者)論が多数あってぜんぜん触れていないのだがとにかくこれはそういうものの1つである。刑法的なものの上では何事もOhnmachtのほうが有利だが、価値判断上は意識無い者ほど常に下等である。そしてそれは権能(Macht)感(Gefühl)によるのだと言う。チカラ感覚がスーパーヴィーン(begleiten)するとそれに従って良い悪いの意識が生じるのであってこの逆ではない。ようするに物的外的力関係がやはり最初にあるのである。

さてこういうのが行き着く所がとにかく意識していよということである。まったくその通りと思うし現在では意識など尊重されずとにかく結果さえよければ(irgend ein Nutzen und Ruf)いいという時代だが、しかし考えればそれもそうでもなくて、人は人にやたらと心を求めるものである。特にこの記事この記事この記事などで書いたように表現者というものに対してそうであり、ここでは公衆が無類の忘恩ぶりを発揮する。表現者がもたらしたモノを享受するだけのブンザイの公衆ごときが、その表現者の行状は志操は言動は日常は〇〇意識は…果ては貞操はどうなってるかとほじくり回し、表現者をジャーナリズムで殺す。作品や表現物という結果をもたらしていただいてなんぼの人々に心心心また心を求めて請求して強請して、殺す。こんなアホたちを見ていたら、意識キチガイということも言いたくなる。

 

さて引用文章とぜんぜん違う話になったが、そんなことは別に全然よくて、とっとと次の引用に移るのだが、意識を論じる文章たちの中で多少実践的なものもあって、例えば認識とはどのようなものであってどのようなものでないのかを記した次の文章がある:

Jenes heiße brennende Gefühl der Verzückten „dies ist die Wahrheit“ dies mit Händen Greifen und mit Augen Sehen bei denen, über welche die Phantasie Herr geworden ist, das Tasten an der neuen anderen Welt — ist eine Krankheit des Intellekts, kein Weg der Erkenntniß.

(Nietzsche, 1880,4[152])

 

(よくある絵で、探し求めていたり考えあぐねていたりした解答についに出会ったと思って歓呼してソレを掻き抱いて、周りのイッてる奴らと一緒なって恍惚と次の扉を開く … こういうのは人間のやる悪い既習なのであって、こういうところにまともな判断などありようがない。)

これが答えだと思えるものは答えではないのである。見つけた!とウカレた瞬間もう見つけることが出来なくなっているのである。発見の歴史というのは感動の場面たちなようだがそこに知性があったことは無い。それはドラマでありお話であり《場面》でありシーンなのであって、何かが認識されている現場ではない。こういう突き放した見方を聞いておきたいものである。何かが理解され何かが判る時というのは、映画になるような、教科書に書きたいような、記念(碑)的な、非日常的な、ハレの日的な、百合烏賊なもの屁売れんかなものではなくて、総じて《特別》のトの字でも有るところには知性の活動は無いのである無かったのである。だから、わずかでも非日常的(Phantasie)だったら、何も考えていず理解してはいない。1ナノマイクロでも特別(krank)だったら、ほんのちょっとでもウカレてた(brennend)ら、かすかでもウレシかった(verzückt)ら、対象の真相を探る視力が低下していて、思考力が曇っていて、もう対象を見てはいない。ほんのちょっとでも熱くなってるオツムには知性が無いのである。そうではなくて、これは本当に答えなのだろうか・これに自分はどう対峙しているのだろうか・自分の求めていたものなのだろうか・自分の求め方はそもそも合っているのだろうか・これはどこに位置付く仮説なのだろうか等と疑ってかかり《まあちがうやろ》《まああかんねやろ》と真剣に付き合ってないときに得てして相当な卓見に達しているはずである。

さて落穂拾いになってきていることだしどんどん拾って行こ。

Falsche Schlüsse: „ich schätze die Menschen gering, folglich schätzen sie mich hoch“ „ich fürchte die Menschen nicht, folglich fürchten sie mich“ — aber die umgekehrten Schlüsse sind ebenso falsch. Das Schließen ist hier eben das Falsche: es ist als ob ein Kind schließt: ich mache die Augen zu, folglich sehen mich die Anderen nicht.

(Nietzsche, 1880,4[233])

 

(自分が他人を高く買ってないから他人のほうは自分を高く買っているだろうとか、自分のほうは他人が怖くないから他人のほうはこっちが怖いだろうとかと思うものだ〔思わんわボケ。意味不明な状況を書くなバカ〕が、そんなはずがない。と言うか、だったら、他人が自分を見下したら自分は他人を尊敬するんか?自分を怖がらない他人は怖いことになるんか?と言うか、怖がられるなら必ず自分は怖がらないんか?尊敬されるんなら見下すんか?そんなはずがないだろが。こんなことを思う奴はただただ間違っている。こんなことは、自分が目をつぶったら他の人も自分の姿が見えなくなるんだと思うのと同じようなことだぞ。)

この記事で見た断片を想わせる文章だが、最後に書いているのは頭隠して尻隠さない話である。なお勘違いしてはならないが頭隠して尻隠さない動物とはヒトのことである

(ちなみに、誰かが言ってる中傷や悪口を1億何千万煎じでバカみたいに繰り返すアホが必ず湧くものだが、いまダチョウと言いたくなるアホは、例えば言語学の本を書くときにバカの1つ覚えでエスキモー言語に「雪」語彙はそんなに無いよといちいちいちいち書き出すボケ欧米人著作家どものアホぶりを思い出させるものである。あいつらボケどもはこの中傷揶揄をなぜ慣習にしているのだろうか。と言うかあいつらボケどもは本を書くときに必ずキモいテンプレに盲従するステレオタイプが大好きなアホが世界中に居るものである。)

また、何よりも、自分に分かってる・自分には明白な・自分限定の状態から他人の内面や状態を勝手に1人決めするなということを言っている。意味不明なこと書いてもいるが、聞いておくべき主張ではある。上掲の認識熱狂の文章と似て、1人ワールド内で目がくらんでいる自惚れ者に水を差す文言である(この記事この記事で見た断片も思い出す)。それだけ考えたらただの処世訓なのだが、いやいや、この記事で見た断片に於けるような人間パースペクティブ論に基づいたものである。人間は自分を投映しておいてそれを忘れるのである

ホライズン

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  • SKE48
  • 発売日: 2017/02/22
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